ロリポップ・アンド・バレット

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『幻日のヨハネ』1話 感想 「視界に入る」と「見る」について

「トカイでビッグになる」ヨハネの夢は今や断たれ、ヌマヅ――何もない”田舎”――に出戻りする。つまり彼女にとっては「〈中心〉に憧れるも、志半ばで夢破れ〈周縁〉の引力に屈する」という屈辱的な仕打ちで開幕する『幻日のヨハネ』。

 

「何でも揃っている」トカイでは、定期的にオーディションが行われており、そこら中にバイトの求人があるなど幾度とチャンスがありながらそれをモノにできず、他方「何にもない」ヌマヅにおいては、むしろトカイ以上に「トカイでビッグになる(が叶わなかった」夢が呪いのように感じられ、”敗北者”という自意識から生じる周囲からの目線に耐えられない。どちらにしても、ヨハネにとっての「居場所」とは言い難い状況で描かれる帰還。

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しかし、本当にヨハネの「居場所」は無かったのでしょうか?この1話では視線、ひいては「見る」行為を契機として、ディスコミュニケーションからの脱却が描かれます。

冒頭。ヌマヅへ帰還するヨハネライラプスへ「おかえり」の一言を求める一方で、「ただいま」とは言いません。故郷を「帰る場所」として受容できずに居ながらも、一方的に「おかえり」――”私”を無条件で受け入れる言葉――をライラプスに求めてしまう、という年相応の幼さが現れています。このように、一方通行の対話によるコミュニケーションの「失敗」が描かれる本作において、いかに相互的な対話が達成されてきたのか、が今回の要です。

 

幼馴染のハナマルを見かける一連のシークエンスも同様です。今はヌマヅでお菓子屋さんを営んでいる彼女を目にし、トカイで夢を叶えられずに不本意な出戻りを経験しているヨハネにとって、コンプレックスを刺激する存在としてその目に映ります。

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「話さなくても良いの?友達でしょ?」とライラプスに諭されるも、自ら対話を試みようとはしません。それどころか「別に友達じゃない」と断じてしまう始末。

つまりこれは、ヨハネの「視界にハナマルが入っている」に過ぎず、ハナマルを「見て」はいないという事です。ヨハネの姿が見切れた画は、ハナマルが視界に入る事すらも拒むようで、ディスコミュニケーション性をより一層強調しています。

 

「視界に入る」ことと、「見る」ことの違い。これこそが、この1話におけるテーマに他なりません。


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トカイでは数々のオーディションや路上ライブに挑戦するも、敗戦続きでデビューが叶わなかったヨハネは、審査員・街の歩行者などのオーディエンスにとって単に「視界に入る」存在にすぎず、自分に可能性を「見て」くれる人はいませんでした。

しかしながら、ハナマルに接するヨハネの徹底して対話を避ける態度を振り返ってみれば、ヨハネもまた彼女の事を本当の意味では「見よう」としていない事が分かります。ここにもやはり、上で触れたような「対話の一方通行性」に通底していると言えます。

彼女の視界に入るヌマヅが「何もなくてつまらない町」に過ぎない、というのもそうした態度の現れです。

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「ヌマヅで他の知り合いに会うのは嫌」だけど「自分の存在に気づいてほしい」というヨハネの二律背反性を換言すれば、「視界に入る」だけではなく、「見て」ほしいという気持ちの発露なのでしょう。

そのためには、まずヨハネが素直にならなければいけない。その契機となったのが、森の切り株のステージでした。かつてヨハネはそこで、楽しく歌っていました。しかし無慈悲にも、歌を馬鹿にする人の存在によって、その”居場所”は奪われた事が明かされます。つまり、ヨハネは「見よう」としない者の”視界”によって、自己表現する機会を損失した、と言えます。

 

そんな中、ヨハネにお菓子を食べてもらいたい一心でやってきたハナマルと、ここで再会します。ヨハネはハナマルの存在に気づいていなかった様子なあたり、まだハナマルの事を「見れて」はいない、受動的な視界=自意識に捕捉されている事が伺えます。

しかしハナマルはヨハネに救われた一人でもありました、自己表現の手段としてお菓子作りを始めたきっかけが、他でもなくヨハネの歌だったといいます。ハナマルは、ヨハネを「見る」能動的なオーディエンスだったのです。

 

そして挿入される『Far far away』。曲のタイトルや歌詞からも分かるように、どこか遠くの「まだ見ぬ場所」で夢を叶える。そんなヨハネの夢の淵源を表す歌ですが、夢破れて地元へ戻ってきたヨハネにとって、これ以上ないほど痛烈なカウンターとして効いていますが、むしろ「過去の精算としての歌」と解釈するなら、『虹ヶ咲』序盤における優木せつ菜の『CHASE!』のような位置づけとして読めるかもしれません。

 

これは同時に、ヨハネにとっては新たなスタートを示す一曲でもありました。余談ですがここにもやはり、『CHASE!』との類似性が見えてきます。

ヨハネの視界に入っていたにすぎない「何もないヌマヅ」と、「今まさに立っているステージのあるヌマヅ」では、同じ場所であっても質的に全く異なっている事が分かります。最も近くて、最も遠い場所としてのヌマヅ。ヨハネの視界を共有して、異化されたヌマヅはまさしく、ヨハネにとっての「まだ見ぬ場所」だったのでしょう。

 

ここで初めて言える「ただいま」の言葉。お互いを「見る」事で初めて成立する相互のコミュニケーション。日常の中で「自動化された表現」として使われる「ただいま」が、ここでもやはり「異化された表現」として、特有の意味を帯びている事が分かります。


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二人の対話を真正面からの切り返しショットによって描き出す事で、説得力が増す画です。これは冒頭の川のシーンにおいて、目を合わせずその場から立ち去ろうとする事との対比です。

 

ヨハネが「ただいま」と応えると同時にハマユウ(どこか遠くへ)がインサートされ、すかさず花弁が消える瞬間。彼女がヌマヅを受容できた事の証左だったのでしょう。

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ヌマヅに住む家族と友人は彼女を迎え入れ、彼女もまた故郷としてのヌマヅを受容できる、まさにヌマヅとヨハネが相互のコミュニケーションを達成した瞬間と言えるでしょう。

「泣かない強さ」ではなく「泣いても立ち上がる”レジリエンス”」アイドルマスター シンデレラガールズ『U149』11話 考察

今回のサブタイトルである「大人と子供の違いって、なに?」

サブタイトルの形式そのものは、これまで同様に「なぞなぞ」モチーフの法則性を保っているものの、その”問い”の内容については、他の回とは質的に全く異なっている事が分かります。それは「なぞなぞ」のように明確な答えが用意されていない、という意味においてです。答えが用意されていない、”根源的な問い”に対していかに対峙するのかが、この11話における要だったのでしょう。

 

「大人は泣かない」

ありすのセリフからも表れているように、ありすの中での〈大人〉とは、何事にも動じない堅牢さがあって、頼りになる存在の事を指しています。ありす自身はまだ〈子供〉でありながら、そうした理想の〈大人〉に近づくためのに、年齢不相応に大人びた振る舞いをするキャラクターでした。理想の大人とは誰か。それは弁護士として働くありすの母でした。

しかしありすにとって、〈大人〉になる過程で失われていくものも往々にしてあり、その一つが「夢」である、というのです。ありすのアイドル活動はあくまでも(ありす自身はそう思ってはいないながらも)「社会勉強」の一環として、将来その経験が何かの役に立つだろう、”程度”に両親は思っているに違いない。そうした思い込みがありました。

アイドル活動そのものは肯定的でも、それはあくまで「大人になるための通過点」に過ぎないものだから、いつかは将来を見据えて勉強や就職といった「安定した道」を進む、という前提の元での話。だからきっと、アイドルデビュー――通過点ではなく、「夢」としてのアイドル活動――には難色を示すに違いない、というバイアスに囚われていました。

 

「夢」などというものにうつつを抜かさず、ただ堅実に仕事をこなす〈大人〉への憧れと、本当はアイドルとして――それも将来何か別のものになる迄の”経由地”として、ではなく――活動したいというありすの葛藤は、とりわけ「鏡」と「水」のメタファーでその内面が描かれます。

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冒頭、ありすが帰るシーン。引かれている白線が先に進むにつれて徐々に薄く途切れていく。白線によって辛うじて進む先が示されていたありすの”道”は、暗闇に溶け込んでしまいます。この描写は、後に続く一連の「反射」の演出への切っ掛けとして、強くフィルムに刻まれます。


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カーブミラー・エレベーター後方の鏡によって「分裂」されるありす。理想の〈大人〉に憧れながらも、〈子供〉じみた夢を持ち続ける事の葛藤が、鏡面によるアイデンティティの「分裂」で表されています。同様の演出はこの後も執拗に反復されます。


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金魚鉢を通した足のショットに続いて、水中からの煽りショットによるありすの顔が映されます。揺れる水越しに映る足元と、球体面(金魚鉢)からの広角で映る世界は(実際はそうではないのに)歪んで見える。上で「バイアス」という言葉を出しましたが、こういった部分にもやはり、ありすの抱える両親への「思い込み」は反映されているのでしょう。

そして極めつけには、頭部が水面の波紋によって見切れながらも、辛うじて映っていたありすの顔は、無慈悲にも前景の金魚によって隠されます。ありすは両親だけでなく、自分の本心すらも〈大人/子供〉の葛藤の中で歪めてしまい、そして覆い隠してしまったのでしょう。

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受験とアイドルの両立。1話のリフレインとして同ポで描かれる鏡のカット。ここにもやはり、ありすという人格の分裂を想起させます。このカットの直前、顔が見切れるありすが映されており、ありすの顔=本心を映し出さないように徹底されています。

それこそ振り返ってみれば、ありすの顔が映るシーンでは水中越しだったり、鏡面に反射するシーンに重きを置かれ、現実におけるありすの”顔”についてはむしろ消極的に描かれている印象を受けます。実像/鏡像の対比から、二項対立的に分断される彼女のアイデンティティを彷彿させます。

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その後すぐに、再度同ポで鏡に対峙するありすのシーン。しかし今度は鏡面に映るありすの顔を、さらにその鏡面を見る「現実のありす」の”目”を鏡面として、3重フレームで映し出されています。

鏡の中のありすを「アイドルの夢を持つ自分」とするならば、目をフレームに「現実――ありすの想像する〈大人〉の世界――に捕捉される理想の自分の姿」がそこに顕現しているのでしょう。おまけに、先程のカットと比較すると、球体面(ありすの目)を介する事で、映る「鏡のありす」は広角レンズのごとく歪んでいる事が分かります。

「もう一人の自分」に嘘をついてまで、〈大人〉としての自己を過度に内面化しようとするありすの危うさに他なりません。

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デビューにあたって予定していた両親との事前面談。しかしそこにありすは現れません。彼女は両親との対峙を徹底的に避け、雨の中逃避してしまいます。

「階段を降りる」行為は10話Cパートでも行われていますが、本作がシンデレラモチーフである事を鑑みれば、「ステージ(アイドル)を降りる」事とほぼイコールなのでしょう。表面的には「隠されていた」ありすの内面は、ここで境地を迎えます。

環境音による静謐な映像は、ここで「水」のメタファーによりMV的情緒に満ちたダイナミズムに転化します。


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ファーストカット。足元から水に沈むありす。金魚鉢?の中でただ水流に身を任せる以外に為す術がありません、冒頭で「先に進むほど消えていく道路の白線」「不安定に揺らぐ水中越しの足元」が映されていましたが、それらのカットもこの一連のMVシーンへの伏線的な導線だったのかもしれません。「もはやどこに向かって歩けば良いのかがわからない迷い」が反映されています。


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激しく流れる水は、その後「氾濫する川」へとシームレスに繋がれます。柵・フェンス・横断歩道など、幾何学的かつ直線的な遮蔽物のモチーフが挿入され、それらがありすの本心を閉じ込めようとするメタファーである事に疑いは無いでしょう。

「水流」の動的かつダイナミックさと、「遮蔽物」による静的・無慈悲さ。静と動の二律背反のメタファーが衝突し、「表面的には抑えようとしていたものが決壊し、溢れ出てしまう」映像は、まさにありすの〈子供/大人〉の二項対立による葛藤の境地を、何より饒舌に語るものです。


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また全体的に鬱屈としたモノトーン基調の映像だからこそ、唐突に現れる金魚の存在感が際立ちます。『イメージ・シンボル事典』によると、”魚”は「無意識の海の中に隠されている自己」を表象します。つまり、水=無意識の中に潜むありすの本心は金魚として(もはや無視できないほどに大きく)そこに召喚されているのです。灰色の世界を暖色系で彩る存在であり、雄弁に海を掻き分けて前進するそれは、流されるがままのありすと対比的に描かれる、「もう一人の自分」を表すイコンです。

 

クロスカッティングで描かれたありすとプロデューサーが屋上でついに再会するシーン。「大人になろう背伸びして自分自身隠すありす」のアンチテーゼとして描かれているのが「大人でありながらも子供のような無垢さで夢を追う」プロデューサーでした。

しかし、それは裏を返せばPもまた「いつの間にか”大人扱い”されるフェーズに入ってしまった”子供”の一人」ということであり、一人前の大人になれないPはその事に引け目を感じています。だからありすに「無力な大人」である事を看破される事態は、彼にとって最も悔しい事に他なりません。

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堪らず涙を流すプロデューサー。「大人は泣かない」というありすの「大人の定義」を借りれば、涙を流すPは、ありすの想像するような「子供じみた夢を持たずに、何事にも動じず愚直に現実を生き抜く精神的強さ」という意味での〈大人〉とは程遠いものに映ったはずです。しかし、Pの涙を起点に想起されるのは、母でした。ありすの想像する強い〈大人〉の理想像の権化だったはずの、あの母です。


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幻想的な回想の中で、母は弁護士として働いていることが明かされます。台詞のない回想シーンから判断できるのは、ほんの表面的な部分のみですが、母もかつては弁護士という〈夢〉を追う側の者だった筈です。その意味では、アイドルになる〈夢〉を持つありすと質的には何ら変わりないのです。恐らくは夢を追う最中で自身の無力さに直面し、ありすの前で涙を流した事もあったのでしょう。

 

母もまたPと同様に「子供のような夢から卒業して、堅牢な強さを有する〈大人〉」などでは決してなかったのです。ここで私はレジリエンスという概念を想起しました。

これは日本語で「回復力・弾力性」を意味する言葉で、単純な「屈強さ」としての強さではなく「しなやかに生き続け、回復できる強さ」を意味します。

今回の挿話においてPが涙を流す描写がリフレインされてきましたが、泣く度に立ち直って前進するPの姿勢は、かつてのありすの母と同様に、レジリエンスを有する「柔軟な強さ」を持つ存在として描かれているのです。

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だからこそ、ありすもまたプロデューサー、そして両親を通じて「泣かない強さ」ではなく「泣いても立ち上がる強さ」という”レジリエンスを獲得できたのでしょう。

そこには、以前のような〈子供=弱い/大人=強い〉といった二項対立はもはや存在しません。だからこそ、1話の反復として描かれる同ポの構図において、「かつて子供=ありすが居た立ち位置に大人であるPが居て、Pが居た立ち位置にありすが居る」事にも説得力が生まれます。


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”涙”を媒介にレジリエンスを獲得した両者に対して、単純に〈子供/大人〉と切り分ける事など、もはや何の意味も持たない訳ですから。

 

そしてユニット名であり、タイトル回収でもある「U149」もまた、違った意味を帯びている事に気づきます。身長が150cm未満のユニットを由来とした安直なネーミングですが、これは元々、アイドルにいたいけな〈子供〉としてのレッテルを貼り、商品として売り出すための”マーケティングツール”的な含意があり、そこに疑念を隠せなかったのが他でもなくプロデューサーでした。

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冒頭を振り返ってみれば、もうすぐ身長150cmに達する桃華や、「兄貴より大きくなりたい」晴など、ユニットのコンセプト――身長149cm以下――に矛盾する事態が起こっていましたが、むしろここでは背が伸びたり、大きくなりたい等、成長途上にいるアイドルを、〈子供〉というカテゴリに否応なしに追いやる、暴力的な装置として機能していました。

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しかし同時に、それは裏を返せば「大人であっても子供で居られる場所」を意味します。〈子供/大人〉のアポリアを超越した今、「U149」ほどふさわしい名前は見つからない筈です。マーケティング的な意図から生まれたアイドルへの無慈悲なレッテルが、反転して自分たち第3芸能課のスタンスを何よりも的確に示す屋号として機能するのは、正に柔軟な強さ――レジリエンス――の賜物と言えるでしょう。

ルマリーはいかにしてスクリーンを支配したか『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』考察

世界規模で遊ばれているゲームの金字塔『マリオ』シリーズの映画化、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』ですが、この物語において明らかに、それも意図的に「ノイズ」として配置される存在があったと思います。それは「死は唯一の救済」という独自の死生観を持つ、クッパに囚われた青い星・ルマリーの存在です。

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本作のプロットは「マリオがピーチ姫とキノピオ・ドンキーの手を借りながら、クッパに囚われたルイージを救う物語」であり、そのプロセスとして”ゲーム原作ならではの要素”を踏襲した「トライアンドエラー」のテーマが根底にありました。

ルマリーは、そうした「マリオの物語」に直接関与する事はなく、同じく囚われの場でルイージと少し接触する程度であり、物語の本筋には全く介入してきません。

 

にも関わらず、受動的・強制的な死を目前に怯える囚われの者たちとは対照的に、自ら積極的に死を望んでいるとも取れる過激な発言が反復されるほか、映画本編が終わり暗転した際に「残ったのは君とこの闇だけ」と第四の壁を超えた台詞によって観客にしこりを残すような読後感を与えるなど、むしろ積極的にスクリーンに介入してくるのです。物語的にはほとんどと言って良いほど関与してこないにも関わらず、スクリーン的には無視する事がもはや不可能なほど現前化されるルマリーは、極めて異質な存在です。

換言すれば、「”物語的な役割”を持たないルマリーは、”スクリーン上の役割”を多分に担っている」のです。結論から言えば、「マリオ達とルマリーは、それぞれ”時間”に対するイメージ”が異なっている」事から考えることができます。

 

ピーチ姫の指導のもと、チュートリアルコースに何度も挑戦してみたり、ジャングル王国の軍事支援を懸けたドンキーとの戦いにおいては、純粋なパワー勝負では不利なマリオが途中マメマリオになってしまうなど紆余曲折を経た後にネコマリオの俊敏性を活かして勝利するなど、原作ゲームをやったことのある人なら誰もが経験するような「トライアンドエラー」が、物語のテーマとして描かれています。

振り返ってみれば、家族からも見放されて初仕事でも水道を直すどころか家を水浸しにしてしまうブルックリンの冴えない配管工2人が、上記のような紆余曲折を通じて社会から認められていく、という大枠のプロットからも「試行錯誤の果てにある成長」のテーマが見えてきます。

 

このように「失敗という”過去”から学び、何度も挑戦して”未来”の成功を達成する」という、いわば程度の低い状態から高い状態への”進歩”のイメージは、近代以降に確立された「直線時間」の思想に通底するものがあります。時間は過去→現在→未来と一方通行に直線的に進んでいくもの、という我々が普段捉えている時間感覚は、こうした「直線時間」の考え方によるもので、特にその部分に対して疑いの余地はないかと思います。

 

他方ルマリーの言う「救済としての死」という死生観は、「試行錯誤の過去を経て、未来の進歩を目指す」ような直線時間の思想とは相対するものです。というのは、ルマリーの死生観を考える上で、スーパーマリオギャラクシーシリーズに登場する「チコ」の設定――死ぬと生まれ変わって”新たな星”になる――がヒントになるためです。

つまり、チコと同じ”星”の一族であるルマリーもまた、そうした輪廻転生の世界観で生きているのでしょう。このように、輪廻転生に代表される「時間は循環され、一周すればまた元の状態に戻り、それを延々と繰り返していく」ような時間のイメージは「円環時間」と呼ばれ、仏教などに代表される近代以前に普及していたという時間の概念であり、上で挙げた直線時間とは相容れない概念です。

 

本作においてマリオをはじめとする「物語内部のキャラクター」が、より高みを目指して前進することに価値を置く「直線時間」の中で生きているとすれば、死によって自分を世界から切り離し、ある意味で”全てのリセット”を目指したルマリーは、むしろ「物語の外にいるキャラクター」と解釈できます。とりわけ、この作品がそもそも「ゲーム原作」である事を鑑みれば、ルマリーは「ゲームのプレイヤー」側、即ち我々オーディエンスに近い側の存在と言えるのです。

ゲームにおいてコースをクリアし、クッパを倒した後に「平和な世界が訪れる」事がエンディングムービーの中で示唆されることはあっても、そのエンディング映像が終わってしまえば再びゲーム内の時間は巻き戻され、平和な世界が「なかったこと」にされてしまい、我々はそれを繰り返し「プレイ」します。つまり、ゲームの世界はその特性上極めて「円環時間」に近い動きをしているとも言えます。我々オーディエンスは、ルマリーの視点を借りて、「円環時間としてのゲームの世界」を覗き込んでいるのが本作なのです。

 

このようにメタ的に解釈するならば、映画の終わりにルマリーが「第四の壁」を超えて「残ったのは君とこの闇だけ...」と我々に問いかけてきた事の意味も理解できるかもしれません。それはゲームの世界を満喫し終えた後、電源を落とし暗くなった液晶に反射する自分の鏡像=ルマリーだけがそこに残されている事に他ならず、そして本作にメタ的な解釈可能性を与える役目だったのかもしれません。

 

登場当初こそ「物語内部のキャラクター」として映像にスパイスを与えるに留まっていたルマリーが、本作を唐突にメタフィクションへと変容させる「狂言回し」としてスクリーンを支配してしまう。まさにトリック”スター”とも言える存在だったのでしょう。

『【推しの子】』OP映像における「視線の非対称性」について

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イントロで映される病室にオーバーラップされる各々の”目”が象徴するように、『【推しの子】』は”視線”によって紡ぎ出されるドラマだったのでしょう。テレビへのクロースアップ後、画面が点灯して映し出されるのはアイの口元です。

ここで着目したいのは、ファーストカットで映し出されていたアクア・ルビーたちの”目”とは対照的に、アイのトレードマークでもあったはずの輝く”目”はフレームの外に排除されている事です。

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それは、アイがもっぱら一方的に目線を向けられる「見られる客体」として描かれている事を示唆しているのでしょう。アイはテレビというメディア、即ち見る主体としてのオーディエンスに対して目線を向ける力を奪われ、ただ能動的に見られる”対象”としてしか存在できない。このように、本作のオープニング映像は「一方的な視線による視覚の非対称性」が随所に見受けられます。

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例えば巨大なスクリーンを背にして映されるアクアとルビーの描かれ方の”差異”にもそれは表れています。アクアの場合、本来ならば背後のスクリーンに映されているはずの顔がフレーム外に排除されたまま、クロースアップによって徹底的にスクリーンを”映さないように”このシーンを終える一方で、ルビーはクロースアップされた後、再度引きのロングショットに戻る事でスクリーン全体に彼女の”顔”が映し出されるのです。

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芸能界の裏側を知っているからこそ、表舞台――不特定多数の視線に晒される場所――には立たずに、むしろ自分自身も”裏側”の人間として真実を暴こうとするアクアと、表舞台に立つことで真っ向から視線を向けられる中でアイドルの夢を追うルビーの対比関係がそこに表れています。その直後でインサートされるように、ビー玉というプリズムを通して分裂する青と赤の光が、アイ=母という共通項を通ることで分離されるアクアとルビーの差異を象徴していた事は明白です。

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路地からのアオリで映されるカラスの群れがマッチカット的に検索バーへと移り変わるカットも同様です。芸能界の表舞台に立つ者の”情報”はオーディエンスによって常に監視される一方で、黒く塗りつぶされたカラスはオーディエンスの匿名性を表象しており、”見られる側”からは決して視認できないのです。アイドル業界の市場原理における「情報の非対称性」を象徴するカットにも思えます。

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サビ前。暗闇の中でサイリウムがまばらに点灯し始め、画面中央に転生前の白衣姿のアクアが映されます。転生前はアイを推す「一人のファン=見る主体」であった彼は、星野アイの息子として転生した今、その立場に安住する事は許されません。

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”眼鏡”――視覚を担保する装置――が壊れる場面は、アクアから”見る”という「オーディエンスとしての特権」が奪われた事を意味しています。あくまでも「母=アイの秘密を漏らした犯人探し」が目的とは言え、アクアが芸能界の端くれとして業界に足を踏み込んだ以上、いつ「監視される側」になっても可笑しくはない。そんな描かれ方です。

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この場面よりも前に、有馬かなに後をつけられてアクアが「監視される」カットがありましたが、それは「監視を免れようとするアクア」もまた、自身が感知しない誰かによって「監視される側」に転じる可能性を示唆するものです。

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上で着目した”カラス”の如く、サイリウムを振るオーディエンスの顔は真っ黒闇に溶け込んでおり、ファンの匿名性が象徴されています。ステージからその顔を視認することができない一方、「サイリウムの光がそこにある事」だけは確実に分かるのです。

それは、アイにとって「誰に見られているかはわからない一方で、確かに大勢の目に晒されている事の実感」の中で、非対称的な視線が描かれているのでしょう。監視している者の存在を例え視認できなくても、監視の目を実感する事で視線による統御が成立している点で、かの有名な”パノプティコン”的な様相を呈しているとも言えます。

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それを鑑みれば、ステージの照明が次々と”点灯”し始める次点のカットもまた、上で触れたサイリウムの”点灯”との関連性を帯びてくるのです。なぜなら、ステージの照明は「アイに向けられる、オーディエンスからの視線」を象徴する装置と考えられるからです。そして何よりも、サビでアイを回り込みで映すカメラ自体もまた、我々の視線をその場にいる不特定多数のオーディエンスの視線と同一化させる装置だったのでしょう。

このように、サイリウム→照明→カメラと「観客=見る主体」の存在感を帯びた”装置”が至るところに配置されている事を、アイの視点・そして映像を見る我々の「実感」として捉えられているのが、映像の妙とも言えるでしょう。

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ステージ中央で踊るアイと、暗闇の中でアイの面影を探すアクアを交互に対比させたカットバックが象徴的ですが、この作品が「アイが死んでしまった後もなお、アイに”狂わされる”者たちの物語」である事を鑑みれば、この一連のシークエンスにも相応の意味が込められている事が分かります。

私は、「死別したり、もうそこ居ない人物がストーリーの中心を担ってしまう」物語の類型を「不在の中心」と呼んでいますが、本作は間違いなくそういう作品であり、だからこそカメラは依然としてアイを中心としたカメラワークで動き、まるでアクアの心情がそのカメラと呼応するように、彼をカットバックで捉えたのでしょう。

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その後、クロースアップされるアイの目を起点にアクアの目、そしてルビーの頭上に光る”一番星”へとマッチカット的に繋がれます。このシーンでもやはり同様で、中心的に描かれているのはアイの面影たる「一番星」のイコンでしょう。歌詞にある「誰もが目を奪われていく」とは、本質的にはそういうことなのかもしれません。

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三角構図で大人二人に背を向ける有馬かな・スマホで自分の目を覆う黒川あかねのカットがインサートされます。このOP映像は「視覚」が特権的なモチーフとして描かれてきましたが、ここで彼女たちの「目」を徹底的に”映さない”フレーミングにも相応の意味が込められているのでしょう。アイドルの市場原理は、視線による「主客二元論」によって成り立っている事を鑑みれば、彼女たちもまた「見られる客体」に過ぎないのかもしれません。そしてそれは、アイドルの世界――視線に晒される場所――に足を踏み入れたルビーもまた同じだったのかもしれません。

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舞台裏の”影”から、自分を遮るもののない”光”の場所へ踏み出すルビーとは対照的に描かれるのは、”光”のある場所から一転して”影”が彼を覆い、クロースアップでアクアの”目”=影の星を映し出すシークエンスです。その”目”はまるで、我々視聴者に向けられているような錯覚すら覚えます。「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」という有名な警句がありますが、このアクアの”目”は、まさしくオーディエンスの位置に安住している我々に対する挑戦的な目であり、「視線」は決して我々視聴者だけの特権ではない事を示唆しているのです。

 

このようにアイドルの市場原理である〈見る主体 / 見られる客体〉の二項対立を廃するアクアの姿勢には、既視感を覚える人も居るはずです。それは他でもなく「”ファンに見られる客体”でありながら、同時に”ファンを見る主体”」でもあった母親・アイの存在です。アイはアクア・ルビーという二人の子を持ちながらその事実を隠し、”母”でありながらも”アイドル”で居続けました。

 

彼女が嘘をつく事で「ファンから”二児の母”としての視線を免れながら、一方的に”アイドル”としてファンに愛の言葉を投げかける」という意味では、アイもまたファンに対して「非対称的な視線」を持つ特権的な立場に見えるかもしれません。

しかしながら、”アイの真実を知っている”ストーカー・リョースケによって「視線の非対称性」を看破され、腹部を刺されてもなお、彼を一人の”ファン”として愛そうとしたアイの姿勢は、むしろそういった主客二元論的な視線の否定に他ならず、それこそがファンへの――アイの言葉を借りれば――本当の”愛”の意味するところだったのでしょう。

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しかしそれも、アイ=愛の亡き今では過去の話です。だからアイはこのオープニング映像=ルビーとアクアの物語を総括するフィルムにおいて、オーディエンスに「見られる客体」になる他ないのでしょう。それはラストにおいてアイを象徴する”一番星”のイコンが、テレビの電源が落ちる形で”消える”事からも実感できます。なぜなら「テレビ」というメディアは大衆の視線を集約し、被写体に一方的な視線を向ける装置に他ならないのですから。

 

今回は以上です。

『転生王女と天才令嬢の魔法革命』アニメ総括――メディウムとしての身体を放棄し、「直接的な接触」を獲得する物語

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オープニングのファーストカットから映し出され、繋がれるアニスフィアとユフィリアの「手」が象徴するように、本作は触れること――他者との”直接的”な接触――を通じて失われた”ヒューマニズム”を取り戻す作品と言えるでしょう。

物語の重点は主に王女のアニスフィア・天才令嬢のユフィリア・アニスの実弟にして次期国王候補のアルガルドの3人が担っている本作ですが、それぞれのキャラクターがどのように、その変容を辿っているのかを見ていきます。

 

まず序盤の山となるのが、王女でありながらも魔法が使えず、精霊への冒涜と見做される「魔学」に傾倒している事から、周囲から王族の血を引く者としてその価値を認められずにいるアニスフィアと、その実弟で時期国王の最有力候補として名高いアルガルドの確執です。長女であり、王女という立場でありながらも魔法が使えないアニスは、”キテレツ王女”という道化を演じることで弟のプライドを守ろうとします。それを察するアルガルドは「国王の最有力候補」でありながら自分が王の器ではない事を自覚しており、だからこそそんな姉の振る舞い方と、血統と魔法を絶対的なものとして形成される封建的な国の在り方に憤りを露わにします。

 

アニスとアルガルドの確執は8話において、「決闘」という形でついに顕在化する事になります。絶対的な「力」を持って、理不尽な世の中を強引な方法で変えようと試みるアルガルドは、吸血鬼であるレイニの心臓を奪い、自分のものにします。それは他でもなく、アルガルドが「人間性を捨てて吸血鬼になる」事を意味します。

ここで注目したいのは、ドラゴンの力を自身の身体に埋め込んだアニスもまた、人間性を放棄している、とも取れる部分です。ドラゴンの紋章を身体に宿すことで、「擬似的な魔法」としてその魔力をコントロールするアニスは、吸血鬼=レイニの心臓を埋め込んで絶対的な「力」を得たアルガルドとパラレルに描かれているのです。

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アニスもアルガルドも、「自分にないものを求めた」結果、それが人間性、即ちヒューマニズムの喪失」という形で、物語に影を落とす事となります。それを象徴するのが、決闘の後にアルガルドが月に手を伸ばす一連のカット群です。他でもなく「無いものを掴み取ろうと伸ばした自身の”手”」によって、微かな月の光さえも遮られ、彼の顔に影を落とすのは、アニスに敗北したというよりもむしろ、アニスと自分自身を救えないまま封建社会を前に敗北した絶望感や諦観を物語っています。

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振り返ってみれば、本作における「月」は自分が持っていないものへの「渇望」を表すシンボルとして映されていました。それこそ、一つ前の8話でレイニの心臓を奪うシーンの月・アニスとアルガルドが対峙し、〈祝福 / 呪い〉の二項対立として描かれる「魔法の定義」を問うシーンで描かれる月は画面の大部分を占め、不自然なほど大きく映し出されます。

両者にとっての「魔法」が〈祝福・呪い〉の対比関係で問い直される8話において、望遠レンズ的に画面を覆う巨大な月は、魅了・狂気といった両義的なメタファーとして描かれていたのかもしれません。

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しかし9話では一転して、上で挙げたように月がアルガルドの指の間に収まるほど”小さく”映されているのです。力への狂信と渇望のモチーフとして”大きく”描かれた月の姿とは対照的な描きです。手を伸ばしても掴み取れない絶望的な「遠さ」と、封建国家を変えられない自身の無力さを反映させる「月」。次点のカットでは、僅かな光を放つその「月」すらも雲に隠れ、アニスとアルガルドに雨が注がれます。「決闘」はユフィリアの仲裁により止められましたが、実質的には両者共に「封建国家」という巨大な力を前に敗北する形で決着が着いてしまった、と解釈する事ができます。

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「なりたい者になれないのは、辛いな。」

アルガルドがアニスに吐露するこの台詞が、何よりもその”敗北感”を表しています。とりわけ、「同感」を求めるニュアンスが込められている点で、その敗北感はアニスにも共有されているのが肝要です。

精霊一神教的な国家において、アニスが「魔法が使えない」事はそのまま「人権がない」事さえ、意味します。魔法――精霊からの恩恵――を授からなかったアニスはこの社会において「人間未満」としてしか見做されなず、ただ一点「王女」という血統的な記号のみが彼女を「人間」にしている。そんなアニスのヒューマニズムは、一神教的な封建社会においては砂上の楼閣にすぎず、脆いものとして映ります。それは「王位継承権」という記号でしか自身の存在意義を示すことができず、才能に恵まれなかった事を自覚するアルガルドにも通底する問題でした。

 

そして語られる確執のルーツ。アニスがアルガルドを連れ出した最中でモンスターに襲われ、その事が王宮に知れ渡り「アニスがアルガルドの暗殺を試みた」と噂が広がるようになる。アニスは王位継承権をアルガルドに譲渡する事で、この件の収拾を試みましたが、それがかえって彼を傷つける結果になります。

握手を拒絶し、立ち去るアルガルド。彼が欲しかったのは、王位継承権などではなく、ただアニスの事を純粋に好きで、王になって欲しかったからこそ、そんな姉が平気で王位継承権を譲ってしまう事に憤りを覚えたのでしょう。

 

接触する物語」において、手で触れることを拒絶する行為には、やはり相応の意味が込められています。ここで重要になるのは、アルガルドが王位継承権を得ることで、彼は「次期国王」としての記号性を帯び、それを外部に伝達するだけの”メディウム”となり、アニスの弟としての”自己”を失ってしまうという部分です。アニスがアルガルドの「手」を引いて連れ出す行為によって、達成されていた両者の直接的「接触」は、王位継承権をアルガルドに譲渡したあの瞬間――アニスの「仲直りの握手を拒絶」した時――に断絶され、姉/弟の関係性から、お互いに王女/次期国王という記号を媒介する間接的な関係性へと変容しました。

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このように「自分の身体が、何かを伝えるだけの”メディウム”と化すことで間接性を帯び、直接的な接触に失敗した者が、再び”直接性”を取り戻す」物語構造は、本作において最も肝要となる部分です。

アルガルドの場合、アニスによって次期国王候補に”させられた”事で「接触」を失いました。そんな彼はアニスと真正面から対峙し「共に敗北する」事で結果的に国の歪みを顕在化させ、自分の行ってきた事の罪を償う形で「メディウムとしての身体を放棄した=直接性を取り戻した」と言えます。それは、決闘が終わった後の仲直りの握手――断絶された手が再び繋がれる瞬間――によって達成されました。

 

アルガルドとのわだかまりが解消された後、次に直接的な繋がりを獲得するのは本作のもう一人の主人公・ユフィリアです。天才令嬢として常に求められる事を完璧にこなしてきたユフィは、それ自体が彼女自身を「求められた事を外部に伝える存在」としての要素を強めており、生来的に極めて媒介性を帯びたキャラクターです。換言すれば「受動的なメディウム」として描かれています。「およそ全てを持って生まれながら、何一つ持っていなかった令嬢」という彼女のキャラクター造形が意味するのは、即ち物語開始時点において彼女は「直接的に世界とアクセスする術を持たない”媒体”」である事に他なりません。

 

自身の役割を果たす事に一切の妥協がなく、求められるように完璧に振る舞ってきた彼女ですが、そこにユフィ自身の意志があるとは言い難く、他でもなく「ユフィ自身が何をしたいか」という問いは本作において最も強調的に描かれてきた事の一つでした。そして自分自身が「メディウム」であることに無自覚ですらあったユフィは、もう一つの媒体を通じて世界と対峙していました。それはアニスの存在です。

 

アニスに忠誠を尽くし、魔学研究の助手として徹するようになったユフィですが、7話において同じくアニスの魔学研究を手伝う悪友・ティルティから、「助手としての矜持」を問われます。同じ「助手」の立場であるティルティを前にユフィリアは狼狽えます。

上手に位置するティルティは、今この画面において主導権を握っている事が伺えます。一方、下手のユフィはその身体の半分が前景の椅子に”隠されて”います。助手としての立ち位置が定まらない、不安定なユフィの心理を代弁するカットです。

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ティルティに発破をかけられたユフィは、「魔学講演会」に足踏みするアニスを半ば強引に引っ張るかように、自分から講演会の登壇を進言します。その講演会とは、アニスが発明した内容を完全に理解しているユフィが、否、そんなユフィだからこそ、その発明を彼女自身の口から発表し、魔法信奉の厚い貴族を相手に魔道具の技術を提言するというものです。

 

それは一見するとアニスの考えを受動的に代弁する”メディウム”に徹するという事に思えますが、講演の途中でユフィは魔学研究は精霊信仰を冒涜するものではなく、むしろ精霊への敬意によって生まれたものである事、封建的・保守的な信仰主義に異論を唱え、革新的な技術で未来を切り開く事を提言し、講演は幕を閉じます。つまり、台本にはないユフィ自身の意志を乗せたプレゼンが行われたのです。アニスの発明を魔法省に伝える受動的なメディウムとしての自分自身を放棄し、能動的に封建社会と対峙する事で、ユフィが媒介性を捨てて「直接的接触」を獲得した瞬間に他なりません。

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Aパートでは自分の立ち位置を見失い、身体を椅子に隠されて”後景化”していたユフィですが、一転してBパートの講演においてはティルティが黒子(舞台上、”見えない存在”)に徹する事で、ユフィの存在感を浮き彫りに前景化されて映される対比的なフレーミングも相まって、強い説得力を感じます。

 

しかしながら、王位継承を巡ってアニス・ユフィの前に再び「ヒューマニズムの喪失」の問題が立ちはだかります。アニスが次期国王として継承の準備に取り掛かる中、彼女のアイデンティティでもある魔学は封印され、国王として節度のある振る舞いを”演じ”ます。異端とも言えるアニスの奔放さを封じるような遮蔽物の多さも相まって、アニスの表面的な明るさとは裏腹に鬱屈とした印象を与えています。「子供を産むための”借り腹”」として視線を向けられ、嫌悪感を露わにするアニスですが、ここにもやはり「子供を産む女」というメディウムとしてしかその存在価値を見出されていない残酷さも感じます。

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そんな時、ユフィは精霊契約者のリュミと出会い、自身が精霊契約を結んで国王となれば、アニスが魔学を奪われる事もなくこれまで通りの自由な生き方を選択できると考えます。しかし精霊契約の実態とは、ユフィ自身が精霊になる――人間をやめる――ことを意味しています。他方、「王位継承権」をユフィに横取りされる事は、アニスにとってもまた、ヒューマニズムの喪失を意味しています。上で触れたように、精霊一神教の国家において「魔法が使えない」ことは「人権がない」事と同義であり、そんな「人間未満」のアニスを「人間にしていた」のは、他でもなく「王女」という血統的な記号なのです。それが今やユフィ横取りされようとしているのです。封建国家を前に、アニスとユフィはヒューマニズムを喪失する以外にない。ここにもやはり、アニスとアルガルドの確執にも通底しているテーマが存在しています。

 

「自分が我慢すれば良いだけ」と譲らないアニスと、「アニスの本物の笑顔を守りたい」ユフィの衝突の末、ユフィが勝利し、精霊契約を結ぶこととなります。それは、上で触れたようにユフィのヒューマニズムを差し出す形でアニスの自由を守ったという事になりますが、もはや受動的なメディウムとしてではなく、むしろここではユフィが国王となって直接的に国と向き合う事を選択した点で、自己の直接性を獲得したユフィの成長物語の終着点でもあり、革命のスタートでもあるのでしょう。

 

他方、アニスは自分には前世の記憶があるという秘密をユフィに語り、今ここに居る自分という存在に確証が持てないことをユフィに打ち明けます。それはアニスの身体が「前世の人格を外部に伝達するだけのメディウムに過ぎないのではないか」という問いかけです。その問いに対するユフィの”答え”こそが、あの唐突にも思える”キス”だったのでしょう。「直接的」な身体の触れ合いによって、メディウムとしてのアニスの身体の”間接性”を否定――アニスが確かに”今ここに居ること”を肯定――する。ユフィのキスにはきっと、そんな意図が多分に含まれていたのかもしれません。

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そして、直接的な世界とのつながりを妨げていたもの=間接的メディウムをそれぞれが放棄し、再び直接的な接触――ヒューマニズム――を取り戻す物語こそが本作の本懐であり、反復して映し出される「虹」は、パラレル=間接的に描かれてきたもの同士が"直接的"に繋がること――接触――のシンボルとして、これからも二人の行く末を見守るのでしょう。

 

今回は以上です。

『グリッドマンユニバース』はオーディエンスを救いに来た ※ネタバレ有り感想

※本記事は『グリッドマンユニバース』のネタバレを含みます。未視聴の方はブラウザバックを推奨いたします。

 

 

 

 

 

 

 

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時系列的には『SSSS.GRIDMAN』の本編の後のストーリーとなる本作では、『SSSS.DYNAZENON』と世界観が混ざり合うマルチバースを舞台とし、本編における〈創造主/被造物・現実/虚構〉のテーマを再構築しながら、新たな解釈を提示するような作品でした。

とりわけ、『SSSS.GRIDMAN』において描かれたメタフィクションのテーマは冒頭から既に端を発しています。先ずは「六花・内海が学校の文化祭の出し物として、演劇をすることになり、かつて自らが体験したあの日々──グリッドマンと共に戦った2ヶ月間──をベースとして脚本を作る。戦いが終わった後、その2ヶ月間の記憶を失っている裕太もまた、脚本作成に加わる。」というメインプロットそのものがメタ要素であることには疑いの余地はありません。

 

裕太たちの住むSSSS.GRIDMANの世界は、新条アカネによって作られた虚構の世界であり、裕太ほか六花・内海さえも、被造物の存在でした。その被造物である裕太たちが、この文化祭においては”創造主”として、演劇の脚本を作ろうとする。それも、テーマとして扱うのが、グリッドマンと共に戦いアカネを救ったあの日々です。

ここには〈創造主/被造物〉という二項対立は廃され、かつての被造物が、一転して創造主としての役割を担うような、逆転現象が起こっています。そしてこの「逆転現象」こそが、『SSSS.GRIDMAN』アニメ本編において「フィクションの存在こそが、現実へのアクセスの契機となる」という大きなテーマを描くフックでもありました。

そうしたメタ的なアニメ本編のプロットを「脚本作り」という形で再構築しながらも、そこに新たな解釈を与える。即ち「反復と差異を描いたのが本作『グリッドマンユニバース』だったのかもしれません。

 

特に、ここで注目したいのは六花・内海とは異なり「裕太にはあの2ヶ月間の記憶がない」という部分です。二人が自分たちの記憶=主観に基づいて、あの2ヶ月間を「劇」として再現する中で、裕太一人その記憶がないというのは、即ちそれぞれが「主観」を持つ中で、裕太だけは記憶がないゆえに「客観」の側に立たざるを得ないという事。

それは「自分の物語がそこに存在しない」という意味でもあり、そういう意味では今作『グリッドマンユニバース』は「裕太が”自分の物語”を紡ぎ出すまでを描いた物語」だったのでしょう。何よりも「作りもの」と、それを受け取るオーディエンスにより生まれる、数多くの「主観」こそがフィクションを豊かにしてくれる。それこそが今作のメッセージに他なりません。

 

とりわけ本作において、2つの世界のマルチバース空間=”グリッドマンユニバース”が生じた原因であり、全ての元凶である怪獣・マッドオリジンの存在は〈主観/客観〉の二項対立を煽る存在でした。それはグリッドマンを”私物化”し、他の解釈を徹底的に排除する思想の権化とも言える存在です。「客観的な正しさ」という暴力が、「主観的な解釈可能性」を潰してしまう。虚構の世界を生きる裕太たちにとって、フィクションの解釈が一つの正解に規定されてしまう事は、「世界の終わり」に他なりません。

 

それを鑑みれば、マッドオリジン──解釈の不可能性とキャラクターの私物化──に対抗する決定打となったのが「光線による破壊攻撃とフィクサービームによる再生を繰り返す事」、即ち「破壊と再生の反復」であった事は、示唆に富んだ描きとも言えます。

冒頭で「裕太がグリッドマンの似顔絵を書いて、消して、また書き直す」描写があり、その伏線回収とも言えるのが「破壊と再生」のフィクサービームのシーンですが、一義的なキャラクターとしての「グリッドマン像」を”破壊”し、それをもう一度”再生”する事で新たなグリッドマンの解釈を生み出す。それは他でもなく『電光超人グリッドマン』という一つの作品から派生して生まれた『SSSS.GRIDMAN』『SSSS.DYNAZENON』の2作品のメディアがやってきた事に他なりません。そうした意味でも、極めてメタ的な含意のある戦闘描写と言えます。

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このように、メタ的に「グリッドマン」というメディア展開のあり方を物語の根幹に配置する説得力も勿論ですが、何よりフィクションの解釈可能性」というテーマにおいても、「破壊と再生」は大きな意味を持ちます。

それは例えば、原作を基にしながらも、有志による独自の解釈によって展開される創作の営みである「二次創作」や、作品の要素を分解・再構築する事で、時に作者も想像しないような新たな解釈の可能性を広げる「文芸批評」といった表現の営み全般にも当てはまるプロセスだと考えています。そうした「ファンの解釈による作品の多義化」は、特にSNS社会である現代においてはコンテンツが盛り上がる要素として、もはや無視できないでしょう。

二次創作と批評的な営みは、そのどちらも「一度作者の手によって完成されている作品を、新たな解釈で捉え直す」というプロセスの中で、作品を「破壊」し、「再生」する表現の形態とも言えます。

 

それでは、作品が作者の手を離れたとき、作品が他の人の手によって手を加えられてしまうのならば、もはや創作において「作者」の存在は無力なのでしょうか?

否、むしろ本作においては「作者へのリスペクト」を忘れてはならない事を明確に描いています。全ての戦いが終わった後、アンチ君(グリッドナイト)が創造主である新条アカネに、自分を生み出してくれた事に感謝を送るシーンは、創造主へのリスペクトを端的に表した瞬間でした。

「創造主の手を離れ、意図しない方向に自我を持つようになった被造物」というアカネとアンチ君の関係性を踏まえると、創造主/被造物の二項対立の関係は既に脱構築的に廃されており、その境界・力関係は曖昧になってしまいました。だからこそ、創造主・即ち作者に対する敬意をここに明言する事で、「フィクションの賛歌」のテーマがより色濃く反映されているように感じます。

 

それでは、話を「裕太の物語」に戻しましょう。

上で触れたように、今作は「裕太が”自分の物語”を紡ぎ出すまでの物語」。これがメインプロットですが、より具体的には「裕太が六花に告白するまでのプロセスを描いた物語」です。かつてグリッドマンに裕太の”視点を貸していた”最中での出来事は、記憶を失った今の裕太とって「主観の外」にある出来事です。

だから六花に対する自分の思いも客観的な目で捉えてしまう。言ってしまえば、裕太はまるで自身が物語の「当事者」ではないかのような優柔不断なキャラクターとして捉え返されています。

 

「記憶がないために、客観的な立場に立たざるを得ない裕太」の立ち位置は、同時に「書いたグリッドマンの脚本をはっすとなみこ──客観的な目線──によって評価してもらう内に、最も伝えたい”アカネのこと”を省いてしまう六花」とパラレルに語られます。

(余談ですが、この世界観においてただ一人、現実の存在であるはずの新条アカネをはっすとなみこは「リアリティがない」と一刀両断してしまうのが、なんとも面白いなと。無論、はっす・なみこにとっては「作りものの世界こそがリアル」だから、我々視聴者が「現実」と呼んでいる世界の存在は、かえってリアリティがないのでしょう。)

 

両者とも、「客観性に飲まれて、主観=当事者としての自分を表現できない」事で通底しています。そこで契機となるのは、物語の当事者として自分を生きてきた、そして作品的にメタフィクション性の薄い『SSSS.DYNAZENON』の蓬・夢芽たちとの出会いでした。蓬と夢芽はご存知の通り、付き合っています。それは言うまでもなく「裕太と立花にとって、あり得たかもしれない自分たちの関係性」の象徴として映ります。

 

『DYNAZENON』は、簡単に言ってしまえば「蓬と夢芽が付き合う物語」としてまとめることが可能です。より高級には「自分の意志と無関係に戦いに巻き込まれた者たちが、自分の意志で”不自由”を選ぶまでの物語」です。

このように「受動的な客体」から「能動的な主体」への転換こそが『DYNAZENON』における根幹たるテーマですが、『グリッドマンユニバース』においてこのテーマとパラレルに描かれる存在こそが、まさに裕太に他ならないのです。そういった意味でも『DYNAZENON』とのクロスオーバーの必然性を感じさせる脚本です。

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各々の登場人物が考えるグリッドマン像は、同じものを見ているとは思えないほど人によって様々だったように、この世界には無数の「主観」が存在します。

「誰が」「何を」「どう」見ているか。即ちそこに自分が存在しない「客観=客体」としてではなく、他でもなく自分が見ているという「主観=主体」それこそが本作の一番のテーマであり、それを「メタフィクション」の物語構造から描いたのが本作でした。思い返せば、幾度と描かれる裕太の「ビー玉」は、「裕太の目を通して見る世界」そのものを表すモチーフであったのだとすら、思えてきます。

 

「裕太が」「六花を」「好き」という、誰でもなく裕太自身の思いを伝える事で、裕太は「オーディエンスの視点を借りた、客観的な語り手」ではなく、本当の意味で「物語の主人公」になれたのかも知れません。そんな彼の"視点を略奪してしまった"グリッドマンは罪悪感から弱みにつけ込まれてしまい、マッドオリジンを生むこととなりましたが、裕太は「グリッドマン自身が何を見てきたか」を肯定する形で、彼を罪悪感から解放しました。その人が自分の目で見て感じた事を、誰も否定する事はできない。そんな力強いメッセージを感じます。

 

フィクションの奥深さは「作品」だけでは成立し辛く、それを見る「オーディエンスの存在」によって初めてその真価を発揮するものです。『SSSS.GRIDMAN』が「フィクションの肯定」を描いたとすれば、『グリッドマンユニバース』は「フィクションを見るオーディエンスの主観」を肯定する作品だったのかも知れません。客観的には自分の人生とは無縁であるはずのフィクションを見て、つい「自分の事のように」感動してしまう事は往々にしてありますが、例え見ているものが「作り物」であったとしても、それによって生まれた感動は、紛れもなく「本物」という事なのでしょう。

 

今回は以上です。

ブログ名変更のお知らせ

諸々の事情により、本日よりブログ名を「ロリポップ・アンド・バレット」へ変更する事となりました。

 

変更点はブログタイトルのみで、その他これから書く予定の記事の内容や方針については一切の変更はございません。

 

タイトルの由来は桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の英題「A Lollypop or A Bullet」です。即ち「"砂糖菓子の弾丸"か、"実弾"か」を意味します。

 

本作において、「砂糖菓子の弾丸」とは「現実に目を向けず、自分の世界に価値観を見出す事の脆さ」を喩える象徴的な概念です。

その意味では、「現実世界で生き抜く為に、生存戦略として必要な技能を身につける生き方」、即ち「実弾」とは対象的な概念として描かれています。

 

現実に立ちはだかるものを貫く事を可能とする「実弾」を持とうとする少女と、「砂糖菓子の弾丸」=空想の世界への逃避によって自分の精神を辛うじて繋ぎ止める少女の物語ですが、ここに私は「役に立つものと、そうでないものの二極化で物事を評価する」という昨今話題となる論点を想起せざるを得ませんでした。

 

古文不要論や文学部不要論など、とりわけ人文学系の学問がこの論点においてよく取り沙汰されますが、アニメ・映画・その他の所謂ポップカルチャーに対してどう向き合い、どう味わうかを考える上で、上記で挙げたような「不要論」の問題は決して他人事ではないのかなと思う訳です。

 

何故なら「我々が良き作品と出会い感じた事をアレコレと悩みながら言葉にして語る」という営みと、受験科目としての古文、あるいは学問としての文学との関係は決して無関係ではないどころか、根底の部分が似通っていると感じる為です。

 

良きコンテンツを摂取した時、言葉を通じて自分の感情に輪郭を与えるという営みは、確かに一見するとそれそのものが何かに役に立つものとは思えないでしょう。それでも私自身、振り返ってみればフィクションと向き合うことによって救われてきた事を日々実感しており、フィクションの持つ力というのは、役に立つとか立たないとか、そういう次元ではないところでこそ、発揮されるものだと思っています。

 

だからこそ私は「砂糖菓子の弾丸か、実弾か」のどちらか一方を選ぶ"or"ではなく、その両方こそが今の私にとって不可欠だからこそ、本ブログのタイトルを「ロリポップアンド・バレット」としました。

 

引き続き今後とも、宜しくお願いいたします。