ロリポップ・アンド・バレット

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葬送のフリーレン『勇者』MVから見る「過去の虚構性」について

”まるで御伽の話”の歌い出しから始まるように、フリーレンにとっての10年間の旅路は、刹那の儚い物語にすぎなかったのかもしれません。


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それを裏付けるのが「影絵」による童話的なシークエンス群です。淡い色彩で描かれた情景が次第にモノトーン基調の映像へと転じるのは、他でもなくフリーレン自身が経験してきた旅の思い出が、経年と共に歴史という名の一つの”客観的な記録”へと変容してしまう、忘却のイメージが付与されています。

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次点のカット。無数の流れ星が軌道を描き降り注ぐ様子を、フリーレンは下手から上手側へと見上げます。過去(上手)への追想を思わせるカットですが、私自身とりわけ面白いと感じたのは「流れ星」の描かれ方です。それはまるで「シャッタースピードを極端に遅くして撮影した星」のような画になっているのです。

カメラに詳しい方はピンと来るかと思いますが、静止している星の軌道を撮影する際には、カメラがシャッターを切るスピードを遅くすることで、そのままでは「点」にすぎない星を、その間に動いた分だけの軌道を「線」として一枚の写真に映し出すことができます。

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参考画像:ソニー公式ホームページより

つまり、シャッタースピードを遅く撮影することは、「過ぎ去ってしまった時間を、まるで”一瞬”のように切り取る」という事になります。今その場で輝いている星を「点」として捉えるのではなく、経過した星の軌道を「線」としてフレームに収めるようなショットは、フリーレンにとっての「エルフと人の時間感覚の隔絶」とパラレルに描き出されているのです。

それは通時的に経過してしまった時間を、共時的な一瞬に収めるという事に他なりません。勿論、これは「流れ星」を「スロー撮影した星」に見立てた仮説に基づいた見解に過ぎませんが、時間を超越するフリーレンの特異性が1カットに凝縮された秀逸な画作りと言えるでしょう。


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静謐さ、寂寥感の溢れるそれらの映像とは対照的に挿入される「街で騒がしく躍動するモブ」と「夕焼けの中歩く親子」のカット群。まるで、勇者によって平和を取り戻した街と人々の安寧を祝福するような画ですが、それがかえって「勇者の不在」「平和による歴史の忘却」を煽るような、筆舌に尽くしがたい哀愁を生み出します。


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燃え上がる青い炎は恐らく、亡きヒンメルの魂を表しているのでしょう。この瞬間、スピード感のあるTUによって一気にフリーレンへと接近し、回り込む動的なカメラワーク。その後、カメラはフリーレンによる主観ショットへとシームレスに切り替わり、その後手を伸ばし見つめるフリーレンをクローズアップで捉えます。

上述した星を眺めるショットにも共通する「見つめる」という行為の切実さが、ここには表れています。存在とは、別の誰かが視覚を通じて「見る」ことで初めてその存在を認めることができます。ヒンメル亡き今、その存在をいつまでも「忘れない」という篤実な思いが、フリーレンの主観ショットとクローズアップによる「目」の強調によって描出されているのです。


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森の中。空から降り注ぐ日光を見上げるようなショットに次いで、地面に雨が降り注ぐ様子が映し出されます。日差しの温かみを感じる風景と、冷たいモノトーン気味で描写される映像。対照的な2つのショットの衝突が、フリーレンの心根にある平穏と悲哀という二律背反の感情の同居を表しているのかもしれません。

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その直後。ロングショット+バックショットによって、広大な風景を真っ直ぐに進むフリーレンを捉えます。「曇り空から微かに差し込む陽の光」は、直前の「森の太陽光」と「降り注ぐ雨」という、二律背反の映像がまるで融合されたように、ある種の”リフレイン”がなされている、と言えそうです。穏やかさと哀愁の両立。フリーレンの感情の機微が、まるで小説のような情景描写として描出されているのです。

 

赤い鳥について


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上述のシークエンスの直後、映像冒頭に現れた「赤い鳥」が再度リフレインされます。

影絵さながらのモノトーンの物語に、突如として介入する有彩色――赤い鳥――は、まるで静謐なフィルムに脈拍を刻印する「心臓」のように、映像に血を通わせる存在として、その後も幾度と繰り返し描かれます。


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遊泳するクラゲ・成長して傘を広げるキノコ・ミツバチ・鳥の雛・魚など、これまでの映像には登場しなかった「動植物」がそれぞれ1秒にも満たない短さで挿入されます。

大自然への畏怖というものは、森林や広大な平野、大空・大海原などのマクロな自然環境を目の当たりにした時よりもむしろ、そこに棲む動植物たちが躍動する、一挙一動の”生命の営為”をミクロに捉えた瞬間にこそ表れるものかもしれません。

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それらの微視的・動的なカット群の果てにもう一度映されるのは、あの赤い鳥です。

この事からも、小さいながらも確実に〈生〉を刻む動植物と、フィルムに有彩色を刻印する赤い鳥はパラレルに語られていると言えるでしょう。

他でもなく、エルフという異種族に芽生え始めた〈人間性〉の象徴として赤い鳥は表象されており、そうした心情の機微が「微細な生物による映像のダイナミズム」によって補完されているのです。

 

物語の語り手・当事者としてのフリーレン

冒頭で引用したように、「まるで御伽の話」と形容される旅の記憶は、ともすれば”虚構性”を帯びた儚い存在なのかも知れません。そしてこのMVもまた、思い出のフィクション性を喚起するような「影絵」の絵柄、そしてシネスコ演出――映画もまた一つの”虚構”です――を基調につくられていました。

フリーレンにとってヒンメル一行との旅の10年間は、どこか周囲の「青臭さ」に乗り切れないまま達観し、傍観する以外の術を知らないまま、一瞬のうちに経過してしまった「人生の1%」に過ぎませんでした。

それは青春時代の「当事者」に成り切れないまま、「誰かの物語」を傍で眺めているだけの受動的な態度であり、共に仲間と過ごした時間はフリーレンにとって、あくまで”物語外部”の「読者」視点で見る「創作物」のような、虚構性を帯びた何かだったのかも知れません。


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フリーレンの「目を閉じる」動作がクローズアップされます。しかしその行為は必ずしも「直視することを避けている」事を意味しません。むしろ、自分が旅の中で見てきたことを、未来永劫その記憶に刻み込むような誠実さすら感じます。それを裏付けるのが、次点でインサートされる「写真」的なショット群です。


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本作における異世界的な世界観においてカメラ・写真のような記録媒体は恐らく存在しませんが、これらのショットは、「10年間の物語の当事者」として、過去の記憶を永遠のものとして大事に胸の奥にしまう彼女の心情に寄せた描きです。

加えて、これらのショットが全てフリーレンによる”主観視点”であることが肝要で、あの10年間は、――旅をしていた当時こそ無自覚であったにせよ――紛れもなく「青春の当事者」として、自分自身がその〈物語〉の中に確かに存在していたのです。

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シネスコ演出で映し出された映像が、ヒンメルの手を取るその瞬間に画面上下の黒帯が取り除かれてフルスクリーン映像へと転換するのは、フリーレンが”傍観的な読者”としてではなく、むしろ”主観的な当事者”であった事を自覚し、10年間の旅という過去の〈物語〉内部へと介入する心的転換を裏付けているのです。

〈過去〉とは、「記憶によって再現される現実」として見る限りにおいては、限りなく〈虚構〉に近い存在です。しかし「自分は確かにそこに居た」という主観的な経験により、過去に〈実在性〉が与えられ、それは永遠のものとして人の心に刻まれるのです。ヒンメルが各地に銅像――人や出来事の存在の証――を建てたのも、過去の虚構性に自覚的であったから、なのかも知れません。

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ラストカット。空を真っ直ぐに飛ぶ赤い鳥が消失点に向かい、その姿はもう見えなくなります。一点透視図法によって描かれるロングショットとバックショットの構図は本編においても幾度とリフレインされていますが、人間の時間感覚を超越したフリーレンがこれから経験するであろう途方もない悠久の時間と、その先にある”まだ見ぬ未来”へのベクトルが、そこに表れているのです。