ロリポップ・アンド・バレット

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16bitセンセーション 8話感想 偶然が生み出す想像力のスペクタクル

マモルがタイムリープした1985年。ファーストカットで映し出され、その後何度もリフレインされる振り子時計と、同じく「等間隔に動きを刻む」水飲み鳥。これまでコノハが体験してきたようなタイムリープと比べても明らかに異質な空間として、それらのアイテムがフィルムを印象付けます。


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その舞台となるのは、マモルの父がアルコールソフトを設立する以前に、同じ場所にあったというエコーソフトです。障子と畳から成る和室には、無数のテレビが綺麗に積み重なっています。本棚・壁に貼られた絵・インサートされる絵画など、四角形のモチーフが病的なまでに反復されている事に気づくはずです。


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エコーソフトの代表であるエコー1は美少女ゲームのプログラミング・イラスト・サウンド諸々すべてを手掛け、1日に1本ペースで完成品を仕上げる異様なハイペースで日々ゲーム制作に邁進しているものの、自身の作る美少女ゲームには「エネルギーが備わっていない」とし、正確な計算の上で何をどう制作しても「面白いゲーム」にならない悩みを、マモルに漏らします。

 

マモルに〈想像力〉の有無を指摘されても、そもそも〈想像力〉の意味すら知らない様子のエコー1は、自身は”想像力と呼ばれるもの”が生来備わっていない、明らかに異質な存在として描かれています。3つあるドーナツのうち2つの味を知っていれば、残り1つの味は食べたことがなくても大体の”想像”がつくだろう、というマモルの問いに対しても、それはあくまでも経験に基づく「推論」に過ぎず、〈想像力〉とは似て非なるものだと言います。

 

〈想像力〉と「推論」。その2つには一体、どこに差があるのか。一見すると禅問答じみた、そして衒学的な思考実験さながらの様相を呈するこの問いですが、本作が限定された現実空間であるところの「秋葉原」を舞台にしながらも、現実のどこにも存在しないサイバースペースとしての「美少女ゲーム」という、現実と仮想の2つの空間軸をメタ視点から観測する作品である事を鑑みれば、極めて本質的な「意味空間に纏わる問い」と言えるのかも知れません。

 

例えば現実の場において「雨が降っている」という表現を目にしたとき、その一文によって”意味”が生まれるのと同時に、その出来事が「どこかの時間」「どこかの場所」で起こっている、というように、その一文が時間・空間の座標を成立させています。つまり、”文”による記号の実現によって、「意味の場=トポス」が、受け手の”想像”によって作り出される事になります。メッセージの受信者が現実を参照する「想像力」が、ここでは働いていると言えます。

 

他方、サイバースペースにおいては現実空間とは異なり、ルールによってサイバー空間を作り上げる以前には何も存在しません。例えば現実空間で「遊ぶ」とき、遊びを成立させる”ルールに先行する”現実の場所(砂遊びであれば、砂場。50m走であれば、グラウンド)が当然存在しますが、その存在自体がルールによって設計される事で成立するサイバースペースでは、「ルールそのものが空間」という自己言及的な性格を持っていることから、その性質は現実空間とは異にします。

 

現実においては、ある場所を調査するときに「経験」から参照したり、起こっている様々な事象から「帰納的」に結論を出すこと、あるいは場所に纏わる一般則から「演繹的」に事象を検討する方法は、しかし”実体”を持たない仮想空間=サイバースペースにおいては有効な手立てとは言い難く、専ら仮説に基づいた「推論」によってのみ、説明できるものといいます。

 

前提説明が長くなってしまいましたが、このようにルールに先立って参照できる空間を持たないサイバースペースにおける、専ら「推論」によってしか事象を捉えることができない、という仮想空間のサイトスペシフィックな性質は、「想像力を持たない代わりに、推論を行う」エコー達の姿勢にも重なるのです。冒頭で等間隔の物理運動を刻む振り子時計と水飲み鳥・テレビをはじめとする四角形のモチーフ群を引き合いに出しましたが、それらは反復性・均質性を帯びた、エコーソフトの無機質な性格を表す視覚的な装置です。

 

このようにエコー達は、一見するとこの時代にタイムリープしてきたマモルをメタ的に「観測する」高次の存在、即ち「ゲーム」を外側から眺める「プレイヤー」の立場に思えますが、ランダム性が一切廃された均質的・禁欲的な空間を活動拠点とし、上述したように想像力ではなく専ら「推論」によって現象の記述を試みる、という点においては、「観測者としてのプレイヤー=高次存在」と言うよりはむしろ、プログラミング言語という統一されたルールによって設計された「ゲーム=サイバースペース内の住人」にこそ、似た存在と言えるでしょう。

 

そうした均質空間=サイバースペース的空間における”ゲームチェンジャー”として、マモルが現実/仮想の境界が曖昧な物語に介入するのが、今回の挿話におけるフィルムコンセプトに他なりません。〈観測者としてのエコー/観測される側のマモル〉の二項対立の逆転現象は、マモルがこの「1985年」という”象徴ゲーム的空間”において「予想できない運命を司る存在」として描かれていることからも読み取れます。

具体的には、マモルはこの”空間”において「エコー2号の着る衣装の”可愛さ”を、100点満点で評価する」役割を担っています。つまり、ゲーム内のキャラクターがあずかり知らぬ「結果」を一方的に提示する権限を、マモルは有しているのです。

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”ゲーム”には常に「結果」という評価システムが組み込まれています。例えばコイントスで「コインを投げて、それが表か裏かを宣言する行為」は「遊ぶ主体」による活動ですが、「投げたコインが表と裏のどちらを示すか」については、あくまでも投げた者は関与できない「偶然」の要素です。ゲームではしばしば「乱数」と呼ばれるものです。このように、ゲームには一人遊び・複数人での遊びそのどちらにおいても〈遊ぶ主体〉だけで成立しているのではなく、それを評価する見えない存在、即ち〈大文字の他者〉が常に介在しています。1985年にタイムリープしてきたマモルは、まさしくエコー達にとっての大文字の他者として立ち表れていることが、「100点満点の評価システムの担い手」という役割からも理解できます。

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エコー2号の衣装を評価するシーンは後半でも反復されます。マモルに対し何かしらの感情を抱き始めた彼女は浮ついた表情と動きで、かつて好成績=90点を獲得できたあの衣装をもう一度身に纏います。しかし今度は無慈悲にも0点を突きつけられます。

ここで重要なのは「この衣装を着れば、必ず90点が取れる」という再現性・反復性が損なわれている、という部分です。ゲームの本質とは「偶然をコントロールし、必然的な結果を得る」部分にありますが、過去の経験則から必ず90点が取れるというエコー2号の「推論」は虚しく、マモルの気まぐれ即ち〈偶然〉の前にあてが外れてしまった、という事です。


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もうお分かりかと思いますが「偶然性を廃して、必然的に同じ結果を生み出す」ゲームのロジックは、エコー達の作るゲーム、もとい現実の捉え方にもそのまま当てはまる姿勢に他ならないのです。しかしそこにマモルというコントロールし難い運命の担い手=〈大文字の他者〉の次元が介入することで、必然性は損なわれ、偶然による”ドラマ”が生じるのです。エコー2号が0点を突きつけられた事を契機として〈想像力〉が発生するシーンにおいて、「何が出てくるのか分からない、ランダム性の象徴」であるガチャガチャが置かれているのも、相応の意図があるのでしょう。(その後も反復して映し出されます)

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偶然による”ドラマ”。スポーツやゲームをはじめとする「象徴ゲーム」おいて古今東西、見る者を熱狂させるのは、しばしば「勝利の女神が微笑んだ」と呼ばれるような、偶然と必然とのせめぎあいの果てに表れる、”運命”的な何かです。どれだけ技術を磨いても完全なる偶然のコントロールは不可能であるからこそ、そこに大きな”ドラマ”があるのです。そしてそれは”偶発的”なタイムリープを繰り返す本作の物語構造にも同様のことが言えます。

 

この作品は「タイムリープもの」という”反復”の物語でありながら、飛ぶことができる時代が手持ちの美少女ゲームの発売年に依存しており、同じ地点からのリセットが不可能であること・現代に戻るタイミングが完全にランダムであること・タイムリープによって未来に何がどう影響しているのかが登場人物視点でも不明瞭なまま描かれており、「偶然を後付けでコントロールして(俗に言う、”乱数調整”によって)望んだ未来を得る」というタイムリープ作品で王道の物語構造からは程遠い点で特異な作品と言えます。

 

ともすれば「神社を転々としながら、大吉が出るまでおみくじを引き続ける」ような”行きあたりばったり感”すらも抱きますが、本作は先行するタイムリープ作品のように「偶然を必然化する」動きをとるのではなく、むしろ「偶然を偶然として受容する」事にこそ、予測できないスペクタクルがあるのだと思います。そしてそれこそが、古今東西美少女ゲームのプレイヤーが経験する共苦のカタルシス――〈想像力〉の持つ”エネルギー”の賜物なのでしょう。