ロリポップ・アンド・バレット

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メタフィクションとして見る『デカダンス』、あるいは「メタで始まり、ベタで終わる物語」について

アニメ『デカダンス』、「世界観のネタばらし」を序盤で披露し、「ネタばらしのその後」を描くという強い意志を感じる魅せ方に「思い切った事をするなぁ」と思うと同時に圧倒的な「信頼感」を抱いたののが、まず自分が視聴継続を決心した理由の一つ。

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個人的に「世界観のネタばらし」を「作品のオチ」に持ってくる方法はあまり好みではなかったり。もちろん、「世界観の全貌が明らかになった上での再視聴」が捗ったり、悪いことばかりではない(むしろ最初からそういう”狙い”の作品もある)けれど、個人的には「ネタばらし」に焦点を置きすぎるあまりに、そこに至るまでのストーリーそのものが難解になったり、話の繋がりが見えづらくなる事も往々にしてある。「伏線」を張り巡らせるあまりに、肝心の物語の可読性が低くなってしまうと、その時点で視聴するモチベーションが下がってしまう性格で・・・。

 

そうした「世界観のネタばらし」を作品の主たる「要素」として描く(傾向にある)ジャンルこそが所謂「メタフィクションなのだと思う。『デカダンス』はある意味、「ある次元で現在進行系の物語を、さらに高次の視点がそれ俯瞰する」メタフィクション的な要素が強い作品とも言えるけれども、「メタ」で始まったこの作品も、最終的には「ベタ」で終わる(褒めてます)のが、本作の持ち味だったと私は思っている。

 

 

デカダンス』における「メタ」の段階について

 

上で述べた通り、本作では2話にして「人間たちの住む世界は、より高次の世界の住人であるサイボーグにとってのアミューズメント施設として”作られていた”」事が早々に明かされる。これがまず「第一のメタ」。そして「そのサイボーグを管理して世界からバグの排除を試みる”システム”が存在して、システムに抗おうとする”バグ”の存在(カブラギ)」の構図が「第二のメタ」。

ナツメが「作られた世界」の全貌を知ってしまう「第3のメタ」、そして最後に「”バグ”の存在と、バグによって変わる世界も全てシステムの1つに過ぎなかった」のが「第四のメタ」。

 

こうして見てみると、『デカダンス』は2話のみならず、次々と「メタ」を破り、さらに次なる「メタ」を入れ子構造で描いていく独自の作風を持っていたようにも思えるわけで。それではこの「4段階のメタ」についての雑感を一つ一つ整理していきたい。

 

 

第一のメタは「人間の住む世界と、それを俯瞰視点でエンターテイメントとして消費する世界」について。メタフィクションの「作り物=虚構であることを読者に示すことで、『現実』と『虚構』の関係性や差異について問題提起を行う」という厳密な定義で考えると、あくまでもゲームやバーチャルの世界”ではない”、「本当に人間が暮らしている世界」と、「その世界を俯瞰する中で、サイボーグたちが管理される”施設”」の関係性は「虚構と現実」とは言えないのかもしれない。

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むしろ人間もサイボーグも両方とも「本物の世界」で暮らしている設定を考えると、本作は「メタフィクションに限りなく近い別物」であると考えるのが正しいのかもしれない。「自分が動物園で飼育されている事に気づく物語」と考えれば、動物園の中も外も、ただ「人間と交わることができない」だけで、あとはれっきとした「現実」なのだから、そういう風に解釈するのが適切かもしれない。前置きが長くなったが、あくまで「虚構VS現実」ではないけれど「現実であるはずなのに、確かにそこに孕んでいる”虚構性”」にフォーカスしている点で、メタな作劇だと感じるわけで。

 

第二のメタは「サイボーグもまた、”システム”という高次の存在に管理されている」ことと、”バグ”であるカブラギがそのシステムに抗おうとする構図。

人間にとっては現実の世界なので、そこで命を落とせば当然「死」を経験する事になる。しかし人間の世界よりも高次の施設で暮らすサイボーグ達にとって、人間の世界は「ゲーム」なので、何度でもコンティニューが可能である。

一方、人間の世界では「何としてでもノーコンティニューでクリアしなければばならない人間と、コンティニュー可能なサイボーグ」の関係性でありながらも、他方ソリッドクエイク社の管理下においては、”バグ”とみなされた者はシステムというより高次な存在によって「排除=殺」される。一方のレイヤーでは優位な存在が、更に上のレイヤーの世界においては弱い立場に晒される構造もメタ的と言えそうで。

 

一見交わりそうで、そこには深い断絶が存在する2つの世界と、そんな人間の世界を俯瞰しながら、「生きる意味」を与えてくれたナツメを守るべくシステムへ抗う「第二のメタ」こそが、本作の大部分を占めるわけだけども、とりわけミナトの存在がかなり印象的。ミナトはシステムに肩入れする態度をとる保守的な人物であって、カブラギとは対照的である。

 

これは一見『グレンラガン』3章におけるロシウとシモンの確執にも似た関係性であるが、大勢を救うために、やむを得ず少数派を切り捨てる判断を下し、「ミクロ(個人)よりもマクロ(世界)」を優先し、それに伴う葛藤に苦しんだロシウとは決定的に違うのは、ミナトの場合はどこまで行っても「カブラギと昔のように楽しく過ごせる時間を保ちたい」という、極めて「ミクロ」な動機で完結しているところで。あくまでも「システムに肩入れ」しているのは、「システムを健全に保つため」という大義名分を使って、カブラギとの関係性を守りたかっただけで。ここで同時に、”変わることができた”ナツメと、あの時”変われなかった”フェイの関係性を共鳴させてくる構成もまた見事。

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ここのミナトの目が反射して映らなくなるカット、青色のラインが涙を流しているような演出になっている。

 

デカダンス』は、こうした「バグVSシステム」、ひいては「個人対世界=マクロ」の構造の中で、実質的には「個人対個人」の小スケール=ミクロの物語を確かに進行させていくのが最大の特徴とも思える。これは言ってしまえば「個人と個人の関係性が具体的な中間項を超えて、世界を変える」所謂セカイ系の逆パターンの、「逆セカイ系」とも解釈できそうだったり。この「大スケールの物語の中で進行する小スケール」入れ子構造こそが、本作のテーマとして重要になってくる。

 

 「ナツメが世界の全貌を知ってしまう」第三のメタについて、この「低次の世界の者が、高次の世界を知る」展開こそが本作を最もメタフィクションたらしめている要素である。ナツメは生きてきた世界が「第三者によるつくりもの」だったと知り、この「世界」で経験した全てがその瞬間、陳腐で脆いものに感じてしまう描写にかなり力が入っていて。

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車の割れた窓越しにナツメの顔が映るカットは、その「自分が世界と信じるそれの脆さ」を表現しているほか、「ガラスの向こう側=高次の世界」との境界線が壊れる演出にも思える。そしてそこからのナツメの、「例え作られた世界であっても、その中で経験した事は決して”つくりもの”ではなかった」という気づき、そして「変えたかったのは世界ではなくて、自分だった」という”気づき”こそが、本作の描くテーマの本懐だったのかなと。これも上で述べた「マクロからミクロ」の話ですね。

 

総括 「メタ」で始まり、「ベタ」で終わる作品としての『デカダンス

 

「バグと、バグによって変わる世界も、全てシステムの管理下に過ぎない」事が明言される第四のメタについて。最終回、幾度と「世界にバグは不要」としてバグの排除を試みてきたフギンはシステムの"代行者"に過ぎず、システムはあくまでもバグを黙認してきた事が判明する訳だけども、これは事実上「システムというものは最初からあって無いようなものだった」のと同時に、「どこまで行ってもシステムの支配下からは逃れられない」事を意味している。

 

「システムをぶっ壊す」と、メタフィクション的に物語を推進してきた結果、最後にはその「壊す」行為すらもシステムの想定済みという構図は、「物語の外側」に出ようとするメタフィクション的な作風そのものを”否定”する、行ってしまえば「メタフィクションメタ」とも言えそうな世界観が明かされる。

 

それを知ったカブラギはシステムを「ぶっ壊す」のではなく、「システムが人を律するのではなく、人の生き様こそが結果的に”システム”になる」という答えを導き出して、「人生讃歌」というテーマと符合させる形で物語は幕を閉じる。

 

これは事実上の「システムとの共存」であって、メタ的に「枠の外側」を目指してきた本作が、最後の最後で「枠を超えない選択」を選んだのは、メタフィクションとして見ればあまり納得のできない終わり方だったかもしれない。でも、だからこそ「実は枠の中にこそ、答えがあるのかも知れない=自分が変わることで、世界も変わる」というメッセージが響いて来るのだと思う訳で。

 

世界観が次から次へと明かされる度に、次なる「枠」の壁にぶち当たってはそれを「乗り越えよう」としていく「大スケール」を描きつつも、最終的には「一人一人がただ全力で生きなさい」と、枠の中に焦点を当てて「小スケール」の人生讃歌に行き着いた『デカダンス』は「”メタ”で始まり、”ベタ”で終わる」作品だったとも言えるけれども(そこに多少の物足りなさは各々感じるかもしれないが)、その「ベタさ」、ひいてはキャラクターの生き様を身近な「小スケール」で目の当たりにできたからこそ、希望を与えてくれる作品だったのかもしれない。

 

「メタ」と「ベタ」については、下記の記事を参照しました。


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