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「SDGs要素」は如何にしてフィルムを支配したか。あるいはメディウムとしての”天使”『キボウノチカラ~オトナプリキュア'23~』総括

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『Yes!プリキュア5』『Yes!プリキュア5GoGo!』の夢原のぞみ達が大人になった後日譚を描く『キボウノチカラ〜オトナプリキュア’23〜』がついに最終回を迎えました。

幼い頃は想像もしなかった「大人としての葛藤」を抱えるかつての”プリキュア”達は、突如として街に現れたシャドウ騒動を巡って様々な壁に直面します。最初は「両親の離婚をきっかけに転校を余儀なくされ、邁進していたダンスを断念せざるを得なくなった、のぞみの教え子」など個人単位で始まった問題のスケールが、環境問題などマクロな世界の問題まで敷衍されるストーリーの収拾の仕方に賛否はありますが、とりわけ本作の制作にあたってSDGsをテーマに据える」NHKの意向がかなり色濃く反映されていたのは言うまでもなく事実でしょう。

 

大人になってそれぞれの道を進む中、正に紆余曲折の真っ只中であるのぞみ達が、社会の喧騒に揉まれるうちに見失いそうになる「希望」を、かつてプリキュアだった頃に思いを馳せながら各々が活路を見出していく、というストーリー仕立てそのものはアニバーサリー作品らしいところではありますが、「大人になった後のドラマ」の本質的な部分とは「別々の道を進んだが故に、同じ悩みを仲間内に共有できない辛さ」の部分にあり、だからこそ、それぞれが自分なりに悩みと向き合い、選んだ答えを肯定的に見守っていく部分にこそ、感慨が生まれるものですが、殊、本作においてはそれぞれの夢・別々の葛藤を持つ者達が向けている未来への眼差しその全てが、まるで「SDGs」という巨大な思想装置に均質化・一本化されてしまうような、ある種の”虚しさ”を覚えてしまったと同時に、むしろそうした「思想パッケージによる個性の剥奪」こそが本作のメタ的なフィルムコンセプトとして読み解けるのではないか、と考えます。

 

こうした「SDGs要素」は、分かりやすい部分を例に取ると、教師となったのぞみが学校で「地球温暖化」についての授業を行う場面が発端となります。社会科などの授業でそうした問題を取り扱うのはごく自然な事であり、この段階ではまだSDGs要素があくまでも「要素」に留まっているに過ぎませんでした。しかしその後、ジュエリーデザイナーとして活躍する夏木りんが「フェアトレード」をスローガンに掲げた企画書を作る・建設計画によって、咲と舞にとって思い出のランドマークである筈の「大空の樹」が切られそうになる等、その要素は、もはや”要素”とは言い難いほど積極的に物語に介入し始め、無視できないものとしてフィルムに刻印され続けます。

 

勿論、そうした「社会派的なテーマ」を物語に組み込むこと自体はごく普通の事であり、それ自体が殊更変わった手法とは言えませんが、多くの作品において本当に伝えたいメッセージはむしろ台詞などの露骨な表現によって描かれる事を「避ける」か、あるいは純然とありのまま起こっている情景を描き出すなど、その”思想”に関わる部分は「隠される」のが主流なのだと思います。しかし本作においては環境問題・フェアトレードSNSでの誹謗中傷のありのままの姿がフィルムに映し出されるのだけでは飽き足りず、登場人物に思想を語らせる、という古典的で露骨な手法によって、むしろメッセージは「前景化」されているのです。

俗に言う「ラスボス」に当たる、街の時計塔を司る天使・ベルは「人間が自然を搾取し、制御する」という近代合理主義・人間中心主義に異を唱える典型的な性悪説理論の持ち主であり、正しく古今東西で語り尽くされてきたようなキャラクター造形です。つまり、「自分さえ良ければそれで良い」というミクロ単位の快楽に反比例して起こるマクロ環境の崩壊――合成の誤謬――に警鐘を鳴らす”ベル”としての装置を、担っているのです。

 

このようにメタ的に「メッセージを発する装置」と化しているのは、ベルだけではありません。のぞみ達もまた、街の人々のネガティブな思考の集合体であるシャドウ騒動と、人間中心主義社会の未来を悲観するベルとの戦いの中で、「未来」「希望」「夢」といった、聞き触りの良い言葉を表面的に”喋らされ”ながら、説得という名の「禅問答バトル」を繰り広げ”させられる”です。各々のキャラクターが抱えてきた葛藤の終着点として描出されるのは、紋切り型の性悪説を唱えるヴィランに対して、ただ定型文のようなポジティブなキーワードを投げかけるだけの、まるで生気を感じさせない「人形劇」に映ってしまいます。この時既に、敵味方問わず登場人物は物語を牽引する役割を剥奪され、フィルムはSDGsという巨大な思想装置の支配下に置かれているのです。

その極地とも言えるのが、ピンチに駆けつけたなぎさ・ほのかがそれぞれ地球の環境を守るべくアマゾンと北極をパトロールしている事が語られる瞬間です。原作においてその二人が環境活動に邁進していた描写は無かったと思いますが、フィルムがメッセージの支配下に置かれた現状ではSDGsが物語の主体と化して、対するプリキュアの方は非主体化し、その個性は無効化されている、という事が端的に伝わります。

 

何より注目すべきは、のぞみは”教師”――大文字の支配者――として優越的立場を行使し、生徒に「教科書を閉じさせて、自分の頭で考えさせる」振る舞いについてです。過去の集積であり、普遍の真理を記す書であるところの「教科書」から目を離させて、「今、現実で起こっている”答えのない問い”について、自分の頭で考えさせる」というのぞみのこうした要請は、教育現場における生徒への問いかけであると同時に、テレビを見る視聴者にも投げかけられた、二重化されたメッセージです。

 

これを図式化すると、SDGs→のぞみ→生徒(視聴者)」という形で、のぞみが問題提起を媒介するメディア的役割を担っている事が分かります。そしてこの矢印の向きの上流にあるものが、より大きな支配力を持っており、かつては黒い天使・ベルが担っていた「思想のメディウム」としての役割を、のぞみは引き継いでいるのです。

天使。それは天界に君臨する神の"声"を、下界の人間に伝達するメディウムです。時計塔を司るベルが”天使”と呼ばれるのも、上位存在であり認知できないメタ存在であるところの神――SDGsという思想装置――の”声”を、下界の人間に届ける役割である事を鑑みれば、理解できます。

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そして繰り返しになりますが、のぞみ達をはじめとするかつてのプリキュアは、その”天使”の役割をベルに代わって引き継いでいます。その象徴とも言える出来事こそが、「春日野うららが舞台で”天使”を演じる」というものです。作品の外(天界)にあるメッセージを、舞台演劇というメタフィクション空間(下界)の中にある「セリフ」に翻訳し伝達する構図は、正しく本作における「メッセージによる支配/被支配」のフィルムコンセプトともぴったりと符合していることが分かります。

 

「教科書を閉じて、自分の頭で考える」事を生徒に要請するのぞみ当の本人が、まっさらな状態から巨大装置の思想に染まり、ただ上位存在のメッセージを投げかけるだけの思考停止的なメディウムと化している本作の描き、そして誰もが同じように口を揃えてSDGs的問題提起を”言わされる”事態。「他者に共有できない大人の悩みと、その先にある各々の選択を肯定する」ような、もはや「各々が悩んだ末に選び取った未来を讃歌する物語」とは言い難い”凶行”をもって本作は閉じられているのです。本来であれば不可視である作品外メッセージが可視化され、フィルムを支配する作品という意味では稀有な視聴体験でした。