話数単位で選ぶ、2025年TVアニメ10選
aninado様が毎年恒例で集計されている企画「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」に今年も参加させていただきます。
■「話数単位で選ぶ、2025年TVアニメ10選」ルール
・2025年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
・集計対象は2025年中に公開されたものと致しますので、集計を希望される方は年内での公開をお願いします。
去年の10選記事はこちら。
目次
①『メダリスト』4話「名港杯 初級女子FS (前)」
②『BanG Dream! Ave Mujica』 7話「Post nubila Phoebus.」
③『花は咲く、修羅の如く』5話「アオハルと雨傘」
④『ある魔女が死ぬまで』6話「魔法のない夕暮れの空は」
⑤『忍者と殺し屋のふたりぐらし』5話「ロボットと殺し屋のふたりぐらし」
⑥『Summer Pockets』6話「7つの海を越えて」
⑦『前橋ウィッチーズ』10話「今日のこと、忘れても忘れないよ」
⑧『Turkey!』6話「飛び越えて、リバースフック」
⑨『瑠璃の宝石』12話「想い出は石とノイズと」
⑩『ウマ娘 シンデレラグレイ』18話「WILD JOKER」
・番外編
・雑感
①『メダリスト』4話「名港杯 初級女子FS (前)」

満を辞して挑む初試合を前にして思うように身体が動かずメンタルが整わないいのり。そんな彼女の様子を見て、母は「か弱い」いのりを大事に思うあまり、試合などさせたくないとの考えを抱きます。夢を追う者にとって最も高い壁となるのは、「夢を嗤う周囲の悪意」ではなく、むしろ「その人の身を案じてくれる身内による、善意からの否定」であるからこそ、いのりと母の両者が向き合うことで、乗り越えるべき、そして両者を分断していた”壁”を越える描きに感動がありました。
とりわけ、「変わらないのではなく、変えていない」の台詞から象徴されるように、衣装を纏ういのりが、傍に居た子供からの憧れの視線から、自分は既に試合に出る資格のある「選手」であることを自覚する一連のシークエンスは、弱い自分に甘んじることを辞め、ただ「スケート選手」ではなく、「その道を選んだ自分自身」としてリンクに立つ覚悟が見えて印象に残りました。
過去の引力による「駄目な自分の内面化」というものは凄まじく、たとえ環境を変え、そこに立つ資格を得られても、どこまで行っても「駄目な自分」が付いてまわるあの感覚には言い知れぬ既視感があり、油断したら過去に引き戻されやすい年頃だからこそ「変わる」という受動性ではなく「変える」という能動性を帯びたワーディングに希望を見いだせる回でした。
②『BanG Dream! Ave Mujica』 7話「Post nubila Phoebus.」

事実上の前作である『MyGO!!!!!』において悲劇的な解散を迎えたバンド・CRYCHICに再びフォーカスを当てたこの回はとりわけ印象に残りました。
本シリーズにおいて、取り戻すことのできない尊い過去の象徴である一方、ある種呪いのようなものとして神格性を帯びて描かれていたCRYCHICを「ありふれたバンド」に捉え直した部分に意義があったのだと思います。
一夜限りのバンド再結成であり、身内以外の観客が不在であることが、かえって「どこにも居場所がなかった自分たちだけの秘密基地」という青春性、各々の状況が変わってしまった今だからこそ、もう復活はあり得ない、という実感の哀愁。CRYCHICを巡る様々な感情が溢れ出る画に感動しました。
「非人間」に陥った祥子が、人間未満であることに思い悩んだ燈の詩を経由することで脱コード化され、呪縛から解放される、という部分においては、『MyGO!!!!!』10話にも通底する描きだったと感じます。
③『花は咲く、修羅の如く』5話「アオハルと雨傘」

放送部のコンテスト・Nコンに選ぶ題材を巡り、「好きな小説を読みたい」花奈と、「勝てる題材を選ぶべき」とする夏江杏。両者のスタンスの違いが示された回でした。
心の距離を詰めようと幾度と対話を試みるも、杏からは全く相手にされなかった花奈が、自分の選んだ題材をその場で「朗読」して見せることによって彼女を振り向かせ、ついに対話が成立する瞬間。「格上の実力者には実力をもって自分の存在を否応なしに認識させる」という花奈の「強者のムーブ」が何とも少年漫画的で面白く感じました。
固く閉ざしていた胸襟を開き、ついに杏から語られる「勝利への拘り」のルーツ。それは中学時代、かつて共にNコンを目指しながらも、自分よりも経験歴の短い友人だけが自分を置いてNコンに進出してしまったという過去。「私はね、私を誰にも負けさせたくない」「勝利だけが、私の渇きを満たしてくれる」という台詞回しの”強さ”も相まって、ストイックな杏の人間性に惹かれる回でした。
また演出面では、終始閉ざされていた杏の「折りたたみ傘」がパーソナルスペースの象徴として描かれており、それは最後まで開くことはありませんでしたが、かえって「お互いの領域が不可侵でありながらも尊重し合える」ことを示していたのかもしれません。
④『ある魔女が死ぬまで』6話「魔法のない夕暮れの空は」

1年後に死んでしまう”呪い”を受けた魔女・メグは、自身にかかった”呪い”を解くために必要な「嬉し涙」を1,000粒集めるべく、ラピスの街で人助けに邁進していました。そんな中で嬉し涙を集めることに「慣れて」しまい、一人一人に向き合う気持ちを忘れてしまったメグは、その慢心を自身の恩師であるファウストに見抜かれ、「魔法の使用禁止」を言い渡されます。
かつて自身が「慣れ」や「コツ」といった”打算的”に救った人々と再会する中で自身の”過ち”に気づいたメグが、本心からの人助けを通じて「ラピスの街と人々が好き」という原点に回帰し、ついに二つ名・「ラピスの魔女」として認められる、という整地されたプロットが心に残りました。
所謂、心理学におけるダニング・クルーガー曲線の「馬鹿の山」を越えるエピソードでもあり、欲を捨てて世のため人のために尽くせば、いつか自分に返ってくるという童話的教訓を読み取れる回でもありますが、たとえ打算からくる善意であったとしても、その行為は無駄ではなく、「やり直す」ことのきっかけになった、という懐の広い描きが良かったです。
またこの回に限らないですが、メグの癖強めのテンション感が作品の空気感をシリアスにしすぎず、全体を通して見やすい作品でした。
⑤『忍者と殺し屋のふたりぐらし』5話「ロボットと殺し屋のふたりぐらし」

コミカルでありながらも殺伐とした作風であったことからも放送当時話題になっていた本作ですが、とりわけ人工知能によるパートナーシップの代替可能性をテーマにした5話はプロット・演出の両面で印象に残る回でした。
発明家かつ殺し屋のイヅツミマリンが登場し、彼女の発明品であるロボ子を、同じ殺し屋としてライバル視しているこのは・さとこの二人の元に送り込みます。ロボ子はさとこを模したAI搭載ロボットであり、あろうことかこのははロボ子のことを本物のさとこと思い込み、共に日常生活を送ることになります。一方、置いてきぼりにされた本物のさとことマリンも一時的に共同生活を余儀なくされます。
端的に言えば、相対する陣営から「相方を交換する」回ですが、とりわけこの回において異彩を放っているのは、このはにとってロボ子はさとこ同然に扱っており、このは目線では「パートナーの交換」は成立していないどころか、むしろ本来のパートナー以上の絆を育んでしまっている、という描きです。
昨今では人間ではなくChatGPTに人生相談する人が増えているように、技術だけでなく人格すらも人工知能で代替できるならば、人間のアイデンティティはどこに存在するのか、という往年のAI論争を感じさせるテーゼに対し、「そもそもロボットは人間ではない」という侘び寂びもない周知の事実を無慈悲に突きつけ、心の深部にしこりを残す着地の仕方は、翻って「本作らしさ」に満ちた回だったとも言えます。
⑥『Summer Pockets』6話「7つの海を越えて」

鴎ルートの完結回です。スタンドバイミーを彷彿させる「少しセンチメンタルな、ひと夏の不思議な冒険感」が本作らしい回です。
幼い頃から病床に伏しており身体の自由が利かなかった鴎は、自分が冒険する姿を想像しては、その話をいつも母に聞かせていました。小説家である鴎の母は、彼女の想像上のストーリーを元に『ひげ猫団の冒険』を執筆し、それは鴎と同じくらいの年齢の子供たちの間で人気を博し、沢山のお便りが手元に届いていました。主人公の鷹原羽依里もまた、この小説に心を動かされた一人でした。
明かされる鴎の現状。それは、かねてより患っていた病気により彼女は既にこの世を去っているという事実でした。「10年後にみんなと冒険をする」という鴎の最後の夢を叶えるべく、羽依里は当時の読者にコンタクトを取り、小説の舞台となった海賊船には多くの「仲間たち」が集まります。その様子はもはや「空想上の冒険」ではなく、「現実」であり、鴎の夢が叶った瞬間に他なりません。
Key作品らしくファンタジー要素に満ちていながらも、「当時の読者のお便りに返信して、人を集める」という解決策がかなり現実的であるだけに、一層「夢が叶った」ことの実感が得られる落とし所でした。また、「多くの人に働きかけた結果、叶えられた夢」を描く部分に『CLANNAD』の風子ルートを想起させ、初めてKey作品原作アニメを見た時の感動を思い出し、懐かしい気分になりました。
⑦『前橋ウィッチーズ』10話「今日のこと、忘れても忘れないよ」

「あなた達は何繋がりなの?」というユイナの母の台詞は、今思い返せば「もしも”魔女修行”がなければ本来ならば出会うはずがなかった彼女たち」を象徴していたものだったのかもしれません。だからこそ、「もしも」の世界線を否応なしに突きつけるこの回は悲劇的でもあり、しかしそれだけに留まらないものがありました。
「前橋という地方都市の商店街」のロケーションを記号論的に見ると、様々な方角から、色々な人がそこに合流することで”意味空間”が生じる「結節点」と解釈できます。魔女見習いの彼女たちにとって、商店街は正しく「自分たちらしく居られる意味空間」でした。しかし皆を繋いでいたその「結節点」から”意味”を奪われ、ただ一方通行にすれ違うだけの「通路」へと成り下がってしまった瞬間こそが、他でもなく「皆が”いつもの場所”に集まりながらも、時すでに遅くお互いを認識できないまま散り散りになってしまった」あの一連のシークエンスでした。各々の個性と関係性の積み重ねがピークに達する瞬間、無慈悲に訪れる唐突な「喪失」がより一層共苦のカタルシスを生み出していました。
上記のストーリー、およびキャラクターとボーカルの存在しない特殊EDの演出も素晴らしいですが、何よりそれぞれのキャラクターが持つ繊細なパーソナリティが際立っている回であるからこそ、肉厚かつ濃厚な仕上がりな挿話となっているのだと思います。
⑧『Turkey!』6話「飛び越えて、リバースフック」

ボウリング部の女子高生達が戦国時代にタイムスリップする、というフックの強い設定から独自性のある本作ですが、とりわけこの6話は現代からタイムスリップしたボウリング部の一人・さゆり、男装をして当主を務める戸倉家の三女・傑里の二人の視点による「時代による死生観の違い」を直視させる熾烈な作劇が印象的でした。
突如として戦乱の世に投げ込まれた現代人のさゆりは、傑里が野武士の残党に襲われる場面に居合わせます。「誰かを守るためならば、他の誰かの命を奪うことも厭わない」と傑里が自身に語った言葉がフラッシュバックし、さゆりは傑里を守るために自身の身体能力を行使して野武士に一矢報います。さゆりの投げた「2投目」により戦闘不能となった野武士に傑里が留めを刺す瞬間、さゆりは敢えてその場に立ち会うことを選び、自身の行いにケジメをつけます。野武士の断末魔が響き渡る中で。
およそ女子高生の部活動がテーマの作品とは思えないシリアスな挿話であり、また月経を示す隠語や「血塗られた花」の演出など、リフレインされる「血」が生/死のシビアさを実感させる回として印象的でした。
⑨『瑠璃の宝石』12話「想い出は石とノイズと」

フィールドワークを通じて鉱物研究の奥深さに迫る本作の中で、瑠璃の祖父が残した「鉱石ラジオ」をテーマにしたこの12話はアニメオリジナル回となります。
電波の受信技術が発達した現代では見かけることが無くなった鉱石ラジオは、しかし現代でもその技術がICカードに用いられていると言います。こうした「形を変えて現代にも受け継がれる人類の叡智」の描きは、祖父が鉱石ラジオを聴いた当時の感動が現代を生きる瑠璃にも引き継がれているという「時代を越えても変わらぬセンス・オブ・ワンダーの普遍性」のテーマにも通じています。
またこうしたテーマは、本作において幾度も描かれている「時の経過の痕跡を辿る」鉱物研究の在り方とも一致しており、アニメオリジナル回でありながらも本作らしさに満ちた回でした。
ちなみに今年2025年は国内ラジオ放送開始から100年目の節目となる年であり、そうしたタイミングも相まって、ラジオの原点となる「鉱石ラジオ」を取り扱ったこの挿話は意義のある回だったと言えるのではないでしょうか。
⑩『ウマ娘 シンデレラグレイ』18話「WILD JOKER」

ジャパンカップを舞台に繰り広げられるタマモクロスとオベイユアマスターのデッドヒートに終始目が離せない回でした。今回のメインでとなるのはアメリカのウマ娘・オベイユアマスターですが、登場はこのジャパンカップ編のみでありながらも強い存在感を放つウマ娘でした。
病的なまでに徹底された彼女の秘匿性およびタマモクロスに対する情報収集が勝利への拘りを感じさせ、また自身にとって有利となるフィールドで、たった1回の勝利のために全てを掛けて挑むという「勝負師」的な側面が個人的に刺さりました。
また「相手の情報収集に徹する一方で、自身の情報は一切見せない」という「情報の非対称性」を思わせる展開と、勝利のためにペルソナを完璧に演じ切ることでダークホースとして場を掌握してみせる部分がどことなく『【推しの子】』の黒川あかねを彷彿させるなどの「間テクスト性」にも満ちており、全体的に私好みの回です。
彼女の二つ名であり、今回のサブタイトルである「WILD JOKER」は「トランプの切り札であり、他のカードの代用になり得るワイルドカード」を彷彿させ、他のウマ娘の一挙手一投足を真似して自身のパーソナリティを秘匿した上で、どんな強豪カードにも勝るという点において、まさしく彼女を言い表すのに相応しいものでした。声優の石上静香さんによる「二面性」の演技も素晴らしく、只管にオベイユアマスターというウマ娘の魅力に目が離せない回でした。
(余談ですが、上で触れた『【推しの子】』については、2023年の10選で上記のエピソードである7話を選定しています。こうした「ダークホースが覚醒して場を掌握する回」が個人的に好みの傾向があるのかも知れません)
・番外編『プリンセッション・オーケストラ』5話「流星、闇を切り裂いて」


10選に選出するか最後まで迷った回ですが、本作の一条ながせ/プリンセスミーティアがかなり好みのキャラクターだったので、番外編として登場回を取り上げる形で触れておきたいと思いました。
一条ながせはいわば「天才肌」タイプの人間であるが故に、苦労して手に入れた訳ではないものに対し価値を見いだせないという点・自分とは違う「本物」を目の当たりにして人生観を捻じ曲げられてしまう部分に言い知れぬ共感がありました。
そんな彼女を縛っていた「偽物の輝き」という概念は、自身を応援してくれるオーディエンスの存在から〈偽物/本物〉の二項対立が脱構築されることで克服され、自身の輝きを取り戻してプリンセスに覚醒する、という王道的な展開が女児アニメらしく良かったです。
またコミカルで危なっかしい挙動・ボーイッシュでたまに口が悪い時がある等のキャラクター性が好みで、声優の橘杏咲さんの声質も相まって目が離せないキャラクターです。
・総括
選出傾向は冬3・春4・夏2・秋1作品と、例年の傾向と同じく春クールに好みの作品が多かったです(プリオケも春)。春作品は『にんころ』『前橋ウィッチーズ』がTLで評判が良かったですが、個人的な好み枠として『ある魔女が死ぬまで』『サマポケ』からも選出しました。
選定基準は特に無く、基本的に直感で選んでいますが、2023年は演出面で良かった回・2024年は個人的な経験に重なる回からの選出が多かった一方、今年の傾向として「キャラクターに惹かれて選出する回」が多かったように思えます。
また全体的な話数傾向として4話〜7話あたりの中盤話数に集中しており、「物語の最初の山場」的な話数からの選出が多くなりました。所謂「キャラクターの当番回」もそのあたりの話数となりやすく、上の傾向と相関関係が見受けられます。
来年の自分は何に心を動かされて選ぶのか、楽しみです。
末筆ではございますが、来年も引き続き宜しくお願いいたします。
『BanG Dream! Ave Mujica』1話感想 「箱に収まらない」箱入り娘について
「箱入り娘」として裕福な家庭で大事に育てられた祥子は、しかし母との死別・父が巨額の詐欺に遭ったことから、その生活は一変します。祖父の元で生きる選択があったものの、あくまで父についていく事を選んだ彼女。自暴自棄になって飲酒に明け暮れる父との暮らしをアルバイトで生計を立てていくという困窮した生活が続く中、彼女が発起したバンド・Ave Mujicaの活動に邁進することで、過去の未練を断ち切ろうとします。
父との厳しい貧困生活が続く一方で、Ave Mujicaの活動は早々に武道館ライブが決まるなど、次々と輝かしい実績を残して活動の規模を広げます。しかしながら、バンドの成功は祥子にとって事態を好転させるものではなく、むしろ父との軋轢をもたらします。強かに先に進んでいく娘に対して父は自己嫌悪に陥り、ついには祥子を拒絶する始末。祥子はそんな父を「クソ親父」と一蹴し、家出してしまいます。
父との暮らしは、武道館ライブという大きな「ハコ」を得た今の祥子にとって、あまりにも狭すぎる”箱”だったのでしょう。そうした「”箱”の不釣り合い」故に生じる軋轢は、バンド内にも起こります。

覆面バンドのAve Mujicaはメンバーにそれぞれ役名が与えられ、台本によって行動が規律された精緻な世界観です。そこでは、sumimiの三角初華は「ドロリス」でなければならず、インフルエンサーの祐天寺にゃむは「アモーリス」であるように、現実における個々のアイデンティティや素性から隔離された「箱庭」です。ここでは覆面バンドの慣例に従い、仮面に隠された演者の素顔は「見えないもの」として観ることになります。
Ave Mujicaメンバーの一人であるドラマー・祐天寺にゃむは主に動画投稿サイトで活躍しているインフルエンサーですが、自身のネームバリューを活かせないAve Mujicaのそうした「覆面バンド」活動を快く思わず、武道館ライブではついに台本を逸脱して自身とメンバーの仮面を外すという暴挙に出ます。「素顔で活動すれば話題性も上がって、もっと大きな”ハコ”で活動できるはず」という機会損失に対する祐天寺にゃむの抱くもどかしさを考えると、「”箱”の不釣り合い」に纏わる問題がここにも表れていることが分かります。

メンバーの素顔が公然と暴露された今、「実名を隠して役を演じる」というAve Mujicaの世界観は現実と融解し始め、〈虚構/現実〉の境が曖昧になります。
「よくご覧になって。この完璧な笑顔を。」というオブリビオニス(祥子)の台詞に対し、「完璧?こんな貼り付いた笑顔、誰も欲しくなーい。」というアドリブの台詞で祐天寺にゃむは介入し始めたことをきっかけに舞台の流れが変わりました。このアドリブの台詞から表れているように、「物語に介入して演者の素顔が見たい観客の代行者」として祐天寺にゃむが舞台に立ち現れているのです。この時、オブリビオニスをはじめとする役者たちは物語を進行する役割を奪われ、祐天寺にゃむの支配下に反転します。
物語における「トリックスター」とは、複数の世界を自由に行き来できる存在といいます。ここでは祐天寺にゃむがAve Mujica世界観の内側―アモーリスという”人形”の役割を与えられた虚構と、外側―インフルエンサーとして活動する現実とを、自由に往還できる正しくトリックスターとして彼女は主体化しています。
一方で父を見捨て、もはやAve Mujicaしか残されていない祥子の置かれた状況は「箱庭に囚われた存在」と換言でき、その点において〈虚構/現実〉を自由に往来できる特権的なトリックスターのにゃむとは対比的に映ります。しかし今やその箱庭も”完璧性”が廃され、祥子の望んだ「箱」ではなくなりつつあるのです。
振り返れば、祥子は「メンバーの人生を預かる」というスタンスでAve Mujicaの活動を推進してきました。しかしその言葉には「自分は他者の人生を掌握している側の人間である」という彼女の傲慢さが表れており、アンコントローラブルな要素を度外視しているところからも、何でも自分の思い通りにできた「箱入り娘」の幻想から抜け出せていないのかもしれません。事実、祐天寺にゃむによる謀反・父からの拒絶をきっかけに、自分の収まるべき「箱」から、祥子は尽く”外”に追いやられる他ありません。

「他者の人生を預かっているつもりが、他者に人生を掌握されているのは自分の方だった」という「逆取得」じみた状況に陥り、箱入り娘だった祥子は、今やどこの箱にも収まりが悪いという皮肉めいた事態。祥子の望んだ箱庭の”完璧”さは失われ、清濁併せ呑むカオス空間と化したAve Mujicaが、どのような「箱」に変貌していくのか、行く末が楽しみです。
余談ですが上で出てくる単語「逆取得」は会計用語です。事業分離会計において「ある会社が事業を他社から取得した結果、逆にその他社によって支配されてしまう」という買収形態を指します。
話数単位で選ぶ、2024年TVアニメ10選
aninado様が集計されている、毎年恒例の「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」企画に今年も参加させていただきます。
■「話数単位で選ぶ、2024年TVアニメ10選」ルール
・2024年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
・集計対象は2024年中に公開されたものと致しますので、集計を希望される方は年内での公開をお願いします。
去年の10選記事はこちら
目次
・『葬送のフリーレン』28話「また会ったときに恥ずかしいからね」
・『終末トレインどこへいく?』3話「ショートでハッピーイージーに」
・『夜のクラゲは泳げない』3話「渡瀬キウイ」
・『ガールズバンドクライ』10話「ワンダーフォーゲル」
・『響け!ユーフォニアム』3期 13話「つながるメロディ」
・『推しの子』24話「願い」
・『チ。−地球の運動について−』3話「僕は、地動説を信じてます」
・『ダンダダン』7話 「優しい世界へ」
・『ぷにるはかわいいスライム』7話「Sweet Bitter Summer」
・『わんだふるぷりきゅあ!』44話「たくさんの幸せ」
・雑感
・『葬送のフリーレン』28話「また会ったときに恥ずかしいからね」

本作は2年連続の選出です。一級魔法使い試験編を描く2クール目では26話の複製フリーレンとの戦闘描写が分かりやすい「作画回」として軍配が上がるところですが、より読後感として自分の中に響くものがあったのは、この28話でした。
人間の感情の機微に疎いフリーレンは、かつて旅を共にした勇者ヒンメルの老衰死をきっかけに、彼のことを何も理解できないまま離別してしまったことに対する悔恨の気持ちが芽生え、これまでの自分には無かった「人間性」を探すための二度目の旅をロードムービーとして描いた本作。最終回であるこの28話は、その「答え合わせ」に他なりません。


「会者定離」がつきものの旅ではどんな形であれ、いつかは別れの時は訪れるもの。切磋琢磨し合った仲間たちとのそうした「別れ」を、敢えてドライな形で描き切るこの28話は翻って希望に満ちて映ります。「涙のお別れなんて僕たちには似合わない。だって、また会ったときに恥ずかしいからね。」という台詞を裏付けるように、下手(未来)方向に進むフリーレン一行が映された後、ロングショットでこの先に続く道を映すところで映像は閉じられます。過去の追想から始まったフリーレンの旅が未来向きに変化する過程を実感させる画作りが良いです。
・『終末トレインどこへいく?』3話「ショートでハッピーイージーに」

世界観がカオスな水島努監督作品ということで放送当時も印象的だった『終末トレイン』ですが、中でも一際記憶に残っているのが、この3話です。キノコに自我を乗っ取られ、緩やかな「破滅」を甘んじて受け入れる周囲の中で、晶一人だけがキノコの魔の手から逃れてまともな感性を保ちながら対処を試みる、というパニックB級映画的なプロットが面白いですが、ただカオスなだけでなく、ポストアポカリプス的世界観における死生観を浮き彫りにする回、という意味では正しくSF的な回だったと言えるのではないでしょうか?
あと余談ですが、少しスノッブで背伸びしがちな晶のキャラクター造形がかなり好みでした。
・『夜のクラゲは泳げない』3話「渡瀬キウイ」

8話と選出を迷いました。
Vtuberとして動画配信活動に勤しみつつ、日中は”生徒会長”として活躍しているという渡瀬キウイですが、彼女のそうした「設定」は見栄を張るための”嘘”にすぎず、本当は不登校だったことを幼馴染のまひるに知られてしまった際の、お互いの「気まずさ」が、富田美憂の演技も相まって大変印象的でした。自分の趣味や性格が周囲から理解されず、生きづらさを抱えるティーンエージャーの心理にはどこか他人事とは思えない部分があり、そんな彼女を「天岩戸伝説」になぞらえて、まひるが文化祭の劇で恥を捨てて舞い踊り「外に引っ張り出す」という整地されたプロットも秀逸でした。
・『ガールズバンドクライ』10話「ワンダーフォーゲル」

11話と選出を迷いました。
確執のあった親子のわだかまりが解消されるエピソードはベタな展開ながらも、つい涙腺が緩んでしまいます。


実家に帰った際に仁菜の頭に当たる枝はまるで「入るのを拒む」かのようにささくれ立った心情を表していましたが、その枝は終盤においては取り除かれており、仁菜にとって実家が「帰る場所」へと転じる対比的な演出も良かったです。
・『響け!ユーフォニアム』3期 13話「つながるメロディ」

オーディエンスの反応を見るに、原作改変も相まって12話を選出される人が多いと思いますが、「麗奈とソロを吹く」という目標に対する久美子の挫折経験と、自分自身のあり方と向き合った末に獲得した大団円のエンディングを描出したところに、個人的に感情移入できる部分が多いと感じたため、この度は13話を選出しました。
本番前、スプリットスクリーンで部員全員の姿が映されるシーンは「ここに居る全員が、一人一人の物語の当事者」として、この3年間を駆け抜けてきたのだという雄弁さを感じ、思わずグッと来てしまいます。
そして何より、大人になった久美子が今度は吹奏楽部の顧問として部室に入るまでのシークエンスです。バックに流れているのは「始まりの音楽」としてこれまで作中で何度か使用されてきた『ディスコ・キッド』です。胸を張って前進する久美子の描写は、数々の"挫折"と"迷い"を経た彼女の物語の全てを肯定する集大成として、これ以上なく相応しいものでした。
・『推しの子』24話「願い」
本作は2年連続の選出です。ロケ先で偶然にも、ルビーが生前に慕っていた主治医=ゴロー(現アクア)の死体を発見してしまったことで、ゴローを殺した黒幕への復讐心がルビーに芽生えます。昨年の10選記事でも触れていましたが、本作はアイドルとオーディエンスの関係性を「見る主体/見られる客体」という”視線”を介した演出が目立ちますが、この24話においてもその傾向は顕著だったように思えます。



カラスの目・カメラのレンズによって、超常的な「何者か」から一方的な視線を浴びていた「被写体」としてのルビーの描写は一転し、黒く染まったルビーの視線が「こちら側」を見るようにTUで描写されることで「見る者/見られる者」の関係性が逆転します。底知れないルビーの闇が垣間見えるシークエンスです。

とりわけ、そうした”ロケ中の事件”の最中に撮影されたB小町の新曲『POP IN 2』PVシーンは、曲調はB小町らしく明るくポップでありながら、そうした軽快な雰囲気とは相容れないはずの「黒目のルビー」が何度もインサートされます。ルビーを取り巻く「シリアスな事態」と「軽快な音楽」という対極の要素を衝突させ、フィルム全体を異質なものへと”異化”させてた描きが印象的な回でした。
・『チ。−地球の運動について−』3話「僕は、地動説を信じてます」

天動説から地動説へのパラダイムシフトをめぐるヒューマンドラマを描いた本作ですが、まさしく物語が「動き出した」のが、この3話でした。ルネサンスなどに代表されるように、前近代〜近代を時代背景としながらも、自分たちがこれまで信仰してきたものが否定され、新しい技術と知見に対する恐怖と、それを排除しようという試みは、現代のAI論争にも通じる部分があります。
とりわけこの3話はラファウが地動説に殉ずるという衝撃的な話数でしたが、たとえ自らの命を差し出したとしても、「真理」へのバトンを後世に残すことで自分の意志を受け継ぐ者がいつか現れるならば、肉体が朽ちようともその意志は「生き続ける」というレジリエンスを感じる点においても、実に「本作らしさ」に満ちた話数です。
・『ダンダダン』7話 「優しい世界へ」



「トンチキ怪奇ホラー」テイストが濃い本作ですが、この7話においてはゲスト妖怪の「幸薄き女」という要素がむしろ「ジャパニーズ・ホラー」的な雰囲気を漂わせており、その点においても異彩を放つ話数です。自分のそばから居なくなった愛娘を探し続ける女の亡霊と、幼少期に母を亡くしたアイラ。そんなアイラが女を「お母さん」と呼ぶことで、この世に未練を残したまま今に消滅する女にかすかな希望を与えます。
演出面においては、実写を織り交ぜた描写や妖怪の女視点でのPOVが多用されていることからも感情移入しやすい画作りとなり、その点においても印象的な話数です。
・『ぷにるはかわいいスライム』7話「Sweet Bitter Summer」


その名の通り、可愛いものが好きな男の子・河合井コタローと、彼の前に突如現れたスライムの女の子(?)ぷにるとの不思議な関係性を描く本作ですが、とりわけ7話は、一つ例を挙げるなら、大きな入道雲の浮かぶ空を背景にロングショットでコタローとぷにるを映し出す画など、ひと夏の特別な物語を感じさせるような独特の演出・カメラワークが多用されている点で印象的でした。
ぷにるに対して普段は意識していなかった部分を映し出すようなレイアウトの数々は、コタローに生じる戸惑い、心情変化を何より饒舌に語るものだったと言えます。


演出面に関してとりわけ印象的だったのは、カフェシーンにおいてコタローときらら先輩をサイフォン越しで映すシークエンスです。少し背伸びしたいコタローの虚栄心を映すように被写体を歪ませ、広角レンズの役割を果たしていたサイフォンは、きらら先輩の「自然体でいて良い」という台詞をきっかけに取り払われます。小道具によって映像と心情がリンクする描き方など、まさしく「映像演出のデパート」と言える回でした。
・『わんだふるぷりきゅあ!』44話「たくさんの幸せ」
ペットがテーマである本作において避けることができない「ペットとの死別」を真正面から描いた回です。殊、本作においてはこむぎ・ユキなどのペットが人間の形態に変身して、ほとんど人間と変わらない生活を送っており、いつか彼女たちに訪れる「死別」が、ペットというよりはむしろ「家族の死」と近接して描かれるからこそ、それが「大きな物語」として重くのしかかってくるのだと思います。

この回においてガオガオーンとして、いろは達の前に立ちはだかったのが、かつての動物界の覇者でありながら、同時に絶滅種でもある「ティラノサウルス」であったことにも相応の意味があるのでしょう。これについて、特に印象に残ったFFの方の解釈がありましたので、この場を借りて引用させていただきます。
その方によると、このティラノサウルスは「絶滅してこの世にはもう存在しない」という動物としての避けがたい宿命のモチーフであると同時に、「抗えないほどに絶対的な力」を示しており、正しく「死」を象徴する存在として読み解くことができる、とのことでした。実際にこの回においてプリキュアはティラノサウルスのガオガオーンとの真っ向勝負において明確に劣位を取っており、トラメによる静止がなければ負けていた可能性があったことからも、抗えない運命の象徴としての説得力を補強しています。


死を描きながらも直接的な表現を避ける台詞回し、動物が天を駆ける「虹の橋」のモチーフ性など、繊細な表現の機微がとりわけ印象に残る回でした。
・雑感
忙しさも相まって、ちょうど昨年の10選記事から1年ぶりのブログ更新となりました。
全体を通して見ると、春アニメから終末トレイン・ヨルクラ・ガルクラ・ユーフォニアムの4作品を選出しており、春アニメの割合が大きくなりました。去年と比べて更新頻度が落ちてしまいましたが、来年からはショートレビューでも良いので細々とでも投稿をしていけたらな、と思っています。
末筆ではございますが、来年も引き続き宜しくお願いします。
話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選
毎年恒例でaninado様が集計されている「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」企画に、今回初めて参加させて頂きます。
■「話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選」ルール
・2023年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
・集計対象は2023年中に公開されたものと致しますので、集計を希望される方は年内での公開をお願いします。
目次
①『ひろがるスカイ!プリキュア』1話 「わたしがヒーローガール!?
キュアスカイ参上!!」
②『転生王女と天才令嬢の魔法革命』12話(最終回) 「彼女と彼女の魔法革命」
③『ポケットモンスター めざせポケモンマスター』11話(最終回) 「虹とポケモンマスター」
④『【推しの子】』7話 「バズ」
⑤『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』11話 「大人と子供の違いって、なに?」
⑥『機動戦士ガンダム 水星の魔女』24話(最終回) 「目一杯の祝福を君に」
⑦『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』10話 「ずっと迷子」
⑧『葬送のフリーレン』10話 「強い魔法使い」
⑨『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』8話 「エコー」
⑩『星屑テレパス』11話 「再戦シーサイド」
番外編『星屑テレパス』10話 「泣虫リスタート」
雑感
①『ひろがるスカイ!プリキュア』1話 「わたしがヒーローガール!?
キュアスカイ参上!!」


ランボーグとの初戦闘シーン。街中のロケーションそのものは別段珍しいものではありませんが、摩天楼を駆ける”ヒーロー”ガールを描くにあたって、これ以上ないほど相応しい場所と言えます。カバトンとランボーグは車道(危険地帯)に、ましろは歩道(安全地帯)に立っている一方で、ソラはその中間である「横断歩道」上に居ることで、「ヒーローとしての使命」と「自身にその使命を全うできる力がない無力さ」との葛藤を演出する位置関係も見事でした。街中のビルに隠されてきた「空」が、変身して飛び立つソラの縦の運動によって何も覆い隠すものがなくなり、画面が清澄な青へと転じる映像の妙。その一つ一つに魅せられた初回でした。
②『転生王女と天才令嬢の魔法革命』12話(最終回) 「彼女と彼女の魔法革命」
一貫して描かれてきた「接触する」行為に込められたテーマの極値点とも言える回です。「精霊一神教の封建国家」という巨大な暴力装置を前に、虚しくも無力なアニス・アルガルド・ユフィの人間性が次々と否定されていく作劇がとりわけシリアスに映る本作でしたが、同時に与えられた記号を媒介するだけの間接的「メディウム」へ陥った各々のキャラクター達が、直接的に「触れる」行為を通じて一度奪われたヒューマニズムを奪還する物語構造が、身体を重ね合わせる「百合描写」への強烈なエクスキューズとして効いており、本作のそういった部分こそが「ロジカルな百合作品」たる所以なのかも知れません。
③『ポケットモンスター めざせポケモンマスター』11話(最終回) 「虹とポケモンマスター」

1997年から実に26年間に渡って描かれてきた、サトシとピカチュウの冒険に明確な終止符が打たれた回です。26年。私の生きてきた人生の長さとほぼ同じ歳月を、サトシ達の冒険と共にしてきたと考えると、一つの大きな時代が終わったような寂寥感と共に、ある種の感慨が生まれます。
サトシが目指す”ポケモンマスター”とは何か。この対する”答え”をついに出すサトシ。
それは「全てのポケモンと友達になる」というものでした。思い返せば、アニポケという作品は常に「新天地での出会いと別れ」がテーマにありました。私自身も全てのシリーズを見ていたわけではないのですが、そうした会者定離を経験してきたサトシとピカチュウの姿をリアルタイムで目の当たりにしていたからこそ、「アニポケからサトシが卒業する」事に対してもポジティブに受け止めることができたのでしょう。


カスミ・タケシとの分かれ道のシーン。各々が長い旅から戻ってきた”帰路”であると同時に、新たな旅のスタートを象徴する”岐路”でもある、両義的な結節点として描出されています。行き先は下手(未来)を指し示している方向性の正しさ、そして”最高のボロボロ靴”を履き替えて旅のスタートを切る姿は、エンディング曲『タイプ:ワイルド』で下手(未来)方向に走る映像へとシームレスに繋がれます。これからも続いていく二人の旅を見送る真摯なフィルム作りだったと感じます。
④『【推しの子】』7話 「バズ」

リアリティーショーにおける〈嘘/真実〉の曖昧さ、SNS――巨大な情報の波に翻弄されてきた舞台役者・黒川あかねの復活を描く回。「受動的に観客から”見られる”リアル」というリアリティーショーの構造に対し、炎上騒動の主戦場となったSNSを逆手に取った戦略で「能動的に”見せる”リアル」の側面をオーディエンスに見せることでバイアスの上書きを試みるロジックに多少の疑問はありますが、そうした前フリを経たからこそ「能動的に見せる”嘘”」、即ち「役者」としての黒川あかねの原点に立ち返る、という構造が一層鮮やかに映りました。オーディエンスから一方的な視線を向けられる「視線の非対象性」については以前にOP映像の考察で触れましたが、その対抗策として「見られる」から「見せる」への転換を描く事に説得力を感じました。
また、データベースとして見たときの「SNS(オンライン)と図書館(オフライン)の対比」も肝要だったように思えます。前者はこちらが求めていなくても否応なしに流れてくる情報であり、後者は能動的な探求によって初めて得られるもの。サーチではなく「リサーチ」によって、誰よりも真実に近づくことができる、という描きは示唆に富んでいます。
⑤『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』11話 「大人と子供の違いって、なに?」
「なぞなぞ形式」のサブタイトルの法則性は守りつつも、なぞなぞのそれとは異なり、明確な「答え」が存在しない問いかけが提示されます。〈子供/大人〉を〈泣く(弱い)/泣かない(強い)〉の二項対立の定義として予め提示しておき、「”大人”になりきれないプロデューサー」の在り方を通じてその境界を融解させていく過程に情緒があります。
とりわけ、遮蔽物の無慈悲さ・静けさと、流水による動的な運動が衝突するMV的映像は「抑え込んでいた思いが溢れ出る」表現としてこれ以上なくありすの深層心理とマッチしており、無彩色の中に唐突に表れる有彩色=金魚も、おそらく同様のニュアンスを含んでいたのでしょう。成長途上にいるアイドルを〈子供〉のレッテルに追いやる装置として打ち出された「U149」のネーミングが、「子供と大人の境界が取り払われる」過程を経て、第3芸能課にとってこれ以上なく相応しい屋号に転じる”強かさ”から「レジリエンス」を感じる回です。
⑥『機動戦士ガンダム 水星の魔女』24話(最終回) 「目一杯の祝福を君に」


ガンダムシリーズには疎く、私にとってこの作品が実質的に初めて触れる『ガンダム』
でした。学園ドラマ・決闘(競技)としての戦い・百合要素など、素人目で見てもかなり挑戦的なシリーズだったと思いますが、それらの要素が「戦争」へと転じたときに、物語当初とは全く異なった様相を帯びるようになる、ある意味では叙述トリック的な「要素の見せ方」に旨味があった作品でした。
とりわけ私が注目したのは最終回における「麦畑」のロケーション選定についてです。本作ではトマトが「血縁」「人間性」「温室」など特徴的なマクガフィンとして描かれてきたからこそ、唐突な「麦」に違和感を覚える人も多かったように思えます。しかし戦禍で失われた(消費された)無数の者達に思いを馳せるとき、その場所は”大量生産”の源泉たる「麦畑」が、やはり相応しいのだと思います。また麦の栽培過程には茎葉を強くする目的で「麦踏み」と呼ばれる工程があり、何度尊厳を踏み躙られても再起してきたスレッタ達の柔軟な強さ=レジリエンスと重なる意味でも的確なモチーフでした。余談ですがこの旨をツイートしたところ、人生初バズ(9000いいね)を経験しました。麦と戦争の関係性から漫画『はだしのゲン』を連想した方が多かったようです。
⑦『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』10話 「ずっと迷子」
10選企画の選出を考える時に真っ先に思い浮かんだのが、この回でした。バラバラになってしまった”迷子”の5人が、「居場所を再発見する」回としても読めますが、私個人の見解としてはコード化された人間社会の中に居場所がない者たちが、”非人間”である燈とRiNGの野良猫の異名を持つ”動物的”存在の楽奈、即ち「人間としてのコードを持たない者達」を経由する事で脱コード化され、真に解放される物語として秀逸な回だったと感じます。
あくまでも即興で披露される『詩超絆』の”ポエトリーリーディング”という「語り」の形式が、アドホック(その場限り)な空間を創出しており、そうした「何もない空間こそが”居場所”以上に尊い」、という図地反転的な描きが鮮やかでした。もとより「ロック・ミュージック」のルーツを振り返ったとき、歴史的に反社会的・反体制的なもの、即ち「脱コード的」な芸術様式であった事を思い返せば、そうした描きはむしろロックの本質に迫るものだったとすら言えるかも知れません。
⑧『葬送のフリーレン』10話 「強い魔法使い」

清澄な青空が象徴的なアイコンとして映し出された本作において、異質にも鬱屈とした湿度感・因縁の血生臭さを感じさせるエピソード郡として進行した「断頭台のアウラ編」に終止符が打たれた回です。日常的な魔力のセーブによる”過小評価”からアウラの不意を突く戦法は、あくまでも「手の内を隠した奇襲」と極めてシンプルに言い表すことができますが、「魔力の大きさがそのまま魔族としての地位を表す」魔族特有のヒエラルキーを逆手に取ったロジカルさがあり、そこに一層の説得力がありました。魔力の大小で相手を値踏みするアウラを欺くことができても、魔力を抑えてもなお隠し切ることのできないフリーレンの資質をヒンメルには見抜かれていた、という対比的な描きも良いです。
⑨『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』8話 「エコー」
これまで描かれてきたコノハのタイムリープとは明らかにカラーが異なる事も相まって、一際印象に残る回です。経験に基づいた「推論」と〈想像力〉の違いは何か。一見すると衒学的な思考実験を思わせる抽象性を帯びた問いですが、時代の潮流で移り変わる秋葉原という現実空間と、仮想空間としての美少女ゲーム、2つの意味空間を並置する本作において、最も本質に迫るテーマを問い直す回でした。
「想像力が現実を定義する」というエコーの台詞に表れているように、「現実のエンパワーメントとしての想像=創造のあり方」のテーマは、「ゲーム制作」に主眼を置いたメタフィクションの本作において真に迫るものだったと思います。「偶然性を廃して必然的な結果を選び取る」というタイムリープ作品のクリシェから敢えて離れ、偶然を偶然のままとして受容する本作の描きには、かえって予測できないスペクタクルがあり、本作で言う「美少女ゲームの”エネルギー”」は、そういった部分にこそ生まれるのでしょう。
⑩『星屑テレパス』11話 「再戦シーサイド」

瞬にとって「モデルロケット技術者」としての矜持を折られる結果となった選手権。
「自分が居ながらあっけなく敗退してしまった」という責任感とプライドから全てを投げ捨ててしまいたくなる心情と、それとは裏腹に「本当はみんなと作りたい」という二律背反の感情のせめぎ合いに、つい感情移入させられます。そんな瞬を”外”に引っ張り出す役割を、「技術も、人を上手く動かすようなコミュ力も欠けていながらも、ただ夢だけは持っている」海果が担っており、エンパワーメントを得られる回でした。

とりわけ、瞬の本心を看破したユウの発する「嘘」の言い方に思わずゾクッとなりました。オフ台詞で力強く響いた声とは裏腹に、次点のカットでは優しさと寂寥感の同居する眼差しを瞬に対して向けている”ギャップ”から、ユウという人物のミステリアスさが際立っていました。
番外編『星屑テレパス』10話 「泣虫リスタート」


元々はこの10話を(9話と迷った末に)10選に選出する予定でしたが、上記11話を視聴後に急遽選出を変更する事となりました。本作の持つ優しさと、しかしどこか直視し難い厳しさを感じるような、一筋縄でいかない作風が極地を迎える回だったと思います。幼少期、かつてピアノコンクールで計らずも友人の夢を奪ってしまった事で、主体的に夢を持つのではなく「夢を応援する側」に立つようになった宝木遥乃に焦点が当たる回ですが、選手権に惨敗し夢破れた瞬に、その夢の「当事者」として対峙する姿勢に強かさを感じます。瞬のアイコンであった「ゴーグル」が外されることで強調される彼女の諦念、一方で遥乃のトレードマークである「チョーカー」が外れることで「胸襟を開いて話す」ことを視覚的に描いており、小道具の着脱によって両者の相反する心理を対比的に映し出すのが見事です。
上述のような遥乃と瞬の対峙、並行して描かれる海果の「自分自身との対峙」のように、本作は徹底的に「真正面からぶつかる」事を描いており、そこにある種の容赦無さすらも感じますが、それを鑑みれば本作のアイコンであるところの「おでこぱしー」とは本質的に「分かり合えない者同士による、最も優しい”衝突”の形」なのかもしれません。
雑感
以前より話数単位10選企画の存在は認知していましたが、アニメ感想ブログ歴7年目にして、参加させて頂くのは実は今回が初めてです。この中でも特に頭を悩ませた作品は、急遽選出を変更した『星屑テレパス』です。どの回も素晴らしいですが、特に9話・10話・11話は甲乙付け難く、僅差で11話を選出した決め手になったのが「感情移入」という部分です。作品に対する感動は「作劇としての出来の良さ」と「個人的に刺さるか否か」の主に2種類があると思いますが、後者ほどより心が動かされ、しかし個人的故に言語化し辛い、というジレンマがあると改めて感じました。
末筆ではございますが、来年も引き続き宜しくお願いいたします。
「SDGs要素」は如何にしてフィルムを支配したか。あるいはメディウムとしての”天使”『キボウノチカラ~オトナプリキュア'23~』総括

『Yes!プリキュア5』『Yes!プリキュア5GoGo!』の夢原のぞみ達が大人になった後日譚を描く『キボウノチカラ〜オトナプリキュア’23〜』がついに最終回を迎えました。
幼い頃は想像もしなかった「大人としての葛藤」を抱えるかつての”プリキュア”達は、突如として街に現れたシャドウ騒動を巡って様々な壁に直面します。最初は「両親の離婚をきっかけに転校を余儀なくされ、邁進していたダンスを断念せざるを得なくなった、のぞみの教え子」など個人単位で始まった問題のスケールが、環境問題などマクロな世界の問題まで敷衍されるストーリーの収拾の仕方に賛否はありますが、とりわけ本作の制作にあたって「SDGsをテーマに据える」NHKの意向がかなり色濃く反映されていたのは言うまでもなく事実でしょう。
大人になってそれぞれの道を進む中、正に紆余曲折の真っ只中であるのぞみ達が、社会の喧騒に揉まれるうちに見失いそうになる「希望」を、かつてプリキュアだった頃に思いを馳せながら各々が活路を見出していく、というストーリー仕立てそのものはアニバーサリー作品らしいところではありますが、「大人になった後のドラマ」の本質的な部分とは「別々の道を進んだが故に、同じ悩みを仲間内に共有できない辛さ」の部分にあり、だからこそ、それぞれが自分なりに悩みと向き合い、選んだ答えを肯定的に見守っていく部分にこそ、感慨が生まれるものですが、殊、本作においてはそれぞれの夢・別々の葛藤を持つ者達が向けている未来への眼差しその全てが、まるで「SDGs」という巨大な思想装置に均質化・一本化されてしまうような、ある種の”虚しさ”を覚えてしまったと同時に、むしろそうした「思想パッケージによる個性の剥奪」こそが本作のメタ的なフィルムコンセプトとして読み解けるのではないか、と考えます。
こうした「SDGs要素」は、分かりやすい部分を例に取ると、教師となったのぞみが学校で「地球温暖化」についての授業を行う場面が発端となります。社会科などの授業でそうした問題を取り扱うのはごく自然な事であり、この段階ではまだSDGs要素があくまでも「要素」に留まっているに過ぎませんでした。しかしその後、ジュエリーデザイナーとして活躍する夏木りんが「フェアトレード」をスローガンに掲げた企画書を作る・建設計画によって、咲と舞にとって思い出のランドマークである筈の「大空の樹」が切られそうになる等、その要素は、もはや”要素”とは言い難いほど積極的に物語に介入し始め、無視できないものとしてフィルムに刻印され続けます。
勿論、そうした「社会派的なテーマ」を物語に組み込むこと自体はごく普通の事であり、それ自体が殊更変わった手法とは言えませんが、多くの作品において本当に伝えたいメッセージはむしろ台詞などの露骨な表現によって描かれる事を「避ける」か、あるいは純然とありのまま起こっている情景を描き出すなど、その”思想”に関わる部分は「隠される」のが主流なのだと思います。しかし本作においては環境問題・フェアトレード・SNSでの誹謗中傷のありのままの姿がフィルムに映し出されるのだけでは飽き足りず、登場人物に思想を語らせる、という古典的で露骨な手法によって、むしろメッセージは「前景化」されているのです。
俗に言う「ラスボス」に当たる、街の時計塔を司る天使・ベルは「人間が自然を搾取し、制御する」という近代合理主義・人間中心主義に異を唱える典型的な性悪説理論の持ち主であり、正しく古今東西で語り尽くされてきたようなキャラクター造形です。つまり、「自分さえ良ければそれで良い」というミクロ単位の快楽に反比例して起こるマクロ環境の崩壊――合成の誤謬――に警鐘を鳴らす”ベル”としての装置を、担っているのです。
このようにメタ的に「メッセージを発する装置」と化しているのは、ベルだけではありません。のぞみ達もまた、街の人々のネガティブな思考の集合体であるシャドウ騒動と、人間中心主義社会の未来を悲観するベルとの戦いの中で、「未来」「希望」「夢」といった、聞き触りの良い言葉を表面的に”喋らされ”ながら、説得という名の「禅問答バトル」を繰り広げ”させられる”です。各々のキャラクターが抱えてきた葛藤の終着点として描出されるのは、紋切り型の性悪説を唱えるヴィランに対して、ただ定型文のようなポジティブなキーワードを投げかけるだけの、まるで生気を感じさせない「人形劇」に映ってしまいます。この時既に、敵味方問わず登場人物は物語を牽引する役割を剥奪され、フィルムはSDGsという巨大な思想装置の支配下に置かれているのです。
その極地とも言えるのが、ピンチに駆けつけたなぎさ・ほのかがそれぞれ地球の環境を守るべくアマゾンと北極をパトロールしている事が語られる瞬間です。原作においてその二人が環境活動に邁進していた描写は無かったと思いますが、フィルムがメッセージの支配下に置かれた現状ではSDGsが物語の主体と化して、対するプリキュアの方は非主体化し、その個性は無効化されている、という事が端的に伝わります。
何より注目すべきは、のぞみは”教師”――大文字の支配者――として優越的立場を行使し、生徒に「教科書を閉じさせて、自分の頭で考えさせる」振る舞いについてです。過去の集積であり、普遍の真理を記す書であるところの「教科書」から目を離させて、「今、現実で起こっている”答えのない問い”について、自分の頭で考えさせる」というのぞみのこうした要請は、教育現場における生徒への問いかけであると同時に、テレビを見る視聴者にも投げかけられた、二重化されたメッセージです。
これを図式化すると、「SDGs→のぞみ→生徒(視聴者)」という形で、のぞみが問題提起を媒介するメディア的役割を担っている事が分かります。そしてこの矢印の向きの上流にあるものが、より大きな支配力を持っており、かつては黒い天使・ベルが担っていた「思想のメディウム」としての役割を、のぞみは引き継いでいるのです。
天使。それは天界に君臨する神の"声"を、下界の人間に伝達するメディウムです。時計塔を司るベルが”天使”と呼ばれるのも、上位存在であり認知できないメタ存在であるところの神――SDGsという思想装置――の”声”を、下界の人間に届ける役割である事を鑑みれば、理解できます。

そして繰り返しになりますが、のぞみ達をはじめとするかつてのプリキュアは、その”天使”の役割をベルに代わって引き継いでいます。その象徴とも言える出来事こそが、「春日野うららが舞台で”天使”を演じる」というものです。作品の外(天界)にあるメッセージを、舞台演劇というメタフィクション空間(下界)の中にある「セリフ」に翻訳し伝達する構図は、正しく本作における「メッセージによる支配/被支配」のフィルムコンセプトともぴったりと符合していることが分かります。
「教科書を閉じて、自分の頭で考える」事を生徒に要請するのぞみ当の本人が、まっさらな状態から巨大装置の思想に染まり、ただ上位存在のメッセージを投げかけるだけの思考停止的なメディウムと化している本作の描き、そして誰もが同じように口を揃えてSDGs的問題提起を”言わされる”事態。「他者に共有できない大人の悩みと、その先にある各々の選択を肯定する」ような、もはや「各々が悩んだ末に選び取った未来を讃歌する物語」とは言い難い”凶行”をもって本作は閉じられているのです。本来であれば不可視である作品外メッセージが可視化され、フィルムを支配する作品という意味では稀有な視聴体験でした。
16bitセンセーション 8話感想 偶然が生み出す想像力のスペクタクル
マモルがタイムリープした1985年。ファーストカットで映し出され、その後何度もリフレインされる振り子時計と、同じく「等間隔に動きを刻む」水飲み鳥。これまでコノハが体験してきたようなタイムリープと比べても明らかに異質な空間として、それらのアイテムがフィルムを印象付けます。


その舞台となるのは、マモルの父がアルコールソフトを設立する以前に、同じ場所にあったというエコーソフトです。障子と畳から成る和室には、無数のテレビが綺麗に積み重なっています。本棚・壁に貼られた絵・インサートされる絵画など、四角形のモチーフが病的なまでに反復されている事に気づくはずです。


エコーソフトの代表であるエコー1は美少女ゲームのプログラミング・イラスト・サウンド諸々すべてを手掛け、1日に1本ペースで完成品を仕上げる異様なハイペースで日々ゲーム制作に邁進しているものの、自身の作る美少女ゲームには「エネルギーが備わっていない」とし、正確な計算の上で何をどう制作しても「面白いゲーム」にならない悩みを、マモルに漏らします。
マモルに〈想像力〉の有無を指摘されても、そもそも〈想像力〉の意味すら知らない様子のエコー1は、自身は”想像力と呼ばれるもの”が生来備わっていない、明らかに異質な存在として描かれています。3つあるドーナツのうち2つの味を知っていれば、残り1つの味は食べたことがなくても大体の”想像”がつくだろう、というマモルの問いに対しても、それはあくまでも経験に基づく「推論」に過ぎず、〈想像力〉とは似て非なるものだと言います。
〈想像力〉と「推論」。その2つには一体、どこに差があるのか。一見すると禅問答じみた、そして衒学的な思考実験さながらの様相を呈するこの問いですが、本作が限定された現実空間であるところの「秋葉原」を舞台にしながらも、現実のどこにも存在しないサイバースペースとしての「美少女ゲーム」という、現実と仮想の2つの空間軸をメタ視点から観測する作品である事を鑑みれば、極めて本質的な「意味空間に纏わる問い」と言えるのかも知れません。
例えば現実の場において「雨が降っている」という表現を目にしたとき、その一文によって”意味”が生まれるのと同時に、その出来事が「どこかの時間」「どこかの場所」で起こっている、というように、その一文が時間・空間の座標を成立させています。つまり、”文”による記号の実現によって、「意味の場=トポス」が、受け手の”想像”によって作り出される事になります。メッセージの受信者が現実を参照する「想像力」が、ここでは働いていると言えます。
他方、サイバースペースにおいては現実空間とは異なり、ルールによってサイバー空間を作り上げる以前には何も存在しません。例えば現実空間で「遊ぶ」とき、遊びを成立させる”ルールに先行する”現実の場所(砂遊びであれば、砂場。50m走であれば、グラウンド)が当然存在しますが、その存在自体がルールによって設計される事で成立するサイバースペースでは、「ルールそのものが空間」という自己言及的な性格を持っていることから、その性質は現実空間とは異にします。
現実においては、ある場所を調査するときに「経験」から参照したり、起こっている様々な事象から「帰納的」に結論を出すこと、あるいは場所に纏わる一般則から「演繹的」に事象を検討する方法は、しかし”実体”を持たない仮想空間=サイバースペースにおいては有効な手立てとは言い難く、専ら仮説に基づいた「推論」によってのみ、説明できるものといいます。
前提説明が長くなってしまいましたが、このようにルールに先立って参照できる空間を持たないサイバースペースにおける、専ら「推論」によってしか事象を捉えることができない、という仮想空間のサイトスペシフィックな性質は、「想像力を持たない代わりに、推論を行う」エコー達の姿勢にも重なるのです。冒頭で等間隔の物理運動を刻む振り子時計と水飲み鳥・テレビをはじめとする四角形のモチーフ群を引き合いに出しましたが、それらは反復性・均質性を帯びた、エコーソフトの無機質な性格を表す視覚的な装置です。
このようにエコー達は、一見するとこの時代にタイムリープしてきたマモルをメタ的に「観測する」高次の存在、即ち「ゲーム」を外側から眺める「プレイヤー」の立場に思えますが、ランダム性が一切廃された均質的・禁欲的な空間を活動拠点とし、上述したように想像力ではなく専ら「推論」によって現象の記述を試みる、という点においては、「観測者としてのプレイヤー=高次存在」と言うよりはむしろ、プログラミング言語という統一されたルールによって設計された「ゲーム=サイバースペース内の住人」にこそ、似た存在と言えるでしょう。
そうした均質空間=サイバースペース的空間における”ゲームチェンジャー”として、マモルが現実/仮想の境界が曖昧な物語に介入するのが、今回の挿話におけるフィルムコンセプトに他なりません。〈観測者としてのエコー/観測される側のマモル〉の二項対立の逆転現象は、マモルがこの「1985年」という”象徴ゲーム的空間”において「予想できない運命を司る存在」として描かれていることからも読み取れます。
具体的には、マモルはこの”空間”において「エコー2号の着る衣装の”可愛さ”を、100点満点で評価する」役割を担っています。つまり、ゲーム内のキャラクターがあずかり知らぬ「結果」を一方的に提示する権限を、マモルは有しているのです。

”ゲーム”には常に「結果」という評価システムが組み込まれています。例えばコイントスで「コインを投げて、それが表か裏かを宣言する行為」は「遊ぶ主体」による活動ですが、「投げたコインが表と裏のどちらを示すか」については、あくまでも投げた者は関与できない「偶然」の要素です。ゲームではしばしば「乱数」と呼ばれるものです。このように、ゲームには一人遊び・複数人での遊びそのどちらにおいても〈遊ぶ主体〉だけで成立しているのではなく、それを評価する見えない存在、即ち〈大文字の他者〉が常に介在しています。1985年にタイムリープしてきたマモルは、まさしくエコー達にとっての大文字の他者として立ち表れていることが、「100点満点の評価システムの担い手」という役割からも理解できます。

エコー2号の衣装を評価するシーンは後半でも反復されます。マモルに対し何かしらの感情を抱き始めた彼女は浮ついた表情と動きで、かつて好成績=90点を獲得できたあの衣装をもう一度身に纏います。しかし今度は無慈悲にも0点を突きつけられます。
ここで重要なのは「この衣装を着れば、必ず90点が取れる」という再現性・反復性が損なわれている、という部分です。ゲームの本質とは「偶然をコントロールし、必然的な結果を得る」部分にありますが、過去の経験則から必ず90点が取れるというエコー2号の「推論」は虚しく、マモルの気まぐれ即ち〈偶然〉の前にあてが外れてしまった、という事です。


もうお分かりかと思いますが「偶然性を廃して、必然的に同じ結果を生み出す」ゲームのロジックは、エコー達の作るゲーム、もとい現実の捉え方にもそのまま当てはまる姿勢に他ならないのです。しかしそこにマモルというコントロールし難い運命の担い手=〈大文字の他者〉の次元が介入することで、必然性は損なわれ、偶然による”ドラマ”が生じるのです。エコー2号が0点を突きつけられた事を契機として〈想像力〉が発生するシーンにおいて、「何が出てくるのか分からない、ランダム性の象徴」であるガチャガチャが置かれているのも、相応の意図があるのでしょう。(その後も反復して映し出されます)

偶然による”ドラマ”。スポーツやゲームをはじめとする「象徴ゲーム」おいて古今東西、見る者を熱狂させるのは、しばしば「勝利の女神が微笑んだ」と呼ばれるような、偶然と必然とのせめぎあいの果てに表れる、”運命”的な何かです。どれだけ技術を磨いても完全なる偶然のコントロールは不可能であるからこそ、そこに大きな”ドラマ”があるのです。そしてそれは”偶発的”なタイムリープを繰り返す本作の物語構造にも同様のことが言えます。
この作品は「タイムリープもの」という”反復”の物語でありながら、飛ぶことができる時代が手持ちの美少女ゲームの発売年に依存しており、同じ地点からのリセットが不可能であること・現代に戻るタイミングが完全にランダムであること・タイムリープによって未来に何がどう影響しているのかが登場人物視点でも不明瞭なまま描かれており、「偶然を後付けでコントロールして(俗に言う、”乱数調整”によって)望んだ未来を得る」というタイムリープ作品で王道の物語構造からは程遠い点で特異な作品と言えます。
ともすれば「神社を転々としながら、大吉が出るまでおみくじを引き続ける」ような”行きあたりばったり感”すらも抱きますが、本作は先行するタイムリープ作品のように「偶然を必然化する」動きをとるのではなく、むしろ「偶然を偶然として受容する」事にこそ、予測できないスペクタクルがあるのだと思います。そしてそれこそが、古今東西の美少女ゲームのプレイヤーが経験する共苦のカタルシス――〈想像力〉の持つ”エネルギー”の賜物なのでしょう。
『星屑テレパス』1話における、言語コミュニケーションの限界

これから始まる高校生活への期待と不安。鏡のフレームに吊るされた制服が取り除かれ、海果の姿がここで初めて映されます。しかしその姿は海果の”鏡像”であり、まるで「鏡の向こう側の存在」のように描かれたファーストカットです。
「私の言葉は誰にも届かない。この”地球”の誰にも届かない。」のセリフが示すように、周囲との隔絶から自身を「宇宙人」に見立てる、夢想家的なパーソナリティが際立っている海果ですが、「自分の言葉が伝わる、ここではないどこか」に思い焦がれる精神の一端として、このアバンにおいてはそのような「別の空間への転移」を表すようなカットが多用されています。


例えば、下手側に居た海果が窓のフレームを越境し、上手に位置するシーン。
手を窓に当てる瞬間にカットが切り替わり、窓の鏡面に映る海果。その時、一筋の流れ星が落ちます。今いる空間から別の空間への移動、海果が抱くまだ見ぬ”宇宙人”への期待と、出会いの予感が込められた一連のシークエンスですが、その極地とも言えるのが”窓を開けて星空を見る”行為に他なりません。


そこには、一見するとモノローグが多く内側の世界に閉じこもる内向的な性格でありながらも「外」への方向性を強く抱いているという、彼女の二面性が表れており、その後の浮ついた足の芝居、煽りショットによる広大な夜空を感じさる画も相まって、彼女の内に秘める世界と現実とがまるで符号していくような錯覚を覚えます。

クラスでの自己紹介を終えて、言葉が思うように出ないもどかしさを実感しながら廊下を渡る海果が空を見上げるシーンも、アバンのリフレインとして描かれます。
今自分が居る場所に違和感を抱き、「外」へ踏み出したい気持ちが「空を横切る飛行機雲」によって代弁されています。これは言うまでもなく昨夜見た「流れ星」を代理表象しており、やはりここにも「越境による外界との接触」という、この挿話に共通するテーマが描出されているのです。
思い返せば、「この星で言葉が通じないならば、言葉が通じる星を探せばいい」など、海果はむしろ外交的なパーソナリティを有しており、だからこそ過去のトラウマから外界と接触する手段が断たれているという葛藤に悩んでいる、と言えるでしょう。


宇宙人であるというユウと初めて会話するシーンにおいても、「窓」のモチーフが再度リフレインされています。画面の対角線上に位置していた二人ですが、ユウの越境により両者は接近します。そこで肝要なのは、この二人を結ぶコネクターが「宇宙語」という、ある種の”共通言語”である点です。言葉による意思疎通を諦めていた海果が、宇宙語を介して外界への接触を達成しているのです。

とりわけ、半ばギャグ的な描写ではあるものの、ここでは「発音」が強調されていることに気づきます。言語を学ぶ上で「音」を覚えるのが一番最初の登竜門ではありますが、「発話する」行為にこそ言語コミュニケーションの本質が表れているのかもしれません。声に出して伝える行為は、その後の展開にも繋がります。


宇宙人・ユウの特殊能力「おでこぱしー」が披露された後のシーンでは、ダッチアングルによってユウが映された後、海果を真正面から捉える切り返しショットが対比的に描き出されます。自身が宇宙人であることと、その超常的な能力について、「みんなは信じてくれていない」というユウ。周囲からの懐疑的な目線を彼女に向けるかのような、不安定さを強調するショットです。しかしその事を微塵も疑う気のない海果だからこそ、真正面からユウに”向き合う”心理が、真正面からの切り返しショットによって補完されているのです。

また、ここの一連のシークエンスでは「おでこぱしー」を契機としてイマジナリーラインを越えていることが分かります。両者を分断していた窓のフレームは消え去り、開放的な青空を背景に向き合う二人。

二人の間に引かれていた窓のフレームは、一転して二人を囲うように描かれます。外にいるユウ・海果を「窓」による二重フレームによって、教室の内部から映すカットから映し出すのは、超常側の存在である両者を、”教室”という相容れない日常空間と対比させると同時に、理解されない者同士の不思議な絆を感じさせる画になっています。

上で挙げた「懐疑心を裏付けるダッチアングル」と「真正面のカット」の対比は、海果とユウが宝探しのオリエンテーション開始時にも反復されています。ユウと仲を深めたい一心で「自己紹介」するタイミングを伺いながらも、なかなか踏み出せない海果。


「自分のことを知ったらきっと、笑われるかもしれない」不安感と、「もしかしたらユウが宇宙人だというのも嘘かもしれない」懐疑心。それら負の感情を煽るようなダッチアングルで海果は映されます。対比的に描かれるのは、そんな海果と真剣に向き合おうとするユウの、真正面からの切り返しショット。海果がユウにそうしてくれたように、今度はユウが海果と対峙するということを、自分が宇宙人でテレパシー能力を持っていると打ち明けた際のシーンと同様でありながら、しかし人物を入れ替えたカメラワークを用いる事によって強調させています。



そして遂に達成される海果自身の言葉による自己紹介。上で挙げたように、「向き合う」行為が切り返しショットよって描かれてきたのとは対照的に、ロングショット+俯瞰ショット→ナメ構図→横構図でユウのフレームインなど、両者を同一フレームに収めるショットによって、対峙する行為の切実さが伝わります。何より、二人が画角に収まることで「同じスペース=宇宙(!)を共有する」ようなレイアウトは、いつか宇宙に行くという二人の「同じ夢を語る」行為――物語的に転機とも言える瞬間を、これ以上ないほどに適切に描出しているのです。
上で軽く触れたように、この一連のシークエンスは言葉、ひいては「”発話”によるコミュニケーション」の極地とも言えるワンシーンでもありますが、言語を介在ぜず”テレパシー”によって達成される間接的・受動的な意思疎通とは対照的な、能動性を帯びたコミュニケーションツールとして、〈言葉〉が用いられているようにも見えます。

しかし、言語による伝達のテーマはその後”反転”します。それは後のユウの隠れ家=灯台におけるワンシーンです。記憶喪失で自身の出自も目的も分からないまま地球へ漂着したユウが、これまでどれだけ大変な思いをしながらこの地球で過ごしてきたのか、それに気付かないでいた事、そしていつか「ユウが宇宙へ帰る」夢を一緒に叶えたい、という海果の思いを、敢えて言葉にはせず、「おでこぱしー」によって伝えるのです。その後、海果は「直接言えなくて(言葉にできなくて)ごめんなさい」と言います。つまり、先のシーンでは肯定的に描かれていた筈の「言葉(発話)によるコミュニケーション」が、この灯台のシーンにおいては明確に否定されているのです。
勿論、メタ的には「おでこぱしー」が本作を象徴するアイコンだからこそ、物語の最後はテレパシーによって締めるようにした、というのは不思議な話ではありません。
しかしそれ以上に、”テレパシー”の定義を問い直して異化させる役割を、このシーン、ひいては本作は担っているのでしょう。そもそもテレパシーとは、本作もその例に漏れないように「言葉を介在させずに成立するコミュニケーションの形態」であり、能動的な「発話」行為を必要としない意味では「間接性を帯びたコミュニケーション」と言えるのかもしれません。
その一方でテレパシーは、本来の言語コミュニケーションにおいて、思考を言葉にする過程で捨象される筈の「言葉未満の思考や感情」すらも余す事なく伝わってしまう、という点において、”直接性”を帯びたコミュニケーション形態でもあり、むしろその直接性こそをテレパシーの本質として本作は描いているのです。(余談ですが巷でよく言われている「脳内に”直接”語りかけてくる」というのも、テレパシーの直接性を表した言葉と言えます。)
だからこそ、海果がユウへ伝えたい思いは言葉による発話ではなく、専ら”テレパシー”によって伝達されなければならなかったのです。言葉にする過程で削ぎ落とされてしまう「言葉未満の思い」までも、その一切を取りこぼすことなくユウへ直接伝えたいからこその「おでこぱしー」なのです。それは「言葉にしてしまうと失われるニュアンスや、言葉にならない感情があるから、それも全部伝えたい」というこの上なく自己開示性を帯びている、そして直接的な、発話以上の「対話」に他なりません。