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「泣かない強さ」ではなく「泣いても立ち上がる”レジリエンス”」アイドルマスター シンデレラガールズ『U149』11話 考察

今回のサブタイトルである「大人と子供の違いって、なに?」

サブタイトルの形式そのものは、これまで同様に「なぞなぞ」モチーフの法則性を保っているものの、その”問い”の内容については、他の回とは質的に全く異なっている事が分かります。それは「なぞなぞ」のように明確な答えが用意されていない、という意味においてです。答えが用意されていない、”根源的な問い”に対していかに対峙するのかが、この11話における要だったのでしょう。

 

「大人は泣かない」

ありすのセリフからも表れているように、ありすの中での〈大人〉とは、何事にも動じない堅牢さがあって、頼りになる存在の事を指しています。ありす自身はまだ〈子供〉でありながら、そうした理想の〈大人〉に近づくためのに、年齢不相応に大人びた振る舞いをするキャラクターでした。理想の大人とは誰か。それは弁護士として働くありすの母でした。

しかしありすにとって、〈大人〉になる過程で失われていくものも往々にしてあり、その一つが「夢」である、というのです。ありすのアイドル活動はあくまでも(ありす自身はそう思ってはいないながらも)「社会勉強」の一環として、将来その経験が何かの役に立つだろう、”程度”に両親は思っているに違いない。そうした思い込みがありました。

アイドル活動そのものは肯定的でも、それはあくまで「大人になるための通過点」に過ぎないものだから、いつかは将来を見据えて勉強や就職といった「安定した道」を進む、という前提の元での話。だからきっと、アイドルデビュー――通過点ではなく、「夢」としてのアイドル活動――には難色を示すに違いない、というバイアスに囚われていました。

 

「夢」などというものにうつつを抜かさず、ただ堅実に仕事をこなす〈大人〉への憧れと、本当はアイドルとして――それも将来何か別のものになる迄の”経由地”として、ではなく――活動したいというありすの葛藤は、とりわけ「鏡」と「水」のメタファーでその内面が描かれます。

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冒頭、ありすが帰るシーン。引かれている白線が先に進むにつれて徐々に薄く途切れていく。白線によって辛うじて進む先が示されていたありすの”道”は、暗闇に溶け込んでしまいます。この描写は、後に続く一連の「反射」の演出への切っ掛けとして、強くフィルムに刻まれます。


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カーブミラー・エレベーター後方の鏡によって「分裂」されるありす。理想の〈大人〉に憧れながらも、〈子供〉じみた夢を持ち続ける事の葛藤が、鏡面によるアイデンティティの「分裂」で表されています。同様の演出はこの後も執拗に反復されます。


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金魚鉢を通した足のショットに続いて、水中からの煽りショットによるありすの顔が映されます。揺れる水越しに映る足元と、球体面(金魚鉢)からの広角で映る世界は(実際はそうではないのに)歪んで見える。上で「バイアス」という言葉を出しましたが、こういった部分にもやはり、ありすの抱える両親への「思い込み」は反映されているのでしょう。

そして極めつけには、頭部が水面の波紋によって見切れながらも、辛うじて映っていたありすの顔は、無慈悲にも前景の金魚によって隠されます。ありすは両親だけでなく、自分の本心すらも〈大人/子供〉の葛藤の中で歪めてしまい、そして覆い隠してしまったのでしょう。

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受験とアイドルの両立。1話のリフレインとして同ポで描かれる鏡のカット。ここにもやはり、ありすという人格の分裂を想起させます。このカットの直前、顔が見切れるありすが映されており、ありすの顔=本心を映し出さないように徹底されています。

それこそ振り返ってみれば、ありすの顔が映るシーンでは水中越しだったり、鏡面に反射するシーンに重きを置かれ、現実におけるありすの”顔”についてはむしろ消極的に描かれている印象を受けます。実像/鏡像の対比から、二項対立的に分断される彼女のアイデンティティを彷彿させます。

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その後すぐに、再度同ポで鏡に対峙するありすのシーン。しかし今度は鏡面に映るありすの顔を、さらにその鏡面を見る「現実のありす」の”目”を鏡面として、3重フレームで映し出されています。

鏡の中のありすを「アイドルの夢を持つ自分」とするならば、目をフレームに「現実――ありすの想像する〈大人〉の世界――に捕捉される理想の自分の姿」がそこに顕現しているのでしょう。おまけに、先程のカットと比較すると、球体面(ありすの目)を介する事で、映る「鏡のありす」は広角レンズのごとく歪んでいる事が分かります。

「もう一人の自分」に嘘をついてまで、〈大人〉としての自己を過度に内面化しようとするありすの危うさに他なりません。

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デビューにあたって予定していた両親との事前面談。しかしそこにありすは現れません。彼女は両親との対峙を徹底的に避け、雨の中逃避してしまいます。

「階段を降りる」行為は10話Cパートでも行われていますが、本作がシンデレラモチーフである事を鑑みれば、「ステージ(アイドル)を降りる」事とほぼイコールなのでしょう。表面的には「隠されていた」ありすの内面は、ここで境地を迎えます。

環境音による静謐な映像は、ここで「水」のメタファーによりMV的情緒に満ちたダイナミズムに転化します。


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ファーストカット。足元から水に沈むありす。金魚鉢?の中でただ水流に身を任せる以外に為す術がありません、冒頭で「先に進むほど消えていく道路の白線」「不安定に揺らぐ水中越しの足元」が映されていましたが、それらのカットもこの一連のMVシーンへの伏線的な導線だったのかもしれません。「もはやどこに向かって歩けば良いのかがわからない迷い」が反映されています。


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激しく流れる水は、その後「氾濫する川」へとシームレスに繋がれます。柵・フェンス・横断歩道など、幾何学的かつ直線的な遮蔽物のモチーフが挿入され、それらがありすの本心を閉じ込めようとするメタファーである事に疑いは無いでしょう。

「水流」の動的かつダイナミックさと、「遮蔽物」による静的・無慈悲さ。静と動の二律背反のメタファーが衝突し、「表面的には抑えようとしていたものが決壊し、溢れ出てしまう」映像は、まさにありすの〈子供/大人〉の二項対立による葛藤の境地を、何より饒舌に語るものです。


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また全体的に鬱屈としたモノトーン基調の映像だからこそ、唐突に現れる金魚の存在感が際立ちます。『イメージ・シンボル事典』によると、”魚”は「無意識の海の中に隠されている自己」を表象します。つまり、水=無意識の中に潜むありすの本心は金魚として(もはや無視できないほどに大きく)そこに召喚されているのです。灰色の世界を暖色系で彩る存在であり、雄弁に海を掻き分けて前進するそれは、流されるがままのありすと対比的に描かれる、「もう一人の自分」を表すイコンです。

 

クロスカッティングで描かれたありすとプロデューサーが屋上でついに再会するシーン。「大人になろう背伸びして自分自身隠すありす」のアンチテーゼとして描かれているのが「大人でありながらも子供のような無垢さで夢を追う」プロデューサーでした。

しかし、それは裏を返せばPもまた「いつの間にか”大人扱い”されるフェーズに入ってしまった”子供”の一人」ということであり、一人前の大人になれないPはその事に引け目を感じています。だからありすに「無力な大人」である事を看破される事態は、彼にとって最も悔しい事に他なりません。

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堪らず涙を流すプロデューサー。「大人は泣かない」というありすの「大人の定義」を借りれば、涙を流すPは、ありすの想像するような「子供じみた夢を持たずに、何事にも動じず愚直に現実を生き抜く精神的強さ」という意味での〈大人〉とは程遠いものに映ったはずです。しかし、Pの涙を起点に想起されるのは、母でした。ありすの想像する強い〈大人〉の理想像の権化だったはずの、あの母です。


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幻想的な回想の中で、母は弁護士として働いていることが明かされます。台詞のない回想シーンから判断できるのは、ほんの表面的な部分のみですが、母もかつては弁護士という〈夢〉を追う側の者だった筈です。その意味では、アイドルになる〈夢〉を持つありすと質的には何ら変わりないのです。恐らくは夢を追う最中で自身の無力さに直面し、ありすの前で涙を流した事もあったのでしょう。

 

母もまたPと同様に「子供のような夢から卒業して、堅牢な強さを有する〈大人〉」などでは決してなかったのです。ここで私はレジリエンスという概念を想起しました。

これは日本語で「回復力・弾力性」を意味する言葉で、単純な「屈強さ」としての強さではなく「しなやかに生き続け、回復できる強さ」を意味します。

今回の挿話においてPが涙を流す描写がリフレインされてきましたが、泣く度に立ち直って前進するPの姿勢は、かつてのありすの母と同様に、レジリエンスを有する「柔軟な強さ」を持つ存在として描かれているのです。

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だからこそ、ありすもまたプロデューサー、そして両親を通じて「泣かない強さ」ではなく「泣いても立ち上がる強さ」という”レジリエンスを獲得できたのでしょう。

そこには、以前のような〈子供=弱い/大人=強い〉といった二項対立はもはや存在しません。だからこそ、1話の反復として描かれる同ポの構図において、「かつて子供=ありすが居た立ち位置に大人であるPが居て、Pが居た立ち位置にありすが居る」事にも説得力が生まれます。


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”涙”を媒介にレジリエンスを獲得した両者に対して、単純に〈子供/大人〉と切り分ける事など、もはや何の意味も持たない訳ですから。

 

そしてユニット名であり、タイトル回収でもある「U149」もまた、違った意味を帯びている事に気づきます。身長が150cm未満のユニットを由来とした安直なネーミングですが、これは元々、アイドルにいたいけな〈子供〉としてのレッテルを貼り、商品として売り出すための”マーケティングツール”的な含意があり、そこに疑念を隠せなかったのが他でもなくプロデューサーでした。

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冒頭を振り返ってみれば、もうすぐ身長150cmに達する桃華や、「兄貴より大きくなりたい」晴など、ユニットのコンセプト――身長149cm以下――に矛盾する事態が起こっていましたが、むしろここでは背が伸びたり、大きくなりたい等、成長途上にいるアイドルを、〈子供〉というカテゴリに否応なしに追いやる、暴力的な装置として機能していました。

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しかし同時に、それは裏を返せば「大人であっても子供で居られる場所」を意味します。〈子供/大人〉のアポリアを超越した今、「U149」ほどふさわしい名前は見つからない筈です。マーケティング的な意図から生まれたアイドルへの無慈悲なレッテルが、反転して自分たち第3芸能課のスタンスを何よりも的確に示す屋号として機能するのは、正に柔軟な強さ――レジリエンス――の賜物と言えるでしょう。