ロリポップ・アンド・バレット

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『幻日のヨハネ』1話 感想 「視界に入る」と「見る」について

「トカイでビッグになる」ヨハネの夢は今や断たれ、ヌマヅ――何もない”田舎”――に出戻りする。つまり彼女にとっては「〈中心〉に憧れるも、志半ばで夢破れ〈周縁〉の引力に屈する」という屈辱的な仕打ちで開幕する『幻日のヨハネ』。

 

「何でも揃っている」トカイでは、定期的にオーディションが行われており、そこら中にバイトの求人があるなど幾度とチャンスがありながらそれをモノにできず、他方「何にもない」ヌマヅにおいては、むしろトカイ以上に「トカイでビッグになる(が叶わなかった」夢が呪いのように感じられ、”敗北者”という自意識から生じる周囲からの目線に耐えられない。どちらにしても、ヨハネにとっての「居場所」とは言い難い状況で描かれる帰還。

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しかし、本当にヨハネの「居場所」は無かったのでしょうか?この1話では視線、ひいては「見る」行為を契機として、ディスコミュニケーションからの脱却が描かれます。

冒頭。ヌマヅへ帰還するヨハネライラプスへ「おかえり」の一言を求める一方で、「ただいま」とは言いません。故郷を「帰る場所」として受容できずに居ながらも、一方的に「おかえり」――”私”を無条件で受け入れる言葉――をライラプスに求めてしまう、という年相応の幼さが現れています。このように、一方通行の対話によるコミュニケーションの「失敗」が描かれる本作において、いかに相互的な対話が達成されてきたのか、が今回の要です。

 

幼馴染のハナマルを見かける一連のシークエンスも同様です。今はヌマヅでお菓子屋さんを営んでいる彼女を目にし、トカイで夢を叶えられずに不本意な出戻りを経験しているヨハネにとって、コンプレックスを刺激する存在としてその目に映ります。

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「話さなくても良いの?友達でしょ?」とライラプスに諭されるも、自ら対話を試みようとはしません。それどころか「別に友達じゃない」と断じてしまう始末。

つまりこれは、ヨハネの「視界にハナマルが入っている」に過ぎず、ハナマルを「見て」はいないという事です。ヨハネの姿が見切れた画は、ハナマルが視界に入る事すらも拒むようで、ディスコミュニケーション性をより一層強調しています。

 

「視界に入る」ことと、「見る」ことの違い。これこそが、この1話におけるテーマに他なりません。


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トカイでは数々のオーディションや路上ライブに挑戦するも、敗戦続きでデビューが叶わなかったヨハネは、審査員・街の歩行者などのオーディエンスにとって単に「視界に入る」存在にすぎず、自分に可能性を「見て」くれる人はいませんでした。

しかしながら、ハナマルに接するヨハネの徹底して対話を避ける態度を振り返ってみれば、ヨハネもまた彼女の事を本当の意味では「見よう」としていない事が分かります。ここにもやはり、上で触れたような「対話の一方通行性」に通底していると言えます。

彼女の視界に入るヌマヅが「何もなくてつまらない町」に過ぎない、というのもそうした態度の現れです。

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「ヌマヅで他の知り合いに会うのは嫌」だけど「自分の存在に気づいてほしい」というヨハネの二律背反性を換言すれば、「視界に入る」だけではなく、「見て」ほしいという気持ちの発露なのでしょう。

そのためには、まずヨハネが素直にならなければいけない。その契機となったのが、森の切り株のステージでした。かつてヨハネはそこで、楽しく歌っていました。しかし無慈悲にも、歌を馬鹿にする人の存在によって、その”居場所”は奪われた事が明かされます。つまり、ヨハネは「見よう」としない者の”視界”によって、自己表現する機会を損失した、と言えます。

 

そんな中、ヨハネにお菓子を食べてもらいたい一心でやってきたハナマルと、ここで再会します。ヨハネはハナマルの存在に気づいていなかった様子なあたり、まだハナマルの事を「見れて」はいない、受動的な視界=自意識に捕捉されている事が伺えます。

しかしハナマルはヨハネに救われた一人でもありました、自己表現の手段としてお菓子作りを始めたきっかけが、他でもなくヨハネの歌だったといいます。ハナマルは、ヨハネを「見る」能動的なオーディエンスだったのです。

 

そして挿入される『Far far away』。曲のタイトルや歌詞からも分かるように、どこか遠くの「まだ見ぬ場所」で夢を叶える。そんなヨハネの夢の淵源を表す歌ですが、夢破れて地元へ戻ってきたヨハネにとって、これ以上ないほど痛烈なカウンターとして効いていますが、むしろ「過去の精算としての歌」と解釈するなら、『虹ヶ咲』序盤における優木せつ菜の『CHASE!』のような位置づけとして読めるかもしれません。

 

これは同時に、ヨハネにとっては新たなスタートを示す一曲でもありました。余談ですがここにもやはり、『CHASE!』との類似性が見えてきます。

ヨハネの視界に入っていたにすぎない「何もないヌマヅ」と、「今まさに立っているステージのあるヌマヅ」では、同じ場所であっても質的に全く異なっている事が分かります。最も近くて、最も遠い場所としてのヌマヅ。ヨハネの視界を共有して、異化されたヌマヅはまさしく、ヨハネにとっての「まだ見ぬ場所」だったのでしょう。

 

ここで初めて言える「ただいま」の言葉。お互いを「見る」事で初めて成立する相互のコミュニケーション。日常の中で「自動化された表現」として使われる「ただいま」が、ここでもやはり「異化された表現」として、特有の意味を帯びている事が分かります。


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二人の対話を真正面からの切り返しショットによって描き出す事で、説得力が増す画です。これは冒頭の川のシーンにおいて、目を合わせずその場から立ち去ろうとする事との対比です。

 

ヨハネが「ただいま」と応えると同時にハマユウ(どこか遠くへ)がインサートされ、すかさず花弁が消える瞬間。彼女がヌマヅを受容できた事の証左だったのでしょう。

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ヌマヅに住む家族と友人は彼女を迎え入れ、彼女もまた故郷としてのヌマヅを受容できる、まさにヌマヅとヨハネが相互のコミュニケーションを達成した瞬間と言えるでしょう。