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”接近”と”すれ違い” あるいは範列の置換可能性について 『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』 9話 考察

解散したかつてのバンドであり、「運命共同体」という精神的支柱でもあったCRYCHICへの未練が拭い切れぬ長崎そよ。CRYCHICの復活に向けて暗躍していた彼女の目論見も虚しく、元バンドメンバーにしてCRYCHICの創始者・豊川祥子から一方的な最後通告を叩きつけられ、もはや自分の居場所を失う。

ある意味では、誰よりも目標を明確に歩んできたとも言えるそよが初めて”迷子”になる様子が描かれたのが8話でした。

 

この9話は、サブタイトル「解散」が明示するように、精神的支柱を失って自暴自棄になりバンド活動から撤退するそよを起点として、愛音・立希・燈、各々のキャラクターが”迷子”になる回と言えるでしょう。

 

意味空間としての「家族」の崩壊

祥子は「バンドは運命共同体」をスローガンに掲げて、かつてCRYCHICを結成しました。そよにとっての主たる共同体とは、「バンド」は勿論のこと「家族」そして「吹奏楽部(月ノ森学園そのもの、とも換言できるかもしれません。)」も含まれます。

彼女を取り巻く”共同体”のうち、今回描かれたそよの一家、即ち「家族」について。

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そよの旧姓が「一ノ瀬」である事が判明し、今はシングルマザーの元で暮らしている家族事情が明かされます。女手一つでそよを名門校に通わせ、吹奏楽部のみならず学外のバンド活動にまで専念できる場を提供する愛情深さが垣間見えますが、同時にそれは、そよにとっての2つの共同体(学校生活・バンド)を守るために、「家庭」を犠牲にせざるを得ない事を意味します。

実際に、家族構成としては「母・娘」であっても、多忙な母は常に家のことをカバーできる訳ではなく、料理をはじめとする家事――役割としての母――は娘であるそよが実質的に担っている、という状況です。

家族というコミュニティは、最低限「母・娘」でも成り立ちます。これは英語において”I walk"など、SVだけで文章が成立する第1文型と同じ理屈です。

このように、物事を成立させる構成要素の配列規則のことを記号論では「連辞(サンタグム)」と言います。上で英語におけるSVOCなどの「文型」を例に挙げましたが、いわゆる「文法」に近い概念です。料理なら「主菜・副菜・前菜」の規則に近いイメージです。

この長崎家においては、母親として十分に役割を全うできずにいる母に代わって、そよが母親に成り代わる事で、辛うじて連辞の法則が保たれていると言えます。逆に言えば、そうしなければ家族という共同体は保たれないという極めて脆弱な状態で成立しているに過ぎません。

それを裏付けるのが、忙しい母を横目に一人部屋に取り残されるそよのカット。

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窓から差し込む光が3等分のスペースを照らし出し、分割された空間がそれぞれ「父・母・娘」を示す家族という共同体を表す痕跡、即ち「指標記号」として機能していますが、その空間に立つのは今や、そよ一人しか存在しません。「母・娘」という最小単位で成立していた家族の意味空間は、もはや連辞規則が保たれず、実質的には既にその機能を停止している、とすら言えるかもしれません。

 

バンドにおける範列(パラディグム)の置換可能性

上で「家族」を例に連辞(サンタグム)――物事を成立させる構成要素の配置規則について触れましたが、連辞の規則に基づいて配置・置換される構成要素そのもののことを記号論では「範列(パラディグム)」と言います。

”I walk"は第1文型(SV型)という連辞に基づいて成立している文ですが、このSVにあたる箇所はそれぞれ”He”, "runs"に置換可能です。この置換可能な構成要素(この例なら「単語」)こそが範列に他なりません。

 

バンドにおいては「ボーカル・ギター・ベース・ドラム」という”連辞”に則って、「それぞれの楽器を担当する者」が”範列”として配置されます。今回、『MyGO』において問題となっているのは、範列の置換可能性についてです。即ち、形式としての「バンド」の成立が、必ずしも意味空間の成立にはならない(本作の言葉を借りるなら「迷子になる」)、という部分です。

CRYCHICにおいて、いちキーボード担当の祥子の脱退が、そのままCRYCHICの解散という意味空間の喪失に繋がったように、単なる「構成要素の一つ」では説明ができない「置換の不可能性」が、本作では示されているのです。

 

それは今回の挿話において、ライブでの「春日影騒動」の後、バンド活動に顔を出さなくなったそよの代わりとして、立希が同じクラスの海鈴をベースとして迎え入れようとして失敗している事からも読み取れます。立希は「ベースなしではバンドはできない」と言いましたが、これはあくまでも”バンド”という「記号の実現」のためには連辞の成立が不可欠であり、その構成要素となる範列は問わない、という姿勢です。換言すれば、立希にとってそよは置換可能なバンドの構成要素に過ぎない、という事です。

一方で燈にとってのそよは置換不可能な存在だったからこそ、この海鈴とのセッションにおいては歌を歌うことができず、「意味空間」は成立しませんでした。

「一生バンドをやる」という燈の言葉が意味する事は、単に連辞の規則に基づいて範列を配置し、「バンド=記号が実現している状態」を保ちたい、という事では決してないのです。ここにこそ、「意味空間を守りたい燈」と、「記号の実現に固執する立希」のすれ違いが描き出されているのです。

 

「接近」と「すれ違い」のニアミス

両者のすれ違いは、歩道橋におけるワンシーンにおいて饒舌に描き出されています。

「歩道橋」は対岸への越境を表すモチーフとして、本作において幾度もリフレインされた舞台装置です。立希を置き去りに対岸(光で照らされる場所)へ向かって歩く燈。


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時点のカットではフレームから燈は消え去り、影に取り残される立希。すぐ下の道路の白線によってフレームは更に「分断」されることで、両者の断絶は極地を迎えます。

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燈を追いかけて、辛うじて対岸へたどり着く立希。しかし燈は既に階段の下に降りており、それぞれの立ち位置はこの時点で階段の上と下。即ちに”対角線上”にいる燈と立希の距離感は、歩道橋の延長線上にいた直前のカットよりも、かえって増長されているようにすら映ります。「心配しなくていいから」と発する立希の言葉は、これ以上ないほどに空虚に響き渡ります。

 

このような「接近」と「すれ違い」のニアミスはこの挿話において幾度とリフレインされています。

踏切でのワンシーンも同様です。対岸で歩くそよを発見する燈。愛音の声を無視し、電車へ入るそよ。燈はすかさず踏切を越境し、そよ追いかけるも虚しく、あともう少しのところでそよを乗せた電車は無慈悲にも発進し、燈を置き去りにしてしまいます。


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対岸を結ぶ「踏切」は、歩道橋と同じく越境による”接近”のクリシェとして描き出されています。しかし同時に、対岸のホームでそれぞれ別方向に”平行線上”を走る「電車」は、その越境を無効化し、嘲笑するように「すれ違い」を前景化させる無慈悲な装置として映し出されているのです。

 

上で「連辞」と「範列」について触れましたが、越境行為によって辛うじて連辞関係(ここでは、バンド)が保たれつつあったものが、範列となる構成要素(ここでは、そよ)が喪失または他の誰かに置換されてしまう事で、意味空間が喪失してしまう、脆弱な連合関係が、ここでは「踏切」と「電車」というモチーフから読み取ることができるかもしれません。そよを乗せた電車が過ぎ去った後のホームは空っぽの空間と化すか、別の電車がやってくるのを待つか、その2択を否応なしに迫られるのです。

 

「今のバンドはCRYCHIC復活のための前身に過ぎなかった」こと、「愛音をCRYCHIC復活のための人身御供として利用していた」というそよが用意した結末を、視聴者視点では明らかなものとして描いていながら劇中人物には伏せておく、所謂「劇的アイロニー」を採択している本作ですが、そよと立希の対話シーンにおいて、遂にその「種明かし」が成されます。

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階段の上と下・対角線上に立つそよと立希。ここでもやはり、歩道橋における燈と立希のカットと同様に、両者の距離感を示す装置として「階段」が映し出されています。

新しいバンドなんて最初からやる気がなく、燈との約束もCRYCHICを再現するための「嘘」にすぎないと一蹴するそよと、燈との「誓い」を守りたい立希の”すれ違い”が前景化するシーンですが、ここで両者を”接近”させる唯一の共通項は、皮肉にも「自分のエゴを満たすためだけに居場所を守ろうとしている」という部分です。

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愛音を「元CRYCHICメンバーとの置換を前提とした範列(構成要素)」に過ぎないと見ていたそよを批難する立希もまた、「一生バンドやる」という燈との”誓い”を守るために、「そよを海鈴に置換しようとしていた」こと、即ち「燈さえ居れば、他は置換可能」とする点では、そよと同質の存在に他ならないのです。

 

このように「連辞に則ってさえいれば、範列は他のもので代替が可能なのか」という本質的な問いを表したものが、愛音の台詞「私、いらないんでしょ?」に他なりません。

範列の置換と喪失によって意味空間を失った=”迷子”になった彼女たちによって、今はまだ名前のない、単に”記号の実現”に過ぎない新しいバンドが「MyGO!!!!!」という”意味空間”として描かれるまでの、記号論的なテーマに着目したいです。