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「自由」としての迷子 あるいは"コード"からの解放『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』10話 考察

冒頭。プラネタリウムを見る燈が、劇中アイドルユニット「sumimi」の初華と居合わせるシーン。その後、プラネタリウムの上映終了後に、屋外で夜空を見上げる二人。

振り返ってみれば、この時に燈と初華の両者を媒介していた「星」は、この挿話においてキーとなる要素だったのかもしれません。”星”を広大の宇宙の中で、それぞれが別個に存在する恒星として見れば、それはただ雑多に空に散らばっているにすぎないものですが、各々の天体を線で結んで見た時には、「星座」という新たな”形”がそこに顕現し始めます。

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前回の記事においては、記号論における「範列(構成要素)」と「連辞(要素の配列規則)」を援用しつつ考察しましたが、この10話冒頭においても同様です。

「範列となる構成要素(星)」と「構成要素を統率する規則(線)」によって、バラバラにある天体たちははじめて「星座」という”意味”を実現できるのです。

我々が普通、夜空に無数に存在する星から「星座」を発見するためには、「無尽蔵に存在する他の星」と「星座を構成する星」とを”弁別”するプロセスを経る必要があります。これを記号論では「分節化」と呼びます。分類の「コード」に基づいて事物を認知する、という事です。

ここで重要なのは、人類が星座を分類する為の「コード」を持ち合わせていなかった頃は、星座というものは存在していなかった、と言うことができる点です。このように、言葉や規則に基づいた「分節」によって、対象は初めて存在する事ができるのです。

詩って伝わる気がするよね。言葉以上に、気持ちが。

初華との対話において「星」の次に引き合いに出される話題は「詩」についてです。

上で引用した台詞から察することができるように、「詩」と「言葉」はそれぞれ別々のものとして”弁別”されています。同時に「詩」は、メロディー・リズムなどが刻印された表現形態である「曲」になる以前、即ち「分節化される前の”散文”」でもあります。

そして分節される以前の、まだ「曲」としては存在していない「詩」こそが、迷える者達を導く一つの”燈火”となり、「詩」が次第に「曲」に変化していくライブにおいて、一度バラバラになった愛音・そよ・立希が再び”星座”の如く繋がりを再生する。

燈という媒介項=コードを通じた分節化のプロセスにおいて「一番近くにあったにも関わらず気づかずにいた”居場所”を再発見する」。一義的には、そういう回だったのかもしれません。

 

しかしながら、私はこの回のテーマを「居場所の再発見」とする解釈から、もっと一歩踏み込む余地があると考えます。何故なら、元々この作品は「迷子でも進む」「迷うことに迷わない」というキャッチコピーからも察せられるように、どこに進むべきかという”方向性”や、自分のアイデンティティを画定する”居場所”が「無い」という事そのものを肯定するテーマが内包されており、本当の意味で5人が一つになるターニングポイントとして描かれたこの10話こそ、再発見という「有」のテーマよりもむしろ、失われた「」の要素に着目したいと思います。

 

「コード化された世界」からの脱却

誰も居なくなっても尚、歩みを止めずにRiNGでライブ=「詩」の朗読を続ける燈は、愛音にギターを引いてほしいと懇願し、逃げる彼女を屋上まで追いかけた後のシーン。

「一緒に迷子になろう」と進言する燈の熱量に押し負けるタイミングでチャイムが鳴り響き、「燈ちゃんのせいだよ」と愛音は根負けした様子で吐露する。ここで注目したいのは、「チャイム」という時刻を知らせる装置の象徴性についてです。

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チャイムとは、等間隔に「音」を鳴らすことによって時間を区切り、学校・会社などの始業・終業を知らせるためのものです。即ち、そのままでは存在し得ない「時間」という概念を、インターバルごとに繰り返し鳴らされる「音」によって分節化し、生徒を学校の時間割通りに行動するように画定する「社会的なコード」としての役割を、チャイムは担っているのです。

 

チャイムが鳴った今、燈と愛音はその時点で恐らく授業に遅刻してしまったのでしょう。校則という”コード”を破り、燈との「共犯関係」が成立した瞬間です。

燈の言う「一緒に迷子になる」とは、「コード化された世界」の中で居場所を失った者達を、個々人の行動やアイデンティティを画定する社会的コードから解放し、”自由”になろう、というコノテーションがそこにはあります。

このように、私はこの10話を「迷える者たちが燈という共通項を経由して、失われた居場所を見つける物語」というよりはむしろ、「各々が社会のコードから敢えて”目を逸らす”ことで、自由になる=迷子である事を肯定する」回である、という立場を取りたいと思います。

 

「人間」である愛音・そよと、「非人間」としての燈

「見栄で始めたくせに」

上で触れた屋上のシーンにおいて、燈は愛音がバンドを始めた理由が「ただの見栄」であることに気付いていなかった様子だった一方で、そよと愛音がテーブルを挟んでマンツーマンで対話するシーンでは、愛音が見栄でバンドを始めた事がそよには看破されている事が判明します。

一番近くにいたはずの燈には、愛音の下心は伝わっていなかったのに、この回が訪れるまではお互いに表面的な応酬を交わすにすぎなかったそよには、愛音の企みがしっかり”伝わってしまって”いるのです。

 

どういうことでしょうか?

 

親に勧められるがまま月ノ森学園に入学・クラスメイトに誘われて吹奏楽に入部し、他者から与えられた役割を演じようとするそよ。他方、クラスメイトや友達から良く思われたいがためにイギリスへの弾丸留学やバンドを始めた愛音。

両者に共通しているのは、方向性は違えどお互いに「周囲から求められる自分でありたい」、あるいは「自分の立ち位置を確立したい」という「社会的なコード」に即して生きている、という部分です。

つまり、社会の中で同じ”記号体系”を共有している者同士であれば、心の内を明かさずとも、両者のコミュニケーションは難なく”成立してしまう”という事に他なりません。

 

他方、自分自身を「人間未満」であると卑下し、世間と自己との形容し難い「ズレ」に思い悩んでいた燈は、しきりに「人間になりたい」と心の内で叫び、それが詩となって表出するポエマー気質の人物として終始描かれます。それは「社交的で誰とでも仲良くなれる普通の人」という社会で求められる”コード”が、自分の中には共有されていない事から生じる悩みです。つまり、愛音と燈との間では同じコードが共有されておらず、だからこそ両者は一番近くに居るにも関わらず、コミュニケーションは成立し難いのです。

社会における「コード」の体系が、否応なくコミュニケーションを成立させてしまう一方、コードを持たない者に対してはコミュニケーションの機会を奪う方向に働いてしまう暴力性と冷酷さが、そこには表れているのです。

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そよさんも人間なんだなって

裏表すごいし、ウソつきまくりだし、意地悪いとことかあるでしょ?

 

ここで「人間」というワードが出てきます。しかしこの”人間”は、”人間未満”である燈が「そうなりたい」と羨望して止まない”人間”とは、意味が全く異なっています。

燈の定義する「人間」とは、社会から求められるコードに従って、社交的に振る舞う、いわゆる「普通の人たち」の事を指しています。

一方でそよと愛音をカテゴリ化する「人間」とはむしろその逆であり、社会的なコードの裏にある、「嘘と打算に満ちたエゴイスト」の方を指しており、燈の想像する「人間」とは表裏の関係にあると言えるのです。

 

愛音とそよは、むしろ表面的な”コード”を剥ぎ取ったからこそ「人間」らしく振る舞えるようになりました。その二人を引き合わせ、ステージの上に立たせた人物が、”人間に成り損なった”燈と、”動物”的本能のままに生きるギタリストの楽奈、即ち「”人間”というコードから外れた2人」であった事は示唆的です。

 

ゲームチェンジャーとしての燈

燈の性格は「繊細で、内に独特な世界観を秘めるミステリアスなキャラクター」でありながらも、冒頭で描かれたような「屋上で授業をサボる上に、愛音をサボりの共犯者に仕立て上げる」だけでなく、6話において不在の立希を追って他校へ勝手に侵入するなど、ところどころで”アウトロー”な行動が目立ちます。

行動はむしろ大胆でありながらも、そこに世間との「ズレ」を感じて、言い知れぬしんどさを感じてしまう繊細さのミスマッチが、彼女の「生きづらさ」の正体なのでしょう。

しかしながら、平素における「”模範的な人間”らしく振る舞えない」という燈の人間的な欠陥は、音楽においては「ステージを制圧する主導権」に反転します。

思い返せば、3話(CRYCHIC時代)と7話において『春日影』が披露された時、メンバー・観客問わず明らかに燈がバンドの中心的存在として描かれていました。

また7話においては声がうまく出ずに本領を発揮できなかった『碧天伴走』では観客がそう多くなかった一方、祥子バフがかかって覚醒した後に披露した『春日影』は、燈の歌声によってライブハウスは満たされていることからも、他のバンドメンバーとは明確に異なる「カリスマ性」を有した存在として描かれています。


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そんな燈のポテンシャルが存分に発揮されたのが、この10話でした。

上で”アウトロー”な燈のパーソナリティに触れましたが、メンバーが散り散りになった後でも、ライブハウスでたった一人ポエムの朗読を行うなど、周りに誰がいても居なくてもお構いなしに独走し、一人でライブハウスを制圧してみせます。

それが切っ掛けに、一度は離れてしまった楽奈・立希を再びステージに引き寄せる事となりました。コード化された世界においては「人間未満」として肩身狭く生きるしかない燈は、ステージの上ではスタンドプレーによって場を掌握し、全ての流れを変える「ゲームチェンジャー」へと転じるのです。

 

コードからの解放、あるいは”自由”としての「迷子」

もう一つ、今回披露された『詩超絆』は、曲の大部分が「語り」によって構成される、所謂ポエトリーリーディングであることが、テーマ的に大きな意味を占めています。通常、「曲」とは歌詞だけでなく楽譜やコード進行といった「設計図」に基づいて作られ、基本的にはそれらに則って演奏されるものです。どんな楽曲でも、最初から事細かく筋道が規定されていて、予めゴールが決まっている筈です。

しかし、燈は「曲」になる前の「詩」によって「語る」ことを選びます。

つまり、音楽を規定するコードとは無関係に「自由な語り」をここで行うことで、コード化された社会の中で居場所を失った者達=迷子の愛音・そよ・立希をコードから解き放ち、迷子であることそのものを肯定する表現形態として、ポエトリーリーディングが採択されいるのです。

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そしてもう一つ重要なのが、『詩超絆』の劇中における「即興性」についてです。

”練習には良い”し、劇中で2回演奏された『春日影』や、愛音が”練習では弾けてた”という『碧天伴走』とは異なり、『詩超絆』を練習本番含めて全員でセッションをするのは、あのステージが初めてであると判断できます。即ち、燈以外のメンバーは「その場で曲を合わせて」あの曲を演奏していました。譜面通りに音を弾くのではなく、即興で「”作曲”しながら”演奏”する」という事。

「道があるから歩くのではなく、歩いた痕跡が結果的に道になる」という有名な言葉がありますが、予め決められたゴールや居場所が存在せず、「迷子になりながらも歩み続ける」というテーマが、「音楽の即興性」によって語られているのです。

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「コード化された世界からの解放」というテーマでこの10話を読み解いてきましたが、この境地とも言えるのが「観客に背を向けて歌う」一連のシークエンスです。

観客席が「コードによって規定された世界」であるとすれば、ステージは「世界のコードから解放された空間」と言えます。燈が観客に背を向けて、ステージにいる仲間達の方を向いて歌うということは、即ち”コード化世界”から目を逸すことで、コードの存在しない「迷子でありながらも、自由な空間」を創出しているのです。そこは、冒頭とは異なり「人間」と「非人間」を弁別し、コミュニケーションを妨げる無慈悲なコードはもはや存在せず、真の意味で「対話」が成立する、「何もない空間」です。

 

観客側にいる(未だコードに囚われる)そよをステージへ引っ張る燈。「バンドを終わらせに来た」筈のそよは、もはや演奏を与儀なくされます。不本意な演奏は『春日影』に次いで2回目でありながら、次第に涙を浮かべるそよ。コード化社会の中で「迷子」である事に無自覚であったそよは、ここで初めて解放され、感情が決壊します。

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「居場所が無い」事は、裏を返せば自分を縛るコミュニティがやコードが存在しないという事でもあり、それを反転すれば「自由」になり、それがかえって居場所以上の空間へと転化する、という逆説が描かれたのが今回でした。

これは「ルビンの壺」と呼ばれる有名なトリックアートの類です。今更説明するまでもないかと思いますが、壺の背景が向き合った人の顔になっているというものです。

心理学的には「図(絵として知覚する部分)」と「地(背景として知覚する部分)」が入れ替わって見えるため、「図地反転図形」と呼ばれます。

つまり、「絵が描かれていない方こそが絵である」という逆説がそこには内包されています。

何も無い所こそが、居場所以上の空間へと転じる『MyGO』10話の逆説的なテーマは、何となくそれに近いのかな、という印象を抱きました。