星新一『ボッコちゃん』レビュー 鏡は理想を”反射”するのか、あるいは”反転する”のか
星新一の代表作『ボッコちゃん』。
ごく短いショートショートという形式を取る文学作品でありながら、特異な世界観・伏線の回収など、小説のエッセンスが込められた一作。
今回は作品のキーパーソン(?)であるボッコちゃんの役割について書いてみました。
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”完全”な美人・ボッコちゃんの”欠点”
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ボッコちゃんと青年
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ボッコちゃんは如何にして「完全な美人」になったか
1.”完全”な美人・ボッコちゃんの”欠点”
そのロボットは、うまくできていた。女のロボットだった。人工的なものだから、いくらでも美人に作れた。あらゆる美人の要素を取り入れたので、完全な美人が出来上がった。もっとも、少しつんとしていた。だが、つんとしていることは、美人の条件なのだった。
(中略)
しかし、頭が空っぽに近かった。彼もそこまでは、手が回らない。簡単な受け答えができるだけだし、動作のほうも、酒を飲むことだけだった。
このように、ボッコちゃんは冒頭で「完全な美人」と明言されているにも関わらず、その後に続くのは「少しつんとしていた」「頭が空っぽに近かった」など、明らかな”欠点”を持つ存在です。
”完全な美人”なのに「欠点がある」があるのは、矛盾しているようにも思えますが、むしろその「欠点」が盲点になってしまうからこそ、ボッコちゃんは誰かの理想を写す”鏡”になり得たのでしょう。
そして、次のように誰かが発した言葉をそっくりそのままオウム返しに”反射”する様相もまた、ボッコちゃんの”鏡”としての役割を、一層説得力を持って描いていたとも言えるでしょう。
「お客の中で、誰がすきだい」
「誰が好きかしら」
「ぼくをすきかい」
「あなたが好きだわ」
(中略)
若いのにしっかりした子だ。べたべたお世辞を言わないし、飲んでも乱れない。そんなわけで、ますます人気が出て、立ち寄るものが増えていった。
ただ”反射”しているに過ぎない言葉でも、客にとっては「自分の言葉を全て肯定してくれる存在」。このように、ボッコちゃんに対して好意的な見方をする=客にとって理想を写す”鏡”という図式がここで描かれます。
そんなボッコちゃんの前では、ロボット故の「受け答えの不自然さ」はもはやどうでも良くなってしまうし、「つんとした冷たい」という”欠点”も、むしろチャームポイントの一つとすら見えてしまう。まさに「恋は盲目」を象徴する存在だったのかも知れません。
2.ボッコちゃんと青年
その中に、一人の青年がいた。ボッコちゃんに熱をあげ、通いつめていたが、いつも、もう少しという感じで、恋心はかえって高まった。
とりわけ、そんな「盲目的な恋」に一直線だったのが「青年」です。
ボッコちゃんが好きすぎるあまり散財して、ついに家の金まで手をつけようとしたため、父親からこっぴどく怒られる。「上品な客が多い」バーの中では際立って異質な存在として描かれていますが、ここにもやはり「上品な客」を反転した存在こそが、甲斐性なしでだらしない「青年」に他ならないという”鏡写し”の関係性が描かれます。
そんな青年の理想を反射・もとい「反転」させる重要な存在がボッコちゃんであったことは言うまでもありません。
「もうこられないんだ」
「もうこられないの」
「かなしいかい」
「かなしいわ」
「本当はそうじゃないんだろう」
「本当はそうじゃないの」
「君ぐらいつめたい人はいないね」
「あたしぐらいつめたい人はいないの」
「殺してやろうか」
「殺してちょうだい」
彼はポケットから薬の包みを出して、グラスにいれ、ボッコちゃんの前に押しやった。
「全てを反射する鏡」のボッコちゃんは、他の客と同様に青年の言葉も正しく”反射”します。しかしその反射した言葉は、他の客のように発言の全て「肯定」してくれるどころか、むしろ青年にとっては一途な恋心を「否定」されてしまう、そんな真逆の意味を持っていたに違いありません。
ボッコちゃんが「理想を写す鏡」ならば、鏡にもまた一つ大きな、そして案外気付きにくい欠点があります。それは「鏡に写る像は、常に左右が反転している」という部分。
それ故に鏡は全てを正しく写してくれる訳ではないし、青年と他の客は「ボッコちゃん」という鏡を通じて同じもの=自分自身の理想を見ているつもりでも、そこに写っているのはむしろ青年にとって理想とはもっともかけ離れた、”恋心の否定”だったのでしょう。
鏡は一見、理想を正しく写してくれるものに思えるますが、左右が”反転”しているため、理想とは逆のものを写し出すこともあるのです。
3.ボッコちゃんは如何にして「完全な美人」になったか
彼はポケットから薬の包みを出して、グラスにいれ、ボッコちゃんの前に押しやった。
「飲むかい」
「飲むわ」
彼の見詰めている前で、ボッコちゃんは飲んだ。彼は「勝手に死んだらいいさ」と言い、「勝手に死ぬわ」の声を背に、マスターに金を渡して、外に出た。夜にふけていた。
前提として、このシーンの前には「ボッコちゃんが飲んだ酒はマスターが回収し、客にこっそり提供している」事が読者に明かされます。
つまり、この後のシーンではボッコちゃんの飲んだ毒入り酒が、それを知る由もないマスターと他の客が飲み、失恋し店を後にした青年以外は全員死亡エンドを辿ります。
本作屈指の伏線回収箇所でもあり、山場でもある場面ですが、ひとり残されたボッコちゃんが最後に”反射”するものが「ラジオ」から流れるおやすみなさいの言葉だったのが、「理想を”反射”もとい”反転”する鏡」であるボッコちゃんにとって重要な意味を帯びていたのだと思います。
その夜、バーは遅くまで明かりがついていた。ラジオは音楽を流し続けていた。しかし、だれひとり帰りもしないのに、人声だけは絶えていた。
そのうち、ラジオも「おやすみなさい」と言って、音を出すのをやめた。ボッコちゃんは「おやすみなさい」とつぶやいて、つぎ誰がはなしかけてくるかしらと、つんとした顔で待っていた。
なぜなら「ラジオ」もまた、マイクを介して人の声や音を外界へ反射する「鏡」の役割を担っているからです。
しかし、ラジオの発する「おやすみなさい」には、バーの客や青年のような「理想」が込められているでしょうか?答えはNOです。
ラジオの発する声はあくまでラジオという音声媒体=鏡によるもので、そこには客や青年の持っていたような「理想」という名の”欠点”は存在せず、声ではなく「音」に過ぎません。
ボッコちゃんは「理想を写す鏡」でありながら、”反転”してしまうという鏡特有の「欠点」を抱え、見るもの=青年がその欠点に気づかなかったからこそ、本来ならば”肯定”してほしかったはずの思いを”否定”されてしてしまい「全員死亡エンド」という悲劇の結末。
ならば、「ラジオ」というもう一つの鏡と「合わせ鏡」にすることで、ボッコちゃん=鏡の「反転する」という”欠点”もまた反転させて「完全な美人」にしてしまえば良い、それこそが本作が最も描きたかったであろう逆説的な、そして皮肉めいたオチだったのかも知れません。
最も、その「完全な美人」を拝む者は、もうどこにも居ないのでしょう。
冒頭でも描かれたように、当初はバーのマスターの趣味で「道楽として」作られたボッコちゃんが、全員死亡エンドにより誰の理想を”反射”も”反転”もしない鏡になったことで、翻って「ディストピア」の象徴として、役割が”反転”されて捉え直される、まさに「鏡写し」の作品だったのかも知れません。
今回は以上です。