ロリポップ・アンド・バレット

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『ぼっち・ざ・ろっく!』12話 感想 気になった演出・フレーミングなど

文化祭ライブの演奏シーンから幕が上がる最終回。

その先陣を切る一曲目『忘れてやらない』の演奏中にインサートされる、人のいない学校内の画。何もイベントのない普段の学校であれば、そこには生徒が点在し、学内の生徒一人一人がそれぞれの”青春”を謳歌している様が描かれるのだろうが、体育館で演奏を行っている”今この瞬間”だけは、後藤ひとり、もとい結束バンドの元に「青春の主導権」がある。

但し、そうした「”青春”という概念に引け目を感じている者が、その主導権を握る事である種生活空間・社会に対して一矢報いる」痛快さだけで終わらないのが、この挿話・ひいては『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品の本懐であったと感じます。

 

2曲目に披露された、今回のキーとも言える楽曲『星座になれたら』では、ひとりのギターのチューニングに異変が生じ、しまいには1弦が切れるトラブルに見舞われます。

文化祭という、それもひとりにとって完全なる「”アウェイ”空間の大舞台」でのトラブルであり、見ているこちらもついぞ目を覆いたくなる瞬間なのは間違いないですが、ここではとりわけ、ひとりにとってギターは「”ひとりのアイデンティティ”そのものであり、何より”自己と他者をつなぎうる唯一の媒介である”」という前提が重要であり、そのギターの弦が、この大舞台で切れてチューニングが狂ってしまった、という点に注目します。

ギターの故障は即ち、ひとりにとって自己の喪失であり、何よりも「結束バンドと自分を繋いでくれる拠り所の喪失」を意味します。ステージの上、大衆の目に晒される中で、たった一人「結束バンド」という安寧の場所から唐突に放り出されてしまう感覚。

 

但し上で「アイデンティティの喪失」を例に挙げたものの、”ギターソロ”という「ギターヒーロー」としての己の実力を最大限に見せつけられるはずの場面で恐れたのは、「自己肯定感の機会損失」などでは決してなく、「みんなが楽しみにしていた文化祭ライブを、自分の失態で台無しにしてしまう」という、むしろ「他者」に対する意識からです。

1弦という自己と他者をつなぐ「線」が切れ、チューニングが狂ってもなお、最後にひとりを結束バンド・観客と繋いでくれたのは、ひとりの持つそうした純粋な「他者への思い」だったのかもしれません。だからこそ、喜多ちゃんがアドリブでギターソロを”繋いだ”事で、ひとりが誰とも繋がりを絶たれたあの空間から”帰還”できたのだと思います。

 

これまでも「喜多ちゃんにとってのギター」と「ひとりにとってのギター」はまた違ったニュアンスが込められていたと感じます。本当は弾けないギターを「弾ける」と偽った後、一度は”ギターから逃避した”喜多ちゃんと、持たざる者が独学の内に磨いた腕を拠り所として”ギターに逃避する”ひとり。両者は当初から正反対のキャラクター造形で描かれていました。

それを鑑みると、今回の挿話で『星座になりたい』のギターソロを喜多ちゃんが繋ぎ、それに応じたひとりが「ボトルネック奏法」で土壇場をくぐり抜ける場面は、そんなルーツを異にしながらもお互いに歩み寄ってきた対極のギタリスト2人が、ついに”交差する”瞬間だったのかもしれません。

ソロを周り込みのカメラワークで捉える圧巻のシーンですが、マイクが全方位から喜多ちゃんの周りを囲むようなショットはとりわけ印象的でした。勿論、”喜多ちゃんのパーソナルマイク”は手前にあるその1本ですが、本来であれば位置関係的にドラムの虹夏を囲っているマイクと、その手前にいる喜多ちゃんとを、望遠レンズ的に遠近感を操作することで「まるですべてのマイクが”喜多ちゃんを注視している”」ような画です。

奏でている”今この瞬間の音”を一音たりとも取りこぼさぬように、ひとりにその”音”をバトンとして渡す。そんな意志の乗った演奏であり、画作りです。

土壇場の「ボトルネック奏法」によって、首の皮一枚で喜多ちゃんから繋いだギターパートを演奏仕切ったひとりが「上を見上げる」ワンシーンにも相応の意味があったのかもしれません。それこそ振り返ってみれば、ステージにおいて後藤ひとりは常に、まるで外界の光を遮るかのごとく「俯く」事で、自分の世界にのめり込むような演奏スタイルでした。それはまるで、「押入れ」という閉じた世界の中だけ”降りてくる”自分、即ち”ギターヒーロー”を自分の内に呼び覚ますための、ある種の「降霊術」のようなものだったのかもしれません。。

 

そんなひとりが、恐らく初めて演奏中に明確に「上を見上げて、照明の光を真っ向から浴びる」この瞬間。ギターパートを「やり切った」今、もはや”自分の役割を終えた”ような「開放感寄りの心地よさ」、そしてそんな彼女を祝福するように、ひとりの周りをちらつかせる体育館の”埃の輝き”。その一つ一つが、ひとりの歩んできたものの尊さに収斂されていくような、感傷性を帯びたもののように感じました。

上で「降霊術」という言葉を使いましたが、それこそ青春とか自意識だとか、そういった「俗」なものの呪縛から解き放たれ、本当の意味で「成仏した」瞬間だったからこそ、埃がまるで天に昇るオーブのように舞っていた、というのは少し考えすぎでしょうか?

 

予想外のハプニング、そして自身の役割を果たし乗り切ったその瞬間の余韻に浸りつつも、次点の切り返しカットで喜多ちゃんがフレームに映されます。この挿話において、ひとりを「成仏」させたのは他でもなく喜多ちゃんであり、だからこそ、ギター・ひいてはバンドという媒介を通じてその「恩返し」をする番。そんな「持ちつ持たれつ」の関係性を示唆するに十分なシークエンスでした。

 

ダイブパフォーマンスに失敗し病室で目覚めるひとりと、喜多ちゃんとの一連の会話シークエンスもまた含蓄に満ちていました。シーン冒頭の俯瞰ショットでカーテンのフレームがひとりと喜多ちゃんとの間を「遮る」という距離感の拭えなさ。

慣れない真似をして文化祭を台無しにしてしまった罪悪感がそこに表れていますが、それでも文化祭ライブに立候補する前の、あの時の病室(10話)と今とでは、ひとりと結束バンドとのメンバーの関係性は違って見えるはずです。

「後藤さん」と言いかけたところで、改めて「ひとりちゃん」と言い直す瞬間は、とりわけ(いわゆる「ぼ喜多」のカップリング的な文脈で)今回のキーイベントだった事に間違いないですが、このカットの直前で喜多ちゃんの台詞がオフ台詞(キャラクターの口元を映さない状態で発される台詞)として映し出され、両者の間で微妙な、しかし互いに気遣っているからこそ生じる”距離感”や”ズレ”が描かれてきたからこそ、ついに描き出される、この「言い逃れできない両者の対峙」シーンに多くの情感が乗ってきます。

その直後のカットでは、冒頭で俯瞰ショットでカーテンのフレームに自らを閉ざしていたひとりが、一転してアオリ気味のショットで捉え直されます。ここではさっきまで喜多ちゃんとの間を分断し自分を「閉じ込めて」いたカーテンのフレームが”取り払われ”、傍らに外の”光”が優しく差し込んでいる画でこのシーンを締めくくられます。そうした両者の「今までの自分たちとは違う」関係性を対比的に、かつ説得力を持って語るに十分だったと思います。

 

また「光を遮る」というカーテン特有の”アフォーダンス”に注目した時、やはりそこには相応の意味性があったのだと思います。但し、ここでは「あくまでもカーテンは最初から開かれている」という部分が肝要です。

つまり、本当の意味で喜多ちゃんとひとりを遮るものなどすでに無い筈なのに、あたかもそこに壁があるような、物理的というよりはむしろ「心理的な障壁」があったからこそ、カーテンはあくまでも開いたままでありながらその象徴として「カーテンのフレーム」という、本来なら何も遮りはしない”残像”により、両者に見えない壁がつくられたのでしょう。そしてそれが今や取り払われた、という事です。

 

Cパート。文化祭ライブを終えた後、新調したギターを背負って歩く何気ないシーンですが、やはりそこにも「ひとりの積み重ねてきたもの」を感じずにはいられません。

エンディングに入る直前に、付箋だらけのギター教本と、押入れに仕舞ったギターがインサートされます。それらは彼女自身が紆余曲折の中で歩んできた「これまで」を象徴するカットであり、そういった過去を全て肯定して、今後はどこまでも続いていく彼女の「これから」に「バトン」が渡されていく、このカットはそんな象徴的な画に感じられたのです。

川に反射する光をバックに、ひとりが「上手から下手(未来)に向かって歩く」という進行方向の正しさも相まって、とても説得力のある画です。

 

その直後、ロングショット+バックショットでひとりを捉える画は、ともすれば孤独感すらも抱くショットかもしれません。それでも、以前のような「寂しさ」を感じないどころか「雄弁さ」すら感じ取ってしまうのは、一点透視図法によって「どこまでも続いていく道」を印象的に捉えるレイアウトだからこそ、彼女が進んでいく「未来への方向性」を強く意識させる画になっているためです。

 

「今日もバイトか」の台詞で締められるラストカットでは、シンメトリー構図の高架下のショットでこの作品が幕を下ろします。快晴の空を遮るように敢えて高架下を映すのも、「”直射日光”で歩くにはまだ眩しいけれど、どこまでも伸びていく道をただ今は歩いてく」事の意味性として、高架が映されているのかもしれません。

その道を傍で見守るように、下手から少し顔を覗かせる街頭が、道を優しく照らし出してくれる。文化祭ライブという結束バンド・ひいては後藤ひとりにとって転機のイベントを終えた後の何気ない日常のワンシーンだからこそ、いつもの景色もまた違った意味を帯びていくのでしょう。

 

改めて『ぼっち・ざ・ろっく!』を振り返ってみれば、画作り・レイアウトのレベルでストーリーテリングがなされている事に気づき、大変味わい深いアニメだったと感じます。