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視線を「分散」させ「注視」し直す革命ドラマ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』2話 感想

オルファンス(アニスフィアの父)とグランツ(ユフィリアの父)の会話シーンで始まる冒頭。両者の間に置かれる魔道具のポットが画面中央に位置し、思わず視線がそちらに誘導されます。その後、アップで映されるアニスフィアの顔の絵が入ったポット。

今この場に居ないはずのアニスフィアが、この画面において最もその存在感を放つことで、もはや我々の視線は2人の父から「分散」されているのかもしれません。

 

何をしでかすか分からない”お転婆娘”を一国の王女として抱えている事への拭えない危なっかしさ。ともすれば、「目の上のたんこぶ」にすら思えるアニスフィアのパーソナリティが、彼女が不在の場においても画面上に”残像”が映り込んでしまうようなカットです。

『転生王女と天才令嬢の魔法革命』2話においては、こうした「視線の”分散”」が随所に表現されています。

続くこれらのカット群については、上の例とは異なり画面上はオブジェなどで分断されてなくとも、前景に積まれた本・切り返しのショットにより前景に大きく映る花瓶によって、もはや見る者からの視線を執拗に”遮る”ように障害物が置かれます。

見る者に、画面中央〜奥で話している2人の父と、手前のオブジェクトとを交互に視線を行き来させ、まるで我々が画面の一点を「注視することを妨げる」ようなレイアウト群です。

殊、この2話においてはアニスフィアとユフィリアを、それぞれの父が「どう見ているか」という視線、ひいては「親の視点」に重きを置くドラマだった事を踏まえれば、その演出の数々にもやはり相応の意味があったとすら思えます。

ユフィリアがアルガルドから一方的な婚約破棄を言い渡された事を知り、政略結婚が白紙となった今、グランツがユフィリアを叱責するかの如く”今後の振る舞い”について問い詰めかけるシーンでは、画面中央に立つオルファンスがオブジェとなり、画面を上手・下手の2つに分裂させ、両者の分断を徹底的なものとして描き出します。

画面上手に注目すると、ユフィリアの頭部は二重フレームで絵画の額縁内に収まり、更にロウソクによって、彼女は完全に画面の端に閉じ込められます。全体的に画面中のオブジェクトの密度が高く散乱したレイアウトになっているのも、視線を分散させることの一助となっています。

だからこそ、公爵家としての役割を果たす事に注視するあまり、図らずも我が娘に負担をかけさせていた事を詫びる一連のシーンにも、相応の意図を感じずにはいられません。

ここでもやはり、両者を分断するオブジェクト=ロウソクが中央に配置されるのは、まだ拭いきれない微妙な関係性を語るように、見る者の視線を分散させる画です。

このカットに限らず、この部屋の壁には多くの「絵画」が配置されており、まるでそれらが「定まらない視線を煽る」よう訴えかけているとすら思えます。

続くグランツがユフィリアの本心を知り、公爵家当主としてではなく、あくまで父として我が娘と向き合うシーン。上で挙げたような「オブジェクトが多く、散乱とした引きのカット群」とは対照的に、ここでは「被写界深度が浅めの寄りのカット」で捉えている点は見逃せません。

これまで我々が一点を見続ける事を拒絶し、画面を分割することで”分散”させてきた視線が、ここに来てはじめて「注視」させるようなレイアウトとなっているためです。

引きのカットで一つのフレームに横構図で両者を捉えるのではなく、あくまでも寄りの切り返しショットでそれぞれを映し出して、何も隔てずにお互いが対峙している事を明示する事。

 

それはまるで、公爵家の立場から娘をあくまでも「公爵令嬢=”王妃”の残像」として見て、”娘”から目を逸してきたグランツの視線はアニスフィアとオルファンスによって一度”分散”され行き場を失い、父としての立場から、そして「我が娘」としてユフィリアと向き合う瞬間。ここで初めて視線が定まり、彼女を「注視」するようになる。そうした心理の変容を代弁するようなフレーミングです。

 

そして、「分散される視線」から「注視する視線」への変容を辿ったのは、アニスフィアの父であり現国王でもあるオルファンスもまた同じだった筈です。

国王と公爵家当主。そうした立場の違いを全面的に強調するかの如く、王室の内側から両者を窓越しに捉え、分断される両者。但し、このカットではお互いがフレームによって分断されていてもなお、上で挙げたような「視線の分散」を感じないのは、両者ともに画面中央寄りに位置し、「境界線を二人で共有」している事に他なりません。

十字型の窓のフレームがフォーカルポイントへの視線誘導として機能している事も相まって、むしろ親近感すら感じる画です。

それを裏付けるかのように次点のカットでは室外で両者を捉え、ここでは窓のフレームが取り払われ、両者を遮るものは存在しません。今この瞬間は王室における”役割”から開放され、お互いが「友人同士」として語らう印象的なシーンです。

 

「あのアニスフィア王女が国王になる。そんな夢を見ても良いだろう」

「私は全く見たくないがな。そんな悪夢...。」

グランツの台詞を受けて戸惑うオルファンスの反応からも、まだオルファンスが我が娘・アニスフィアに国王としての器を見いだせずに居ることは明らかですが、一度それを聞いてしまえば、「国王」としての娘を今後、”注視”せざるを得なくなります。

グランツが”王妃の残像”ではなく”我が娘”としてユフィリアと向き合った事とは対比的に、ここではオルファンスがアニスフィアの中に「国王」の卵を見つつある、そうした示唆に富んだ描きです。

 

このように「視線の分散から注視への変容」を2人の父親の立場から描いた今回の挿話ですが、そうしたテーマ性の境地とも言えるのが、エンディングのアニメーションに他なりません。

木を境界として分断されるアニスフィアとユフィリアの世界。

持つものであり、同時に持たざるものでもある両者の世界をパラレルで描きつつ、両者がサビ前でオーバーラップし、その運命が交差する瞬間。

二人の出会いによって、世界のルールすらも覆る=革命の可能性を示唆するかのように描かれる上手・下手の立ち位置の転換にも、意味性が多分に含まれているのでしょう。

そして何よりも特異に映るのが、こちらのサビの演出です。

スプリットスクリーンによって画面が上手・下手に「分割」され、アニスフィアとユフィリアがお互いに分断されながら約16秒間・19回にも渡って交互にショットを切り返し徐々にパンアップします。それは約16秒間、我々の視線は上手・下手を交互に「分散」され続けることを意味しており、まさにこの挿話でずっと描かれてきた「視線の分散」の最たる例とも言える映像演出です。

我々の視線が幾度と左右に分散され、その行き場を失った後に映されるのが、初めてアニスフィアとユフィリアの両者が相まみえる次のカットです。

上で例を挙げたように、2人の父が窓のフレーム=境界に分断されながらも、その境界を2人で”共有する”事で、翻って「注視」を促すようなカットがありましたが、ここでもやはり同様です。

アニスフィアとユフィリアの間を遮る木が画面を二分割しながらもその”境界線”を2人が共有した後、お互いがついに越境する瞬間、パンアップして映像が終わります。

「2人を分断し、視線を”分散”させる」境界線が「2人に共有され、視線を”注視”させる」意味性を帯びていくその変容は、まさにこのエンディング映像によってその極致が描き出されているのです。

それはまさしく、「既存の世界観や価値観から視線を一度離れさせて、世界を新しく捉え直す」こと、即ち「革命」という本作の本質的な部分を語っているようにすら、思えます。

 

今回、この2話とエンディングの絵コンテを担当されていたのは胡蝶蘭あげはさんという方のようです。今後、同氏によって紡がれるであろう「分散と注視」のドラマにも引き続き着目したいところです。