ロリポップ・アンド・バレット

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『【推しの子】』OP映像における「視線の非対称性」について

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イントロで映される病室にオーバーラップされる各々の”目”が象徴するように、『【推しの子】』は”視線”によって紡ぎ出されるドラマだったのでしょう。テレビへのクロースアップ後、画面が点灯して映し出されるのはアイの口元です。

ここで着目したいのは、ファーストカットで映し出されていたアクア・ルビーたちの”目”とは対照的に、アイのトレードマークでもあったはずの輝く”目”はフレームの外に排除されている事です。

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それは、アイがもっぱら一方的に目線を向けられる「見られる客体」として描かれている事を示唆しているのでしょう。アイはテレビというメディア、即ち見る主体としてのオーディエンスに対して目線を向ける力を奪われ、ただ能動的に見られる”対象”としてしか存在できない。このように、本作のオープニング映像は「一方的な視線による視覚の非対称性」が随所に見受けられます。

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例えば巨大なスクリーンを背にして映されるアクアとルビーの描かれ方の”差異”にもそれは表れています。アクアの場合、本来ならば背後のスクリーンに映されているはずの顔がフレーム外に排除されたまま、クロースアップによって徹底的にスクリーンを”映さないように”このシーンを終える一方で、ルビーはクロースアップされた後、再度引きのロングショットに戻る事でスクリーン全体に彼女の”顔”が映し出されるのです。

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芸能界の裏側を知っているからこそ、表舞台――不特定多数の視線に晒される場所――には立たずに、むしろ自分自身も”裏側”の人間として真実を暴こうとするアクアと、表舞台に立つことで真っ向から視線を向けられる中でアイドルの夢を追うルビーの対比関係がそこに表れています。その直後でインサートされるように、ビー玉というプリズムを通して分裂する青と赤の光が、アイ=母という共通項を通ることで分離されるアクアとルビーの差異を象徴していた事は明白です。

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路地からのアオリで映されるカラスの群れがマッチカット的に検索バーへと移り変わるカットも同様です。芸能界の表舞台に立つ者の”情報”はオーディエンスによって常に監視される一方で、黒く塗りつぶされたカラスはオーディエンスの匿名性を表象しており、”見られる側”からは決して視認できないのです。アイドル業界の市場原理における「情報の非対称性」を象徴するカットにも思えます。

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サビ前。暗闇の中でサイリウムがまばらに点灯し始め、画面中央に転生前の白衣姿のアクアが映されます。転生前はアイを推す「一人のファン=見る主体」であった彼は、星野アイの息子として転生した今、その立場に安住する事は許されません。

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”眼鏡”――視覚を担保する装置――が壊れる場面は、アクアから”見る”という「オーディエンスとしての特権」が奪われた事を意味しています。あくまでも「母=アイの秘密を漏らした犯人探し」が目的とは言え、アクアが芸能界の端くれとして業界に足を踏み込んだ以上、いつ「監視される側」になっても可笑しくはない。そんな描かれ方です。

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この場面よりも前に、有馬かなに後をつけられてアクアが「監視される」カットがありましたが、それは「監視を免れようとするアクア」もまた、自身が感知しない誰かによって「監視される側」に転じる可能性を示唆するものです。

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上で着目した”カラス”の如く、サイリウムを振るオーディエンスの顔は真っ黒闇に溶け込んでおり、ファンの匿名性が象徴されています。ステージからその顔を視認することができない一方、「サイリウムの光がそこにある事」だけは確実に分かるのです。

それは、アイにとって「誰に見られているかはわからない一方で、確かに大勢の目に晒されている事の実感」の中で、非対称的な視線が描かれているのでしょう。監視している者の存在を例え視認できなくても、監視の目を実感する事で視線による統御が成立している点で、かの有名な”パノプティコン”的な様相を呈しているとも言えます。

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それを鑑みれば、ステージの照明が次々と”点灯”し始める次点のカットもまた、上で触れたサイリウムの”点灯”との関連性を帯びてくるのです。なぜなら、ステージの照明は「アイに向けられる、オーディエンスからの視線」を象徴する装置と考えられるからです。そして何よりも、サビでアイを回り込みで映すカメラ自体もまた、我々の視線をその場にいる不特定多数のオーディエンスの視線と同一化させる装置だったのでしょう。

このように、サイリウム→照明→カメラと「観客=見る主体」の存在感を帯びた”装置”が至るところに配置されている事を、アイの視点・そして映像を見る我々の「実感」として捉えられているのが、映像の妙とも言えるでしょう。

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ステージ中央で踊るアイと、暗闇の中でアイの面影を探すアクアを交互に対比させたカットバックが象徴的ですが、この作品が「アイが死んでしまった後もなお、アイに”狂わされる”者たちの物語」である事を鑑みれば、この一連のシークエンスにも相応の意味が込められている事が分かります。

私は、「死別したり、もうそこ居ない人物がストーリーの中心を担ってしまう」物語の類型を「不在の中心」と呼んでいますが、本作は間違いなくそういう作品であり、だからこそカメラは依然としてアイを中心としたカメラワークで動き、まるでアクアの心情がそのカメラと呼応するように、彼をカットバックで捉えたのでしょう。

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その後、クロースアップされるアイの目を起点にアクアの目、そしてルビーの頭上に光る”一番星”へとマッチカット的に繋がれます。このシーンでもやはり同様で、中心的に描かれているのはアイの面影たる「一番星」のイコンでしょう。歌詞にある「誰もが目を奪われていく」とは、本質的にはそういうことなのかもしれません。

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三角構図で大人二人に背を向ける有馬かな・スマホで自分の目を覆う黒川あかねのカットがインサートされます。このOP映像は「視覚」が特権的なモチーフとして描かれてきましたが、ここで彼女たちの「目」を徹底的に”映さない”フレーミングにも相応の意味が込められているのでしょう。アイドルの市場原理は、視線による「主客二元論」によって成り立っている事を鑑みれば、彼女たちもまた「見られる客体」に過ぎないのかもしれません。そしてそれは、アイドルの世界――視線に晒される場所――に足を踏み入れたルビーもまた同じだったのかもしれません。

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舞台裏の”影”から、自分を遮るもののない”光”の場所へ踏み出すルビーとは対照的に描かれるのは、”光”のある場所から一転して”影”が彼を覆い、クロースアップでアクアの”目”=影の星を映し出すシークエンスです。その”目”はまるで、我々視聴者に向けられているような錯覚すら覚えます。「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」という有名な警句がありますが、このアクアの”目”は、まさしくオーディエンスの位置に安住している我々に対する挑戦的な目であり、「視線」は決して我々視聴者だけの特権ではない事を示唆しているのです。

 

このようにアイドルの市場原理である〈見る主体 / 見られる客体〉の二項対立を廃するアクアの姿勢には、既視感を覚える人も居るはずです。それは他でもなく「”ファンに見られる客体”でありながら、同時に”ファンを見る主体”」でもあった母親・アイの存在です。アイはアクア・ルビーという二人の子を持ちながらその事実を隠し、”母”でありながらも”アイドル”で居続けました。

 

彼女が嘘をつく事で「ファンから”二児の母”としての視線を免れながら、一方的に”アイドル”としてファンに愛の言葉を投げかける」という意味では、アイもまたファンに対して「非対称的な視線」を持つ特権的な立場に見えるかもしれません。

しかしながら、”アイの真実を知っている”ストーカー・リョースケによって「視線の非対称性」を看破され、腹部を刺されてもなお、彼を一人の”ファン”として愛そうとしたアイの姿勢は、むしろそういった主客二元論的な視線の否定に他ならず、それこそがファンへの――アイの言葉を借りれば――本当の”愛”の意味するところだったのでしょう。

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しかしそれも、アイ=愛の亡き今では過去の話です。だからアイはこのオープニング映像=ルビーとアクアの物語を総括するフィルムにおいて、オーディエンスに「見られる客体」になる他ないのでしょう。それはラストにおいてアイを象徴する”一番星”のイコンが、テレビの電源が落ちる形で”消える”事からも実感できます。なぜなら「テレビ」というメディアは大衆の視線を集約し、被写体に一方的な視線を向ける装置に他ならないのですから。

 

今回は以上です。