ロリポップ・アンド・バレット

アニメ・映画・特撮・読書の感想や考察を書いたり書かなかったりする

ルマリーはいかにしてスクリーンを支配したか『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』考察

世界規模で遊ばれているゲームの金字塔『マリオ』シリーズの映画化、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』ですが、この物語において明らかに、それも意図的に「ノイズ」として配置される存在があったと思います。それは「死は唯一の救済」という独自の死生観を持つ、クッパに囚われた青い星・ルマリーの存在です。

f:id:Skarugo0094:20230520143738j:image

本作のプロットは「マリオがピーチ姫とキノピオ・ドンキーの手を借りながら、クッパに囚われたルイージを救う物語」であり、そのプロセスとして”ゲーム原作ならではの要素”を踏襲した「トライアンドエラー」のテーマが根底にありました。

ルマリーは、そうした「マリオの物語」に直接関与する事はなく、同じく囚われの場でルイージと少し接触する程度であり、物語の本筋には全く介入してきません。

 

にも関わらず、受動的・強制的な死を目前に怯える囚われの者たちとは対照的に、自ら積極的に死を望んでいるとも取れる過激な発言が反復されるほか、映画本編が終わり暗転した際に「残ったのは君とこの闇だけ」と第四の壁を超えた台詞によって観客にしこりを残すような読後感を与えるなど、むしろ積極的にスクリーンに介入してくるのです。物語的にはほとんどと言って良いほど関与してこないにも関わらず、スクリーン的には無視する事がもはや不可能なほど現前化されるルマリーは、極めて異質な存在です。

換言すれば、「”物語的な役割”を持たないルマリーは、”スクリーン上の役割”を多分に担っている」のです。結論から言えば、「マリオ達とルマリーは、それぞれ”時間”に対するイメージ”が異なっている」事から考えることができます。

 

ピーチ姫の指導のもと、チュートリアルコースに何度も挑戦してみたり、ジャングル王国の軍事支援を懸けたドンキーとの戦いにおいては、純粋なパワー勝負では不利なマリオが途中マメマリオになってしまうなど紆余曲折を経た後にネコマリオの俊敏性を活かして勝利するなど、原作ゲームをやったことのある人なら誰もが経験するような「トライアンドエラー」が、物語のテーマとして描かれています。

振り返ってみれば、家族からも見放されて初仕事でも水道を直すどころか家を水浸しにしてしまうブルックリンの冴えない配管工2人が、上記のような紆余曲折を通じて社会から認められていく、という大枠のプロットからも「試行錯誤の果てにある成長」のテーマが見えてきます。

 

このように「失敗という”過去”から学び、何度も挑戦して”未来”の成功を達成する」という、いわば程度の低い状態から高い状態への”進歩”のイメージは、近代以降に確立された「直線時間」の思想に通底するものがあります。時間は過去→現在→未来と一方通行に直線的に進んでいくもの、という我々が普段捉えている時間感覚は、こうした「直線時間」の考え方によるもので、特にその部分に対して疑いの余地はないかと思います。

 

他方ルマリーの言う「救済としての死」という死生観は、「試行錯誤の過去を経て、未来の進歩を目指す」ような直線時間の思想とは相対するものです。というのは、ルマリーの死生観を考える上で、スーパーマリオギャラクシーシリーズに登場する「チコ」の設定――死ぬと生まれ変わって”新たな星”になる――がヒントになるためです。

つまり、チコと同じ”星”の一族であるルマリーもまた、そうした輪廻転生の世界観で生きているのでしょう。このように、輪廻転生に代表される「時間は循環され、一周すればまた元の状態に戻り、それを延々と繰り返していく」ような時間のイメージは「円環時間」と呼ばれ、仏教などに代表される近代以前に普及していたという時間の概念であり、上で挙げた直線時間とは相容れない概念です。

 

本作においてマリオをはじめとする「物語内部のキャラクター」が、より高みを目指して前進することに価値を置く「直線時間」の中で生きているとすれば、死によって自分を世界から切り離し、ある意味で”全てのリセット”を目指したルマリーは、むしろ「物語の外にいるキャラクター」と解釈できます。とりわけ、この作品がそもそも「ゲーム原作」である事を鑑みれば、ルマリーは「ゲームのプレイヤー」側、即ち我々オーディエンスに近い側の存在と言えるのです。

ゲームにおいてコースをクリアし、クッパを倒した後に「平和な世界が訪れる」事がエンディングムービーの中で示唆されることはあっても、そのエンディング映像が終わってしまえば再びゲーム内の時間は巻き戻され、平和な世界が「なかったこと」にされてしまい、我々はそれを繰り返し「プレイ」します。つまり、ゲームの世界はその特性上極めて「円環時間」に近い動きをしているとも言えます。我々オーディエンスは、ルマリーの視点を借りて、「円環時間としてのゲームの世界」を覗き込んでいるのが本作なのです。

 

このようにメタ的に解釈するならば、映画の終わりにルマリーが「第四の壁」を超えて「残ったのは君とこの闇だけ...」と我々に問いかけてきた事の意味も理解できるかもしれません。それはゲームの世界を満喫し終えた後、電源を落とし暗くなった液晶に反射する自分の鏡像=ルマリーだけがそこに残されている事に他ならず、そして本作にメタ的な解釈可能性を与える役目だったのかもしれません。

 

登場当初こそ「物語内部のキャラクター」として映像にスパイスを与えるに留まっていたルマリーが、本作を唐突にメタフィクションへと変容させる「狂言回し」としてスクリーンを支配してしまう。まさにトリック”スター”とも言える存在だったのでしょう。