ロリポップ・アンド・バレット

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『星屑テレパス』1話における、言語コミュニケーションの限界

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これから始まる高校生活への期待と不安。鏡のフレームに吊るされた制服が取り除かれ、海果の姿がここで初めて映されます。しかしその姿は海果の”鏡像”であり、まるで「鏡の向こう側の存在」のように描かれたファーストカットです。

「私の言葉は誰にも届かない。この”地球”の誰にも届かない。」のセリフが示すように、周囲との隔絶から自身を「宇宙人」に見立てる、夢想家的なパーソナリティが際立っている海果ですが、「自分の言葉が伝わる、ここではないどこか」に思い焦がれる精神の一端として、このアバンにおいてはそのような「別の空間への転移」を表すようなカットが多用されています。


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例えば、下手側に居た海果が窓のフレームを越境し、上手に位置するシーン。

手を窓に当てる瞬間にカットが切り替わり、窓の鏡面に映る海果。その時、一筋の流れ星が落ちます。今いる空間から別の空間への移動、海果が抱くまだ見ぬ”宇宙人”への期待と、出会いの予感が込められた一連のシークエンスですが、その極地とも言えるのが”窓を開けて星空を見る”行為に他なりません。


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そこには、一見するとモノローグが多く内側の世界に閉じこもる内向的な性格でありながらも「外」への方向性を強く抱いているという、彼女の二面性が表れており、その後の浮ついた足の芝居、煽りショットによる広大な夜空を感じさる画も相まって、彼女の内に秘める世界と現実とがまるで符号していくような錯覚を覚えます。

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クラスでの自己紹介を終えて、言葉が思うように出ないもどかしさを実感しながら廊下を渡る海果が空を見上げるシーンも、アバンのリフレインとして描かれます。

今自分が居る場所に違和感を抱き、「外」へ踏み出したい気持ちが「空を横切る飛行機雲」によって代弁されています。これは言うまでもなく昨夜見た「流れ星」を代理表象しており、やはりここにも「越境による外界との接触という、この挿話に共通するテーマが描出されているのです。

思い返せば、「この星で言葉が通じないならば、言葉が通じる星を探せばいい」など、海果はむしろ外交的なパーソナリティを有しており、だからこそ過去のトラウマから外界と接触する手段が断たれているという葛藤に悩んでいる、と言えるでしょう。


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宇宙人であるというユウと初めて会話するシーンにおいても、「窓」のモチーフが再度リフレインされています。画面の対角線上に位置していた二人ですが、ユウの越境により両者は接近します。そこで肝要なのは、この二人を結ぶコネクターが「宇宙語」という、ある種の”共通言語”である点です。言葉による意思疎通を諦めていた海果が、宇宙語を介して外界への接触を達成しているのです。

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とりわけ、半ばギャグ的な描写ではあるものの、ここでは「発音」が強調されていることに気づきます。言語を学ぶ上で「音」を覚えるのが一番最初の登竜門ではありますが、「発話する」行為にこそ言語コミュニケーションの本質が表れているのかもしれません。声に出して伝える行為は、その後の展開にも繋がります。


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宇宙人・ユウの特殊能力「おでこぱしー」が披露された後のシーンでは、ダッチアングルによってユウが映された後、海果を真正面から捉える切り返しショットが対比的に描き出されます。自身が宇宙人であることと、その超常的な能力について、「みんなは信じてくれていない」というユウ。周囲からの懐疑的な目線を彼女に向けるかのような、不安定さを強調するショットです。しかしその事を微塵も疑う気のない海果だからこそ、真正面からユウに”向き合う”心理が、真正面からの切り返しショットによって補完されているのです。

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また、ここの一連のシークエンスでは「おでこぱしー」を契機としてイマジナリーラインを越えていることが分かります。両者を分断していた窓のフレームは消え去り、開放的な青空を背景に向き合う二人。

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二人の間に引かれていた窓のフレームは、一転して二人を囲うように描かれます。外にいるユウ・海果を「窓」による二重フレームによって、教室の内部から映すカットから映し出すのは、超常側の存在である両者を、”教室”という相容れない日常空間と対比させると同時に、理解されない者同士の不思議な絆を感じさせる画になっています。

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上で挙げた「懐疑心を裏付けるダッチアングル」と「真正面のカット」の対比は、海果とユウが宝探しのオリエンテーション開始時にも反復されています。ユウと仲を深めたい一心で「自己紹介」するタイミングを伺いながらも、なかなか踏み出せない海果。


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「自分のことを知ったらきっと、笑われるかもしれない」不安感と、「もしかしたらユウが宇宙人だというのも嘘かもしれない」懐疑心。それら負の感情を煽るようなダッチアングルで海果は映されます。対比的に描かれるのは、そんな海果と真剣に向き合おうとするユウの、真正面からの切り返しショット。海果がユウにそうしてくれたように、今度はユウが海果と対峙するということを、自分が宇宙人でテレパシー能力を持っていると打ち明けた際のシーンと同様でありながら、しかし人物を入れ替えたカメラワークを用いる事によって強調させています。


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そして遂に達成される海果自身の言葉による自己紹介。上で挙げたように、「向き合う」行為が切り返しショットよって描かれてきたのとは対照的に、ロングショット+俯瞰ショット→ナメ構図→横構図でユウのフレームインなど、両者を同一フレームに収めるショットによって、対峙する行為の切実さが伝わります。何より、二人が画角に収まることで「同じスペース=宇宙(!)を共有する」ようなレイアウトは、いつか宇宙に行くという二人の「同じ夢を語る」行為――物語的に転機とも言える瞬間を、これ以上ないほどに適切に描出しているのです。

上で軽く触れたように、この一連のシークエンスは言葉、ひいては「”発話”によるコミュニケーション」の極地とも言えるワンシーンでもありますが、言語を介在ぜず”テレパシー”によって達成される間接的・受動的な意思疎通とは対照的な、能動性を帯びたコミュニケーションツールとして、〈言葉〉が用いられているようにも見えます。

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しかし、言語による伝達のテーマはその後”反転”します。それは後のユウの隠れ家=灯台におけるワンシーンです。記憶喪失で自身の出自も目的も分からないまま地球へ漂着したユウが、これまでどれだけ大変な思いをしながらこの地球で過ごしてきたのか、それに気付かないでいた事、そしていつか「ユウが宇宙へ帰る」夢を一緒に叶えたい、という海果の思いを、敢えて言葉にはせず、「おでこぱしー」によって伝えるのです。その後、海果は「直接言えなくて(言葉にできなくて)ごめんなさい」と言います。つまり、先のシーンでは肯定的に描かれていた筈の「言葉(発話)によるコミュニケーション」が、この灯台のシーンにおいては明確に否定されているのです。

 

勿論、メタ的には「おでこぱしー」が本作を象徴するアイコンだからこそ、物語の最後はテレパシーによって締めるようにした、というのは不思議な話ではありません。

しかしそれ以上に、”テレパシー”の定義を問い直して異化させる役割を、このシーン、ひいては本作は担っているのでしょう。そもそもテレパシーとは、本作もその例に漏れないように「言葉を介在させずに成立するコミュニケーションの形態」であり、能動的な「発話」行為を必要としない意味では「間接性を帯びたコミュニケーション」と言えるのかもしれません。

 

その一方でテレパシーは、本来の言語コミュニケーションにおいて、思考を言葉にする過程で捨象される筈の「言葉未満の思考や感情」すらも余す事なく伝わってしまう、という点において、”直接性”を帯びたコミュニケーション形態でもあり、むしろその直接性こそをテレパシーの本質として本作は描いているのです。(余談ですが巷でよく言われている「脳内に”直接”語りかけてくる」というのも、テレパシーの直接性を表した言葉と言えます。)

 

だからこそ、海果がユウへ伝えたい思いは言葉による発話ではなく、専ら”テレパシー”によって伝達されなければならなかったのです。言葉にする過程で削ぎ落とされてしまう「言葉未満の思い」までも、その一切を取りこぼすことなくユウへ直接伝えたいからこその「おでこぱしー」なのです。それは「言葉にしてしまうと失われるニュアンスや、言葉にならない感情があるから、それも全部伝えたい」というこの上なく自己開示性を帯びている、そして直接的な、発話以上の「対話」に他なりません。