ロリポップ・アンド・バレット

アニメ・映画・特撮・読書の感想や考察を書いたり書かなかったりする

『グリッドマンユニバース』はオーディエンスを救いに来た ※ネタバレ有り感想

※本記事は『グリッドマンユニバース』のネタバレを含みます。未視聴の方はブラウザバックを推奨いたします。

 

 

 

 

 

 

 

f:id:Skarugo0094:20230327234411j:image

時系列的には『SSSS.GRIDMAN』の本編の後のストーリーとなる本作では、『SSSS.DYNAZENON』と世界観が混ざり合うマルチバースを舞台とし、本編における〈創造主/被造物・現実/虚構〉のテーマを再構築しながら、新たな解釈を提示するような作品でした。

とりわけ、『SSSS.GRIDMAN』において描かれたメタフィクションのテーマは冒頭から既に端を発しています。先ずは「六花・内海が学校の文化祭の出し物として、演劇をすることになり、かつて自らが体験したあの日々──グリッドマンと共に戦った2ヶ月間──をベースとして脚本を作る。戦いが終わった後、その2ヶ月間の記憶を失っている裕太もまた、脚本作成に加わる。」というメインプロットそのものがメタ要素であることには疑いの余地はありません。

 

裕太たちの住むSSSS.GRIDMANの世界は、新条アカネによって作られた虚構の世界であり、裕太ほか六花・内海さえも、被造物の存在でした。その被造物である裕太たちが、この文化祭においては”創造主”として、演劇の脚本を作ろうとする。それも、テーマとして扱うのが、グリッドマンと共に戦いアカネを救ったあの日々です。

ここには〈創造主/被造物〉という二項対立は廃され、かつての被造物が、一転して創造主としての役割を担うような、逆転現象が起こっています。そしてこの「逆転現象」こそが、『SSSS.GRIDMAN』アニメ本編において「フィクションの存在こそが、現実へのアクセスの契機となる」という大きなテーマを描くフックでもありました。

そうしたメタ的なアニメ本編のプロットを「脚本作り」という形で再構築しながらも、そこに新たな解釈を与える。即ち「反復と差異を描いたのが本作『グリッドマンユニバース』だったのかもしれません。

 

特に、ここで注目したいのは六花・内海とは異なり「裕太にはあの2ヶ月間の記憶がない」という部分です。二人が自分たちの記憶=主観に基づいて、あの2ヶ月間を「劇」として再現する中で、裕太一人その記憶がないというのは、即ちそれぞれが「主観」を持つ中で、裕太だけは記憶がないゆえに「客観」の側に立たざるを得ないという事。

それは「自分の物語がそこに存在しない」という意味でもあり、そういう意味では今作『グリッドマンユニバース』は「裕太が”自分の物語”を紡ぎ出すまでを描いた物語」だったのでしょう。何よりも「作りもの」と、それを受け取るオーディエンスにより生まれる、数多くの「主観」こそがフィクションを豊かにしてくれる。それこそが今作のメッセージに他なりません。

 

とりわけ本作において、2つの世界のマルチバース空間=”グリッドマンユニバース”が生じた原因であり、全ての元凶である怪獣・マッドオリジンの存在は〈主観/客観〉の二項対立を煽る存在でした。それはグリッドマンを”私物化”し、他の解釈を徹底的に排除する思想の権化とも言える存在です。「客観的な正しさ」という暴力が、「主観的な解釈可能性」を潰してしまう。虚構の世界を生きる裕太たちにとって、フィクションの解釈が一つの正解に規定されてしまう事は、「世界の終わり」に他なりません。

 

それを鑑みれば、マッドオリジン──解釈の不可能性とキャラクターの私物化──に対抗する決定打となったのが「光線による破壊攻撃とフィクサービームによる再生を繰り返す事」、即ち「破壊と再生の反復」であった事は、示唆に富んだ描きとも言えます。

冒頭で「裕太がグリッドマンの似顔絵を書いて、消して、また書き直す」描写があり、その伏線回収とも言えるのが「破壊と再生」のフィクサービームのシーンですが、一義的なキャラクターとしての「グリッドマン像」を”破壊”し、それをもう一度”再生”する事で新たなグリッドマンの解釈を生み出す。それは他でもなく『電光超人グリッドマン』という一つの作品から派生して生まれた『SSSS.GRIDMAN』『SSSS.DYNAZENON』の2作品のメディアがやってきた事に他なりません。そうした意味でも、極めてメタ的な含意のある戦闘描写と言えます。

f:id:Skarugo0094:20230327234502p:image

このように、メタ的に「グリッドマン」というメディア展開のあり方を物語の根幹に配置する説得力も勿論ですが、何よりフィクションの解釈可能性」というテーマにおいても、「破壊と再生」は大きな意味を持ちます。

それは例えば、原作を基にしながらも、有志による独自の解釈によって展開される創作の営みである「二次創作」や、作品の要素を分解・再構築する事で、時に作者も想像しないような新たな解釈の可能性を広げる「文芸批評」といった表現の営み全般にも当てはまるプロセスだと考えています。そうした「ファンの解釈による作品の多義化」は、特にSNS社会である現代においてはコンテンツが盛り上がる要素として、もはや無視できないでしょう。

二次創作と批評的な営みは、そのどちらも「一度作者の手によって完成されている作品を、新たな解釈で捉え直す」というプロセスの中で、作品を「破壊」し、「再生」する表現の形態とも言えます。

 

それでは、作品が作者の手を離れたとき、作品が他の人の手によって手を加えられてしまうのならば、もはや創作において「作者」の存在は無力なのでしょうか?

否、むしろ本作においては「作者へのリスペクト」を忘れてはならない事を明確に描いています。全ての戦いが終わった後、アンチ君(グリッドナイト)が創造主である新条アカネに、自分を生み出してくれた事に感謝を送るシーンは、創造主へのリスペクトを端的に表した瞬間でした。

「創造主の手を離れ、意図しない方向に自我を持つようになった被造物」というアカネとアンチ君の関係性を踏まえると、創造主/被造物の二項対立の関係は既に脱構築的に廃されており、その境界・力関係は曖昧になってしまいました。だからこそ、創造主・即ち作者に対する敬意をここに明言する事で、「フィクションの賛歌」のテーマがより色濃く反映されているように感じます。

 

それでは、話を「裕太の物語」に戻しましょう。

上で触れたように、今作は「裕太が”自分の物語”を紡ぎ出すまでの物語」。これがメインプロットですが、より具体的には「裕太が六花に告白するまでのプロセスを描いた物語」です。かつてグリッドマンに裕太の”視点を貸していた”最中での出来事は、記憶を失った今の裕太とって「主観の外」にある出来事です。

だから六花に対する自分の思いも客観的な目で捉えてしまう。言ってしまえば、裕太はまるで自身が物語の「当事者」ではないかのような優柔不断なキャラクターとして捉え返されています。

 

「記憶がないために、客観的な立場に立たざるを得ない裕太」の立ち位置は、同時に「書いたグリッドマンの脚本をはっすとなみこ──客観的な目線──によって評価してもらう内に、最も伝えたい”アカネのこと”を省いてしまう六花」とパラレルに語られます。

(余談ですが、この世界観においてただ一人、現実の存在であるはずの新条アカネをはっすとなみこは「リアリティがない」と一刀両断してしまうのが、なんとも面白いなと。無論、はっす・なみこにとっては「作りものの世界こそがリアル」だから、我々視聴者が「現実」と呼んでいる世界の存在は、かえってリアリティがないのでしょう。)

 

両者とも、「客観性に飲まれて、主観=当事者としての自分を表現できない」事で通底しています。そこで契機となるのは、物語の当事者として自分を生きてきた、そして作品的にメタフィクション性の薄い『SSSS.DYNAZENON』の蓬・夢芽たちとの出会いでした。蓬と夢芽はご存知の通り、付き合っています。それは言うまでもなく「裕太と立花にとって、あり得たかもしれない自分たちの関係性」の象徴として映ります。

 

『DYNAZENON』は、簡単に言ってしまえば「蓬と夢芽が付き合う物語」としてまとめることが可能です。より高級には「自分の意志と無関係に戦いに巻き込まれた者たちが、自分の意志で”不自由”を選ぶまでの物語」です。

このように「受動的な客体」から「能動的な主体」への転換こそが『DYNAZENON』における根幹たるテーマですが、『グリッドマンユニバース』においてこのテーマとパラレルに描かれる存在こそが、まさに裕太に他ならないのです。そういった意味でも『DYNAZENON』とのクロスオーバーの必然性を感じさせる脚本です。

f:id:Skarugo0094:20230327234537j:image

各々の登場人物が考えるグリッドマン像は、同じものを見ているとは思えないほど人によって様々だったように、この世界には無数の「主観」が存在します。

「誰が」「何を」「どう」見ているか。即ちそこに自分が存在しない「客観=客体」としてではなく、他でもなく自分が見ているという「主観=主体」それこそが本作の一番のテーマであり、それを「メタフィクション」の物語構造から描いたのが本作でした。思い返せば、幾度と描かれる裕太の「ビー玉」は、「裕太の目を通して見る世界」そのものを表すモチーフであったのだとすら、思えてきます。

 

「裕太が」「六花を」「好き」という、誰でもなく裕太自身の思いを伝える事で、裕太は「オーディエンスの視点を借りた、客観的な語り手」ではなく、本当の意味で「物語の主人公」になれたのかも知れません。そんな彼の"視点を略奪してしまった"グリッドマンは罪悪感から弱みにつけ込まれてしまい、マッドオリジンを生むこととなりましたが、裕太は「グリッドマン自身が何を見てきたか」を肯定する形で、彼を罪悪感から解放しました。その人が自分の目で見て感じた事を、誰も否定する事はできない。そんな力強いメッセージを感じます。

 

フィクションの奥深さは「作品」だけでは成立し辛く、それを見る「オーディエンスの存在」によって初めてその真価を発揮するものです。『SSSS.GRIDMAN』が「フィクションの肯定」を描いたとすれば、『グリッドマンユニバース』は「フィクションを見るオーディエンスの主観」を肯定する作品だったのかも知れません。客観的には自分の人生とは無縁であるはずのフィクションを見て、つい「自分の事のように」感動してしまう事は往々にしてありますが、例え見ているものが「作り物」であったとしても、それによって生まれた感動は、紛れもなく「本物」という事なのでしょう。

 

今回は以上です。