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「見えないもの」を映し出すスポットライト あるいは高咲侑は如何にして”主役”になったか『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期 8話 感想

イメージカラーの「黒」が象徴するように、これまで「スクールアイドルとして舞台に立つ同好会のみんな」を裏方として支えてきた高咲侑は、「黒子」だったのかも知れません。

勿論、そうは言っても単純に「スクールアイドル」>「黒子」といった図式が成り立つわけではありませんし、同好会メンバーもまた侑によって支えられてきた事は明らかです。舞台に立つ者が、立たない者=ファン・裏方に支えられ、またスクールアイドルはそんなファンに感動を与える。そうした「スクールアイドルとファンの相互関係」というのは他でもなく本作が一貫して描かれてきた事です。

 

そんな同好会のスタンスとは正反対に、「スクールアイドルはただ与えるだけで良い」という、ある種一方的なサービス精神を座右の銘にする孤高のアイドル鐘嵐珠とのすれ違いはこれまでも幾度と描かれてきました。

冒頭、同好会の打ち合わせに入室するランジュが「今回の主役はあななたちじゃない、この鐘嵐珠よ」と、自信ありげの宣戦布告。

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そんな彼女の堂々とした立ち居振る舞いはカメラから見て下手側で映し出されます。

「主役」と声高らかに宣言しながらも、それとは裏腹にその立ち位置は物語の主体として位置する「上手」ではなく「下手」である事の意味。その意味は嵐珠自身が最も自覚していたはずです。

 

これまで”魅せられた”同好会のユニットによるパフォーマンスの数々、孤高を貫こうとしながらも、親友である栞子の同好会への加入を皮切りに揺らぐ、正真正銘ソロアイドルとしての立ち位置。毅然と振る舞う第一印象の裏に孕む彼女自身の弱さ。これらは後の展開でより鮮明に描かれますが、彼女のそういったスタンスへの揺らぎを予感していたのかも知れません。

 

そして何より、そんな彼女の言う「主役」としての立ち位置に対する、最も重大な存在こそが、侑であったことは言うまでもありません。控室で侑を探す様子もそうです。今ここに”存在しない”侑こそ、嵐珠にとって最も大きな”存在感”を放っているという矛盾。

これこそが、ステージに立たない黒子=不在の語り手・高咲侑の本質であり、また同時に侑もまたこの物語の「主人公」である、という自明の理を再認識させる描写でもありました。

後に触れますが、殊この8話においては、そういった「見えなかった存在が見えるようになる」事に意味があるのだと思います。

 

みんなの夢が叶う場所・スクールアイドルフェスティバルも最終日を迎える中、トリを飾る同好会のパフォーマンスの作曲に行き詰まる侑を励まそうとする他のメンバーのシーンでは、ファンのみんなに喜んで貰えるか、同好会のみんながときめく曲になっているのか、そして「同好会で夢を叶える意義」に対し明確な”答え”となっているか、自分の中で方向性が定まらない気持ちが吐露されます。

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水場でのロケーションもまた、先が見えず方向性に迷う彼女自身の思いを映し出す役割を担っていたのかも知れません。水場に立つ柱が、侑を隠すようなポジショニングも同様です。同好会メンバーが気にかけている人物=侑を意図的にフレームから排除したのは、侑がみんなにとっての「中心」でありながらも、自身は同じ場所に存在できない、後に触れますが、そうした侑自身の持つ「不在性」かつ、今回の”主人公”としての「中心性」を予感させていたようにも思えます。

 

同じ「水」のモチーフで言うと、嵐珠のパフォーマンスのお膳立てを担った「流しそうめんのレールを走る船」の存在も無視できません。真面目な回でありながらインパクトのある絵面と副会長のハイテンションな実況も相まって、どこかコミカルな様相を放っている舞台装置でもありましたが、「進むべき道」が明確に決まっている”レール”とその船は、嵐珠の持つ自信満々なスクールアイドル観を象徴していたのだと思います。

それもまるで上で描かれたような、停滞のモチーフ=水場と対比させるギミックだったとも言えます。

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しかし、「迷っている」のは嵐珠もまた同じだったはずです。

パフォーマンスの直前、カーブを曲がりきれずに止まってしまう船は、「孤高のアイドル」として貫いてきたはずの意志が揺らぐ様子を映す、そんな役割を担っているようにも見えます。

とりわけ、パフォーマンスを終えた後の嵐珠が教室で一人佇む、たった数秒のワンシーンですが、彼女の抱える葛藤と本心、それを描き出す十分な説得力を感じさせる絵でした。「広い教室の一番端」というポジショニングもそうですが、何より「光が当たる位置に居ながらも、彼女自身がそれを拒絶する」かのような絵づくりと表情です。

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「与えるアイドル」として自身のスタンスを貫き、皆が自分を注目する最高のパフォーマンスを終えてもなお、どこか満たされない嵐珠の空虚な気持ちを表す空っぽの教室、そんな彼女の心の隙間を吹き抜けるかのように、風でカーテンの翻る描写。

そして極めつけには、太陽光が嵐珠の頭の位置まで差さっているにも関わらず、その視線は「光」からまるで目を逸らすように下手から上手へと、教室の方向=影を見つめる絵でした。嵐珠もまた、彼女自身の本心に気づいているはずなのに、”それ”を直視するにはあまりにも眩しすぎる。

 

振り返って見れば、嵐珠だけに限らず7話で「適性がないから」とスクールアイドルになりたい気持ちを隠していた栞子など、そういった「見えている本心を直視する勇気」はこの『虹ヶ咲学園』という作品で最も描かれてきた事でしたが、上述したようにこの8話においてはむしろ「見えていなかった自分の本心」が見えるようになるまで、その過程こそが今回のフィルムコンセプトだったのかも知れません

 

嵐珠のパフォーマンスが終わった後、階段の下で自身の迷いを吐露する侑と、それを同じ「作曲者」としての立場で聞くミアの一連のシーンは、階段を降りて自分も侑と同じ影のテリトリーに入るムーブメントもまた含蓄のあるものでした。

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「階段の下で、日=スポットライトの当たらない場所」というロケーションが「ステージには立たない役割」の象徴として描き出されるはある意味で正しいのかも知れません。

それこそ、ミアが言うように「作曲者」は嵐珠や他のスクールアイドルのような”プレイヤー”とは違い、そこに「自分の存在意義」を見出す必要はなく、ただ「求められるように」曲を作るということ。それは極めてドライな考えに映るかも知れませんが、プロの作曲家としては正しいスタンスなのかも知れません。

なぜなら侑自身もまた、同好会の活動を舞台には立たない立場として「影」で支えてきた存在に他ならないからです。しかし、侑は「自分の本心から目を逸らして」裏方の仕事や作曲をしてきたわけではなかったはずです。むしろ、同好会の一員としてそうした活動には積極的に取り組んできたのは言うまでもありません。

 

とはいえ、侑自身が感じていた「求められるものを作る」というミアの言葉への何となく腑に落ちないような響き。そうした「上手く言葉に言い表せない何か」が今回侑が探し求めていた、彼女の言葉を借りるならば「ときめき」に繋がるヒントだったのかも知れません。

 

「私はみんなに近づきたい、みんなと一緒に、今ここにいる私をみんなに伝えたい!」

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侑の中で隠れていて、「侑自身も気づいていなかった彼女の本心の答え」を導いてくれたのが、他でもない同好会のみんなが歌う曲(ここではA・ZU・NAの3人が歌う『Infinity! Our wings!!』)だった、そんな一連の独白シーンには目を張るものがありました。

「同好会のみんな」を応援したい気持ちが大きすぎて、「侑自身が何を表現したいのか」が盲点になっていたのかも知れません。そうした自分の中の”ときめき”が「無かった」のではなく、実は「自分の気づかない一番近くにあった」という事。

 

太陽の光が差し込む瞬間の絵作りも含蓄に満ちていました。「ピアノを演奏する者」としての決心に対し、まるで祝福をするように胸を抑える侑の「指先」を表現者のモチーフとして照らし出し、その後に顔、最後に全身が光に包まれる一連の流れの美しさに思わず息を飲んでしまいます。

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そして、「侑がミアを影から連れ出して階段を駆け上っていく」シーンは、まるで上述した「階段を降りてミアが侑の影のテリトリーに歩み寄る」描写とは対照的に描かれます。

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それは、まだ明かされぬミアの”影”の部分に対する一筋の「光」を予感させるものだったのかも知れません。侑とミアの「作曲者」という同じ立場でありながら正反対の関係性は見てて面白いですし、お互い真逆だからこそ思わぬ化学反応を起こしてしまうのって何だか良いな、と思います。

 

そして同好会の最後の演目が始まる直前、歩夢の「それでは聴いて下さい」のセリフの後、歩夢の視線の先からカメラがティルトすると、同好会のみんなとは別でもう一つステージが特設されており、そこに侑のシルエットが映されるシーンには思わず唸らされます。

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スクールアイドルを応援してきた観客から見れば、侑を見て最初に思うのは「Who are you?」であり、これまでは「居なかった子」でもある訳です。そんな観客の視点を先ずは「シルエット=黒子」として描き、そこから初めて侑に(本当の意味で)スポットライトが当たる流れにも、大きな意味があったと感じます。

”黒子”だった侑が”一人の表現者”としてステージに立つこうした一連の描写は、これまでもずっと述べてきたように「見えなかったけど確かにそこにあったものが、ようやく見つけられた」という、今回の挿話で最も描かれてきたテーマを包括するものだったとも言えます。

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演奏が始まる直前、深呼吸をした後、初めてステージに立ち鍵盤に向かう侑の震える指と、それを見守る観衆の一連のシークエンス。

スクールアイドルを応援してきたファンにとって、”同好会の主役”は当然に「スクールアイドル」なのかも知れません。しかし今この瞬間は、侑もまた一人の”主役”として見守られながら虹色のサイリウムに包まれていく。そんな優しさを感じる絵作りがとても良いです。

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そしてBパートの最後、演奏が終わった後に流す侑の涙は、おそらく侑が初めて「自分のために流した涙」かも知れません。「同好会のみんなのため」に貢献してきた侑が、初めて作った「自分のための曲」が『TOKIMEKI Runners』だったのだと思います。

侑自身が決めた、侑の選択。”逆光”で隠された物語が”順光”で明かされるドラマの数々。

そんな作品に”ときめき”を感じたのは、きっと私だけではないはずです。