ロリポップ・アンド・バレット

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視線を「分散」させ「注視」し直す革命ドラマ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』2話 感想

オルファンス(アニスフィアの父)とグランツ(ユフィリアの父)の会話シーンで始まる冒頭。両者の間に置かれる魔道具のポットが画面中央に位置し、思わず視線がそちらに誘導されます。その後、アップで映されるアニスフィアの顔の絵が入ったポット。

今この場に居ないはずのアニスフィアが、この画面において最もその存在感を放つことで、もはや我々の視線は2人の父から「分散」されているのかもしれません。

 

何をしでかすか分からない”お転婆娘”を一国の王女として抱えている事への拭えない危なっかしさ。ともすれば、「目の上のたんこぶ」にすら思えるアニスフィアのパーソナリティが、彼女が不在の場においても画面上に”残像”が映り込んでしまうようなカットです。

『転生王女と天才令嬢の魔法革命』2話においては、こうした「視線の”分散”」が随所に表現されています。

続くこれらのカット群については、上の例とは異なり画面上はオブジェなどで分断されてなくとも、前景に積まれた本・切り返しのショットにより前景に大きく映る花瓶によって、もはや見る者からの視線を執拗に”遮る”ように障害物が置かれます。

見る者に、画面中央〜奥で話している2人の父と、手前のオブジェクトとを交互に視線を行き来させ、まるで我々が画面の一点を「注視することを妨げる」ようなレイアウト群です。

殊、この2話においてはアニスフィアとユフィリアを、それぞれの父が「どう見ているか」という視線、ひいては「親の視点」に重きを置くドラマだった事を踏まえれば、その演出の数々にもやはり相応の意味があったとすら思えます。

ユフィリアがアルガルドから一方的な婚約破棄を言い渡された事を知り、政略結婚が白紙となった今、グランツがユフィリアを叱責するかの如く”今後の振る舞い”について問い詰めかけるシーンでは、画面中央に立つオルファンスがオブジェとなり、画面を上手・下手の2つに分裂させ、両者の分断を徹底的なものとして描き出します。

画面上手に注目すると、ユフィリアの頭部は二重フレームで絵画の額縁内に収まり、更にロウソクによって、彼女は完全に画面の端に閉じ込められます。全体的に画面中のオブジェクトの密度が高く散乱したレイアウトになっているのも、視線を分散させることの一助となっています。

だからこそ、公爵家としての役割を果たす事に注視するあまり、図らずも我が娘に負担をかけさせていた事を詫びる一連のシーンにも、相応の意図を感じずにはいられません。

ここでもやはり、両者を分断するオブジェクト=ロウソクが中央に配置されるのは、まだ拭いきれない微妙な関係性を語るように、見る者の視線を分散させる画です。

このカットに限らず、この部屋の壁には多くの「絵画」が配置されており、まるでそれらが「定まらない視線を煽る」よう訴えかけているとすら思えます。

続くグランツがユフィリアの本心を知り、公爵家当主としてではなく、あくまで父として我が娘と向き合うシーン。上で挙げたような「オブジェクトが多く、散乱とした引きのカット群」とは対照的に、ここでは「被写界深度が浅めの寄りのカット」で捉えている点は見逃せません。

これまで我々が一点を見続ける事を拒絶し、画面を分割することで”分散”させてきた視線が、ここに来てはじめて「注視」させるようなレイアウトとなっているためです。

引きのカットで一つのフレームに横構図で両者を捉えるのではなく、あくまでも寄りの切り返しショットでそれぞれを映し出して、何も隔てずにお互いが対峙している事を明示する事。

 

それはまるで、公爵家の立場から娘をあくまでも「公爵令嬢=”王妃”の残像」として見て、”娘”から目を逸してきたグランツの視線はアニスフィアとオルファンスによって一度”分散”され行き場を失い、父としての立場から、そして「我が娘」としてユフィリアと向き合う瞬間。ここで初めて視線が定まり、彼女を「注視」するようになる。そうした心理の変容を代弁するようなフレーミングです。

 

そして、「分散される視線」から「注視する視線」への変容を辿ったのは、アニスフィアの父であり現国王でもあるオルファンスもまた同じだった筈です。

国王と公爵家当主。そうした立場の違いを全面的に強調するかの如く、王室の内側から両者を窓越しに捉え、分断される両者。但し、このカットではお互いがフレームによって分断されていてもなお、上で挙げたような「視線の分散」を感じないのは、両者ともに画面中央寄りに位置し、「境界線を二人で共有」している事に他なりません。

十字型の窓のフレームがフォーカルポイントへの視線誘導として機能している事も相まって、むしろ親近感すら感じる画です。

それを裏付けるかのように次点のカットでは室外で両者を捉え、ここでは窓のフレームが取り払われ、両者を遮るものは存在しません。今この瞬間は王室における”役割”から開放され、お互いが「友人同士」として語らう印象的なシーンです。

 

「あのアニスフィア王女が国王になる。そんな夢を見ても良いだろう」

「私は全く見たくないがな。そんな悪夢...。」

グランツの台詞を受けて戸惑うオルファンスの反応からも、まだオルファンスが我が娘・アニスフィアに国王としての器を見いだせずに居ることは明らかですが、一度それを聞いてしまえば、「国王」としての娘を今後、”注視”せざるを得なくなります。

グランツが”王妃の残像”ではなく”我が娘”としてユフィリアと向き合った事とは対比的に、ここではオルファンスがアニスフィアの中に「国王」の卵を見つつある、そうした示唆に富んだ描きです。

 

このように「視線の分散から注視への変容」を2人の父親の立場から描いた今回の挿話ですが、そうしたテーマ性の境地とも言えるのが、エンディングのアニメーションに他なりません。

木を境界として分断されるアニスフィアとユフィリアの世界。

持つものであり、同時に持たざるものでもある両者の世界をパラレルで描きつつ、両者がサビ前でオーバーラップし、その運命が交差する瞬間。

二人の出会いによって、世界のルールすらも覆る=革命の可能性を示唆するかのように描かれる上手・下手の立ち位置の転換にも、意味性が多分に含まれているのでしょう。

そして何よりも特異に映るのが、こちらのサビの演出です。

スプリットスクリーンによって画面が上手・下手に「分割」され、アニスフィアとユフィリアがお互いに分断されながら約16秒間・19回にも渡って交互にショットを切り返し徐々にパンアップします。それは約16秒間、我々の視線は上手・下手を交互に「分散」され続けることを意味しており、まさにこの挿話でずっと描かれてきた「視線の分散」の最たる例とも言える映像演出です。

我々の視線が幾度と左右に分散され、その行き場を失った後に映されるのが、初めてアニスフィアとユフィリアの両者が相まみえる次のカットです。

上で例を挙げたように、2人の父が窓のフレーム=境界に分断されながらも、その境界を2人で”共有する”事で、翻って「注視」を促すようなカットがありましたが、ここでもやはり同様です。

アニスフィアとユフィリアの間を遮る木が画面を二分割しながらもその”境界線”を2人が共有した後、お互いがついに越境する瞬間、パンアップして映像が終わります。

「2人を分断し、視線を”分散”させる」境界線が「2人に共有され、視線を”注視”させる」意味性を帯びていくその変容は、まさにこのエンディング映像によってその極致が描き出されているのです。

それはまさしく、「既存の世界観や価値観から視線を一度離れさせて、世界を新しく捉え直す」こと、即ち「革命」という本作の本質的な部分を語っているようにすら、思えます。

 

今回、この2話とエンディングの絵コンテを担当されていたのは胡蝶蘭あげはさんという方のようです。今後、同氏によって紡がれるであろう「分散と注視」のドラマにも引き続き着目したいところです。

『ぼっち・ざ・ろっく!』12話 感想 気になった演出・フレーミングなど

文化祭ライブの演奏シーンから幕が上がる最終回。

その先陣を切る一曲目『忘れてやらない』の演奏中にインサートされる、人のいない学校内の画。何もイベントのない普段の学校であれば、そこには生徒が点在し、学内の生徒一人一人がそれぞれの”青春”を謳歌している様が描かれるのだろうが、体育館で演奏を行っている”今この瞬間”だけは、後藤ひとり、もとい結束バンドの元に「青春の主導権」がある。

但し、そうした「”青春”という概念に引け目を感じている者が、その主導権を握る事である種生活空間・社会に対して一矢報いる」痛快さだけで終わらないのが、この挿話・ひいては『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品の本懐であったと感じます。

 

2曲目に披露された、今回のキーとも言える楽曲『星座になれたら』では、ひとりのギターのチューニングに異変が生じ、しまいには1弦が切れるトラブルに見舞われます。

文化祭という、それもひとりにとって完全なる「”アウェイ”空間の大舞台」でのトラブルであり、見ているこちらもついぞ目を覆いたくなる瞬間なのは間違いないですが、ここではとりわけ、ひとりにとってギターは「”ひとりのアイデンティティ”そのものであり、何より”自己と他者をつなぎうる唯一の媒介である”」という前提が重要であり、そのギターの弦が、この大舞台で切れてチューニングが狂ってしまった、という点に注目します。

ギターの故障は即ち、ひとりにとって自己の喪失であり、何よりも「結束バンドと自分を繋いでくれる拠り所の喪失」を意味します。ステージの上、大衆の目に晒される中で、たった一人「結束バンド」という安寧の場所から唐突に放り出されてしまう感覚。

 

但し上で「アイデンティティの喪失」を例に挙げたものの、”ギターソロ”という「ギターヒーロー」としての己の実力を最大限に見せつけられるはずの場面で恐れたのは、「自己肯定感の機会損失」などでは決してなく、「みんなが楽しみにしていた文化祭ライブを、自分の失態で台無しにしてしまう」という、むしろ「他者」に対する意識からです。

1弦という自己と他者をつなぐ「線」が切れ、チューニングが狂ってもなお、最後にひとりを結束バンド・観客と繋いでくれたのは、ひとりの持つそうした純粋な「他者への思い」だったのかもしれません。だからこそ、喜多ちゃんがアドリブでギターソロを”繋いだ”事で、ひとりが誰とも繋がりを絶たれたあの空間から”帰還”できたのだと思います。

 

これまでも「喜多ちゃんにとってのギター」と「ひとりにとってのギター」はまた違ったニュアンスが込められていたと感じます。本当は弾けないギターを「弾ける」と偽った後、一度は”ギターから逃避した”喜多ちゃんと、持たざる者が独学の内に磨いた腕を拠り所として”ギターに逃避する”ひとり。両者は当初から正反対のキャラクター造形で描かれていました。

それを鑑みると、今回の挿話で『星座になりたい』のギターソロを喜多ちゃんが繋ぎ、それに応じたひとりが「ボトルネック奏法」で土壇場をくぐり抜ける場面は、そんなルーツを異にしながらもお互いに歩み寄ってきた対極のギタリスト2人が、ついに”交差する”瞬間だったのかもしれません。

ソロを周り込みのカメラワークで捉える圧巻のシーンですが、マイクが全方位から喜多ちゃんの周りを囲むようなショットはとりわけ印象的でした。勿論、”喜多ちゃんのパーソナルマイク”は手前にあるその1本ですが、本来であれば位置関係的にドラムの虹夏を囲っているマイクと、その手前にいる喜多ちゃんとを、望遠レンズ的に遠近感を操作することで「まるですべてのマイクが”喜多ちゃんを注視している”」ような画です。

奏でている”今この瞬間の音”を一音たりとも取りこぼさぬように、ひとりにその”音”をバトンとして渡す。そんな意志の乗った演奏であり、画作りです。

土壇場の「ボトルネック奏法」によって、首の皮一枚で喜多ちゃんから繋いだギターパートを演奏仕切ったひとりが「上を見上げる」ワンシーンにも相応の意味があったのかもしれません。それこそ振り返ってみれば、ステージにおいて後藤ひとりは常に、まるで外界の光を遮るかのごとく「俯く」事で、自分の世界にのめり込むような演奏スタイルでした。それはまるで、「押入れ」という閉じた世界の中だけ”降りてくる”自分、即ち”ギターヒーロー”を自分の内に呼び覚ますための、ある種の「降霊術」のようなものだったのかもしれません。。

 

そんなひとりが、恐らく初めて演奏中に明確に「上を見上げて、照明の光を真っ向から浴びる」この瞬間。ギターパートを「やり切った」今、もはや”自分の役割を終えた”ような「開放感寄りの心地よさ」、そしてそんな彼女を祝福するように、ひとりの周りをちらつかせる体育館の”埃の輝き”。その一つ一つが、ひとりの歩んできたものの尊さに収斂されていくような、感傷性を帯びたもののように感じました。

上で「降霊術」という言葉を使いましたが、それこそ青春とか自意識だとか、そういった「俗」なものの呪縛から解き放たれ、本当の意味で「成仏した」瞬間だったからこそ、埃がまるで天に昇るオーブのように舞っていた、というのは少し考えすぎでしょうか?

 

予想外のハプニング、そして自身の役割を果たし乗り切ったその瞬間の余韻に浸りつつも、次点の切り返しカットで喜多ちゃんがフレームに映されます。この挿話において、ひとりを「成仏」させたのは他でもなく喜多ちゃんであり、だからこそ、ギター・ひいてはバンドという媒介を通じてその「恩返し」をする番。そんな「持ちつ持たれつ」の関係性を示唆するに十分なシークエンスでした。

 

ダイブパフォーマンスに失敗し病室で目覚めるひとりと、喜多ちゃんとの一連の会話シークエンスもまた含蓄に満ちていました。シーン冒頭の俯瞰ショットでカーテンのフレームがひとりと喜多ちゃんとの間を「遮る」という距離感の拭えなさ。

慣れない真似をして文化祭を台無しにしてしまった罪悪感がそこに表れていますが、それでも文化祭ライブに立候補する前の、あの時の病室(10話)と今とでは、ひとりと結束バンドとのメンバーの関係性は違って見えるはずです。

「後藤さん」と言いかけたところで、改めて「ひとりちゃん」と言い直す瞬間は、とりわけ(いわゆる「ぼ喜多」のカップリング的な文脈で)今回のキーイベントだった事に間違いないですが、このカットの直前で喜多ちゃんの台詞がオフ台詞(キャラクターの口元を映さない状態で発される台詞)として映し出され、両者の間で微妙な、しかし互いに気遣っているからこそ生じる”距離感”や”ズレ”が描かれてきたからこそ、ついに描き出される、この「言い逃れできない両者の対峙」シーンに多くの情感が乗ってきます。

その直後のカットでは、冒頭で俯瞰ショットでカーテンのフレームに自らを閉ざしていたひとりが、一転してアオリ気味のショットで捉え直されます。ここではさっきまで喜多ちゃんとの間を分断し自分を「閉じ込めて」いたカーテンのフレームが”取り払われ”、傍らに外の”光”が優しく差し込んでいる画でこのシーンを締めくくられます。そうした両者の「今までの自分たちとは違う」関係性を対比的に、かつ説得力を持って語るに十分だったと思います。

 

また「光を遮る」というカーテン特有の”アフォーダンス”に注目した時、やはりそこには相応の意味性があったのだと思います。但し、ここでは「あくまでもカーテンは最初から開かれている」という部分が肝要です。

つまり、本当の意味で喜多ちゃんとひとりを遮るものなどすでに無い筈なのに、あたかもそこに壁があるような、物理的というよりはむしろ「心理的な障壁」があったからこそ、カーテンはあくまでも開いたままでありながらその象徴として「カーテンのフレーム」という、本来なら何も遮りはしない”残像”により、両者に見えない壁がつくられたのでしょう。そしてそれが今や取り払われた、という事です。

 

Cパート。文化祭ライブを終えた後、新調したギターを背負って歩く何気ないシーンですが、やはりそこにも「ひとりの積み重ねてきたもの」を感じずにはいられません。

エンディングに入る直前に、付箋だらけのギター教本と、押入れに仕舞ったギターがインサートされます。それらは彼女自身が紆余曲折の中で歩んできた「これまで」を象徴するカットであり、そういった過去を全て肯定して、今後はどこまでも続いていく彼女の「これから」に「バトン」が渡されていく、このカットはそんな象徴的な画に感じられたのです。

川に反射する光をバックに、ひとりが「上手から下手(未来)に向かって歩く」という進行方向の正しさも相まって、とても説得力のある画です。

 

その直後、ロングショット+バックショットでひとりを捉える画は、ともすれば孤独感すらも抱くショットかもしれません。それでも、以前のような「寂しさ」を感じないどころか「雄弁さ」すら感じ取ってしまうのは、一点透視図法によって「どこまでも続いていく道」を印象的に捉えるレイアウトだからこそ、彼女が進んでいく「未来への方向性」を強く意識させる画になっているためです。

 

「今日もバイトか」の台詞で締められるラストカットでは、シンメトリー構図の高架下のショットでこの作品が幕を下ろします。快晴の空を遮るように敢えて高架下を映すのも、「”直射日光”で歩くにはまだ眩しいけれど、どこまでも伸びていく道をただ今は歩いてく」事の意味性として、高架が映されているのかもしれません。

その道を傍で見守るように、下手から少し顔を覗かせる街頭が、道を優しく照らし出してくれる。文化祭ライブという結束バンド・ひいては後藤ひとりにとって転機のイベントを終えた後の何気ない日常のワンシーンだからこそ、いつもの景色もまた違った意味を帯びていくのでしょう。

 

改めて『ぼっち・ざ・ろっく!』を振り返ってみれば、画作り・レイアウトのレベルでストーリーテリングがなされている事に気づき、大変味わい深いアニメだったと感じます。

星新一『ボッコちゃん』レビュー 鏡は理想を”反射”するのか、あるいは”反転する”のか

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星新一の代表作『ボッコちゃん』。

ごく短いショートショートという形式を取る文学作品でありながら、特異な世界観・伏線の回収など、小説のエッセンスが込められた一作。

今回は作品のキーパーソン(?)であるボッコちゃんの役割について書いてみました。

 

  1. ”完全”な美人・ボッコちゃんの”欠点”

  2. ボッコちゃんと青年

  3. ボッコちゃんは如何にして「完全な美人」になったか

 

1.”完全”な美人・ボッコちゃんの”欠点”

そのロボットは、うまくできていた。女のロボットだった。人工的なものだから、いくらでも美人に作れた。あらゆる美人の要素を取り入れたので、完全な美人が出来上がった。もっとも、少しつんとしていた。だが、つんとしていることは、美人の条件なのだった。

(中略)

しかし、頭が空っぽに近かった。彼もそこまでは、手が回らない。簡単な受け答えができるだけだし、動作のほうも、酒を飲むことだけだった。

 

このように、ボッコちゃんは冒頭で「完全な美人」と明言されているにも関わらず、その後に続くのは「少しつんとしていた」「頭が空っぽに近かった」など、明らかな”欠点”を持つ存在です。

”完全な美人”なのに「欠点がある」があるのは、矛盾しているようにも思えますが、むしろその「欠点」が盲点になってしまうからこそ、ボッコちゃんは誰かの理想を写す”になり得たのでしょう。

 

そして、次のように誰かが発した言葉をそっくりそのままオウム返しに”反射”する様相もまた、ボッコちゃんの”鏡”としての役割を、一層説得力を持って描いていたとも言えるでしょう。

「お客の中で、誰がすきだい」
「誰が好きかしら」
「ぼくをすきかい」
「あなたが好きだわ」

(中略)

若いのにしっかりした子だ。べたべたお世辞を言わないし、飲んでも乱れない。そんなわけで、ますます人気が出て、立ち寄るものが増えていった。

ただ”反射”しているに過ぎない言葉でも、客にとっては「自分の言葉を全て肯定してくれる存在」。このように、ボッコちゃんに対して好意的な見方をする=客にとって理想を写す”鏡”という図式がここで描かれます。

 

そんなボッコちゃんの前では、ロボット故の「受け答えの不自然さ」はもはやどうでも良くなってしまうし、「つんとした冷たい」という”欠点”も、むしろチャームポイントの一つとすら見えてしまう。まさに「恋は盲目」を象徴する存在だったのかも知れません。

 

2.ボッコちゃんと青年

その中に、一人の青年がいた。ボッコちゃんに熱をあげ、通いつめていたが、いつも、もう少しという感じで、恋心はかえって高まった。

 

とりわけ、そんな「盲目的な恋」に一直線だったのが「青年」です。

ボッコちゃんが好きすぎるあまり散財して、ついに家の金まで手をつけようとしたため、父親からこっぴどく怒られる。「上品な客が多い」バーの中では際立って異質な存在として描かれていますが、ここにもやはり「上品な客」を反転した存在こそが、甲斐性なしでだらしない「青年」に他ならないという”鏡写し”の関係性が描かれます。

 

そんな青年の理想を反射・もとい「反転」させる重要な存在がボッコちゃんであったことは言うまでもありません。

「もうこられないんだ」
「もうこられないの」
「かなしいかい」
「かなしいわ」
「本当はそうじゃないんだろう」
「本当はそうじゃないの」
「君ぐらいつめたい人はいないね」
「あたしぐらいつめたい人はいないの」
「殺してやろうか」
「殺してちょうだい」
彼はポケットから薬の包みを出して、グラスにいれ、ボッコちゃんの前に押しやった。

 

「全てを反射する鏡」のボッコちゃんは、他の客と同様に青年の言葉も正しく”反射”します。しかしその反射した言葉は、他の客のように発言の全て「肯定」してくれるどころか、むしろ青年にとっては一途な恋心を「否定」されてしまう、そんな真逆の意味を持っていたに違いありません。

 

ボッコちゃんが「理想を写す鏡」ならば、鏡にもまた一つ大きな、そして案外気付きにくい欠点があります。それは「鏡に写る像は、常に左右が反転している」という部分。

 

それ故に鏡は全てを正しく写してくれる訳ではないし、青年と他の客は「ボッコちゃん」という鏡を通じて同じもの=自分自身の理想を見ているつもりでも、そこに写っているのはむしろ青年にとって理想とはもっともかけ離れた、”恋心の否定”だったのでしょう。

鏡は一見、理想を正しく写してくれるものに思えるますが、左右が”反転”しているため、理想とは逆のものを写し出すこともあるのです。

 

3.ボッコちゃんは如何にして「完全な美人」になったか

彼はポケットから薬の包みを出して、グラスにいれ、ボッコちゃんの前に押しやった。
「飲むかい」
「飲むわ」
彼の見詰めている前で、ボッコちゃんは飲んだ。

彼は「勝手に死んだらいいさ」と言い、「勝手に死ぬわ」の声を背に、マスターに金を渡して、外に出た。夜にふけていた。

 

前提として、このシーンの前には「ボッコちゃんが飲んだ酒はマスターが回収し、客にこっそり提供している」事が読者に明かされます。

つまり、この後のシーンではボッコちゃんの飲んだ毒入り酒が、それを知る由もないマスターと他の客が飲み、失恋し店を後にした青年以外は全員死亡エンドを辿ります。

本作屈指の伏線回収箇所でもあり、山場でもある場面ですが、ひとり残されたボッコちゃんが最後に”反射”するものが「ラジオ」から流れるおやすみなさいの言葉だったのが、「理想を”反射”もとい”反転”する鏡」であるボッコちゃんにとって重要な意味を帯びていたのだと思います。

 

その夜、バーは遅くまで明かりがついていた。ラジオは音楽を流し続けていた。しかし、だれひとり帰りもしないのに、人声だけは絶えていた。


そのうち、ラジオも「おやすみなさい」と言って、音を出すのをやめた。

ボッコちゃんは「おやすみなさい」とつぶやいて、つぎ誰がはなしかけてくるかしらと、つんとした顔で待っていた。

 

なぜなら「ラジオ」もまた、マイクを介して人の声や音を外界へ反射する「鏡」の役割を担っているからです。

しかし、ラジオの発する「おやすみなさい」には、バーの客や青年のような「理想」が込められているでしょうか?答えはNOです。

ラジオの発する声はあくまでラジオという音声媒体=鏡によるもので、そこには客や青年の持っていたような「理想」という名の”欠点”は存在せず、声ではなく「音」に過ぎません。

 

ボッコちゃんは「理想を写す鏡」でありながら、”反転”してしまうという鏡特有の「欠点」を抱え、見るもの=青年がその欠点に気づかなかったからこそ、本来ならば”肯定”してほしかったはずの思いを”否定”されてしてしまい「全員死亡エンド」という悲劇の結末。

ならば、「ラジオ」というもう一つの鏡と「合わせ鏡」にすることで、ボッコちゃん=鏡の「反転する」という”欠点”もまた反転させて「完全な美人」にしてしまえば良い、それこそが本作が最も描きたかったであろう逆説的な、そして皮肉めいたオチだったのかも知れません。

 

最も、その「完全な美人」を拝む者は、もうどこにも居ないのでしょう。

冒頭でも描かれたように、当初はバーのマスターの趣味で「道楽として」作られたボッコちゃんが、全員死亡エンドにより誰の理想を”反射”も”反転”もしない鏡になったことで、翻って「ディストピア」の象徴として、役割が”反転”されて捉え直される、まさに「鏡写し」の作品だったのかも知れません。

 

今回は以上です。

「見えないもの」を映し出すスポットライト あるいは高咲侑は如何にして”主役”になったか『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期 8話 感想

イメージカラーの「黒」が象徴するように、これまで「スクールアイドルとして舞台に立つ同好会のみんな」を裏方として支えてきた高咲侑は、「黒子」だったのかも知れません。

勿論、そうは言っても単純に「スクールアイドル」>「黒子」といった図式が成り立つわけではありませんし、同好会メンバーもまた侑によって支えられてきた事は明らかです。舞台に立つ者が、立たない者=ファン・裏方に支えられ、またスクールアイドルはそんなファンに感動を与える。そうした「スクールアイドルとファンの相互関係」というのは他でもなく本作が一貫して描かれてきた事です。

 

そんな同好会のスタンスとは正反対に、「スクールアイドルはただ与えるだけで良い」という、ある種一方的なサービス精神を座右の銘にする孤高のアイドル鐘嵐珠とのすれ違いはこれまでも幾度と描かれてきました。

冒頭、同好会の打ち合わせに入室するランジュが「今回の主役はあななたちじゃない、この鐘嵐珠よ」と、自信ありげの宣戦布告。

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そんな彼女の堂々とした立ち居振る舞いはカメラから見て下手側で映し出されます。

「主役」と声高らかに宣言しながらも、それとは裏腹にその立ち位置は物語の主体として位置する「上手」ではなく「下手」である事の意味。その意味は嵐珠自身が最も自覚していたはずです。

 

これまで”魅せられた”同好会のユニットによるパフォーマンスの数々、孤高を貫こうとしながらも、親友である栞子の同好会への加入を皮切りに揺らぐ、正真正銘ソロアイドルとしての立ち位置。毅然と振る舞う第一印象の裏に孕む彼女自身の弱さ。これらは後の展開でより鮮明に描かれますが、彼女のそういったスタンスへの揺らぎを予感していたのかも知れません。

 

そして何より、そんな彼女の言う「主役」としての立ち位置に対する、最も重大な存在こそが、侑であったことは言うまでもありません。控室で侑を探す様子もそうです。今ここに”存在しない”侑こそ、嵐珠にとって最も大きな”存在感”を放っているという矛盾。

これこそが、ステージに立たない黒子=不在の語り手・高咲侑の本質であり、また同時に侑もまたこの物語の「主人公」である、という自明の理を再認識させる描写でもありました。

後に触れますが、殊この8話においては、そういった「見えなかった存在が見えるようになる」事に意味があるのだと思います。

 

みんなの夢が叶う場所・スクールアイドルフェスティバルも最終日を迎える中、トリを飾る同好会のパフォーマンスの作曲に行き詰まる侑を励まそうとする他のメンバーのシーンでは、ファンのみんなに喜んで貰えるか、同好会のみんながときめく曲になっているのか、そして「同好会で夢を叶える意義」に対し明確な”答え”となっているか、自分の中で方向性が定まらない気持ちが吐露されます。

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水場でのロケーションもまた、先が見えず方向性に迷う彼女自身の思いを映し出す役割を担っていたのかも知れません。水場に立つ柱が、侑を隠すようなポジショニングも同様です。同好会メンバーが気にかけている人物=侑を意図的にフレームから排除したのは、侑がみんなにとっての「中心」でありながらも、自身は同じ場所に存在できない、後に触れますが、そうした侑自身の持つ「不在性」かつ、今回の”主人公”としての「中心性」を予感させていたようにも思えます。

 

同じ「水」のモチーフで言うと、嵐珠のパフォーマンスのお膳立てを担った「流しそうめんのレールを走る船」の存在も無視できません。真面目な回でありながらインパクトのある絵面と副会長のハイテンションな実況も相まって、どこかコミカルな様相を放っている舞台装置でもありましたが、「進むべき道」が明確に決まっている”レール”とその船は、嵐珠の持つ自信満々なスクールアイドル観を象徴していたのだと思います。

それもまるで上で描かれたような、停滞のモチーフ=水場と対比させるギミックだったとも言えます。

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しかし、「迷っている」のは嵐珠もまた同じだったはずです。

パフォーマンスの直前、カーブを曲がりきれずに止まってしまう船は、「孤高のアイドル」として貫いてきたはずの意志が揺らぐ様子を映す、そんな役割を担っているようにも見えます。

とりわけ、パフォーマンスを終えた後の嵐珠が教室で一人佇む、たった数秒のワンシーンですが、彼女の抱える葛藤と本心、それを描き出す十分な説得力を感じさせる絵でした。「広い教室の一番端」というポジショニングもそうですが、何より「光が当たる位置に居ながらも、彼女自身がそれを拒絶する」かのような絵づくりと表情です。

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「与えるアイドル」として自身のスタンスを貫き、皆が自分を注目する最高のパフォーマンスを終えてもなお、どこか満たされない嵐珠の空虚な気持ちを表す空っぽの教室、そんな彼女の心の隙間を吹き抜けるかのように、風でカーテンの翻る描写。

そして極めつけには、太陽光が嵐珠の頭の位置まで差さっているにも関わらず、その視線は「光」からまるで目を逸らすように下手から上手へと、教室の方向=影を見つめる絵でした。嵐珠もまた、彼女自身の本心に気づいているはずなのに、”それ”を直視するにはあまりにも眩しすぎる。

 

振り返って見れば、嵐珠だけに限らず7話で「適性がないから」とスクールアイドルになりたい気持ちを隠していた栞子など、そういった「見えている本心を直視する勇気」はこの『虹ヶ咲学園』という作品で最も描かれてきた事でしたが、上述したようにこの8話においてはむしろ「見えていなかった自分の本心」が見えるようになるまで、その過程こそが今回のフィルムコンセプトだったのかも知れません

 

嵐珠のパフォーマンスが終わった後、階段の下で自身の迷いを吐露する侑と、それを同じ「作曲者」としての立場で聞くミアの一連のシーンは、階段を降りて自分も侑と同じ影のテリトリーに入るムーブメントもまた含蓄のあるものでした。

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「階段の下で、日=スポットライトの当たらない場所」というロケーションが「ステージには立たない役割」の象徴として描き出されるはある意味で正しいのかも知れません。

それこそ、ミアが言うように「作曲者」は嵐珠や他のスクールアイドルのような”プレイヤー”とは違い、そこに「自分の存在意義」を見出す必要はなく、ただ「求められるように」曲を作るということ。それは極めてドライな考えに映るかも知れませんが、プロの作曲家としては正しいスタンスなのかも知れません。

なぜなら侑自身もまた、同好会の活動を舞台には立たない立場として「影」で支えてきた存在に他ならないからです。しかし、侑は「自分の本心から目を逸らして」裏方の仕事や作曲をしてきたわけではなかったはずです。むしろ、同好会の一員としてそうした活動には積極的に取り組んできたのは言うまでもありません。

 

とはいえ、侑自身が感じていた「求められるものを作る」というミアの言葉への何となく腑に落ちないような響き。そうした「上手く言葉に言い表せない何か」が今回侑が探し求めていた、彼女の言葉を借りるならば「ときめき」に繋がるヒントだったのかも知れません。

 

「私はみんなに近づきたい、みんなと一緒に、今ここにいる私をみんなに伝えたい!」

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侑の中で隠れていて、「侑自身も気づいていなかった彼女の本心の答え」を導いてくれたのが、他でもない同好会のみんなが歌う曲(ここではA・ZU・NAの3人が歌う『Infinity! Our wings!!』)だった、そんな一連の独白シーンには目を張るものがありました。

「同好会のみんな」を応援したい気持ちが大きすぎて、「侑自身が何を表現したいのか」が盲点になっていたのかも知れません。そうした自分の中の”ときめき”が「無かった」のではなく、実は「自分の気づかない一番近くにあった」という事。

 

太陽の光が差し込む瞬間の絵作りも含蓄に満ちていました。「ピアノを演奏する者」としての決心に対し、まるで祝福をするように胸を抑える侑の「指先」を表現者のモチーフとして照らし出し、その後に顔、最後に全身が光に包まれる一連の流れの美しさに思わず息を飲んでしまいます。

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そして、「侑がミアを影から連れ出して階段を駆け上っていく」シーンは、まるで上述した「階段を降りてミアが侑の影のテリトリーに歩み寄る」描写とは対照的に描かれます。

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それは、まだ明かされぬミアの”影”の部分に対する一筋の「光」を予感させるものだったのかも知れません。侑とミアの「作曲者」という同じ立場でありながら正反対の関係性は見てて面白いですし、お互い真逆だからこそ思わぬ化学反応を起こしてしまうのって何だか良いな、と思います。

 

そして同好会の最後の演目が始まる直前、歩夢の「それでは聴いて下さい」のセリフの後、歩夢の視線の先からカメラがティルトすると、同好会のみんなとは別でもう一つステージが特設されており、そこに侑のシルエットが映されるシーンには思わず唸らされます。

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スクールアイドルを応援してきた観客から見れば、侑を見て最初に思うのは「Who are you?」であり、これまでは「居なかった子」でもある訳です。そんな観客の視点を先ずは「シルエット=黒子」として描き、そこから初めて侑に(本当の意味で)スポットライトが当たる流れにも、大きな意味があったと感じます。

”黒子”だった侑が”一人の表現者”としてステージに立つこうした一連の描写は、これまでもずっと述べてきたように「見えなかったけど確かにそこにあったものが、ようやく見つけられた」という、今回の挿話で最も描かれてきたテーマを包括するものだったとも言えます。

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演奏が始まる直前、深呼吸をした後、初めてステージに立ち鍵盤に向かう侑の震える指と、それを見守る観衆の一連のシークエンス。

スクールアイドルを応援してきたファンにとって、”同好会の主役”は当然に「スクールアイドル」なのかも知れません。しかし今この瞬間は、侑もまた一人の”主役”として見守られながら虹色のサイリウムに包まれていく。そんな優しさを感じる絵作りがとても良いです。

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そしてBパートの最後、演奏が終わった後に流す侑の涙は、おそらく侑が初めて「自分のために流した涙」かも知れません。「同好会のみんなのため」に貢献してきた侑が、初めて作った「自分のための曲」が『TOKIMEKI Runners』だったのだと思います。

侑自身が決めた、侑の選択。”逆光”で隠された物語が”順光”で明かされるドラマの数々。

そんな作品に”ときめき”を感じたのは、きっと私だけではないはずです。

会計知識ゼロから簿記2級(ネット試験)を完走した感想 学習ルート等

案外需要がありそうな気がしたので、日商簿記検定2級(ネット試験)の合格に至るまでのプロセスを残しておこうと思いました。

先ずご留意頂きたいのは、こちらの内容は2021年度(2021年4月〜2022年3月)に受験した時点での内容です。従いまして、2022年度に適用される改定後の試験内容(収益認識基準等)は反映されておりませんので、予めご了承のほど宜しくお願いいたします。

 

ただ、参考書のルートなど基本的な進め方は変わりませんので、あくまで自身の勉強計画を立てるに当たっての指標にしていただければと思います。

私の場合は以下のように学習(約5ヵ月)を進めましたので、それぞれ解説しようと思います。

1.簿記3級の内容インプット(2週間)

2.簿記2級のテキスト(商業簿記・工業簿記 各1ヵ月)

3.商業簿記・工業簿記 問題演習(各1ヵ月)

4.模試の演習・復習(2週間)

 

1.簿記3級の内容インプット(2週間)

私は簿記3級は受けずに2級から受験しましたが、会計知識ゼロからのスタートだったため、学習そのものは簿記3級の内容からスタートしました。

使用した参考書は下記の『スッキリわかる』シリーズのテキストのみを使用しました。

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上述の通り簿記3級の受験は考えておらず、2級への導入として学習する目的でしたので問題集などの演習系参考書は使用せず、専らテキストのインプットと章末の確認問題のみ行いました。

 

2.簿記2級のテキスト(商業簿記・工業簿記 各1ヵ月)

簿記3級の学習が一通り終わった段階で(「終わった」の基準ですが、テキストの基本的な仕訳が分かり、精算表・財務諸表は完答はできなくても、どこに何を書くのかが理解できるレベル。模擬試験で合格点を狙う必要は無いかなと思います。)、

いよいよ簿記2級のテキストに進みますが、ここで使用した参考書(+問題集)は下記の『パブロフ流』シリーズです。

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こちらのテキストは覚えながら「自分の手で仕訳が書けるようになる・問題が解けるようになる」というコンセプトで、学習する内容の次の項目が確認問題、というページの構成により、覚えた事をすぐに確認して記憶の定着ができる優れものです。

 

商業簿記と工業簿記どっちから始めるべきか」については、好みの問題もあるかと思いますが個人的な考えとして。「3級で学習した内容から接続しやすい」商業簿記から学習を始めました。また、難易度も少々高く配点も60点と大きいため、商業簿記から先に理解を進めておいた方が精神的に楽な気もしたので、、、

工業簿記は商業簿記と比較して分量は少ないものの、内容が独特なので「3級の次にやる内容」としては少々とっつきにくく、完全に「別物」という印象だったので、後からの勉強でも学習への支障は無いかと思います。

 

こちらのテキストですが、それぞれの論点について確認問題がある程度(9割くらい)できるようになった段階で、同じシリーズの問題集に進みました。

財務諸表(BSPL・株主資本等変動計算書)・連結会計(連結精算表・財務諸表)、標準原価計算など覚えることが多い、かつ頻出の分野は重点的に解き直し・付録の動画解説を見ていました。

連結会計では特に覚えるべき仕訳の数が7つほどあり、また「タイムテーブル」を使った解き方を必ずマスターしておく必要があります。こちらも動画解説で詳しく説明されており、必見です。

 

また、簿記3級・簿記2級にも共通する学習方法として、公認会計士の簿記系Youtuber・ふくしままさゆき氏の動画解説を見るのもおすすめです。

www.youtube.com

各論点で、テキストではサラッと流されるような細かい部分まで、理屈の部分から非常にわかりやすく解説している動画をアップされており、どうしてもテキストだけでは理解できない・覚えられない部分を補完するのに最適です。

個人的に上述のアウトプット重視の『パブロフ流』シリーズとの補完に優れている教材だと感じました。

上記に加えて、TAC出版『究極の仕訳集』を知識の確認用に使いました。

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こちらは「紙ベースで携帯可能なサイズ」という他の包括的な問題集にはない位置づけの参考書で、隙間時間や知識の穴埋めに最適でした。ただ問題集としては若干物足りなさがあるので、下記のように別途網羅的な参考書と補完する形で使うのが望ましいです。

 

3.商業簿記・工業簿記 問題演習(各1ヵ月)

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テキストが一通り終わった段階で、同じく『パブロフ』シリーズの『総仕上げ問題集』を進めました。

ここまで来ると、基本的にあとはひたすら何度も解いて復習するだけですが、いかんせん商業簿記(大問2・大問3)は大問を一つ解くのに20〜30分ほどかかり、復習にも時間を要するため、大問2・3の対策は土日をメインで問題を解くようにし、逆に平日は解くのに時間のかからない大問1の仕訳問題と工業簿記対策メインで行いました。

 

こちらの『総仕上げ問題集』ですが、特に商業簿記は問題の難易度・分量ともに標準〜少々高めに設定されていると感じましたので、1周目はかなり苦戦すると思います。

1周目はインプットと割り切って解説を読み込み、問題のパターン(問題文の問われ方も含めて)を覚えてしまうのが手っ取り早いと感じます。

 

特に重点的に対策を行ったのが商業簿記の大問1とBSPL・連結会計です。

大問1の仕訳問題は得点源かつ、他の大問の基礎になる部分ですので毎日解いて苦手な問題をなくすようにしました(模試では常に16点/20点以上でした。模試では、、、)。

 

また、連結会計はかつてペーパー試験では難問が多かったことから「捨て問」と見る人も多いですが、(連結会計に限らず)ネット試験に関しては全体的に基礎的な問題が出題されますので、必ず解けるようにしておきましょう。

覚える事は多いですが、出題頻度も多くやる事が決まりきっている論点なので、十分に得点源になります。連結で点数を稼ぐ事ができたから合格できたと言っても過言ではないです。

 

4.模試の演習・復習(2週間)

上記パブロフの『総仕上げ問題集』の練習問題を一通り終えた段階で、購入者特典の模擬試験(ネット)を解きます。

 

こちらは商業簿記・工業簿記問題集にそれぞれ2回分付属していますので計4回分、ネットの模擬試験を受けることが可能です。操作(解答)方法もネット試験に準拠しており、難易度・形式共に再現性が高いです。

(模擬試験では毎回おおよそ8割弱の点数でしたが、本番でも79点だった事を鑑みると、その再現性の高さが理解できるかと思います。)

 

解く順番は大問1→4→5→2→3というテンプレです。

こちらの模試は解いたその日のうちに復習を行い、怪しい分野については適宜問題集に戻って解き直しを何度か行いました。しかし本番までの時間もなかったため、4回全ての模試を復習していたわけではありませんが、、、

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全体を振り返ってみれば、会計知識ゼロから5ヵ月で簿記2級というのは可もなく不可もなく、といったところでしょうか。(早い人は2〜3ヵ月とか)。

上で触れたように、ネット試験は統一試験(ペーパー)よりも基本的な問題が多く、合格率も比較的高い(4割前後)ため、十分攻略可能と思います。ただ、覚えるべき量が多い事には変わりませんが、、、

 

今回は以上です。

「寄り道」が生み出す選択肢のドラマ 『スーパーカブ』2話 感想

趣味も目標も友達も無い、「ないない尽くし」の少女・小熊の日常が、カブとの邂逅を起点に彩られていくアニメ『スーパーカブ』。その1話が「カブとの出会い」に重きを置いた回であるとすれば、2話は「カブがもたらしてくれた出会い」の回とも言えそうな、”選択肢”の部分を起点に描いた挿話だったのかも知れません。

 

冒頭、ヘルメットの収納方法に四苦八苦する小熊の様子が描写されますが、これは自転車からカブへと通学手段の変更に伴う、「毎日のルーティンの変化」とそのイニシエーションとして丁寧に描かれます。こと本作は「登場人物との時間感覚の共有」に並々ならぬ拘りを感じる作品ですが、ヘルメットを脱いでからそれをカブに取り付けるまでの約1分強を省略せずに描いていたのも、きっとそういう意図があったのだと思います。

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何よりここで注目したいのは、登校してきたモブの生徒たちが「歩く」ムーブメントを一連のシークエンスの中に描写しているところです。バックで描かれるモブの動きもまた、「時間感覚」を思い出させてくれる一要素として機能していたのかも知れません。

急ぎ足で下手から上手へ駆けるモブの存在は特に顕著で、始業時間という迫るタイムリミットを感じさせます。一方でそんなモブとは対照的に描かれる、ヘルメットの取り付けに未だ格闘している小熊の悠長さは、彼女の初々しさと、可愛らしい類の生来的な「鈍臭さ」を醸し出していましたが、何より「小熊とカブだけの時間」をそっと見守るような、そんな優しさすら感じるシーンでした。

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チャイムが鳴り、驚いた後に髪を整え、カブのシートを軽く2回叩いて教室へ向かう一連の描写も同様です。新しい日常には新しいルーティンがつきものですが、こうした一通りの行動は、カブと出会う前と後とでは1日の始まりもまた変わっていく。そのプライマルたりうる彼女のルーティンに時間をかけて描写する事の意味。それは、今日から始まる彼女の新しい一日の始まりを祝福する、そんな意図があったのかも知れません。

 

 そんな小熊にとって新しい日常を共有できる新しい友達・礼子の存在こそが、今回の挿話において欠かせないものでした。カブとの出会いが、さらに別の出会いへと繋がっていく。だからこそ生まれる「選択肢」と「可能性」のテーマ。これは後述しますが、その導入として見事でした。


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とりわけ、お互いのバイク(広義)を紹介し合う駐輪場での対話が印象的です。駐輪場の屋根の中・あるいは駐輪場の内側、つまり空が入らない位置から両者をフレームに収めるのは、「カブ」という共通の話題を持ちながらも、どこか心の距離感が拭い切れない小熊の心理に寄ったものだと感じます。例えば授業終わり、礼子を横目に先に帰ろうとした小熊の行動から見えてくる彼女の中にある心の境界線のようなものだったり。


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続いて礼子が自身の原付を押して持ってくる一連のシーンで「空」がフレーム内に入るのは、礼子との心の距離がほんの少し縮まるような、そんな予感を思わせる描き方でした。

そして再度、駐輪場内から二人を捉えるショットでは、今度は空がフレーム内に収まるように映されます。小熊にとって、まだ完全に光を遮る心の「屋根」が取り払われていないものの、次第に打ち解けていく「可能性」を思わせる空。直接的なセリフではなく、映像面での構図から心理を捉えるショットの多くに感心させられました。


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Bパート冒頭、朝の支度シーンでは弁当の具を選ぶ描写が、1話のリフレインとして映し出されます。カブと出会ってから自分の中に生まれた「自信」の裏付けとして、数あるレトルトの中から一つを選ぶ事に迷いがなくなったのが1話でしたが、今回はまた彼女の中に生まれる新たな「迷い」を感じさせるモチーフとして用いられています。その迷いの起因が礼子の存在である事は言うまでもないでしょう。「友達」としての境界・距離感の拭えなさ。それでも、昨日までの関係性とは一味違っていたはずです。

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とりわけ教室での一連のシーンでは印象的なカットが多く感じました。先ずは小熊が礼子に「おはよう」の一言を発するシーン。小熊と礼子を分断していたであろう窓のフレーム=境界線を越える手前でカットが礼子に切り替わります。「境界線を越える」部分をあえて描き切らない事の意味。描くまでもなく、彼女はもう既にそれを「越えて」いるのだと。そこを描かないからこそ、このシーンの持つ説得力が生まれるという引き算の演出。小熊のちょっとした緊張感が伝わる声色の演技もさることながら、見応えのあるシークエンスです。


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もう一つ注目したいのがその後に続く本を捲るカット。ページを送る手が二人ともシンクロする描写では、小熊と礼子が心理レベルでもう既にその"境界線"を越えている事が察せられます。

また、駐輪場で一緒に昼ごはんを食べる際には、礼子がフランクフルトを口に運ぶ瞬間と小熊がご飯を口に運ぶ瞬間が重なるシーンも同様です。こうした心情の機微をセリフで説明する訳でなく、ちょっとした行動で表現する。そんな「引き算」的な魅力を感じさせる瞬間が多く、またこの作品の持ち味であるのだと、改めて感じさせられます。

 

「カブを起点に生まれる選択肢」がテーマであると上述しましたが、それは今回ちょっとした冒険として描かれた「寄り道」にも言える事なのだと思います。カブを入手したからこそ生まれた「自転車で通学するか、カブで通学するか」の選択肢。そこに迷いが無かったのが1話でした。

ならばこそ、今回新たに生まれる選択肢は「直帰するか、寄り道するか」だったのかも知れません。選択肢があるからこその迷い。それは小熊にとっての礼子の存在にも同じことが言えるかもしれません。チャイムが鳴れば「すぐに帰る」以外の選択肢を持ち合わせていなかった小熊が放課後、「礼子にカブを見せる」という"寄り道"をしたのもまた、小熊にとっての分岐点だったに違いありません。

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中古車故の安さから小熊に選ばれたスーパーカブ。それ以外に選ぶ余地は無かったのかもしれません。そんな選択肢の無い中で選ばれたカブが、小熊にとっての「新しく生まれる選択肢」の担い手、ひいてはその象徴として描かれるのが何とも含蓄があって良いです。

「越える」のではなく「寄り添う」ための境界線 あるいは大戸アイは如何に優秀な”バックダンサー”だったか 『ワンダーエッグ・プライオリティ』 3話 感想

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夢と現実・生きている者と死んでしまった者・そしてアイドルとファン。

これまでもアイの両親・親友の小糸など「関係性の分断」に焦点を当て続けてきた『ワンダーエッグ・プライオリティ』。決して交わる事の無い両者の”分断”と、その一線を越える事の意味。 そうしたテーマが「アイドルとファン」の関係性に付随する潜在的な”分け隔て”によって、より鮮明な画として描き出されたのがこの3話だったのだと思います。

 

冒頭、(これは後の展開で明かされる)元ジュニアアイドルだったリカが”夢の世界”でワンダーキラーを倒す場面から始まり、彼女にとっての「救う対象」として「ちえみ」が映されます。彫像化したちえみから滲み出る手汗・彼女を「デブ」と罵るリカの露悪的な態度。そんなリカの表面上の「悪さ」とは裏腹に、一面に広がる美麗な花のロケーションは、”夢の世界”が「夢の主が持つ潜在的な想い」が具現化したものであると考えれば、リカの内面もまた一面的には捉えることのできない、彼女なりの葛藤を感じさせる画だったのだと思います。

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何より、リカが彫像のちえみに投げかけた「こんな綺麗なお花畑に囲まれて……。私ならともかく、デブのあなたに似合わない」のセリフこそが、リカとちえみ、ひいては「アイドルとファン」の両立し得ない関係性を意識させるものでした。

アイドルとファンの関係性は古くから様々な作品で語り尽くされたものですが、常に「お金」ひいては「報酬」を介在した交流の形である事は、どの作品においても同じなのだと思います。要はどこまで行ってもアイドルはアイドルのままで、ファンはファンでしかあり得ない。

 

対等な関係性が「友達」であるとすれば、「お金」という境界線で分断されたファンとアイドルは「対等」にはなり得ない。「対等でない」からこそ、アイドルはアイドルのままとして関係性のエントロピーを保つことができる、という一見矛盾しているようにも見えながらも、そんな関係性が”本来あるべきもの"だったのだという悔恨。

それを鑑みれば、「お花畑」というアイドルにおける「舞台上」を思わせる夢のロケーションで、ファンでありながらもアイドルと同じ目線に居る、彫像のちえみの「立ち位置の異質さ」が際立っていたようにも映ります。

 

花畑の上と下。これは「舞台の上に立つアイドル」と「舞台の下から眺めるファン」を表象するモチーフとして描き出されます。見て見ぬフリ・ワンダーキラーが今回、崖の下の海岸から攻めて来るのは、アイドルとしての脅威が「一線を越えるファン」であった事の証左だったのかも知れません。 そしてまた、今回エッグの中身として出てきたリコ・マコの2人組もまた、自殺したアイドルの後追いで命を落とすという意味では「ファンとしての一線を超えた」存在でした。

 

「アイドルとファン」の関係性を「生きている者と、死んでしまった者」の文脈で描くあたりは『ゾンビランドサガ』を彷彿させます。この作品もまた、生者と死者・アイドルとファンは決して交わることのできない関係性で、でもその関係こそが本来の形であって、だからこそアイドルのままで居られる。この3話も、それと同じ輪郭を持って話す事のできる回だったのだと思います。


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今回アイは、そんなリカを助ける側として、リカの夢の中で共闘するのですが、ここで冒頭の「バックダンサー」のくだりが活きてきます。 アイドル以外に舞台上に立つ事のできる存在。しかし、そんなバックダンサーであるアイは、ステージの上に居ながらもスポットライトには当たらない存在。そんなアイの描き方・ポジションが絶妙でした。


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特にAパート冒頭。リカがアイの「あだ名」を言い当てようと探るシーンでは、リカに当てられる光と、一方でアイは光の届かない家のドアの前に居るポジショニングからも、その関係性は表れていように映ります。 また、アイドルには「愛称」はあれど、バックダンサーの名前まで覚えている者はそう居ない。同じ”夢の世界”という「舞台」に居ながらも、その光を浴びる者とそうではない者との”分け隔て”が印象深く描き出されます。

 しかしその”分け隔て”が重要で、むしろ「境界線」ひいては「個のテリトリー」を越えてしまう事の違和感こそが、今回のフィルムコンセプトとすらも思えます。

リカはファンであったちえみが万引きで得たお金を自分に貢いでいたという事実・それがきっかけで両者の関係が拗れて、結果的にちえみが死んだ過去が後に明かされますが、新しい「財布」代わりを目的としてアイに近づいたのは、本人が自覚的だったか無自覚だったのかは不明ですが、リカもまたアイの「境界線」を越えようとしていたようにも映ります。

 

”不均衡”な関係のちえみとリカを繋いでくれる唯一の媒体だった「お金」。そんな「お金」に対する異様な執着を見るに、欠けてしまった「ちえみ」の部分を何かで埋めたくて仕方がない、そんな彼女なりの「代償行動」の表れだったのかも知れません。


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また、リカが執着しているのは「お金」だけではなかった筈です。冒頭でねいる・アイの3人で果物を食べる一連のシークエンスでは、真っ先に手を付けたほか、一度に二つも食べるあたり、一見すると年相応の可愛らしさも伺えますが、やはりそこにも上で触れた「代償行動」の意図を感じ取ってしまいます。

また、同じくAパートのアイの部屋での応酬では、やはりアイのケーキを「貰おう」と、アイの横のパーソナルスペースを陣取ります。そうした一線を超えた代償行動は、むしろあれだけリカの危惧していた「行き過ぎたファン」側の思考にすら、寄ったものと感じられます。

 

このように「誰かからものを貰う」描写が幾度と描かれるたのは、外でもなく「境界線を超える」意図を含んでいたのかも知れません。

その極めつけとも言えるのが、「見て見ぬフリ」がリカの夢の中で出現した直後での、アイとのやりとりです。 日常的にリストカットをしていたと思しきリカの武器が「カッターナイフ」である事を考えれば、自身の持つトラウマや未練がそのモチーフとして夢の中で武器として具現化すると考えて良いでしょう。

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リカはアイの武器であるボールペンを物欲しそうに「取り替えてほしい」と呟くのは、アイドルとして常に不均衡の関係性を強いられながら生きてきたリカにとって、あくまでも対等な「友達のこと」で悩むことのできるアイをつい、羨望の目で見てしまう。そんな両者との「相容れなさ」が表れたシーンでもありました。

 

 しかし、「相容れなさ」で線引きされたテリトリーに「入る」ことはできずとも、「寄り添う」事ができる。それこそがこの3話で一番描きたかった事なのだと思います。

リカがちえみとの過去をアイに語るシーンでは、意図的にフレーム境界線が描かれます。悩みを打ち解けるシーンでそうした「境界線」を描く事の意味。それは、「その人の持つ悩みや葛藤は、その人自身が向き合う事でしか解決できない」という分断が意図されていたのだと思います。それこそ、持っているトラウマをアイと「取り替える」事のできないように。


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そしてそれは小糸という親友を失ったアイにとっても同じだったはずです。小糸が悩みを打ち解けてさえくれえば、自分だけ一人取り残される事もなかったという「恨み」。回転する灯台のロケーションは光と影を交互に作り出し、アイの持つ小糸への「友愛」と、自分を置いて先立った事への「憎しみ」。そんな二律背反の混濁した気持ちを映していたのかも知れません。 アイの武器が「ボールペン」だったのは、小糸ともっとコミュニケーションを取りたかった、そんな彼女の後悔が、「書く」ためのコミュニケーションツール=ペンとして表象されているのかも知れません。

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だからこそ、今度はアイ選んだ「リカと”一緒にぶっ殺す”」の選択が、より説得力のあるものとして描き出されます。葛藤を振り切って、階段を下手から上手へと駆け抜けるダイナミックなシークエンス。そして階段を上がった先で振り向きざまに、「一緒にぶっ殺す」宣言。 ここで注目したいのは、灯台の丸い光がアイの顔にかかる直前で、カットがリカに切り替わるところです。

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 あくまでもアイは「光の当たらないバックダンサー」に徹する事の意味が、そこには込められているようにも感じました。それは、まさしく「リカの葛藤は、主役であるリカが解決しなければならない」という部分。寄り添うところまでは”バックダンサー”の仕事。”それ”に打ち勝つのは、あくまでも物語の主体であるリカの役目である事。

 

そして「他者のテリトリーに寄り添う」事と、「踏み込む事」は、一見すれば似ていますが、根本的な部分では異なっています。それは今回ラストで登場したメデューサ型のワンダーキラーが、「一線を超えた厄介オタク」の象徴として描かれていた事を見れば明白です。だからこそ、「間違ってもあなたのようにはならない(意訳)」というニュアンスが重要な意味を帯びるのです。冒頭で幾度と描かれたように、むしろ「他者の境界線に入り込もうとする側」だったリカ。そして今度は「間違えない」という選択が、より説得力を増して描き出されたように思えます。 そんな矢先に、リカはワンダーキラーの攻撃によって石化してしまい、この3話は幕を閉じます。


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 想定線を超えて、リカとアイ・上手と下手が入れ替わる一連のシークエンス。主役を失った”舞台”を任せられるのはアイしか居ない。だからこそ「バックダンサーから昇格」したのでしょう。今度はアイが「物語の主体」に入れ替わる物語の「引き」は、これまで以上に熱量と緊迫感のあるフィルム体験でした。