シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『荒乙』最終回における「色」の考察。あるいは「子供ではいられなくなる」事について。

2019年夏アニメも最終回を迎え、いよいよ秋アニメも始まる時期という事で、印象に残った作品の感想でも残しておこうかなと。とりわけ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(以下、『荒乙』)は、あの岡田麿里脚本という事も相まって、界隈での「熱」が大きかった印象です。

 

第一話から「幼馴染のアレを目撃してしまって以来、頭から”性”の一文字が離れなくなった女の子」という中々にぶっ飛んだ展開に目が離せない。文芸部のメンバーたちがある日「性」という強烈な一文字をきっかけに、登場人物の間の矢印がありとあらゆる方向に飛び交うようになって、運悪くそれが交通事故を起こしてしまう作風が『荒乙』のエッセンスなのだ。

そうした「アクセル全快」なスタートを切っていく中でも、最後にはしっかり「”性”というものが持つ意味」、ひいては「大人になる事の意味」という、ブレーキの利いたようなテーマを描いていたのが、何とも見事なバランス感である。『荒乙』の魅力は沢山あると思いつつも、今回は最終回における「色鬼」、ひいては”色”がなぜあんなにも重要なのかについてお話したいと思います。

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そもそも「色」とはどういう存在なのか、という話ですけどもこれは「心理物理的な存在」なんですよね。理科の授業でも習ったように、物体が光の多くを吸収し、その中の「吸収されなかった光」が反射して我々の眼に入ることで「色」を認識する「物理的」な面、目に入った光が「情報」として脳に伝達されるプロセスの中で「色に対するイメージ」や「感情への働きかけ」が発生する心理的」な面が総合された存在なんですよね。つまり、これはミロ先生が触れていたように「物理的に同じ色を見ていても、万人がそれを同じ色だと認識する訳ではない」という事だ。

「色鬼」とは無論「鬼の宣言した色と同じ色に触れている者は、鬼の狙いから逃れられる」ルールであるが、ある人の想像する「色」は果たしてそれ以外の者が認識する「色」と同じなのか、という「色の持つ心理的要素」を「自分だけにしか分からない気持ちを、誰かに探し当てて欲しい乙女ども」に当てはめたのは何とも見事で。これは相当「色」について詳しくないと描けませんね。

 

さらに、色鬼で宣言される色の「抽象性」もまた『荒乙』のテーマを描く上で効いていたなと。というのは、鬼によって宣言される「色」は「百々子の桃色」や「青春の青」だったり、もう本当にめちゃくちゃなんですよね。自分の気持ちなんて自分でも分からない、だからこうやって「色」という形を与えることで認識したいという思いが伝わると同時に、「もう彼女たちは子供ではいられない」事も表していて。

色には、その色を見たときに何を連想するかを表す「観念連合」と呼ばれる概念があって、例えば赤い色を見たときに「イチゴ」をイメージする等だ。このような「色を見て思い浮かぶ言葉」は、子供であればより具体的なモノを連想しやすく、大人になるにつれて抽象的な概念を連想するようになる傾向があるらしい。(「情熱」の赤や、黒を見て「死」を連想する等)

 

つまり彼女らの宣言する「百々子の桃色」「青春の青」は言うまでもなく抽象的な概念であり、彼女達はもう赤い色を見てイチゴを連想するほど子供ではなくなってしまった、という風にも捉える事が出来る訳で。さらに、そうした「色」のテーマが「色鬼」という”遊び”によって描かれるのがまた象徴的で面白い。

あれだけ抽象的な色を宣言すれば、もはや”遊び”として成立しない。しかし、これは裏を返せば「自分たちはもう、昔のように純粋な気持ちで”遊んで”はいられなくなった=大人になってしまった」というメッセージ性を含んでいる気がしなくもない。

 

同じく岡田麿里脚本で「色」をテーマにした作品と言えば『ブラック★ロックシューター』が挙げられる。序盤、出灰カガリがマトを追い出そうと、濁った色のマカロンを食べさせようとするシーンをはじめとし、マトの愛読する絵本「ことりとり いろいろのいろ」では、小鳥が世界を飛び回る中で、色々な”色”を体につけていくうちに、それらが混ざり合って真っ黒な姿になって地に落ちるという、これもかなり本編における「象徴的なアイテム」として効いてくる。

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以前にもブログで書いたが、『ブラック★ロックシューター』は「別の誰かが自分の悩みを勝手に解決してしまう」世界?のシステムそのものへの疑問を描いていると同時に、「傷つく事で、自分たちは大人になる」というメッセージを発している。それこそ思春期真っ只中の女の子たちには少々厳しくも感じられるような、大人の在り方・成り方について我々に投げかける作風に驚いた記憶がある。

 

そしてそこからの『荒乙』最終回である。自分たちにはそもそも「色」なんてものは最初から無かった、まさに『ブラック★ロックシューター』における「ことりとり」なのだ。乙女どもはみんなそれぞれの矢印が飛び交う中で、意図せずそれが連鎖的に「玉突き事故」を起こしていく訳だけども、それが『荒乙』における「大人になるプロセス」だったのかも知れない。

真っ白な紙に絵の具を塗れば、それはもうどうしたって「元の白」には戻らない。純白だった自分たちが「色」を認識すれば最後、もう「白」ではいられなくなるのだ。だからこそ、”それ”を恐れずに今度は「自分たちの色を見つけよう」とするオチは、「大人になることの畏怖」から「大人になることへの希望」への転換を表していて、何ともポジティブな着地だったなと。

 

 最後に、「色」が色欲・色気といった性的な意味を持つのは日本・中国等の漢字圏独特らしい。今回は以上です。

『ぼっち生活』における「リアリティラインの曖昧さ」について。あるいは「見方を変えてアニメを楽しむ」事について。

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ついに最終回を迎えた『ひとりぼっちの○○生活』(以下、『ぼっち生活』)、改めて振り返ると、「思い切った作品」だったなあと。人見知りの主人公が、ひょんな事から色々な出会いを経験して精神的に成長していく系の話は、なんだか昔の自分を見ているようで少し恥ずかしさがある反面、ある程度の「アニメ的な補正」でなんとかリアルすぎないギリギリのラインで保ってくれているような、絶妙な視聴体験である。『ぼっち生活』もその例に漏れず、第一話の段階では「面白いけど、共感性羞恥が喚起されてヤバい」という感想を抱いた。

 

アニメにおいて「リアルの情景がチラつくシーン」は、往々にして「見ていて辛い視聴体験」になりやすいと思っていて、一里ぼっちが自己紹介で「わ、わたたたた…」と噛んでしまい、ゲロってしまうシーンを私は素直に「楽しんで」見ることができなかったのが第一印象。友達が少ない、いわゆる「コミュ障」な人物が無理して大きな行動に出る情景って、私が学生時代の頃にも目にしてきたんですけど、自分が例え「当事者」じゃなかったとしても「その場から立ち去りたい」ような衝動に駆られるんですよ。

 

これは自分の性格の問題かもしれないけれど、そういう情景に出くわすと「うわぁもう見てられないよ…」と直感で思ってしまい、素直に「応援する」という心の余裕が無くなってしまうんです。どこかでその「無理して行動する人」に自分を重ねてしまったり、今見ている光景が「かつての自分」を想起させているのか、それとも「有り得たはずの自分」のような気がして、メタ認知的にその人のことを客観視できないのか、理由は定かではないけれど、本質的に自分は「コミュ障」だと認知しているからこそ、自分でないはずの「コミュ障」にどこか共感してしまうのかもしれない。

 

閑話休題。そんな『ぼっち生活』における「共感性羞恥」は回が進むにつれてなぜか薄まっていった印象。ぼっちの周りに砂尾なこをはじめとし、多くの友達ができて、不器用でどこか危なっかしいぼっちを「親の目で見守る」ようなキャラが増えてきたことが大きいだろう。振り返ってみれば「共感性羞恥」を感じた大きな理由として「失敗を優しく見守ってくれる者」が、第一話時点では誰も居なかったからこそ、あんなにも「うわぁ…」と、目を覆いたくなってしまっていたのだと思う。

 

今にして思えば、「一里ぼっち」というキャラの言動がこれほどまで「見ていて危なっかしい」と思えてしまうのは、ある種の「狙い」だったのかなと。ぼっちは人見知りではあっても、「感情を表には出さない」という訳ではない。上で「コミュ障」を引き合いには出したものの、少し「コミュ障」とは違った何かである。むしろぼっちは表情豊かだと思っていて、コロコロと表情を変えることで周りのキャラクターたちの注目を集める「赤ちゃん」的な立ち位置だったなと。

 

序盤では「見ていてヒヤヒヤする危なっかしい子」に終始していたのが、回を越すごとにどんどん持ち前の「豊かな表情と、突拍子も無い言動」で周りの人たちを振り回しつつ、仲を深めていく。そうして「ぼっちとその友達」の関係性が「危なっかしいけど可愛らしい子供と、それを見守る家族たち」へ進展していく頃には、自分もいつの間にか、「キャラたちと共に、ぼっちを見守る視聴体験」をしている事に気付かされるのだ。後半では完全に「コロコロ変化するぼっちの表情」を見るのが目的で視聴していましたね、えぇ。

 

 「リアリティライン」を敢えて外す力業

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ところで『ぼっち生活』は、リアルとかなり近い要素である「友達作り」をテーマの中心に沿え、物語はあくまでも「1年1組」という一つのクラス内で完結する、「地に足の着いた学園もの」というジャンルで言い表すことが出来る。そこに極端な大事件や現実では有り得ないエピソードが挟まれる余地はなく、ただ純粋に「クラス内での、それも主人公と友達数人」というごく限られたスケールの話だ。物語における「リアリティラインの精度」は、設定やスケールが小さければ小さい(リアルと近い)ほど誤魔化しが効かなくなり、目立つものだと思う。

 

ここでのリアリティラインとは、例えばピカチュウを見て「電気を発するねずみなんているか!」とか、『シュタゲ』で「大学生がタイムマシンを作るなんて有り得ない」とか、そういう事ではない。あくまでもそうした「世界観」だとか、「設定」を割り切ってみた上で出てくる「非合理的なキャラの言動」のことである。設定が現実的なほうに近ければ近いほど、そうした「少しの”現実とのズレ”について厳しい目で見てしまう」という話である。

 

上で述べた通り、どちらかと言えば『ぼっち生活』は「リアル寄りの作品」ではあるものの、「リアリティライン」についてはむしろかなり曖昧な部類だったと感じている。

 例えば第5話のアル回。本庄アルは「容姿端麗な委員長だが、どこか抜けたところがあって”残念”」な属性のキャラであり、その「残念っぷり」が遺憾なく発揮される回なのだが、ありとあらゆる面で「リアリティライン」が引き下げられている。まずはアルが間違えてランドセルを背負って登校、何とか「妹です!」と誤魔化しを図り、なこに笑いものにされるという展開。そこまではまだ分かる。しかし翌日になれば「全身小学生仕様で登校」と、普通に考えれば「いやそれは無いだろ」とツッコみたくなるほどの、ギリギリのところまで「リアリティライン」が引き下げられている。

 

そして極めつけが砂尾なこにテニス勝負をしかける展開。「仮にもテニス部員であるアル」が「運動が苦手ななこ」と勝負する時点で、普通ならなこが圧倒的に不利な状況なのにアルはサーブを全て外し、負けてしまう。ここでもアルの残念っぷりを描くために、一旦リアリティラインを”無視”してしまっている。いや、冷静に考えればリアリティラインが欠如というよりも、アルが画面に登場した時点で「一切のリアリティラインの影響を受けない」という、ある種のフィールド魔法かもしれない。

 

アル以外で言えば、「クラス替え云々」についてもそうである。「クラス替え」は、現実においても、生徒にとって努力では乗り越えられない、学校生活という”ゲーム”における「仕様」として、我々は認知してきたはずだ。この「クラスに友達ができた矢先のクラス替え」という展開、ぼっちのこれまで培ってきた「処世術」がどう発揮されるのかが楽しみであっただけに、力業で「クラス替えのない学校だった」というオチを持ってこられたのは個人的にかなりモヤついたポイントでもある。リアリティラインについても、「誰かに教えてもらって初めて、クラス替えが無い事に気付く」点でも、やはり「非合理的なキャラの行動」に思えてしまい、見ていた当初は正直納得できずにいました。

 

ロジックを捨てて、絵的な面白さを追求した作品

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 ここまで身も蓋もなくしつこいくらいに「リアリティラインの欠如」への言及をしてきたけれど、一周回ってそれを「」として仕舞えたのが『ぼっち生活』だったなと。アルがランドセル登校の翌日に、反省を活かせずに全身小学生で登校しようが、テニス部なのにサーブ打てなかろうが、クラス替えのないはずの学校でクラス替えの話題で一喜一憂しようが、絵的に面白ければそれで「良し」と割り切って作られた、ある意味で「挑戦的」な作風であり、今にして思えば「そうはならんだろ」と突っ込みたくなる事象であっても、そんなの突っ込むほうが野暮だと気付かされるつくりだった。

 

そして最終回においても「”一里”ぼっち」なのに出席番号5番と、一見すれば無理のある設定が明かされる。これは作者によると、稀にある「誕生日順」を採択したものであり、それによって五十音順ならばできなかったかもしれない「”砂尾”なこが、ぼっちの手前の席」という描写、ひいては「前の席の人です!!」ネタを実現している。

 

思えば登場人物のネーミングが「キャラクターの特徴そのまま」という設定上、「席順の自由度が狭まる可能性」も十分あったと思うし、そんな中でも「誕生日順」を採択する閃きは凄いなぁと。リアリティラインを限界まで下げるけど、決して「無くす」訳ではない、そういったバランス感が見事であった。

極めつけは「クラス替えのない学校で、改めて自己紹介」というくだり。クラスが替われば当然、知らない人ばかりなので「自己紹介の有用性」は高い。しかしクラス替えのない『ぼっち生活』のリアリティラインでは、改めて自己紹介をする有用性は皆無である。

 

しかしこれも見方を変えれば「アリ」な描写になるのだ。思えば第一話の時点では「クラスに知らない人しか居ない」シチュエーションである。ヘマをすればリカバーが利かない上、これからの学校生活が一瞬にして台無しになる可能性だってある。実際、そんな「周りに味方が居ない中での行動」だからこそ、自分は共感性羞恥を喚起されて「見てられない!」と感じたし、ぼっちにとって耐え難い仕打ちであった。

でも今は違う。同じ自己紹介でも、周りには少しばかりの”友達”が自分のことを見守ってくれている。彼女たちならどんなヘマでもいつも通り「相変わらずだな」と笑って拾ってくれる。最終回はそうした”安心感”の中で、ぼっちの自己紹介を見届けることができた。結局ゲロ吐いたけど。

 

1年間共に過ごして「知っている人たち」の前であえて「自己紹介」を行うことで、「このクラスには確かに”友達”がいる」ことを的確に映し出してくれる。何という力業。もうそこに「設定ガー」とか、「リアリティライン云々」とか、そんなツッコミを入れるほうが野暮なのだ。

自分はいつからか、作品を見るときにどうしても「細かい粗」を見つけてしまう癖があったけれども『ぼっち生活』はそんな自分に「細けぇ事はいいんだ!楽しめ!」とエールを送ってくれるような、あったかい作品でした。あざす!

『スパイダーマン スパイダーバース』の"日本的ヒーローっぽさ"について。あるいは「孤高のヒーロー像」に対する挑戦

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先日、『スパイダーマン スパイダーバース』を観に行きました。前評判では「ペニー・パーカーちゃんが可愛すぎる」と聞いており、「これならアメコミに慣れてない自分でも見やすいぞ!」と思い、視聴に至りました。『スパイダーマン』シリーズについては金曜ロードショーで第一作を見ただけで、他のシリーズは全く知らない状態だった。一応、「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という格言だけは念頭において見ました。これはシリーズを通して描かれる重要な”テーマ”だと聞いたので。

 

※以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

「漫画演出」とスパイダーマンの相乗効果

本作の概要をザっとおさらいする。ある日、マイルスは毒グモに咬まれてスパイダーマン化。敵・キングピンの装置によって時空が歪められ、平行世界に存在するたくさんのスパイダーマンたちが、主人公マイルスの世界に集結する。キングピンの計画を阻止しようと試みたピーター・パーカー(最も代表的なスパイダーマン)はその過程で死亡。装置を止めるようにピーターから頼まれたマイルスは、当初こそ戸惑いつつも自分の「スパイダーマン」としての運命を受け入れ、他の「先輩スパイダーマン」たちの叱咤激励を受けて、ヒーローとしての成長を見せていく。

 

 前編CGでありながら、「漫画らしさ」を全く損なわないどころか、その「らしさ」こそがビジュアル面での派手さと分かりやすさを演出している。例えばマイルスがクモに咬まれてスパイダーマンに”なってしまう”描写にしても、漫画の「吹き出し」のように心の声が表現される。顔からタラタラと滲み出る汗など、「漫画ならでは」のカリカチュアライズ(面白おかしく大袈裟に表現するさま)に貢献しており、実写のスパイダーマンとはまた違った視聴体験ができる。

 

 そうした漫画的な演出こそが、まさに「日常が漫画のような世界=非日常に変わってしまう」ことを意味していて、これから始まるお話はあくまでもマイルスが主役の「漫画」であると宣言するような演出である。マイルス自身は当初、身体の異変を「思春期」と思いこんでいたけれど、これもあながち間違いとは思えない。というのも、力を得た当初は、それをうまくコントロールできずに様々な”ミス”を犯してしまう。成長するにつれて力の本当の意味を知っていく過程はまさに「思春期から大人への成長」と言い換え可能で、そうした「大人になる前の段階」を意味するワードがまさに「サイズの合わないスーツもいつか着られる日がくる」という服屋さんのセリフとガッチリ符合している。「どんな人でもヒーローになれる」という作品のメッセージへと繋がる”布石”のようにも思えるのだ。

 

何より「別次元に存在する、別のスパイダーマンたち」が集結するのがヒーロー物として面白い切り口だったなと。自分にとってスパイダーマンといえば”あの”スパイダーマンしか存在しない、唯一無二のイメージが強かったので、グウェンが女性のスパイダー”マン”だったり、ペニー・パーカーが二次元の世界からやってきたようなアニメアニメした子だったのはなおさら衝撃的だった。スパイダー・ハムに至っては文字通り、もはや豚である。上記の彼女らとは違って、「manは男性以外にも”人”の意味もある」という言い訳すら通用しないやつにまで「スパイダーマン」の呼称があてられている。「呼称は同じだけど、それぞれが唯一無二のヒーローである」設定が、単純な「ヒーロー集結もの」と違って新鮮に映った。

 さらに、一般的な戦隊ヒーローと違うのは彼らが「期間限定のヒーローチーム」であることだ。マイルスの世界においては、マイルス以外のスパイダーマンはその体を維持できない。なので、次元装置を止めるまでの急場しのぎのチームである。事が終わればすぐに元いた世界へ帰らなくてはいけない。男はそういう「緊急」とか、「条件つき」みたいな設定に弱いんですよね。ロマンがあるというか...。

 

異次元のスパイダーマンたちが「自分がオリジナルのスパイダーマンですよ」といわんばかりの登場の仕方で、その辺りについても『ジオウ』で未来の仮面ライダーたちがあたかもレジェンド面して出てくる展開だったり、『レクリエイターズ』で「一世を風靡した感」をめちゃくちゃ醸し出してくる被造物(キャラクター)を連想させる。こういう「視聴者は知りえないけど、作品内では有名なキャラクター」という設定も、妄想が広がりますね。

 

日本の特撮を思わせるストーリー

 

『スパイダーバース』は、「日本の特撮は好きだけどスパイダーマンは見たことない」人にこそ見てほしいと思う理由の一つが、その「日本的なお話」なんですよね。例えば上で述べた「別次元のヒーローが集合する」という要素が、戦隊モノに親しんできた人からすればとっつきやすいだろうし(もちろんこれは「別次元の同一ヒーロー」なので、単純に雑多なヒーローが大集合して敵と戦う「スーパーヒーロー大戦」系とは厳密には異なるが)、何より同じマーベルの『アベンジャーズ』シリーズと違って、スパイダーマンだけを知っていれば楽しめるので、そこも大きいかと思う。

 

何より「先輩ヒーローが、新米ヒーローにその"極意"を伝えていく」というプロットですよね。近年では平成仮面ライダーシリーズが冬映画などで「過去作主人公たちがひょんなことから一挙に集まり、現行主人公と協力しながら戦う」ような話が恒例になってきているし、そこには「先輩と後輩」の関係性が付与されているようにも思える。

 

『スパイダーバース』では特にそうした先輩後輩の「縦のつながり」が見え隠れすると言うか、突然スパイダーマンになってしまった者=マイルスに対し、先輩スパイダーマンが目の前に立ちはだかる苦難を通じて、まさに「スパイダーマンチュートリアル」とも言えるような"教訓"を伝えていく。この辺りがものすごく「日本的」というか。ともすれば「説教臭い」とも言われかねないような、少し体質の古さがチラつく「日本の古典的成長物語」に思いっきり振り切っていたのが、これまた大胆だなと。

 

そんな中でも「先輩が後輩に教える話」だけに終始しなかったのが大きいかなと。別次元のピーターは立場こそ「マイルスの先輩」であれど、実はまだまだ「スパイダーマン」として割り切れなそうな部分があったり。序盤なんかは特にそうですよね。メタボチックな姿で出てきたり、マイルスが「大いなる力には、大いなる責任が〜」と言おうとしたところをハイハイと怠そうに遮って見せたり。そして終盤にも、かつて自分の至らなさで離れてしまった妻?と違う次元でエンカウントしてしまった瞬間ですよね。もちろん、違う次元での出来事なので、向こうはピーターに関する記憶が無い訳だけども、いざ目の前に現れると、途端に狼狽えてしまう。

 

「孤高のヒーロー像」を分解・再構築

 

そうした「少し未熟さの見える先輩」というキャラ付けも良かったなと。だからこそ目まぐるしく成長するマイルスからも逆に色んな事を学ぶことができたり、他にはペニーパーカーちゃんの使ってたオートマタ的なやつが壊れてしまった時も、ほかのスパイダーマンの助けがあって乗り越えることができたり。

 

そのような「複数のスパイダーマンたちが関わり合う中で、大事なことに気づいていく」プロットが本作で一番の見どころだったなと。

本作は言ってしまえば「スパイダーマンは唯一のヒーローである」というかつての"ルール"を一旦は壊して、「複数ヒーロー」にしてしまう、ある種の変化球のように思える。人知れず、誰にも相談できずに戦うスパイダーマンは敵のみならず、言わば「孤独と戦うヒーロー」でもあって。

 

一般的にアメコミでは「複数ヒーロー」をあえて採用してこなかった。大多数の人が「日常」の中で生きていく中、自分一人だけが「非日常」で過ごしているという"対比"がアメコミのエッセンスだと思う訳だけども、まさにそうした「ヒーローにしか分からない苦悩」にも肉迫しているのが本作だったなと。

だからこそ、ペニーパーカーちゃんが周りに支えられて「私は一人じゃないって分かった!」と発するシーンの深みがあるんですよね。彼女だけでなくほかのスパイダーマンたちも、マイルスたちと同様に「身内を間接的に殺してしまった」という苦悩を共有している。

 

そうした「例え独りでも、どこかで自分と同じように頑張っている人が居る」というテーマ性がすごく響きますよね。もちろん、別次元のスパイダーマンたちは元いた次元へ帰らなくてはならないので、結果的にマイルスは(というかそれぞれのスパイダーマンは)「孤独のヒーロー」に戻ってしまうんですけど、それでも「あいつ今どうしてるかな」と思いを馳せながら、どこか背中を押されるような、前向きな気持ちになってこれからも「ヒーロー」をやっていく。

 

「誰だってヒーローになれる」という超絶ポジティブなメッセージ性を放ってた本作だけど、何より一番伝えたかったのは「自分の知らないところで誰かが戦ってる。君はいつでもその一人になれるぞ!」なんですよね。長々と書いてきたけど、個人的には「スパイダーマンの導入」としてものすごく良かったので、これを機に過去作も抑えておこうかなと。

マリオメーカーはなぜあんなにも面白いのか、あるいは「拡散されるマリオ」について

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先日、ニンテンドーダイレクトによって様々な新規タイトルが発表された。ゼルダの伝説夢をみる島』リメイク決定や『牧場物語』がまさかのドラえもんとコラボなど、さすが任天堂と言うべき、”強い”顔ぶれである。その中でも個人的に一番驚いたのは何を隠そう『スーパーマリオメーカー2』だった。『マリオメーカー』は「作って遊ぶ」がコンセプトの、今までにありそうでなかったマリオシリーズの「禁じ手」に手を出したタイトルだ。自分とって『マリオメーカー』は気になりつつも「手を出しづらい」タイトルだった。というのも、WiiUのソフトなので遊ぼうとするならばハードの購入を余儀なくされるためだ。めっきりゲームしなくなった理由の一つは「ハードの変化に対応しきれなくなった」ことだ。

そんな中、この正月に古本屋で『マリオメーカー』の3ds移植版を発見。すでに3dsを持っているなら、ソフトだけ買えば済むじゃん!と思い、購入。「欲しかったゲームを手にする」経験は久しぶりだなぁとワクワクしながらゲームを起動。率直な感想としては「これ、ずっとやってられるぞ…」だった。クリスマスプレゼントにゲームをもらった日は一日中ゲーム三昧だったけど、『マリオメーカー』も自制しなければ一生やってしまいそうな、ちょっとヤバい類のゲームであった。今回はそんな「任天堂が生んだ狂気」と呼べる『マリオメーカー』がなぜあんなにも「面白い」のかを、個人的な視点から語ってみたい。


「作って遊ぶ」を「マリオ」でやるということ

 

マリオメーカーを語る上で当然、「作る要素」は外せない。しかしこれまで「自分でステージを作るゲーム」が全くなかったわけではない。『RPGツクール』シリーズがその代表例だし、「街を作る」という意味なら『シムシティ』、自分が高校時代の時に流行した『マインクラフト』だって、「作って遊ぶ」がコンセプトのヒットタイトルだ。言ってしまえば「作って遊びたい」はゲーマーたちの根源的な欲求であり、それを簡単に実現できる土壌を用意したのが、それらの「ヒット作」なのだ。しかしマリオメーカーは「それらのヒット作」とは全く違った意味でヒットしているように思える。というのも、そこに「みんなのお馴染みのマリオ」という"属性"が付加されているからだ。


そもそも作る作らない以前に、「マリオ」というゲーム自体が既に"面白い"し、"完成されている"ものである。「マリオ」は「敵を踏んだり避けたりしながらゴールを目指す」という、ものすごく単純なルールでゲームが成立しており、初めてコントローラーに触れるような人でも「頑張ればクリアできる」バランス感である。最初のステージ「1-1」のレベルデザイン(ゲーム制作における、難易度調整)が如何に優れているのかは有名な話である。

 

そんな「単純なルール」を基本フォーマットとしてマリオシリーズは続いてきた。ユーザーたちはそうした面白さをあくまでも「受け手」として楽しんできた。そうなると当然、「自分でも作れる気がする」と、上で述べた「ゲーマーの根源的欲求」が次第に肥大していく。それを非公式的、かつ非合法に実現してきたのが、ニコニコ動画で有名になった改造マリオのプレイ動画」である。鬼畜難度のステージを友人にプレイさせるあの動画はニコニコ史を語る上でも欠かせないものとなっている(ニコニコメドレーシリーズではマリオワールドの地上BGMが採用されている事からも、マリオがニコニコに与えた影響の大きさが伺える)

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同じく「非合法的にマリオを作る」と言えば、自分が中学生の頃に出会った「スーパー正男」を挙げない訳にはいかない。こちらはJavaで作動する、横スクロールのマリオを模したゲームである。敵キャラにマリオどころかポケモンを模したキャラを配置できるなど、今思えば「やりたい放題」なアングラ感があった。パソコン上で誰でも簡単にステージを作ることができ、自分もこのゲームによって「作りたい」という根源的な欲求を満たしてきた(ステージを作るセンスがゼロだったのは内緒)

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マリオメーカーは「改造マリオを合法化した点でヒットした」とよく言われており、その考えも概ね賛同できるのだが、その前段階として『スマブラX』の影響は外せない。こちらは「エディットステージ」という、自分でステージを作る機能が備わっており、スマブラという「誰もが知るタイトル」で、「作って遊べる」点で、マリオメーカーの土台となっているように思えるのだ。これまで非合法的な手段でしか満たせなかった「作る欲求」が一旦、この『スマブラX』によって合法的に満たされるようになった。これが後の『マリオメーカー』の土壌となっている。

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そうした土壌を経てついにマリオメーカーは発売する訳だけども、youtubeニコニコ動画で瞬く間に大ヒットし、ランキングはマリオメーカーに埋め尽くされる事態になった(詳しくは「マリオメーカー問題」で検索)。「マリオ」という、「自分でもステージを作れそう」な単純なゲームシステムと、「作る欲求」が悪魔合体した結果である。エミュレータの知識を要し、作る敷居が高かった「改造マリオ」と異なり、公式が「誰もが簡単に作り手になれる場」を提供したのが、マリオメーカーの大きな功績だった。

 

"SNS"としてのマリオ、あるいは「拡散されるマリオ」について

 

かつては「マスコミ」と「消費者」が、「発信者」と「受信者」の関係性になっていた。現在、新聞やテレビが一方的に「情報」を受信者へ与えるだけでなく、時に本来受信者であるはずの者がが「発信者」になれる時代である。SNSに投稿された動画が、ニュースの材料にもなってしまう時代に我々は生きている。

SNSが社会に与えた影響はそうした「誰もが発信する側になれる事」以外にも、「多くの人から反応が貰える社会」を作ったことも挙げられる。例えばTwitterならば「いいね」一つで承認欲求はいとも簡単に満たされてしまうし、リツイートすれば瞬く間に多くの人の目に「情報」が晒される。その「情報」を見た者が今度は「それに関するツイート」を発信し、さらにそのツイートをいいね、リツイートする者が現れる。そうしたねずみ算的な拡散力によって、「急上昇ワード」として日本を支配してしまう。

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話をマリオに戻すと、マリオメーカー』はそうした「SNSの社会的影響力」と同じ流れを引いているのだ。ゲーム製作者とプレイヤー。これは従来通りの「作り手」と「受け手」の関係性である。マリオメーカーは無論、その一方通行な関係性を壊し、「誰もが作り手=発信者になれる」場を提供した。マリオメーカーは「遊ぶ」「作って投稿する」の大きく分けて二つの要素が挙げられるが、そうしたゲームシステムこそが「マリオメーカーSNS的な側面」である。従来は「遊ぶ」のみの一方通行だったマリオが、今度は自分が作ってそれを全世界に発信できるシステムだ。さらに言えば、誰かが作ったステージに「いいね」を付けることができるし、人気のステージは「いいねランキング」として挙がる。まさにTwitterにおける「いいね」「トレンド」である。


そして「人気ステージ」を参考に新たなステージを作る者、それを「いいね」する者。つまりマリオメーカー」は「受信者あると同時に発信者にもなれる」という、昨今のSNSと同様の「相互作用」を生み出している。そうした爆発的な相互作用によって、マリオは無限に"拡散されて"いく。自分はこの『マリオメーカー』というゲームが冗談抜きに「一生遊ばれるゲーム」になると思っている。なぜならばこのゲームは「作る」という根源的欲求を満たしてくれるだけでなく、「作ったものに対して反応をもらえる」という、承認欲求すらも満たしてしまうからだ。現に私はそうした「任天堂の生んだ狂気」に魅了されているし、こんなにハマるゲームはポケモン以外に初めてだった。もっとも、3ds移植版のマリオメーカーには「投稿する」機能がないので、何とか自制を保てているが。

「自分らしい文章を書くこと」の難しさについて

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自分は普段、twitterでアニメ・特撮の感想を気ままにつぶやくことで「アウトプット」をしている。twitterは「思いついたことを一言だけつぶやく」という性質上、感想や雑感を書く際の”フットワークの軽さ”が利点である。その証拠に、私は(というかほとんどの人は)ブログの更新頻度よりもtwitterの呟き頻度の方が高い。対するブログは、twitterと違って「自分の考えをまとまった形で保存する」側面が強い。気軽に思いを吐露できるtwitterが「情報をまとめる場」としては向かない反面、ブログは「しっかりと自分の意見を残す」点で、「情報としての強度」が強いように思える。

 

自分もブログを開設した一番の理由は「誰かに自分の考えを知ってほしい」ことだった。「一過性の強いtwitter」よりも、「強度のある」ブログの方が”それ”を実現しやすいと考えたからだ。しかし、実際にブログを始めてみると想像以上に「書きづらい感覚」があったのを覚えている。自分はある特撮・映画ブロガーさんに憧れて、半ば真似する形でアニメの感想記事を始めたのだけど、最初はその方のように数千字単位の文章なんて全然書けなかったし、1000字書くのにも2、3時間とかザラでした。

 

先日、フォロイーの方が主立って立ち上げた「アニメ感想クラスタへのインタビュー企画」(アウトライターズ・スタジオ・インタビュー)に参加させていただきました。自分がインタビューに答える前段階として、やはり「先例」を知ることは大事だと思ったので、過去にインタビューに参加していた色々な方の回答をチェックしました。その中でも特に「自分らしい感想・文章を書くことを意識しています」と回答する方が多く、自分はとても驚いたと同時に、すごく尊敬しました。

「自分らしい文章を書くこと」って、メチャクチャ難しいことだと思っている。なぜなら自分はブログを書く際に「他のブロガーさんの文章を真似」しないと、文章が書けないためです。上の話に戻りますけど、実際にブログでアニメ感想を書こうとすると、作品そのものを深く理解する事は当然として、「とっくに語られている事柄」に触れたり、事実を羅列するような文章だと「良い記事」が書けないので、ある程度「自分の見解」を織り交ぜる必要がある。最後にそれを「読みやすさを意識しながら文章に落とし込む」。この多くの段階を経てようやく一つの「感想記事」として成り立つんですよね。

 

こうした「段階を経て文章を”精製”していくプロセス」、ブログを開設したての頃はとてもじゃないけど出来てませんでした。初めて書いたアニメ感想は『ボンバーマンジェッターズ』の記事でしたけど、「他のブログのほうが詳しく載っている」「感嘆符が多くて読みづらい」「文字数を意識しすぎて論点がボヤけてる」など、まさに上記で挙げた”プロセス”にことごとく失敗してるし、今でも読み返すと恥ずかしすぎてなんだかむず痒くなってくる。

 

今でも自分の文章が「読みやすい」と言える自信は全くないけれど、「その分野で凄い人」の方法論を自分なりに理解していくことで、”マシな文章”を書けるようになってきたかなと。具体的には沢山のブロガーさんの記事に触れて、そこから「使えそうな表現」を随時メモ帳に保存。さらに、記事を書くときは隣のタブで「憧れのブロガーさんの記事」を何度も読み返して、論理展開を徹底的にマネる。

例えばブロガーさんが「キテレツ大百科を踏まえた上で、ドラえもんを批評している」ならば、自分も同じように「○○という作品ではここが惜しかった、その部分を『△△』ではこういう形で描いていて良かった」という論理展開で書く。書く内容が複数のトピックになりそうな場合は、見出しをつけて読みやすくする。時には太字を使って、文章の”メリハリ”をつける。その試み全てがうまくいったかと問われればまだ自信は持てないけど、そうした「文章を書く型」を自分なりに設定できたので、「憧れのブロガーさん」に少しは近づけた(と思いたい)。

 

つまり、私は何かを書く際には基本「他のすごい人を真似て」いる。なので今でも自分の記事は「自分らしい文章」かと問われればハテナマークが付く。しかし自分はそうした「真似事」が悪い事だとは思わない。というのも、人は言語を学ぶ際には「誰かが使っていたフレーズ」を覚える必要があるからだ。大学受験の「英作文」を想像してもらいたい。英作文をマスターする第一歩は「例文暗記」から始まる。「与えられた日本語を、簡単な英語に直す」段階だ。

受験でよくある「自由英作文」は、そうした「例文暗記」をある程度終えてようやく手を出すことのできる分野だ。さらに言えば自由英作文ですら、ある程度の「型」がある。トピックセンテンスを述べ、それに対する理由と肉付け、そして結論という構成だ。そのため”自由”英作文と言えど、大部分は「定型表現」で字数を埋めることになる。もうお分かりだと思うけれど、ブログで文章を書く際も英作文の”それ”と同じプロセスなんですよね。

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もちろんこれは単純に「真似て書く人の方が、そうでない人よりも優れている」とか、そういった話ではない。むしろ中には「あえて型を決めずに書くほうが楽しい」という方や、「型は書いてるうちに自分で身につけた」という方も多いだろう(むしろこっちの方が主流かもしれない)。しかし自分にとって「何もない白紙から文章を書く」ことのハードルが非常に高く、長文記事を書くならばなおさら難しい。そこで、「模範となる記事」と自分の記事とを読み比べながら”足りない部分”を補っていく。もちろん、あくまでも”解答例”に即した文章を書いたまでなので、解答を超える文章力にはなり得ないけれど、100点満点の60点くらいの出来にはなる。

 

上でアウトライターズ・インタビューでは「先例」を読んだと述べたが、やはりそれも「型」がある程度自分の中で思い描けたほうが”書きやすい”と思ったからだ。このようにして「真似て」きた結果なのか、開設当初よりも1日のPV数は増えたし(それでも1日150PV程度だが)、文章に書き慣れていなかった頃よりも、大学のレポートを書くスピードも上がり、苦手だったレポートもある程度「好き」な部類にすらなった。何より「自分の思いを言語化しやすくなった」のが個人的に良かったと思うポイントである。

 

「使いやすい表現・論理展開」を覚えれば覚えるほど、伝えたい内容の「確度」がうんと上がる。それが結果的に「自分の意見を明確にすること」へ繋がるのではないかと思う。「表現を真似ること」は何も「思考停止」を意味するわけではないと思っていて、むしろ真似を通じて自分の理解が深まることも往々にしてある。究極を言えば私は「自分らしい文章」には全くこだわってない。しかし「意見を明確にすること」は、1つのブログ運営の方針として最もこだわっているポイントだ。その1プロセスとして「できる人の真似」をしている。

 

長々と色んな言い訳(?)をしてきたけれど、twitterでフォローしている多くのアニメ感想クラスタさんは、それぞれ個性のある文章を書かれていて、まだまだ自分は「守・破・離」の「守」から出られていないなと。逆説的ではあるけれど「” ”こそが自分のスタイルだ!」と当分の間は言い張っておく。

仮面ライダーという「救い」『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』感想

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平成最後の冬映画『平成ジェネレーションズFOREVER』をようやく観に行けました。

結論を言うと、「エモさ全振りのお祭り」と呼ぶのが相応しい作品だった。自分は『アギト』で平成仮面ライダーに出会い、それ以降はライダー熱が下がっていたところ、『ディケイド』という、1度目のアニバーサリーで仮面ライダーに再び火がつき、その後は毎年平成ライダーを見るのが習慣となった。「歯抜け」の作品は後から追う形で見ていた。

 

実を言うと、自分は「気に入ったライダーシリーズの映画」しか見たことが無く、全てのライダー映画を網羅しているわけではない。しかし、『ジオウ』は平成ライダー20作目のアニバーサリーで、その冬映画なのだから、やはり「平成ライダーの総決算」として位置する今回の映画を見ないわけにはいかなかった。

 

(以下、ネタバレ含みます)

 

 

 

 

 

 

 

「作られた存在」としての仮面ライダー

 

初っ端から「普通に高校生やってるソウゴ」「登場人物の記憶の一部が欠ける」「なぜかライダーの戦闘を、まるで観戦するかのように楽しむモブ」など、『ジオウ』本編を見ていても不可解な現象が描かれた。この感覚は事前予告を全く見ずに挑んだ『君の名は。』を鑑賞した時を思い出す。自分自身、『ジオウ』本編についてはややこしい設定を無視しながら、半ば「お祭り」と割り切って見ている。

 

この映画も「そういう類か」と思いきや、「自称仮面ライダーオタク」のアタルが出てきて状況は一変。本来、「仮面ライダーシリーズ」は、仮面ライダーが「実在する」世界観という大前提がある。この映画ではいきなり「フィクションとして仮面ライダーが存在する」を強調してくる。つまり我々のように「コンテンツとして仮面ライダーが消費される世界」である。

 

 ざっくりした経緯ではフータロスがアタルの「虚構の存在であるライダーに会いたい」という願いを叶えた訳だが、あくまでも「フータロスの力によって再現されたライダー」なので不完全だし、記憶も欠落している。そもそも何でフィクションの存在に成り下がったのかは、タイムジャッカーのティードが2000年に飛び、アナザークウガと化すことで平成1作目のクウガをこの世から消し去ったためだ(同時にその後続く『アギト』~『ジオウ』も消滅)。

 

つまり、ディードによって実在を消された仮面ライダーたちは、ここでは「フータロスのつくりもの」=虚構として描かれている。分かりやすく例を挙げると「スマブラ」である。スマブラのファイターたちは、各作品のキャラクターを模した「人形」であり、決して本物ではないという設定だ。

 

この「限りなくオリジナルに近いつくりもの」が、レジェンドライダーたちを復活させる上での、一つの「言い訳」として上手く機能していたのかなと。アナザークウガが居る時点で、本来「ホンモノ」のクウガとは両立し得ないが、「つくりもの」のライダーであれば両立ができる。本編ではあり得ない「アナザーライダーを正当ライダーが倒す」という構図を可能にしている。正直、この辺のロジックについても理解がガバガバなので合ってるかわからないが、最後はきっちりノリノリのバイクアクションかましてたので、そういうコトなんでしょう。

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そうした、自身が「虚構」であることに動揺するソウゴに対して、同じく『ビルド』本編でも「偽りのヒーロー」だった戦兎が先輩ライダーとして語るシーンは、これ以上ない説得力を生み出していたなと。戦兎自身も『ビルド』において、空っぽのアイデンティティで始まり、万丈を始めとする仲間との交流を通じて、「自分」という存在を「創って」きた。

「出生に囚われないアイデンティティの形成」は『ビルド』のテーマであった。かつて戦兎自身が直面した問題に対し、今度はそれを「先輩としての余裕」を見せながら語る。以前なら同様に悩んでいた場面でも、今回はそうじゃない。また一つ「強くなった」戦兎を見られた気がする。この手の「前作主人公が登場する作品」は、キャラクターそのものの成長を感じられるのがミソですね。

 

とはいえ、アナザーダブルが物語的にそこまで重要じゃなかった上に、普通の怪人と同じく爆発して終わったのがモヤついたポイントでもある。(そもそもアナザーライダーは「元となる人間」がいて、初めて成立する存在なので、元の人間が居なかったのは設定上の欠陥でもある)

 

「実在しないけど、存在する」ものとしての仮面ライダー

 

私はつい先日、大学の哲学の授業で「サンタクロースが存在するかどうか」をテーマにディスカッションをした。あくまでも「証明」ではなく、どういった根拠で結論を出したのかを相手に説明しなさいというもの。

私の立場は以下の通りである。

 

・現実のフィンランドの「サンタクロース村」には、確かにサンタクロースとして認められた人が居るけれど、それは「サンタクロース」という架空の存在を模した人間にすぎず、「モノマネ」をもって「存在する」と結論づけることは出来ない。それは「仮面ライダーショーがあるから、仮面ライダーが存在する」と言っているようなものだ。

 

それに対し、サンタクロース肯定派の立場からこのような反論を受けた。

 

・そもそもサンタクロースが存在しなければ、この世に「サンタクロース」という概念すら無いのでは?同時に「クリスマスプレゼント」の概念も消えるはずだ。

 

この反論からも分かる通り、私は「実在」と「存在」を混同してしまっていた。

改めて「実在」を言葉で説明するのは難しいが、現実に・客観的にモノとして存在している状態を示すのに対して、「存在」とは「概念」のような目に見えないものも含んだ存在(例:時間・日付など)である。その授業の教授によれば「存在」とは「言葉がある以上、存在する」という状態、らしい。

 

つまり『平ジェネ』におけるティードの行動は「仮面ライダー」という言葉、ひいては概念を消すという意味で、仮面ライダーの「存在」を消そうとしたんですよね。だから「存在」が消えれば、皆の記憶からもライダーが消えて、ライダーのいない世界ができる。

 

サンタクロースの例を挙げたが、これは同様に「神」にも当てはめることができる。宗教によって「神」の表象は異なるが、「目に見えない存在」であることはどの宗教にも共通している事であろう。自分は無宗教なので特定の神を信じている訳ではないが、例え信者であったとしても「神が実在する」と思う人は稀なんですよね。それこそ私のような仮面ライダーファンでも「仮面ライダーは実在しない」と頭で理解しているように。

 

もうお気づきかとは思うけれど「神」や「サンタクロース」の部分をそのまま「仮面ライダー」に変えることが可能なのだ。

つまり「仮面ライダー」は神と同様、実在しない。アタルが、歳を重ねるにつれて「仮面ライダーの虚構性」に気づいてしまったように、我々も歳をとると「サンタクロースは居ない」と気づく時が来る。

 

仮面ライダーという「救い」

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そしてそこからの「実在はしなくとも、存在そのものが救いになる」という、『平ジェネ』の作品テーマである。

信者にとって「神を信じる」とは、決して「神が実在すると思っている」ことを意味する訳じゃないんですよね、正確には神という「存在」を信じて、教えに従うことだと思っている。

ライダーファンも同様に、「仮面ライダーは居ない」と分かった上で、日曜の朝にテレビの前で視聴=礼拝する。いわば「フィクション」とは一つの宗教であり、そのフィクションから私たちはメッセージを受け取り、リアルの生活を充実させているのだ。
例えば『龍騎』を見たならば「自分の正義観が時に人を傷つける」こと、『オーズ』ならば「必要な時はもっと欲しがっても良い」を一つの教訓として心に刻むだろう。かなり乱暴な言い方をすれば「宗教とフィクションは似ている」

 

哲学の最初の授業では「言葉は現実を変える力を持つ」という内容を扱った。言葉も目に見えない概念なので「実在」はしない。しかし極端な例を挙げると、私たちは「立て」と言われれば「立とう」とする。これは言うまでもなく「座っていた事実」が「立て」という言葉によって変えられようとしている。

これを上の例に当てはめると、サンタクロースの概念が「ある」からこそ、私たちはクリスマスにプレゼントを貰うことができるし、神の概念が「ある」から、初詣に行っておみくじを引き、一喜一憂できる。例え虚構の存在だったとしても、現実を変える力になるし、「神はいる」という思い込みのおかげで苦難を乗り越えてきた人が多いことは、さまざまな歴史を振り返れば容易に理解できるだろう。

 

「信じる者が救われる」とはどの宗教にも共通している"教え"だが、本作においてもその考えは横たわっている。信じるためにはまず「存在」を知ることから始めなければならない。私が無宗教なのは、仏教の家系だったり、親が何らかの宗教を信じているとか、そうした「知るきっかけ」がゼロだったからなんですよね。(それが良いか悪いかはあえて触れない)

なのでライダーという「存在」を知らなかったシンゴが、ラストで歴代ライダーたちを初めて目にして「仮面ライダーを知る」場面は、「フィクションの肯定」をテーマに掲げた作品として、とても納得のいくオチなのだ。

 

そしてそういった理屈抜きにしても、やはり仮面ライダーを見て育ったものたち、ひいては「フィクション」そのものを楽しんできた者に対して「救い」を見せてくれたので、いろいろと語ってきたけれど、最後は「仮面ライダーが好きで良かった」になるんですよね。作品として「隙」が無いわけではないし、設定として矛盾しているような場面も確かにチラホラ見受けられる(アナザーダブル)けれど、それも全て「あえて触れなかった部分」なので、理屈は最低限にしといて、エモーショナルな体験に全振りできたのが何とも「仮面ライダーらしい」つくりだったなと。

『ゾンビランドサガ』における、「生き続ける」の意味について (7話までの所感を含めて)

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私はこれまでアイドル系のアニメに手をつけたことが無かった(というか「食わず嫌い」していた)。というのも、近年ではアイドルや音楽を軸としたアニメはかなり増えていて、一見(こう言えば誤解を招きそうだが)どれも同じに見えてしまう。また、アイドルアニメの最大手とも言える『ラブライブ』や『アイマス』はシリーズの多さから「今さら手をつけるのはなぁ...。」と感じてしまい、どうしても手を出しにくいジャンルだった。そんな中、2018年の秋に「これまでとは一線を画したアイドルアニメ」が爆誕したと聞いた。さらに評判も良いようだった。聞くところによれば「ゾンビがアイドルやるアニメ」らしく、「それならアイドルアニメを敬遠していた自分にも見れそうだ(謎理論)」と思い視聴に至ったのが『ゾンビランドサガ』との邂逅である。

 

そんなこんなでようやく7話まで追いついた本作だが、いや~見事に「やられ」ましたね。というのも、「五感を喚起させる画」が本作の魅力として映えるんですよね。例えば1話、開始1分ほどで主人公のさくらが轢かれて、デスメタル調の曲をバックに死ぬシーンは視覚的や聴覚に処理できないほどの情報を与え、「否が応にも視聴者の記憶に残してやろう」という気概を感じさせる。恐ろしいのはそれがまだ序章である事だ。その後なぜか場所がワープし、シーンは館の中に移る。

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さくらはゾンビに追い回されて逃げる後、「自分自身もまたゾンビである」ことが分かるシーンはある意味で「これまでのゾンビ作品」の固定観念を捨てさせるものである(例えば多くの作品は「ゾンビから逃げる」が基本プロットであり、本作においても放送前までは「私たち、生きたい」のキャッチコピーを巧みに用いて、そのような基本プロットに則った作品であるかのようにミスリードを誘っていた。)

 

ゾンビもので叙述トリックを用いた作品では『がっこうぐらし!』が記憶に新しいだろう。しかし、実際には「ゾンビから逃れる」基本プロットが変わる事は無く、舞台装置である「学校」を用い、「逃走」に「卒業」の意味を持たせたのが『がっこうぐらし!』だった。つまり「日常系っぽく見えて実はゾンビもの」の『がっこうぐらし!』がサバイバル描写を中心に添えつつも、時折「普通の日常生活」を挿入することで日常の有り難みを強調して「ゾンビ×学校生活」のベストマッチを図ったのに対し、「ゾンビサバイバルものだと思ったら、実はアイドル系だった」という、今度は別パターンの叙述トリックだったのがシンプルに面白い試みだなと。ゾンビを扱う作品にミスリードが多いのは何故だろう...。

 

さらに言えば「ゾンビ要素」ひいては「死」を活かした設定がまた”巧く活きている”なと。というのも「キャラクターが既に死んでいる」設定は、ある意味「ズルい」(褒めてます)ようにも思えるのだ。例えば山田たえが頻繁に四肢がバラバラになって他のメンバーを驚かせたり、脱走を試みる愛の腕がスッポリ抜け、さらには6話で自分を置いて進む車を止めようと前に出た純子を幸太郎がうっかり轢いてしまう、それらのギャグは「彼女たちはもう死んでいるから大丈夫」という強烈な説得力のもとに描かれている。死んでいるからこそ、視覚的にもインパクトのある演出が可能になっている。

 

そうした「死」ならではの演出・設定を考える上で、(かつて色々な意味で反響を呼んだ)『エンジェルビーツ』を挙げないわけにはいかない。こちらは「青春時代に夢半ばで命を落とした少年少女たちが、死後の世界で未練を解消していく」話になっており、現に『ゾンビランドサガ』でも6.7話で描かれたような展開を共通項として持っている。生前の記憶を欠いた音無が、自身の過去と世界の秘密を探って行く中で、仲間と出会い様々な人生観に触れる(個人的には)名作であった。偶然にも記憶喪失設定が源さくらと共通しているのも面白いポイントだ。

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ガルデモが初っ端からゲリラライブをかまして”天使”を撹乱しようと試みたり、5話で授業中に椅子が吹っ飛ぶシーンなど、「死後の世界」ならではの過激なギャグシーンは間違いなく視聴者の記憶にこびりついたことだろう。そうした中でも、「青春のやり直し」「神が居ない世界における救いの手段」といったテーマは外さずに描いており、特に12話におけるゆりっぺの「生前に死んだ兄弟と同じくらい、死後の戦線メンバーを愛するようになってしまった葛藤」や、「音無は奏に心臓を渡したドナーだった」ネタばらしと「エンジェルビーツ=天使(奏)の鼓動」という秀逸なタイトル回収は、自分的に本作で一番褒めたいポイントだったりする。しかし、『エンジェルビーツ』には同時に相当な”惜しさ”も覚えている。

 

というのは、やはり随所で言われている通り「キャラクター数に対する話数の少なさが起因して、キャラ捌きの困難さが浮き彫りになったこと」を根幹とし、「個別エピソードに傾注させるあまり、世界観に関する説明がおざなりになった」ことが挙げられる。

さらに言えば、せっかく椎名という「明らかに現代よりも古い時代を生きていたであろう人物」まで存在していたのに、「死んだタイミングの違いによる時代感覚のズレ」まで描かれなかったのは実に惜しい点だった...。そこを描いていれば、「死後の世界」設定ももう少し深みのあるものになっていたかもと、無いモノねだりをしてみたり...。

 

そしてそれらを踏まえた上での『ゾンビランドサガ』だ。上記で述べた「死んでいるからこそ説得力のあるギャグ描写」をはじめとし、6,7話で『エンジェルビーツ』では叶わなかった「時代感覚のズレによるアイドル観の衝突」にクローズアップしたほか、雷が帯電してテクノボイスのパフォーマンスを見せるなど「ゾンビだから出来る」という最強の言い訳?で視聴者を”納得させて”いるのだ(褒めてます)。

また、同じ「既にキャラクターが死んでいる設定」と言っても、「”死後の世界で”青春を謳歌する事」と「ゾンビ化して”現世で”もう一度やり直す事」とでは根本的に違う。

あくまでも彼女らは”現世で活躍している”という事だ。エンジェルビーツ』におけるNPCとは違い、生前に彼女らを知る人間も当然ながら存在する中でのストーリーだ。

 

「環境が生前と地続きである」ことは、幸太郎の言う「ゾンビィバレ(自分たちの正体がゾンビだと知られること)」しかり、新聞記者が純子の正体に気付いた事を思わせる描写しかり、本作における重要な(ストーリー上の)”足枷”として活きているのだ。

個人的にそうした”足枷”が有効にはたらいたのが6,7話だったと思う。愛が落雷で死んだ後も、元々所属していたアイドルユニットのアイアンフリルは今なおきっちり存在していることで、愛に生前の輝かしい日々を思い出させて苦悩を生む発端となったし、愛や純子が死んでいる間にも時間が進んでいる事実、それ故に”空白の時間”と向き合う必要性、時代の変化への対応を強いられる要因となっているのだ。

 

肉体の死と、”コンテンツ”の死

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本作において「死」とは2つの意味を持っていると考える1つはお分かりの通り「肉体の死」だ。そしてもう一つが「コンテンツとしての死」だ。6話にて、愛がパソコンでアイドルの現在を調べるシーンで、かつて一世を風靡したであろうアイドルたちが立て続けに解散している事実を知る。アイドル業界をはじめとする「エンターテインメント業界」は、往々にして”寿命が短い”ものである。アイドルに限らず、10年前にヒットしたゲームや漫画が今もなお続いていることはまず無いし、終わったとしても、その作品の人気がずっと続くことも稀な世界が、エンタメの特性であろう。

 

そんな中でも確実に”今なお生き続けている”ものも少数だが存在する。仮面ライダー戦隊シリーズウルトラマンがその代表例だ。ライダーと戦隊の生みの親・石ノ森章太郎は亡くなった後でもシリーズが続いており、今年で47周年・平成シリーズだけでも20年目に突入しようとしているし、円谷英二も同様だ。仮面ライダーでは現在でも、オープニングのクレジットには「原案 石ノ森章太郎」と一番最初に表示される。つまり、彼らは肉体の死を経験しながらも、”コンテンツとして生き続けている”好例である。

 

ゾンビランドサガ』本編においても、昭和と平成を代表するアイドル2人・天才子役・伝説の花魁といった、生前に「エンターテインメントの世界」で生きたものが主要キャラに添えられ、死してなお「この世に生き続けようと」する彼女たちを描いている。一見すると「自身の存在を永遠のものにする手段」として、上でも述べたとおり”寿命の短いエンタメコンテンツ”を用いるのはある意味で「矛盾」とも思える。

しかしオープニングの「徒花ネクロマンシー」が、アイドルとは似つかない古い特撮を模したような映像なのは、それこそ石ノ森章太郎がかつて生み出し、今も生き続けている「戦隊もの」のような「死んだ後も生き続けるコンテンツになりたい=私たち、生きたい」のテーマを宣言しているように思えてならないのだ。つまり、「戦隊もの」はフランシュシュにとっての最終目標であると私は解釈している。

 

7話時点でリリィの過去・新聞記者による身バレ・山田たえの謎・幸太郎の真の目的・さくらの記憶と、まだまだ謎を残している『ゾンビランドサガ』。私は最後まで彼女たちの性(サガ)を見届けたい。 

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