しげデウスの鑑賞日記

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語ります。 特に、映画・アニメ・特撮などジャンル広めに徒然なるままに…。

『タイバニ』マーベリック編に感じる"惜しさ"

外出自粛のゴールデンウィークに際して、折角だから今まで手をつけていなかった人気作を見ていこうと思い、『TIGER & BUNNY』(以下『タイバニ』)をこの5日間で視聴。

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「ヒーローもの」の王道を行く脚本と、クリフハンガーな物語の引きがかなり印象深い作品だったというのが本作の第一印象で。前半はキャラクターの自己紹介も兼ねた「1話完結キャラクターお悩み解決」の構成で”横軸”ストーリーをテンポよく描いており、そのテンポの良さとキャラクターの”奥行き”が遺憾なく発揮されていた。

 

ただ、「バーナビーの過去に迫る」物語後半の”縦軸”、特に終盤のマーベリック編では、前半の持ち味だった「テンポの良さ」が失われ、結果的に「惜しい作品」だったと私自身感じている。

「ヒーローは民間企業の雇われの身」「救助活動が事実上の競技と化している」点が『タイバニ』の最大の特徴と言えるわけだけども、明確に「ヒーローは慈善事業じゃない」世界観なのがまた面白い切り口で。

 

救助活動は視聴率稼ぎのツールで、どこまで行っても「スポンサーありき」なのが面白く、またヒーローたちはそうした「ポイント稼ぎの為の救助活動」に特に疑問を感じないあたり、この世界観における「今どきのヒーロー像」は、よりビジネスライクな考え方がスタンダードなのだろうか、なんて考えたり。対する、虎徹のように「何よりも人命救助が最優先」という、ある種のボランティア精神が劇中では「古臭いヒーロー像」として描かれているのが印象深い。

 

そして「事実上の競技としての救助活動」についても(人の命がかかっている場面をエンタメのネタにする是非について気になる所ではあるが)、現実で言うプロスポーツのような感覚なんだろうかと考えたり。このあたりの「この作品世界観における、平均的な思想」が分からずじまいだったのが少々モヤつく所ではあるけれど、、、

 

また、3話の爆弾処理回のように、緊急時にヒーロースーツが使えない場面も多く、そうした制約が物語上の「良い意味での縛り」であったと同時に、「変身して戦うだけがヒーローじゃない」事に説得力を与えていた。今にして思えば「変身しない」ながらもヒーローを描いたり、後述するように「別行動」でありながら「コンビ」を描くような、「こうあるべき」に囚われずに表現しているのが本作の持ち味なのかなと。

 

本作で最も盛り上がったのはルナティック登場〜ジェイクとの決着までだった印象。

ルナティックが実はウロボロスとは何のつながりもない第三勢力だったというミスリードの見せ方も見事。ルナティックの「犯罪者に相応の報いを受けさせる事こそが己の正義」という王道ダークヒーローを配置してくるのがますます面白い。能力減退による焦りから暴力を振るうようになった父のレジェンドを殺害した過去を、悪人を私刑で裁く事で肯定しようとするのがダークヒーローたるルナティックのルーツで。

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「ヒーローとしてのルーツがレジェンドにある」点は虎徹もルナティックも同じでありながら、「レジェンドに”ヒーロー像”を見出した」虎徹と、「レジェンドのような”悪人”を裁こうとする」ルナティックとでは、その根底にあるものが全くの別物である訳で。そう考えると、虎徹に対するアンチテーゼとして、ルナティックのキャラクター造形は本当に見事とすら思ったり。

 

それだけに、マーベリック編で他のヒーローが記憶操作されて虎徹を殺人犯とみなす中、ルナティックが虎徹を庇う一時的な呉越同舟展開には心を躍らされるも、本筋にルナティックが絡む余地が無かったのが残念でならなくて。そこは2期で補完してくれる事を期待するばかり…。

 

ジェイクとの決着については、安易に「ワイルドタイガーがバーナビーと共闘」展開にならなかったのが良かったなと。というのも、親の仇(後から本当の仇ではなかったと判明するが、それはまた別の話)としての決着はバーナビーの力で乗り越えてこそであるし、決して「2人で戦う」だけがコンビの良さではない、その描き方ですよね。

 

「信頼しているからこそ、パートナーに全てを委ねられる」という説得力を持って、ジェイクとバーナビーが一対一で決着をつけたのが見事だなと。その「良さ」こそが、マーベリック編で「勿体なさ」に繋がってくる訳ですけども…。

 

マーベリック編の「勿体なさ」

 

やはり終盤のヤマであるマーベリック編には"惜しさ"を感じてしまった。世話になっていたおやっさんポジションの人間が秘密裏にマッチポンプをしていた事が判明し、バーナビーはそれにまんまと乗せられていた、という展開そのものは王道である一方、少〜し冗長な展開や、何より「虎徹が能力減退をバーナビーに隠していた事を発端にコンビ決裂」の展開にはモヤモヤしたのが正直なところ。

 

「NEXTとしての能力が減退した事を伝えれば、バーナビーに余計な心配をかけてしまう」という虎徹によくある「良かれと思って行ったおせっかい」の類なんですけども、「信じているからこそ、パートナーに全てを託す事ができる」を描いた直後だっただけに、せっかく積み上がっていた「コンビとしての信頼関係」がブレてしまったのが実に勿体なく…。

 

この手の「すれ違い」、「2人がちゃんと話せば簡単に解決したのでは?」と考えるのは野暮だとは思うのだが、ジェイクの一件で「パートナーを信じる」を経た虎徹とバーナビーの関係なら「本当の事を話した上で、虎徹が辞めた後にもバーナビーに全てを任せられる」となりそうなものだと思う訳で…。どうしても「物語の都合で、一時的に積み上げた信頼関係を振り出しに戻した」感が否めず…。

 

マーベリック編のもう一つの惜しさ、それは「ヒーローすらもアンドロイドで代替えが利く時代における、ヒーローの存在意義」に明確な答えを打ち出さなかった点ですよね。

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バーナビーの両親の研究を悪用して生み出したヒーロー型アンドロイド=H-01が、「ヒーローに対するアンチテーゼ」になり切れていなかったのが一番の問題で。

単純なスペックではアンドロイドに敵わないにしても、それぞれのヒーローには「個性」と「ロマン」があって、だからこそヒーローは大量生産可能なアンドロイドでは替える事ができないとか、そういったヒーローのスタンス的なものは特に描かれず、単純に「立ちはだかる敵を倒して終わり」だったのが実に勿体なく。

ヒーローがアイドル化される世界観なのだから、他でもなくそうした「個性」や「ロマン」に魅了されたり、勇気を貰える人がいて、「市民達に夢を与えられるのもヒーローの存在理由」という風に描けたはずなんですよね。

 

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だからこそ、最終話で子供が屋台でヒーローのカードを買う=「推し」の概念の描写が映える筈なのに、作品の根本とも言える「ヒーローの存在意義」についてもフワッとした描き方だったのがモヤついたところ。

 

それでも、虎徹の能力が減退した後も2軍としてヒーローの活躍を続ける事で「"カッコ悪い"ヒーローが居てもいい」という答えを打ち出し、虎徹の持つ生来的な「ダサさ」を説得力のあるキャラ付けに昇華させたのが見事だったなと。

『タイバニ』は「ヒーローとしての在り方」に対して王道でありながらも新鮮な切り口で描いていた反面、惜しい作品でもあったなと。2期では未回収だったウロボロスの謎と、ルナティックとの関係性を補完してくれる事を期待。あと、ロックバイソンさんの活躍も…。

なぜ「3値を知る前には戻れない」のか あるいは「しゅくふくポケモン」が自分にもたらした"呪い"について

ゲーム『ポケットモンスター』シリーズ、単純計算してみたら23年も続いてるシリーズと知り、めちゃくちゃ息の長いコンテンツに進化してきたなと。自分が小学4年生だったか5年生だった頃、木曜日の塾帰り、家に変えればまずチャンネルをポケモンに変えるのが毎週のルーチンワークだった訳だけども(その頃はダイヤモンドパールだった)、その時のアニメ『ポケモン』の触れ込みは「ポケモンアニメは10周年!(ここでピカ様による「ピッカ〜!」が入る)」だったと記憶している。

 

そんな頃から、更に10年をゆうに超える月日が経ってしまった事実から目を背けたくなるけれどもそれはさておき、世間でよく言われているポケモンは3値を知る前の頃の方が楽しかった」というフレーズについて、個人的に思うことを語っていこうかなと。

 

(3値って何?って人のために。ポケモンにはRPGで言うところのスキルの振り分けにあたる「努力値」、ポケモンの種族ごとに定められた能力値の「種族値」、そしてさらに同じレベルの同じポケモンでも、個体による能力の差異がある「個体値」。特に対人戦やそれに伴う対戦用ポケモンの育成において、そうした3つの「隠しパラメータ」を常に意識しておく必要がある。)

 

 

「旅パ=スタメン」だったあの頃

 

自分が最後に「3値を知る前の楽しみ方」をしていたのは、今から実に10年前の『ハートゴールドソウルシルバー』だった。兄から借りた「クリスタル」をきっかけに「ポケモン」というゲームに触れた身としては、金銀リメイクはまさに外せないタイトルだった訳だけども、それはさておいて。巷で言われている「純粋にポケモンを楽しむ」というのは、努力値なんて気にしないし、性格補正も何それ?ってレベルで、とにかく「レベルが高い=強いポケモン」みたいな、そういう楽しみ方が多いはずなんですよね。四天王を周回してレベルを上げる行為こそが一般人の想像する「育成」であって。

 

そして中でも初期から手持ちに入れている、いわゆる「旅パ」というやつが「最強のスタメン」だったり、書いてて思ったけども何と懐かしいこの感覚…。だからライトユーザー同士の会話だと「手持ち見せて〜!」なんて会話がよく起こるんですよね、廃人になった今では「手持ち=秘伝要因と特性ほのおのからだ、残り全部卵」がデフォになってしまうんですけどね…。しかし自分の場合、「ある人物」と出会うことで、ライトユーザーでは居られなくなる訳です。そう、中学の時に出会ったポケモンに詳しいクラスメイト」の登場によって。

 

 

種族値」を知ってから

 

ポケモンに詳しい友人」は、これまでの自分が知らなかった事をたくさん教えてくれた。いや、その友人もまだ「詳しくなってから」日が浅かったのかもしれない。まだまだ最初の頃は技名を言えば「その技のPPと効果」を詳しく教えてくれるに留まっていたし、「種族値」を知り始めたくらいの頃だったのかもしれない。それでも自分が最初に「種族値」について教えてもらった時は、「ポケモンには種類ごとに隠しパラメータが設定されている」という事実にえらく感動したものだ。

ポケモン徹底攻略」という今や対人戦をする人なら知らぬ者はいないサイトを発見した時は、手持ちのポケモン全員の種族値を調べて、意外なヤツが強かったり、ニドキングドラピオンがあんな攻撃的な見た目なのに割と控えめな能力だった事実に驚いたり。

 

 「種族値」を知った後、攻撃の低いゲンガーに技マシンでシャドークローを覚えさせなくて良かったと心底安心したし(この頃の技マシンは消耗品だった)、カイオーガは特防が高いので物理攻撃をした方がダメージが通りやすいとか、パルシェンが硬いのはあくまでも「防御」であって、むしろ特防は最終進化系の中ではワーストクラスという事を知ったり。単なる「ドラゴンタイプは氷タイプに弱い」といった相性だけに留まらない、「ポケモンによって戦略の余地は様々」であることを知って、むしろそうした公表されていない隠し要素が余計に「対戦ゲーム」としてのゲーム性に貢献してて、ますますポケモンの「沼」にハマることになった訳です。

 

 

 しゅくふくポケモンがもたらした「呪い」

 

そんなこんなで「種族値」を意識しながらリア友と対戦する日々が続いたけども、今にして思えば「ここで終わっておけば、ライトユーザーで居られたかもしれなかった」のだ。

 

ある日「ポケモンに詳しい友人」は、トゲキッスを育成したのだ。得意気にステータスを見せてきたのだけど、自分はそのステータスを見てこれまでに感じた事のない「衝撃」と「焦り」を抱いた。レベル50の段階で特攻の実数値は「189」だったのだ。今にして考えれば特攻に上昇補正のかかる「ひかえめ」な性格で、さらに個体値がMAX、努力値もMAXまで振ればその数値は至極当然なのだけども、「個体値と性格を厳選して、努力値を振る」という育成方法をしてこなかった自分は、友人のトゲキッスを見て強烈な焦燥感を覚えたのです。

 

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トゲキッスの特攻種族値は120、自分の持つゲンガーは特攻130なのに、確かに「種族値」はゲンガーの方が高いはずなのに、「実数値は友人のトゲキッスのほうが高い」なんて、「種族値までしか知らなかった自分」には衝撃が強すぎましたね。 自分は居ても経ってもいられなくなって、その日から「個体値・性格厳選」を行うようにしたのです。完全にライトユーザーに引き返すチャンスを逃しましたね…。

最初の頃は「とりあえず性格だけ厳選」という方向性でアブソルとフーディンを育成するも、レベル50になって気づく低個体値という事実。そうした紆余曲折を経てようやく育成したのが「性格いじっぱり・攻撃個体値MAX・努力値MAXのカビゴン」だった。攻撃種族値が110のカビゴンに補正をかけて努力値を振れば実数値は178。自分の持つカビゴンの攻撃も178。この数字を見た瞬間、自分にとっての「ライトユーザーとしてポケモンを楽しむ」という概念は消え去ってしまったのかも知れない。このカビゴンは自分にとって一番思い入れのある「厳選したポケモン」なので、XYまで連れていき、旅パにも使うほどの愛着だった。

 

それ以降、3値を意識して育成をするようになって、来る「ブラック・ホワイト」ではインターネット対戦がDS本体とwifi環境があればで手軽にできる「ランダムマッチ」が実装され、いつしか学校の「ガチ勢」がマクドナルドで集まってマルチバトルをするようになったり、「四天王」と称して集まって対戦してみたり、貴重な中学生活の大半をポケモンに注ぐことになった訳だけども、そのきっかけである"しゅくふくポケモン"のトゲキッスは「ヘビーユーザーとしての楽しみ方」という"祝福"をもたらしてくれた一方で、皮肉にも自分から「一生ライトユーザーとしてポケモンを遊べない"呪い"」をもたらしたんですよね。

 

 なぜ自分は「3値を知る前」にはもう戻れないのか

 

上述の通り、自分はポケモンというゲームの「ライトユーザー」から始まり、どんどんと「ヘビーユーザー側」にシフトしていった訳だけども、必ずしも「3値を知る前の方が楽しかった」とは言い切れない。努力値だって振り方は千差万別で、同じポケモンでも型が違えば対策も異なる。そうした「対戦の奥深さ」は3値を知ったおかげで分かるようになったと思っていて。ただ、一方でどこまでいっても「3値ありき」のプレイに因われてしまう、それがトゲキッスが自分にかけた、対人戦をしなくなった今でも解けない”呪い”なんですよね。

(大事なことを言ってませんでしたが、中学卒業後はリアルの生活で色々と大変なことがあってポケモンから離れ、そのまま今では対人戦から完全に足を洗っております。)

 

例えば御三家を選ぶ時だって、その性格が使う能力にマイナス補正だった場合はどうしたって気になってしまうし、伝説ポケモンは基本ストーリー上は一度しか手に入らないから、「下手に捕まえてしまうと後悔しそう」といつまで経っても捕まえずじまいだったり。今では努力値の振り直し・個体値や性格補正ならアイテムで修正が効く便利な育成環境になっているそうだが、だからと言って適当に捕まえて育てる気にもならないし、結局のところ自分のように「中途半端にヘビーユーザーの領域に足を踏み入れながらも、対人戦をやらなくなった者」にとって、今のポケモンを楽しむ術が無いんですよね。

 

「3値を知る前の方が楽しかったか」と問われると必ずしもそうは言い切れないが、自分は「3値を知る前の、あの頃のポケモンに戻れない事」、これが一番寂しいと感じています。自分と同じように「ライトからヘビー」の方にシフトした友人たちは、未だにガチ勢としてポケモンを続けていて、周りの「ガチ勢」に合わせてポケモンを楽しむなら、自分も「ガチ勢」にならざるを得ない。単純に周りにガチ勢が増えたことで「彼らと一緒にポケモンを楽しむ」のハードルがめちゃくちゃ高くなってしまった。それが自分が「対人戦」をしなくなった理由の一つでもあって…。

 

  「四天王」と呼び合っていた友人たちが「乱数調整」を始める中、自分だけはそれについていけずにドロップアウトしてしまった。もうそこには「100レベ=最強」「手持ち=スタメン」と言っていた頃の面影はなかった。かといって中途半端に知識をつけてしまった自分はもう、ライトユーザーには戻れない。あの時”しゅくふくポケモン”がもたらした呪いはもう、解けることは無いのかも知れない。

 

だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』第九章 

 

ボンドルドは如何に魅力的な「悪役」だったか 『劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明』感想

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メイドインアビス』はその可愛らしい風貌のキャラクターに反し、熾烈な世界観だったり、目を覆いたくなるような惨状が描かれる事から、すっかり「ハートフルボッコアニメ」の代表として見なされつつある作品だ。原作者・つくしあきひとと言えば、私個人としては『おとぎ銃士赤ずきん』のキャラクター原案のイメージが強い。

リアルタイムで見ていたのは随分と前の話だけども、あれもなかなか朝枠アニメにしてはシリアスで、「可愛いキャラクターに重いストーリーが付随する作風」が一種の”スタンダード”となりつつある今、『おとぎ銃士赤ずきん』はある意味「時代を先取り」していた作品かもしれませんね。

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そんなつくしあきひとが創る『メイドインアビス』ですけど、ファンタジー要素である「奈落の探検」を主軸に添え、リコに託された「奈落の底で待つ」のメッセージが持つ意味・レグの謎多き出自について追っていく本筋になっている。道中ではリコの母をよく知る、同じく白笛のオーゼンと出会い、リコの衝撃的な過去を知ってしまったり、ナナチとの出会いをきっかけに「アビスの呪いの正体」「黎明卿・ボンドルドが過去に行った非人道的な”実験”」など、アビスの底に近づけば近づくほどその「残酷な世界観」の解像度が上がっていく。

 

一方、『メイドインアビス』にはどこか「SFチック」なアプローチが試みられていると感じることが多い。というのも、度々キーワードとして出てくるのが「好奇心」なんですよね。上昇負荷が掛かるアビスは一度入ったら最後、もう二度とは戻れない。誰かが謎を解明しても、”それ”を外の人間に伝える術は基本的に無くて、だからこそ「自分の目で確かめる」他無いという、「片道切符の冒険」というプロットならではの強烈な説得力を感じますよね。

 

本作『深き魂の黎明』でも序盤、ナナチがレグとリコに再三「情報は力だ(だから不用意に情報を漏らすな)」と警告する場面だったり、「アビスの地図は情報を守る為にあえて曖昧な形で描いている」事からも、アビスの”真実”が如何に重要性を帯びているのかが伺える。そう考えると、地上へ伝えられる過程で多くのものが削ぎ落とされて、最後に残るのはほんの一握りの、原型を留めないものになってしまう「情報」もまた、「上昇負荷」を受けてしまうシロモノなのだなあとも思う訳で。

 どんな”負荷”もかかっていない、生の「情報」はそれこそアビスにおける「遺物」にも匹敵するようなモノであって、”それ”は探掘家にとっての原動力なんですよね。本作『深き魂の黎明』では、そうしたアビスの深淵に”魅せられた”リコ達、もといナナチとボンドルド卿の決着・ラストダイブまでを描いている。

 

 

※以下、劇場版本編のネタバレを含みます

 

 

 

 

「情報は力だ」

 

上で述べたように、「情報」が一つのキーワードとして挙がっているのが本作であり、最大の見どころである対決シーンでも”それ”はある種のタクティクスとして表れている。「深界五層に住む生物の巣を利用した奇襲」「上昇負荷を用いた攻撃」等、多くの情報をもとに3人が作戦を練って脅威に立ち向かう構図は見てて気持ちが良い。ナナチが指示し、それをレグが実行しリコは後方で援護。3人の作戦がボンドルドのそれを上回り、さらにそれをボンドルドが乗り越えてくる、そうしたロジカルな応酬がむしろ「カードゲーム」のような面白さを演出していたり。

 

本作のキーパーソンであるボンドルドの娘・プルシュカはアビス生まれのアビス育ちである。「地上からアビスに降りてきたリコ」とは違い、これまでも、そしてこれからも「五層より上の知識、もとい情報」について得ることができない訳で。そういう意味では、アビス生まれの者と地上から降りてきた者との間では絶対的な「情報格差があるとも言えるんですよね。リコにはこれまで道中で得た五層までの体験に加えて、地上での記憶も当然に持っていて、対する「夜明けが見たい」プルシュカはアビスの原理上どうやっても「地上」を知ることはできない訳です。

 

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「ここは上昇負荷がかかるから上っちゃだめ」、その階段を幾度と上ろうと試みるプルシュカの原動力は、探掘家にとって「下への好奇心が止められない」のと同じように、「上」への憧れから来ていて。プルシュカにとっての「夜明け」は、リコの目指す「アビスの底」と同じものなのだ。何度もトライ&エラーを繰り返すことで上昇負荷がかからない方法を見つけたり。後半、「白笛の材料は人間だった」事実が明かされ、ボンドルドの持つ”それ”は人間だった頃の自分を原料にしていた事が判明する訳だけども、「アビスの探求の為なら自分自身を犠牲にすることも厭わない」あたり、やはりプルシュカはボンドルドの子なんだなと感じたり。

 

とりわけ、『深き魂の黎明』では「ボンドルドとの決着」が大きな筋だった訳だけど、結果的に大満足な着地だったと感じている。言うまでもなくボンドルドはミーティの仇であるし、その「非人道的」な行いは一切の同情の余地がないキャラクターであり、行ってしまえば作中屈指の「絶対悪」なのだけど、それすらも彼の「カリスマ性」を引き立ててしまっており、魅力的なキャラクターに仕上がっている。上昇負荷から身を守る使い捨ての「カートリッジ」は子供を材料にしており、実験で多くの子供を「成れ果て」にしてきた彼だけども、そんな「実験材料」に使われた子供の名前を一人一人覚えているあたり、それなりの「愛着」があったことを伺わせる。無論、美味しく育ってくれた家畜を愛でるくらいの感覚だろう。

 

そして我々の嫌な予感が見事に的中してしまう。愛娘のプルシュカもまた、カートリッジとして「使われて」しまったのだ。ボンドルドはプルシュカが自分を「愛してくれる」ように仕向けて、入念に育ててきたのだ。全ては自身が”愛の力”によって「アビスの祝福」を得る為に。 「自分の娘すら実験材料にするなんてあんまりだ」と言いたくなるでしょう。しかし、いくらその「愛」がボンドルドの計算によってでっち上げられたモノだとしても、それはプルシュカにとって紛れもない「本物の愛」なんですよね。だから実験に伴う苦痛すらも、「愛の力」に変えてしまう。なんと業の深い展開だろうか。

 

ご存知のようにナナチもまた、かつてボンドルドの実験によって”祝福”を得ている。「望まぬ形でミーティから”本物の愛”を授かってしまったナナチ」の目の前に、「”仕組まれた愛”によって力を得たボンドルド」が脅威として立ちはだかるなんて、これ以上無いくらいに胸熱な展開になっている。「自分たちにとっての仇」が、激化する戦いの中で次第に「ライバル関係」へと発展していく様相が本当に素晴らしい。

 

ボンドルドは如何に魅力的な「悪役」だったか

 

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何より、「リコの本質はむしろ”ボンドルド側”に近い」という言及にゾッとせざるを得ない。改めて一話を見てみると、リコはレグが目覚めない間に火に炙ったり、刃物を使って解剖を試みたり、レグを完全に「アビスの遺物」として”観察”している節があって、なかなかヒヤリと来る。「好奇心が倫理観を上回る」という点では、ボンドルドもリコも変わらないのではないか、好奇心を満たす術が違うだけで、本質的な「違い」は無いのではないか。そういった意味ではボンドルドは「あり得たかもしれないリコの姿」ひいては「アナザーリコ」とも表現できる訳です。

 

 ボンドルドはそうした「ナナチにとってミーティの仇」「リコにとって、あり得たかもしれない自分」として、様々な”属性”を帯びた「好敵手」として三人と対峙する。この戦闘描写がまた、劇場ならではのフルスクリーンの臨場感・息を呑むほどの素晴らしい作画も相まって、熱さに拍車がかかっており、時間すらも忘れてしまう鑑賞体験である。リコが切り落とされたレグの左手から火葬砲で奇襲する展開なんてもう熱すぎですよね。

 

「誰にとっても憎い存在」のはずが「好敵手」として映ってしまう例で言えば『ひぐらし』における鷹野三四や『僕だけがいない街』の「悟と八代学」を思い起こさせる。はたまた、「全ての元凶こそが、実は自分に最も”近い側”の人間だった」例で言えば『ソード・アート・オンライン』アインクラッド編の「茅場とキリトの関係性」もそうで。

つまり何が言いたいかと言えば、ボンドルドがあれだけヘイトを溜めそうなキャラクター像なのに、あんなにも魅力的に映ってしまう理由は上で挙げた作品のような「悪役の”美味しいところ”が詰まったキャラ付け」なのではないだろうか。茅場にしろ、八代学にしろ、純粋な好奇心によって「人の道を外れた者」だけども、劇中でこれといってスカッとするような処置はされていないし、「あれだけのことをしておいて、罪が軽すぎでは」なんて思う人も多いはず。

 

『深き魂の黎明』におけるボンドルドだってその例に漏れない。「実験が好きなら、お前が実験材料になればいい!」一度はそんなセリフと共にボンドルドを破ったレグだったが、それではボンドルドを完全には倒せなかった。プルシュカにとっては紛れもなく「愛する父」を、どうやって殺すことができようか。本作は「仇を殺すことそのものに意味は無い」を明確に描いてきたのだ。何よりプルシュカは「お父さんと仲直りして欲しい」という願いがあった。「憎き仇が、一方ではある者にとって愛すべき存在」というジレンマをどう解消するのか、その解答として「自分たちの”冒険”を取り戻す」。そのためにボンドルドを「倒す」のではなく「越えていく」を提示するという納得の着地。

そもそも『メイドインアビス』は「冒険」の物語であって、「戦い」ではない。リコたちを動かすのは復讐心なんかでは決して無く、ただ純粋な好奇心である訳で。

 

改めて考えると『深き魂の黎明』は、「復讐劇に終止符を打つ」作品だった。「復讐は何も産まない」、セリフにすると陳腐にすら思えてしまうこの言葉でも、作品の中でそれとなくそうした”メッセージ”を表現していくバランス感が見事だった。

本作は公開直前にR15指定され、内容もそれ相応に非常にダークな仕上がりとなっていたが、観終わった後にはむしろ気持ちの良い余韻すら与えてくれる、まさに観ている自分が「奈落に”魅せ”られていた」。これも「仇を討つ」ではなく「仇を越える」という、「復讐劇のもう一つの形」を、最高に魅力的なボンドルドとの関係において描くことで成せる業と言えるだろう。

 

今回は以上です。

 

『異世界誕生2006』感想 「アンチテーゼ」に留まらない"ドラマ"に泣く

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数ヶ月前にツイッターで、その惹き込まれるあらすじが話題になっていた『異世界誕生2006』。この正月休みの楽しみにとっておいた作品を読み終えての感想を残しておきたい。

 

2006年、春。小学六年の嶋田チカは、昨年トラックにはねられて死んだ兄・タカシの分まで夕飯を用意する母のフミエにうんざりしていた。たいていのことは我慢できたチカだが、最近始まった母の趣味には心底困っている。
フミエはPCをたどたどしく操作し、タカシの遺したプロットを元に小説を書いていた。タカシが異世界に転生し、現世での知識を武器に魔王に立ち向かうファンタジー小説だ。
執筆をやめさせたいチカは、兄をはねた元運転手の片山に相談する。しかし片山はフミエの小説に魅了され、チカにある提案をする――。

どことなく空虚な時代、しかし、熱い時代。混沌極めるネットの海に、愛が、罪が、想いが寄り集まって、“異世界”が産声を上げる。 

 

まず特記すべきは、所謂「異世界転生系ラノベ」ではなく、あくまで”創作における一要素”としてメタ的に「異世界」を扱うことである。私は普段ラノベを読まず、ラノベを原作としたアニメでも少しかいつまむ程度なのだけども、異世界転生」というジャンルが「最近のラノベ異世界転生ばかり」と言われる程には”最近のラノベ”の代名詞となりつつある印象を抱いている。

 

実際、私もそうした作品群について多少なりとも「(読んでみればまた違うのだろうけど)どこか似たり寄ったり」という第一印象はあり、供給過多なのではないかと思うところはある。当初、そんな供給過多とも取れる「異世界転生」というジャンルに対して「流行りものに一言申す」アンチテーゼとして書きはじめたのが『異世界誕生2006』だった(本書あとがきより)。

 

そして第二に、時代設定である。2006年という、丁度今から10年ちょっと前くらいのインターネットのアンダーグラウンド感が仄かに漂う時代であり、実際に”その時代のインターネット”を生きてきた者にはどこか懐かしさを覚える。リアルでは、その前年に2ちゃんねるで実際に起こった奇跡的なエピソードをモチーフにした『電車男』のドラマが放映される等、まだまだインターネット掲示板の熱が残る時期だったはずだ。

 

そうした「創作ジャンルとしての異世界」を「インターネット」というツールを用いてパッケージしたのが本作の最大の見所と言えよう。

 

※以下、本作のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

存在しない人物こそが、物語を動かす「不在の中心」について

 

作劇において「不在の中心」という概念がある。簡単に言えば「物語上、存在しない者が物語の主導権を握ってしまう」事である。この手の作品で言えば朝井リョウ『桐島、部活辞めるってよ』が有名であろう。

 

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話が逸れるが少し前に「推しのキャラクターが死ぬと悲しいか否か」がツイッター上で話題になっていた。私個人としては、「キャラ派・作劇派」で言うところの「作劇派」だと思っていて、「キャラクターの死は物語を動かすギミックであって欲しくて、死そのものをオチに持ってきて欲しくない」という持論がありまして・・・。

 

「親しい者の死」を受けて、他のキャラクターが、物語がどう”変わっていく”のか、私はそれを見たいんですよね。「キャラクターの退場、あるいは不在」が他に与える大きな余波・「死人に口無し」の影響をモロに受ける故に起こる大きな誤解等、物語において「死」がもたらすギミックの影響力は本当に大きいと思っていて、そうした「死」が計算されて物語に組み込まれている作品を見ると、キャラクターが死んでいるにも関わらずガッツポーズをしたくなりますね。

 

 閑話休題本作品においては言うまでもなくタカシがその「不在の中心」を担っている。序盤、読み手に与えられるタカシの情報は「トラックに轢かれて死んだ」「県内21位の学力の持ち主」「小説のプロットを遺していた」程度のものであり、彼の人格に関わる部分だったり、生前の言動等はほとんど描かれないといっても差し支えはない程。

つまり、読み手に提示されるタカシにまつわる情報はごく限られているのだ。読み進めていくうちにタカシの情報が小出しされていくにつれ、「生きていた頃のタカシ」を、読み手側が補完しながら読み進めていく事になる。

そうして母・フミエの小説が書き進められていく中で、「タカシ」の情報がどんどん付加されていく訳だけども、それはフミエにとっての「理想の息子像」であった事が後々に判明していく訳で・・・。

 

実はタカシがトラックに轢かれたのは「事故」ではなく「自殺」だった事、そして他でもない、その自殺の引き金となったのは母・フミエの言葉だったと判明する。生前のタカシとフミエの関係性は決して”良かった”訳じゃなかった。名門校に入れようとタカシを毎日勉強させ、一切の娯楽も与えず、彼が受験に失敗したあたりから愛情を既に失っていた事、そして生前彼が書いていた異世界転生小説のプロットすらも、内心嘲笑っていたどころか「あなたも死んで異世界に行ってしまえばいいのに」と思っていた事。それらのどす黒い感情がタカシに伝わってしまい、結果的に彼を追い詰めて自殺に追いやってしまったという事実。

 

そうした「存在しない人物」を小説ならではの技法・叙述トリックのギミックとして巧みに用いており、思わず感嘆の声を漏らす。「存在しない」故に、当事者に対する行動も、思い出も、全てフミエというフィルター越しに捏造されていた事が読者に明かされるのだ。そして、何よりもその”ミスリード”こそが作品の一要素・ひいてはテーマである「異世界」ともリンクしているのが本作の妙である。

 

 

異世界」の再定義と、「現実に帰れ」のメッセージ

 

本作における最大の特徴はキーワードである「異世界」に、言葉遊びさながら様々な意味を与えている事にある。タカシは死んだのではなくて「異世界に行った」と思い込むこともそうだが、小説が炎上沙汰になったインターネットという場はフミエにとって「自分とタカシ以外の全てが敵の異世界」であったし、そんな状況が余計に「自分はタカシと二人きりで異世界に居る」という歪な充足感を加速させていた。

 

「信じたいものを信じるといい。視点によって見えるものは全て違う。・・・異世界、というんだったか?人間というのは同じ場所にいるように見えて、本当は皆、それぞれの異世界で生きている。まったく別の真実を見ているんだ」

伊藤ヒロ異世界誕生2006』(講談社ラノベ文庫)第十五話「母フミエと、罪の告白」

 

 これはチカの父から、「タカシが自殺した原因の一つは自分が厳しく接していたからで、フミエがその罪を一人で背負い込もうとしているだけだった」事実が述べられるシーン。それを聞いたチカはフミエのこれまで言ってきた事との矛盾に戸惑い、何を信じれば良いのか分からなくなった時に父が発した台詞だ。

つまり、ここで上で述べた「タカシを死に追いやったフミエの罪」すらも事実ではななかった事が判明するのだが、フミエにとっては「全部自分のせい」と思い込むことそのものが「救い」であり、また彼女にとって「居心地の良い異世界」でもあったわけです。

 

また、自殺であることが判明した以上、タカシを殺した張本人・片山に罪は無いはずだが、彼もまたフミエと同じで「自分が不注意だった」と罪を一人で背負い、真実から目を逸らして「殺人犯」の役を演じることが、ある意味で彼にとっての「異世界」として描かれている。そんな「都合の良いフィルター越しの異世界」を生きてきたのは、本作の"語り手"であるチカも例外では無い。今でこそ死んだ兄を心底軽蔑していたチカですら、「オタク」という言葉を意識し始める前まではタカシとの仲が良かったのだ。

 

そしてそこから「現実に帰る」というテーマが提示される。小説をやめさせたかったチカは、そんな”異世界”に居る母を、小説を完結させることで”現実に帰ってこれる”ように応援する。物語とは往々にして「行って帰ってくる物語」と呼ばれるが、現実に戻るために冒険する異世界転生のプロット」と、「作家としての創作活動」を符合させていく。これがもう見事な流れなんですよね。

 

総括『異世界誕生2006』は如何にして「異世界転生のアンチテーゼ」を離れたか

 

終盤、フミエの小説は掲示板の荒らしコメントをきっかけに「パクリ疑惑」が浮上する。そしてひょんな事から、実はタカシが生前にネット上でも「HAWK.C」名義で小説のプロットを遺していたことが判明する。フミエの掲示板を荒らしていた、ごく少数のコテハンは、HAWK.C=タカシのごく少数のファンだったのだ。それを知ったフミエは「タカシが本当は何もできない息子どころか、ネット上で何かしら生きた証を遺していて、ささやかながら評価もされていた」事を理解する。フミエの知らないところで、既にネットの中では「勇者」だった事、自分の息子を信じてやれなかった後悔、全ての真実を知ったフミエは亡きタカシではなく「自分を救う為に小説を書く」決心をする。

 

この、まさに「インターネットならではの舞台装置」が非常に巧く機能しているなと。本作では「自分にとって都合の良い解釈」を”異世界”と再定義してきた。相手の顔が見えないインターネットだからこそ、安直に人物像を思い描いてしまう。例えば、当初チカは掲示板に現れたファン・YOSIの正体を片山”ヨシ”タカだと予想していたし、粘着質だったコテハンが実は”敵”どころか、タカシの熱烈なファンだった事実もそうである。

 

そしてそこからのタカシである。現実で友達が居ないとされていたタカシも、ネット上では友達のような存在を有していた。「インターネット」は、むしろインターネットそのものが”異世界”というよりも、「視界のフィルター」を浮き彫りにしてしまう”舞台装置”だったのではないだろうか。

 

当初、この作品は「異世界転生ものへのアンチテーゼ」をコンセプトに書かれたものだった。しかし、最後まで読んでみると「死者との決別」「親と子」「創作するという行為の持つ意味」等、単純に「アンチテーゼ」の一言で表しきれないようなテーマ性を内包していたなと。

 

ところどころ、フミエの小説が劇中劇として挿入される。拙い文章も相まって、文字通り「クソ・オブ・ザ・クソ」としか言いようのない物語である。そんな劇中劇でも、最後まで読むと「フミエの苦悩と試行錯誤」の積み重ねが一気に爆発するような、不思議な充足感が得られるのである。特に「タカシとの決別」を描いたエピローグは本当にグッと来ますね…。

 

何より、「昨今流行っている異世界転生ものの多くは息子を事故で亡くした人が書いたものであり、フミエはその第一人者だった」という切り口の鮮やかさである。

普段何気なく自分たちが目にしている作品は、自分たちの知らない作者の「想い」があって作られてるのかもしれない。そう考えると『異世界誕生2006』は「創作の奥深さ」だったり、「作品に込められたメッセージ」について改めて考えるきっかけになる作品だったなと。

『荒乙』最終回における「色」の考察。あるいは「子供ではいられなくなる」事について。

2019年夏アニメも最終回を迎え、いよいよ秋アニメも始まる時期という事で、印象に残った作品の感想でも残しておこうかなと。とりわけ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(以下、『荒乙』)は、あの岡田麿里脚本という事も相まって、界隈での「熱」が大きかった印象です。

 

第一話から「幼馴染のアレを目撃してしまって以来、頭から”性”の一文字が離れなくなった女の子」という中々にぶっ飛んだ展開に目が離せない。文芸部のメンバーたちがある日「性」という強烈な一文字をきっかけに、登場人物の間の矢印がありとあらゆる方向に飛び交うようになって、運悪くそれが交通事故を起こしてしまう作風が『荒乙』のエッセンスなのだ。

そうした「アクセル全快」なスタートを切っていく中でも、最後にはしっかり「”性”というものが持つ意味」、ひいては「大人になる事の意味」という、ブレーキの利いたようなテーマを描いていたのが、何とも見事なバランス感である。『荒乙』の魅力は沢山あると思いつつも、今回は最終回における「色鬼」、ひいては”色”がなぜあんなにも重要なのかについてお話したいと思います。

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そもそも「色」とはどういう存在なのか、という話ですけどもこれは「心理物理的な存在」なんですよね。理科の授業でも習ったように、物体が光の多くを吸収し、その中の「吸収されなかった光」が反射して我々の眼に入ることで「色」を認識する「物理的」な面、目に入った光が「情報」として脳に伝達されるプロセスの中で「色に対するイメージ」や「感情への働きかけ」が発生する心理的」な面が総合された存在なんですよね。つまり、これはミロ先生が触れていたように「物理的に同じ色を見ていても、万人がそれを同じ色だと認識する訳ではない」という事だ。

「色鬼」とは無論「鬼の宣言した色と同じ色に触れている者は、鬼の狙いから逃れられる」ルールであるが、ある人の想像する「色」は果たしてそれ以外の者が認識する「色」と同じなのか、という「色の持つ心理的要素」を「自分だけにしか分からない気持ちを、誰かに探し当てて欲しい乙女ども」に当てはめたのは何とも見事で。これは相当「色」について詳しくないと描けませんね。

 

さらに、色鬼で宣言される色の「抽象性」もまた『荒乙』のテーマを描く上で効いていたなと。というのは、鬼によって宣言される「色」は「百々子の桃色」や「青春の青」だったり、もう本当にめちゃくちゃなんですよね。自分の気持ちなんて自分でも分からない、だからこうやって「色」という形を与えることで認識したいという思いが伝わると同時に、「もう彼女たちは子供ではいられない」事も表していて。

色には、その色を見たときに何を連想するかを表す「観念連合」と呼ばれる概念があって、例えば赤い色を見たときに「イチゴ」をイメージする等だ。このような「色を見て思い浮かぶ言葉」は、子供であればより具体的なモノを連想しやすく、大人になるにつれて抽象的な概念を連想するようになる傾向があるらしい。(「情熱」の赤や、黒を見て「死」を連想する等)

 

つまり彼女らの宣言する「百々子の桃色」「青春の青」は言うまでもなく抽象的な概念であり、彼女達はもう赤い色を見てイチゴを連想するほど子供ではなくなってしまった、という風にも捉える事が出来る訳で。さらに、そうした「色」のテーマが「色鬼」という”遊び”によって描かれるのがまた象徴的で面白い。

あれだけ抽象的な色を宣言すれば、もはや”遊び”として成立しない。しかし、これは裏を返せば「自分たちはもう、昔のように純粋な気持ちで”遊んで”はいられなくなった=大人になってしまった」というメッセージ性を含んでいる気がしなくもない。

 

同じく岡田麿里脚本で「色」をテーマにした作品と言えば『ブラック★ロックシューター』が挙げられる。序盤、出灰カガリがマトを追い出そうと、濁った色のマカロンを食べさせようとするシーンをはじめとし、マトの愛読する絵本「ことりとり いろいろのいろ」では、小鳥が世界を飛び回る中で、色々な”色”を体につけていくうちに、それらが混ざり合って真っ黒な姿になって地に落ちるという、これもかなり本編における「象徴的なアイテム」として効いてくる。

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以前にもブログで書いたが、『ブラック★ロックシューター』は「別の誰かが自分の悩みを勝手に解決してしまう」世界?のシステムそのものへの疑問を描いていると同時に、「傷つく事で、自分たちは大人になる」というメッセージを発している。それこそ思春期真っ只中の女の子たちには少々厳しくも感じられるような、大人の在り方・成り方について我々に投げかける作風に驚いた記憶がある。

 

そしてそこからの『荒乙』最終回である。自分たちにはそもそも「色」なんてものは最初から無かった、まさに『ブラック★ロックシューター』における「ことりとり」なのだ。乙女どもはみんなそれぞれの矢印が飛び交う中で、意図せずそれが連鎖的に「玉突き事故」を起こしていく訳だけども、それが『荒乙』における「大人になるプロセス」だったのかも知れない。

真っ白な紙に絵の具を塗れば、それはもうどうしたって「元の白」には戻らない。純白だった自分たちが「色」を認識すれば最後、もう「白」ではいられなくなるのだ。だからこそ、”それ”を恐れずに今度は「自分たちの色を見つけよう」とするオチは、「大人になることの畏怖」から「大人になることへの希望」への転換を表していて、何ともポジティブな着地だったなと。

 

 最後に、「色」が色欲・色気といった性的な意味を持つのは日本・中国等の漢字圏独特らしい。今回は以上です。

『ぼっち生活』における「リアリティラインの曖昧さ」について。あるいは「見方を変えてアニメを楽しむ」事について。

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ついに最終回を迎えた『ひとりぼっちの○○生活』(以下、『ぼっち生活』)、改めて振り返ると、「思い切った作品」だったなあと。人見知りの主人公が、ひょんな事から色々な出会いを経験して精神的に成長していく系の話は、なんだか昔の自分を見ているようで少し恥ずかしさがある反面、ある程度の「アニメ的な補正」でなんとかリアルすぎないギリギリのラインで保ってくれているような、絶妙な視聴体験である。『ぼっち生活』もその例に漏れず、第一話の段階では「面白いけど、共感性羞恥が喚起されてヤバい」という感想を抱いた。

 

アニメにおいて「リアルの情景がチラつくシーン」は、往々にして「見ていて辛い視聴体験」になりやすいと思っていて、一里ぼっちが自己紹介で「わ、わたたたた…」と噛んでしまい、ゲロってしまうシーンを私は素直に「楽しんで」見ることができなかったのが第一印象。友達が少ない、いわゆる「コミュ障」な人物が無理して大きな行動に出る情景って、私が学生時代の頃にも目にしてきたんですけど、自分が例え「当事者」じゃなかったとしても「その場から立ち去りたい」ような衝動に駆られるんですよ。

 

これは自分の性格の問題かもしれないけれど、そういう情景に出くわすと「うわぁもう見てられないよ…」と直感で思ってしまい、素直に「応援する」という心の余裕が無くなってしまうんです。どこかでその「無理して行動する人」に自分を重ねてしまったり、今見ている光景が「かつての自分」を想起させているのか、それとも「有り得たはずの自分」のような気がして、メタ認知的にその人のことを客観視できないのか、理由は定かではないけれど、本質的に自分は「コミュ障」だと認知しているからこそ、自分でないはずの「コミュ障」にどこか共感してしまうのかもしれない。

 

閑話休題。そんな『ぼっち生活』における「共感性羞恥」は回が進むにつれてなぜか薄まっていった印象。ぼっちの周りに砂尾なこをはじめとし、多くの友達ができて、不器用でどこか危なっかしいぼっちを「親の目で見守る」ようなキャラが増えてきたことが大きいだろう。振り返ってみれば「共感性羞恥」を感じた大きな理由として「失敗を優しく見守ってくれる者」が、第一話時点では誰も居なかったからこそ、あんなにも「うわぁ…」と、目を覆いたくなってしまっていたのだと思う。

 

今にして思えば、「一里ぼっち」というキャラの言動がこれほどまで「見ていて危なっかしい」と思えてしまうのは、ある種の「狙い」だったのかなと。ぼっちは人見知りではあっても、「感情を表には出さない」という訳ではない。上で「コミュ障」を引き合いには出したものの、少し「コミュ障」とは違った何かである。むしろぼっちは表情豊かだと思っていて、コロコロと表情を変えることで周りのキャラクターたちの注目を集める「赤ちゃん」的な立ち位置だったなと。

 

序盤では「見ていてヒヤヒヤする危なっかしい子」に終始していたのが、回を越すごとにどんどん持ち前の「豊かな表情と、突拍子も無い言動」で周りの人たちを振り回しつつ、仲を深めていく。そうして「ぼっちとその友達」の関係性が「危なっかしいけど可愛らしい子供と、それを見守る家族たち」へ進展していく頃には、自分もいつの間にか、「キャラたちと共に、ぼっちを見守る視聴体験」をしている事に気付かされるのだ。後半では完全に「コロコロ変化するぼっちの表情」を見るのが目的で視聴していましたね、えぇ。

 

 「リアリティライン」を敢えて外す力業

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ところで『ぼっち生活』は、リアルとかなり近い要素である「友達作り」をテーマの中心に沿え、物語はあくまでも「1年1組」という一つのクラス内で完結する、「地に足の着いた学園もの」というジャンルで言い表すことが出来る。そこに極端な大事件や現実では有り得ないエピソードが挟まれる余地はなく、ただ純粋に「クラス内での、それも主人公と友達数人」というごく限られたスケールの話だ。物語における「リアリティラインの精度」は、設定やスケールが小さければ小さい(リアルと近い)ほど誤魔化しが効かなくなり、目立つものだと思う。

 

ここでのリアリティラインとは、例えばピカチュウを見て「電気を発するねずみなんているか!」とか、『シュタゲ』で「大学生がタイムマシンを作るなんて有り得ない」とか、そういう事ではない。あくまでもそうした「世界観」だとか、「設定」を割り切ってみた上で出てくる「非合理的なキャラの言動」のことである。設定が現実的なほうに近ければ近いほど、そうした「少しの”現実とのズレ”について厳しい目で見てしまう」という話である。

 

上で述べた通り、どちらかと言えば『ぼっち生活』は「リアル寄りの作品」ではあるものの、「リアリティライン」についてはむしろかなり曖昧な部類だったと感じている。

 例えば第5話のアル回。本庄アルは「容姿端麗な委員長だが、どこか抜けたところがあって”残念”」な属性のキャラであり、その「残念っぷり」が遺憾なく発揮される回なのだが、ありとあらゆる面で「リアリティライン」が引き下げられている。まずはアルが間違えてランドセルを背負って登校、何とか「妹です!」と誤魔化しを図り、なこに笑いものにされるという展開。そこまではまだ分かる。しかし翌日になれば「全身小学生仕様で登校」と、普通に考えれば「いやそれは無いだろ」とツッコみたくなるほどの、ギリギリのところまで「リアリティライン」が引き下げられている。

 

そして極めつけが砂尾なこにテニス勝負をしかける展開。「仮にもテニス部員であるアル」が「運動が苦手ななこ」と勝負する時点で、普通ならなこが圧倒的に不利な状況なのにアルはサーブを全て外し、負けてしまう。ここでもアルの残念っぷりを描くために、一旦リアリティラインを”無視”してしまっている。いや、冷静に考えればリアリティラインが欠如というよりも、アルが画面に登場した時点で「一切のリアリティラインの影響を受けない」という、ある種のフィールド魔法かもしれない。

 

アル以外で言えば、「クラス替え云々」についてもそうである。「クラス替え」は、現実においても、生徒にとって努力では乗り越えられない、学校生活という”ゲーム”における「仕様」として、我々は認知してきたはずだ。この「クラスに友達ができた矢先のクラス替え」という展開、ぼっちのこれまで培ってきた「処世術」がどう発揮されるのかが楽しみであっただけに、力業で「クラス替えのない学校だった」というオチを持ってこられたのは個人的にかなりモヤついたポイントでもある。リアリティラインについても、「誰かに教えてもらって初めて、クラス替えが無い事に気付く」点でも、やはり「非合理的なキャラの行動」に思えてしまい、見ていた当初は正直納得できずにいました。

 

ロジックを捨てて、絵的な面白さを追求した作品

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 ここまで身も蓋もなくしつこいくらいに「リアリティラインの欠如」への言及をしてきたけれど、一周回ってそれを「」として仕舞えたのが『ぼっち生活』だったなと。アルがランドセル登校の翌日に、反省を活かせずに全身小学生で登校しようが、テニス部なのにサーブ打てなかろうが、クラス替えのないはずの学校でクラス替えの話題で一喜一憂しようが、絵的に面白ければそれで「良し」と割り切って作られた、ある意味で「挑戦的」な作風であり、今にして思えば「そうはならんだろ」と突っ込みたくなる事象であっても、そんなの突っ込むほうが野暮だと気付かされるつくりだった。

 

そして最終回においても「”一里”ぼっち」なのに出席番号5番と、一見すれば無理のある設定が明かされる。これは作者によると、稀にある「誕生日順」を採択したものであり、それによって五十音順ならばできなかったかもしれない「”砂尾”なこが、ぼっちの手前の席」という描写、ひいては「前の席の人です!!」ネタを実現している。

 

思えば登場人物のネーミングが「キャラクターの特徴そのまま」という設定上、「席順の自由度が狭まる可能性」も十分あったと思うし、そんな中でも「誕生日順」を採択する閃きは凄いなぁと。リアリティラインを限界まで下げるけど、決して「無くす」訳ではない、そういったバランス感が見事であった。

極めつけは「クラス替えのない学校で、改めて自己紹介」というくだり。クラスが替われば当然、知らない人ばかりなので「自己紹介の有用性」は高い。しかしクラス替えのない『ぼっち生活』のリアリティラインでは、改めて自己紹介をする有用性は皆無である。

 

しかしこれも見方を変えれば「アリ」な描写になるのだ。思えば第一話の時点では「クラスに知らない人しか居ない」シチュエーションである。ヘマをすればリカバーが利かない上、これからの学校生活が一瞬にして台無しになる可能性だってある。実際、そんな「周りに味方が居ない中での行動」だからこそ、自分は共感性羞恥を喚起されて「見てられない!」と感じたし、ぼっちにとって耐え難い仕打ちであった。

でも今は違う。同じ自己紹介でも、周りには少しばかりの”友達”が自分のことを見守ってくれている。彼女たちならどんなヘマでもいつも通り「相変わらずだな」と笑って拾ってくれる。最終回はそうした”安心感”の中で、ぼっちの自己紹介を見届けることができた。結局ゲロ吐いたけど。

 

1年間共に過ごして「知っている人たち」の前であえて「自己紹介」を行うことで、「このクラスには確かに”友達”がいる」ことを的確に映し出してくれる。何という力業。もうそこに「設定ガー」とか、「リアリティライン云々」とか、そんなツッコミを入れるほうが野暮なのだ。

自分はいつからか、作品を見るときにどうしても「細かい粗」を見つけてしまう癖があったけれども『ぼっち生活』はそんな自分に「細けぇ事はいいんだ!楽しめ!」とエールを送ってくれるような、あったかい作品でした。あざす!

『スパイダーマン スパイダーバース』の"日本的ヒーローっぽさ"について。あるいは「孤高のヒーロー像」に対する挑戦

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先日、『スパイダーマン スパイダーバース』を観に行きました。前評判では「ペニー・パーカーちゃんが可愛すぎる」と聞いており、「これならアメコミに慣れてない自分でも見やすいぞ!」と思い、視聴に至りました。『スパイダーマン』シリーズについては金曜ロードショーで第一作を見ただけで、他のシリーズは全く知らない状態だった。一応、「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という格言だけは念頭において見ました。これはシリーズを通して描かれる重要な”テーマ”だと聞いたので。

 

※以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

「漫画演出」とスパイダーマンの相乗効果

本作の概要をザっとおさらいする。ある日、マイルスは毒グモに咬まれてスパイダーマン化。敵・キングピンの装置によって時空が歪められ、平行世界に存在するたくさんのスパイダーマンたちが、主人公マイルスの世界に集結する。キングピンの計画を阻止しようと試みたピーター・パーカー(最も代表的なスパイダーマン)はその過程で死亡。装置を止めるようにピーターから頼まれたマイルスは、当初こそ戸惑いつつも自分の「スパイダーマン」としての運命を受け入れ、他の「先輩スパイダーマン」たちの叱咤激励を受けて、ヒーローとしての成長を見せていく。

 

 前編CGでありながら、「漫画らしさ」を全く損なわないどころか、その「らしさ」こそがビジュアル面での派手さと分かりやすさを演出している。例えばマイルスがクモに咬まれてスパイダーマンに”なってしまう”描写にしても、漫画の「吹き出し」のように心の声が表現される。顔からタラタラと滲み出る汗など、「漫画ならでは」のカリカチュアライズ(面白おかしく大袈裟に表現するさま)に貢献しており、実写のスパイダーマンとはまた違った視聴体験ができる。

 

 そうした漫画的な演出こそが、まさに「日常が漫画のような世界=非日常に変わってしまう」ことを意味していて、これから始まるお話はあくまでもマイルスが主役の「漫画」であると宣言するような演出である。マイルス自身は当初、身体の異変を「思春期」と思いこんでいたけれど、これもあながち間違いとは思えない。というのも、力を得た当初は、それをうまくコントロールできずに様々な”ミス”を犯してしまう。成長するにつれて力の本当の意味を知っていく過程はまさに「思春期から大人への成長」と言い換え可能で、そうした「大人になる前の段階」を意味するワードがまさに「サイズの合わないスーツもいつか着られる日がくる」という服屋さんのセリフとガッチリ符合している。「どんな人でもヒーローになれる」という作品のメッセージへと繋がる”布石”のようにも思えるのだ。

 

何より「別次元に存在する、別のスパイダーマンたち」が集結するのがヒーロー物として面白い切り口だったなと。自分にとってスパイダーマンといえば”あの”スパイダーマンしか存在しない、唯一無二のイメージが強かったので、グウェンが女性のスパイダー”マン”だったり、ペニー・パーカーが二次元の世界からやってきたようなアニメアニメした子だったのはなおさら衝撃的だった。スパイダー・ハムに至っては文字通り、もはや豚である。上記の彼女らとは違って、「manは男性以外にも”人”の意味もある」という言い訳すら通用しないやつにまで「スパイダーマン」の呼称があてられている。「呼称は同じだけど、それぞれが唯一無二のヒーローである」設定が、単純な「ヒーロー集結もの」と違って新鮮に映った。

 さらに、一般的な戦隊ヒーローと違うのは彼らが「期間限定のヒーローチーム」であることだ。マイルスの世界においては、マイルス以外のスパイダーマンはその体を維持できない。なので、次元装置を止めるまでの急場しのぎのチームである。事が終わればすぐに元いた世界へ帰らなくてはいけない。男はそういう「緊急」とか、「条件つき」みたいな設定に弱いんですよね。ロマンがあるというか...。

 

異次元のスパイダーマンたちが「自分がオリジナルのスパイダーマンですよ」といわんばかりの登場の仕方で、その辺りについても『ジオウ』で未来の仮面ライダーたちがあたかもレジェンド面して出てくる展開だったり、『レクリエイターズ』で「一世を風靡した感」をめちゃくちゃ醸し出してくる被造物(キャラクター)を連想させる。こういう「視聴者は知りえないけど、作品内では有名なキャラクター」という設定も、妄想が広がりますね。

 

日本の特撮を思わせるストーリー

 

『スパイダーバース』は、「日本の特撮は好きだけどスパイダーマンは見たことない」人にこそ見てほしいと思う理由の一つが、その「日本的なお話」なんですよね。例えば上で述べた「別次元のヒーローが集合する」という要素が、戦隊モノに親しんできた人からすればとっつきやすいだろうし(もちろんこれは「別次元の同一ヒーロー」なので、単純に雑多なヒーローが大集合して敵と戦う「スーパーヒーロー大戦」系とは厳密には異なるが)、何より同じマーベルの『アベンジャーズ』シリーズと違って、スパイダーマンだけを知っていれば楽しめるので、そこも大きいかと思う。

 

何より「先輩ヒーローが、新米ヒーローにその"極意"を伝えていく」というプロットですよね。近年では平成仮面ライダーシリーズが冬映画などで「過去作主人公たちがひょんなことから一挙に集まり、現行主人公と協力しながら戦う」ような話が恒例になってきているし、そこには「先輩と後輩」の関係性が付与されているようにも思える。

 

『スパイダーバース』では特にそうした先輩後輩の「縦のつながり」が見え隠れすると言うか、突然スパイダーマンになってしまった者=マイルスに対し、先輩スパイダーマンが目の前に立ちはだかる苦難を通じて、まさに「スパイダーマンチュートリアル」とも言えるような"教訓"を伝えていく。この辺りがものすごく「日本的」というか。ともすれば「説教臭い」とも言われかねないような、少し体質の古さがチラつく「日本の古典的成長物語」に思いっきり振り切っていたのが、これまた大胆だなと。

 

そんな中でも「先輩が後輩に教える話」だけに終始しなかったのが大きいかなと。別次元のピーターは立場こそ「マイルスの先輩」であれど、実はまだまだ「スパイダーマン」として割り切れなそうな部分があったり。序盤なんかは特にそうですよね。メタボチックな姿で出てきたり、マイルスが「大いなる力には、大いなる責任が〜」と言おうとしたところをハイハイと怠そうに遮って見せたり。そして終盤にも、かつて自分の至らなさで離れてしまった妻?と違う次元でエンカウントしてしまった瞬間ですよね。もちろん、違う次元での出来事なので、向こうはピーターに関する記憶が無い訳だけども、いざ目の前に現れると、途端に狼狽えてしまう。

 

「孤高のヒーロー像」を分解・再構築

 

そうした「少し未熟さの見える先輩」というキャラ付けも良かったなと。だからこそ目まぐるしく成長するマイルスからも逆に色んな事を学ぶことができたり、他にはペニーパーカーちゃんの使ってたオートマタ的なやつが壊れてしまった時も、ほかのスパイダーマンの助けがあって乗り越えることができたり。

 

そのような「複数のスパイダーマンたちが関わり合う中で、大事なことに気づいていく」プロットが本作で一番の見どころだったなと。

本作は言ってしまえば「スパイダーマンは唯一のヒーローである」というかつての"ルール"を一旦は壊して、「複数ヒーロー」にしてしまう、ある種の変化球のように思える。人知れず、誰にも相談できずに戦うスパイダーマンは敵のみならず、言わば「孤独と戦うヒーロー」でもあって。

 

一般的にアメコミでは「複数ヒーロー」をあえて採用してこなかった。大多数の人が「日常」の中で生きていく中、自分一人だけが「非日常」で過ごしているという"対比"がアメコミのエッセンスだと思う訳だけども、まさにそうした「ヒーローにしか分からない苦悩」にも肉迫しているのが本作だったなと。

だからこそ、ペニーパーカーちゃんが周りに支えられて「私は一人じゃないって分かった!」と発するシーンの深みがあるんですよね。彼女だけでなくほかのスパイダーマンたちも、マイルスたちと同様に「身内を間接的に殺してしまった」という苦悩を共有している。

 

そうした「例え独りでも、どこかで自分と同じように頑張っている人が居る」というテーマ性がすごく響きますよね。もちろん、別次元のスパイダーマンたちは元いた次元へ帰らなくてはならないので、結果的にマイルスは(というかそれぞれのスパイダーマンは)「孤独のヒーロー」に戻ってしまうんですけど、それでも「あいつ今どうしてるかな」と思いを馳せながら、どこか背中を押されるような、前向きな気持ちになってこれからも「ヒーロー」をやっていく。

 

「誰だってヒーローになれる」という超絶ポジティブなメッセージ性を放ってた本作だけど、何より一番伝えたかったのは「自分の知らないところで誰かが戦ってる。君はいつでもその一人になれるぞ!」なんですよね。長々と書いてきたけど、個人的には「スパイダーマンの導入」としてものすごく良かったので、これを機に過去作も抑えておこうかなと。