シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『ハガレンFA』は人間賛歌の物語だった 〜神に抗う"素手パンチ"〜

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本当に今更なのだが『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』(以下、『ハガレンFA』)を視聴した。劇場版の公開にあたってWOWOWで毎週5話ずつ放送していたのを追っかけたのだが、いやもうすっごい引き込まれましたね。序盤、傷の男・スカーが何やら悪い奴っぽくて「いつスカー倒すんやろ〜(ワクワク)」と呑気にテレビの前に立っていたのが恥ずかしくなるレベルで、一本の筋が通ったアニメだった。

自分はこれまで少年マンガを敬遠していた。なぜならば話が長く、登場人物も多くて追っかけるのが大変だからだ。ハガレンも私にとって「気になるけどなんだか手が出しにくい作品」の一つだった。けれど折角ハガレンの特集やるみたいだし、この機会に全部見てみようと思ったのが事の発端。結論から言うと今まで見てなかったのが不思議なくらいドンピシャな作品だったわけだ。もう本当に、自分好みの展開を取りこぼす事なくやってくれたので満足だ。

 

ハガレンのテーマとは何か?という問いには多くの答えが存在すると私は思っている。リオールのエセ神父のくだりと、神を取り込んだお父様をエドが素手でワンパンするシーンから「神を信じず自分を信じろ」というテーマを見出す者もいれば、イシュヴァール人とアメストリス人の確執、キメラと人間の協力から「人種を超えて繋がる」というテーマを見出す者もいるだろう。また、禁忌である人体錬成から「人間を蘇らせることの是非」といった生命倫理的な問題も見出すことができる。

さらに、バリーザチョッパーがアルに投げかけた「鎧に定着した魂が"ホンモノ"であると言い切れるのか?」という問いから「人間の魂はどこにあるのか」など、攻殻機動隊じみたテーマ性を汲み取る者もいるだろう。つまりハガレンには無数のテーマが存在するのだ。

しかも、そのどれもが"深い"。一見すると「神への疑念」「生命倫理」「人種間の確執」「人間の魂のありか」それらは全く別のテーマに思えるのだが、最終的には人間とホムンクルスの戦いを通して「人間って素晴らしいんだぞ!」に集約される様は見事である。今回はそんな『ハガレンFA』が、如何にして"人間賛歌"の物語を描いてきたのかをまとめてみたいと思う。理解・分解・再構築だ。

 

 ハガレンの方向性を定めた4話

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ハガレン少年マンガにしてはかなり暗いテイストとなっている。ダークファンタジーの傑作というキャッチコピーはダテではない。視聴者への洗礼とも言えるのが第4話「錬金術師の苦悩」だ。あの有名なタッカーさんの回だと言えば話が早いだろう。言ってしまえばキメラと化したニーナとアレキサンダーはこの回だけのチョイ役だし、タッカーさん関連のエピソードはほぼ1話完結で物語的にこれからの中核となる訳でもない。にも関わらず、あれほどのインパクトを与えた。

 

もちろん、キメラ化したニーナ達しかりタッカーさんの狂気的な一面しかり、今でも「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」のセリフがネタとして使われたりと色々な意味で印象に残るシーンであったが、それ以上にエドのセリフ「錬金術師である前に自分たちは人間だ」という、これからの『ハガレン』のテーマを提示したエピソードである点が重要なのだ。錬金術師は万能の存在ではないし、中にはタッカーのように自分のエゴの為に利用する者もいる。そして人体錬成という禁忌を犯したエドの「母を蘇らせたい」思いも"エゴ"なのかもしれない。そうした"錬金術師の葛藤"を克明に描いたのが4話だったのだ。サブタイトルは「錬金術師の苦悩」だ。苦悩したのは他でもない、エドワード・エルリックなのだ。

 

女の子一人守れなかった後悔の念は、決して消えることはない。錬金術師である前に、自分は無力な人間にすぎないのだ。だからこそ、お父様との最終決戦にて、エドが"人間の手"で神をワンパンし、神に抗う展開に"人間としての成長"を感じずにはいられないのだ。無力な人間から強い人間へ、美しすぎる物語の帰結である。

まだホムンクルスも動き出しておらず、イシュバールとの確執にも足を踏み入れていない頃だ。そんな中、ただ「錬金術師の葛藤」を愚直に描いた4話には本当に『ハガレン』の全てが詰まっていると思えてならない。

 

神に抗う人間たち

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「 立って歩け、前へ進め。あんたには立派な足がついてるじゃないか」

とは有名なエドのセリフだ。恋人を亡くしてからロゼはエセ宗教を心の拠り所としていた。エセ神父をやっつけた後、もう何を信じれば良いのか分からなくなったロゼに発した言葉だ。そう、リオールでのエピソードから既に「神と人間の戦い」は始まっていたのだ。この名言を私は、神ではなく自分を信じろという意味合いでとっている。そもそも『ハガレン』において「神」はかなーり軽薄に扱われている。イシュヴァール人がブラッドレイに「神の鉄槌が下るぞ!」と言うシーンがある。そこでブラッドレイは以下のように答えた

 

神だと?さて不思議な。
この状況でいまだ私に神の鉄槌は下らないではないか。イシュバール人が滅びようとしている今になっても神は現れん。いつどこに神は現れ貴様らを救うのかね?

そもそも神とはなんだ?弱き人間が寄辺が欲しくて創り出した偶像ではないのか?

 

つまり『ハガレン』の世界では神は全くの無力であり、信じるに値しないものとして描かれているのだ。極めつけには、イシュバラ教においては再構築の錬成は禁じられていたのだが、スカーはブラッドレイ戦にて戒律を破り、ついに再構築の錬成を試みるのだ。兄が残した再構築の錬成でブラッドレイを圧倒する様はまさに「神からの離脱」を表している。

 

このシーン、あくまで個人的な考えなのだけど上で述べた「神の鉄槌云々」のアンサーでもあると私は考える。あれだけ信仰心の強かったイシュヴァール人が、宗教上の理由で否定してきた「再構築」を解禁するのは「神」ではなく自分の意志で戦うことを決めた瞬間であると言える。神に鉄槌を下す力などない、だから自分の手でブラッドレイに鉄槌を下してやろう!というわけだ。

 

そして最後に神に抗ったのがエドワードだった。オートメイルの右手でも敵わなかったお父様を"素手で"ブン殴るシーン、あれはまさに「人間が神に勝利する」瞬間なのだ。リオールのエセ神父に始まり、神を取り込んだお父様で終わる。始めと終わりが綺麗に繋がっているのだ。神を信じず自らを信じた人間たちの信念を見せつけられたのだ。

 

バリーザチョッパーの役割について

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 バリーザチョッパーを覚えているだろうか。彼もアルと同じく魂を鎧に"定着させられた"元人間だ。バリーはアルに対し「鎧に定着させられた魂が"ホンモノ"である保証はない」と指摘した。個人的に、アンドロイドの心のありかというSFチックなテーマは大好きなのでハガレンでも触れてくれたのはマジでありがたい。

人間として生きてきた記憶を魂に定着させたアルだが、そこで「本人の記憶を持つ鎧は本人たり得るのか?」という『ボンバーマンジェッターズ』にも似た問題提起がなされる。エドとアルって作中ではあまりケンカしないんですよね。ほぼほぼ唯一といっていいほどのケンカシーンが9話「創られた想い」なのである。

 

自身の存在証明に悩むアルが、もしかしてエドは自分に偽物の記憶を植え付けたのではないかと疑う回だ。この回もタッカーさん回と同じく"濃い"エピソードである。エルリック兄弟の絆を再確認し、「元の身体に戻る」約束を思い出すのだ。いや、もうすごいですよほんと。たった1話で「自己の存在証明」「兄弟の絆の再確認」をやっちゃう訳ですから。バリーザチョッパーもほんとにチョイ役なのだが、自分にとっては忘れる事のできない存在だ。バリーが居るからアルは自分の存在を再確認できたと言えるし、兄弟の絆も深まった。加えて、サイコパスな性格ながらもどこか憎めない良いキャラだったと思う。

 

最終的にバリーは自らの肉体と引かれ合い、魂の解放を求めた肉体が涙ながらに錬成陣をかき消して元の身体に戻った後、肉体の方に限界が来て死亡。自分の身体を切り刻んでやりたい!と頭のネジの外れた発想をしていたバリーだったが、肉体の方は魂を元の場所に戻したいと思っていたのだ。私的にこのシーンはめちゃくちゃ印象に残っている。魂は肉体と引かれ合うという伏線だったのだが、あまりにも呆気ない退場だったので視聴当時「え?今ので死んだの?」となり、うまく状況が飲み込めなかった。アルの身体にも時限爆弾のようにタイムリミットが迫っている事実を、バリーの死によってさらに意味が強められたのだ。

 

人間とホムンクルス その終着点

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「人間対ホムンクルス」の構造は終盤に差し掛かって大きく崩れていく。グリードは人間に味方するようになるし、人間であるキンブリーはホムンクルス側について好き勝手掻き乱すし、さらに、主人公サイドにはキンブリーの部下のキメラ達が加わる。つまり単純な人間とホムンクルス、人間と人外の戦いで終わってしまわないんですよね。

そもそも『ハガレン』には人間じゃないキャラが多数存在するわけだ。そしてどのキャラも「人間に対する意識」がハッキリと表れていて面白い。人間としての肉体を失ったアルは「人間の身体に戻る」ことを目的に旅をしていたし、キメラ達にもそうした自分の意志を見せて働きかけたシーンがある。そこで、人外に"させられた"キメラ達もアルに協力するようになる。

 

とりわけラースとグリードの信念というか「人間的な側面」は面白くて、ラースは妻を自分で選び本心から愛していたことや、全てのものを欲しがったグリードが本当に欲しかったものが「仲間」であったことが明かされるシーンが印象的だ。極めつけにはプライドだ。エンヴィーと同じく人間を下等生物と見ており、生みの親のお父様には何の感情も持っておらず、全く人間とはかけ離れたキャラのように思えたが、消滅時に育ての親であるラースと妻を確実に「親」として見ていた描写がなされる。妻への愛、仲間との絆、親子愛など彼らホムンクルスにも戦いの中で「人間らしい」部分が段々と濃く出てくるのだ。

 

そしていよいよお父様との最終決戦だ。結論から言うと"満足"の一言以外言えないキレイなオチだったと思う。もうこれも何回も言ってるけど「素手パンチ」がありとあらゆるテーマを孕んだ『ハガレン』に、「人間賛歌」という一つの解答を与えたのだ。神に対して人間の手でパンチを食らわせ、人間が神に勝つ。しかしここで終わらないのがハガレンだった。エドはアルを取り戻す為に錬金術師としての「最後の錬成」を行う。真理くんの「ただの人間に成り下がるか?」の問いにエドは「成り下がるも何も最初っからただの人間だよ」と答える。錬金術の能力を代価として、アルの肉体を無事取り戻してハッピーエンドを迎えるのだ。

 

作中において、錬金術には「祈り」としての意味が付加されている。錬成時に手を合わせたエドに対し、リンが「神への祈り」を想像するシーンがある。神を信じないエドなのに、錬成時に「神への祈り」のようなポーズで物事を解決してしまう何とも皮肉の効いた話なのだが、今になって思うと「錬金術が使えなくなること」自体が"これ"に対する解答だったのかなと。言ってしまえばエドにはもう錬金術は必要なくなったわけだ。"祈り"のポーズで錬成を行ってきたエドだったが神にワンパンを食らわせ、弟の身体を取り戻し、自らの真理の扉を代価にするシーンは真の意味で「神に勝った」のだと私は考える。最後の錬成シーンが「祈りからの脱却」を表していたなと。タッカーさん回で「自分は錬金術師である前に"人間"だ」という大前提を置き、最後の錬成で「錬金術師から人間」に戻る。すなわち『ハガレン』は錬金術師が人間に戻るお話だったのだ。

 錬金術は万能の力ではないことを等価交換の原則・人体錬成によって先に提示しておき、タッカーさん回で錬金術師のエゴを見せつけられる。最初から錬金術師の不完全さや人間の無力さをきっちりと描いているのが良い。だからこそ、錬金術を辞めて「一人間」として成長を遂げたエドには賞賛の声を上げたくなるのだ。

錬金術師としてではなく"人間"としての成長物語だ。長きに渡って描かれてきた「人間賛歌」の物語を皆にも是非味わってもらいたい。

『H2O』というエクストリーム村八分アニメを見た

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『H2O』とりあえずDアニメの方で4話まで視聴したのだけれど、色んな意味で「ヤバイ」作品だ。本当は全話視聴後に記事を書きたかったのだが少し衝撃が強すぎたためこの”熱”を昇華しようと思い、まだ途中までしか見てないのに書いてしまった。

 

ギャルゲ原作アニメの数が年々減ってきている気がしなくもない。ひと昔前まではkey作品をを筆頭にし、『ef』シリーズや『ダ・カーポ』など充実したラインナップだった。一応、『fate』や『科学アドベンチャーシリーズ』などもギャルゲの範疇になるらしいが、物語的にそれがメインという訳でもないので正統派ギャルゲ原作アニメかと言われるとNOだろう。

 

今回紹介するアニメは2008年放送のギャルゲ原作アニメ『H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND-』(長いので以下『H2O』)だ。

あらすじは田舎に引っ越してきた少年が、生々しい部落差別問題に足を踏み入れて現実を目の当たりにする、というギャルゲとは思えないほどのハードなストーリーとなっている。ストーリー的には目が見えないはずの主人公が一話ラストに不思議パワーで目が見えるようになったり、謎ハーレム展開であったりと「ご都合主義」が垣間見えて出来自体は決して良いとは言えないのだが、「村八分」を徹底して(それもリアルに)描いている点がなんともまぁ挑戦的で違ったベクトルの面白さを内包している。

作品を一言に「面白い」と言っても、その意味は実に多用である。単純にストーリーの綿密さや伏線回収の見事さを「面白い!」と感じる者もいれば、頭を空っぽにして笑える作風を「面白い!」と定義する人もいるだろう。『H2O』はそのどちらでもない特殊な「面白さ」を持っている。というのも、上で書いたとおりストーリーはかなり唐突に進むし、丁寧な説明がなされている訳でもない。なのに何故か面白いと感じてしまう。

 

そう、『H2O』の最大の魅力は「部落差別」そのものをテーマにした大胆さ、そしてその”リアルさ”にあるのだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば「社会風刺」とも言えるか?リアルの社会と結びついた作品は往々にして「面白い」ものだ。例えば『ウルトラセブン』の有名なエピソード「ノンマルトの使者」「ダークゾーン」では、単純な勧善懲悪では片付けられない「個々の正義観」について考えさせられるストーリーとなっている。地球人は当たり前のように宇宙人を排斥して自分のいい様に資源を得ているが、宇宙人から見れば地球人は侵略者でしかない。「視点を変えれば自分たちも"悪"になり得る」というメッセージを視聴者に投げかける。

昨年の大ヒット映画『シン・ゴジラ』でも「震災」を連想させる実にシニカルな作品だ。ゴジラの大胆すぎる登場から、凍結させるまでの日本政府の対応が非常に目まぐるしく、最終的にはメンバー一丸となって「未知の災害」を乗り越えていく様はまさに「これからの日本のあるべき姿」を暗示しているような、メッセージ性の色濃い作品だ。

 

やや話が逸れたが何が言いたいかというと”リアル”な作品はそれだけでボーナスポイントが入ってしまうくらいにチートなのだ。『H2O』で扱われる「部落差別問題」はどうしようもなく”リアル”だ。ヒロインの「はやみ」の家系はどうもワケありのようで他のクラスメイトから陰惨ないじめを受けている。第一話の冒頭から男二人にはやみがボコボコにされるシーンで始まるのだ。もうその時点で「あぁ、ヤバいアニメを見つけてしまったな...。」と脳内で呟いてしまう。加えて学校の先生までいじめを見て見ぬフリだ。さらに可哀想なことに親友のひなたまで、村の掟を守るためにはやみを避けるようになる。

 

主人公の琢磨は都会から田舎に引っ越してきたため、田舎の実態を知らない。はやみの家系にまつわる問題を通して「閉鎖された空間」の闇を知ることになる。田舎を知らない者にとって、田舎って美しく感じるものなんですよ。そこら中緑が多くて排気ガスも少ない。たまに畑仕事の手伝いをしてのどかに過ごす。そんなイメージを少なからず持つ者は多いと思っている。このアニメは第1話冒頭からヒロインが殴られるシーンでそういった「美しい幻想」を持つ視聴者をドン底の崖に突き落としにかかるわけです。続いてヒロインをクラスみんなでゴキブリ扱いだ。怖い。ガチで怖いぞ、この"負"の団結力。

 

以前、田舎のコミュニティについて『おおかみこども』と『ひぐらし』に触れながら語ったが、正直ここまで「コミュニティ内でのルール」や「村八分」が表現されている作品はまぁ無いだろう。いや確かに『ひぐらし』でも園崎家の「けじめ」だったり、園崎家の次期当主・魅音ばかり優遇し、妹の詩音の扱いはまるで空気であったりと随所にコミュニティの闇が表現されていた。

しかし『H2O』はそんなレベルじゃなかった。村の掟を破ったことで家が焼かれるのだ。もう一度言う、家が焼かれるのだ。つまり「村の思い通りにならない者は必要ない」ってわけだ。さらに『ひぐらし』と違って団結する仲間も居ない。琢磨には皆、仲良く接するのにはやみにはまるで居ないかのように扱う。しかも「当たり前のように」だ。この扱いの落差がデカすぎて恐怖で震えてしまう。「部落差別問題」に真っ向から立ち向かう『H2O』がどんな着地をするのか実に楽しみだ。また全話見たら加筆修正しまする。

『結城友奈は勇者である』が見せた「ポスト・まどマギ」の限界

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結城友奈は勇者である』(以下『ゆゆゆ』)、観た後にこれほど「惜しい…。」となるアニメは中々無いだろう。私の『ゆゆゆ』との出会いは今季放送中の二期『鷲尾須美の章』だった。さすがは新日常系アニメ。『Angel Beats!』でお馴染み・岸誠二監督の狂ったギャグパートとシリアスの対比が本当に見事で、観るものを飽きさせない。

特に三ノ輪銀の死は衝撃的だった。何の変哲もない日常パートが、死んだ直後に「あぁ、これ全部死亡フラグだったのか…。」と気付かされ、私はそこで『ゆゆゆ』がどういうアニメなのかを身をもって"知らされた"のだった。

 

鷲尾須美の章終盤、自らの身体を供物として戦うその"痛々しさ"がまたたまらない。わっしーとそのっちの身体がどんどんと蝕まれる様、ドがつくほどのバッドエンドっぷりに私はすっかりハマり込んでしまった。そこで、『ゆゆゆ』に対する理解度を上げるために一期の視聴に至ったのだ。今回はそんな『ゆゆゆ』が、果たしてどれだけ『まどマギ』と差別化できたのか、そしてこの作品の持つ「惜しさ」に注目したい。

 

ポスト・まどマギの側面と、仮面ライダーの影

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『ゆゆゆ』と『まどマギ』が似ているのは言うまでもない。BGMの雰囲気、風先輩の「黄色・先輩キャラ」という位置付けは完全にマミさんであり、大赦キュウべぇのポジション。東郷はほむほむ。「理不尽なルールに抗う」というテーマも共通している。

しかし、「戦うたびに身体の機能を"不可逆的に失う」という要素は「魔法少女の行き着く未来は魔女」という『まどマギ』の"真実"にあたる部分とは似て非なるところだ。

部位欠損という要素はある意味『ゆゆゆ』を新日常系アニメ"たらしめている"とも言えるのだ。我々が普通にご飯を味わって、物を見て、声を出して、耳で聞く。そういう「当たり前の日常」を勇者たちは奪われるわけだ。

以前『がっこうぐらし!』の記事でも紹介した新日常系というジャンルを、失って初めて分かる日常の大切さを徹底して描かれていたのは本当に評価できるポイントなのだ。

 

まどマギ仮面ライダーっぽい」とは放送当時かなり言われていたことだ。まどマギ仮面ライダー性は「ヒーローにあたる者が後に怪人化する」要素や、ほむほむが時間を遡るくだりがタイムベントとか、杏子ちゃんが王蛇だとか枚挙にいとまがない。

しかし、『ゆゆゆ』の場合はまどマギ以上に仮面ライダー性を内包している。具体的には友奈の初変身シーンで、攻撃を繰り出した手足が順に変化していく様は完全に『クウガ』のそれだし、「星座モチーフの敵」は『フォーゼ』のそれだ。満開の後遺症で味覚を失うところは『オーズ』『鎧武』と(厳密に言うと違うけれど)ほぼ同じメソッドである。考えてみれば『ゆゆゆ』が『鎧武』なのは当然である。なぜなら『鎧武』自体がまどマギに似ているし、そのまどマギに似ている『ゆゆゆ』もまた『鎧武』であると言える。他にも「樹海化」はヘルヘイムの植物の侵食と共通している。私自身仮面ライダーシリーズが好きなので闘うたびに日常を奪われる展開には弱く、そのような「日常から非日常への転換」は見ていて飽きない。

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特に9話での樹ちゃん回は素晴らしかった。満開の後遺症の真実を東郷さんから告げられ、風先輩が皆を巻き込んでしまったことを一人で苦悩するエピソードだ。樹ちゃんのキャラソンをバックに大赦への怒りをあらわにして泣きながら暴走する風先輩に感情移入せぬ者はいないはずだ。加えて、「歌い続けるから」という歌詞がズルすぎる。不可逆的な後遺症だからもう樹ちゃんは二度と歌えない("はずだった")のに、歌詞ではこれからも歌い続ける意志がある、というジレンマがライフポイントを確実に減らしてくる。

 

テーマに縛られた脚本

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これだけ書いてきて何が言いたいかと言うと、『ゆゆゆ』にも確実に『まどマギ』とは違うベクトルの"面白さ"があった、ということだ。途中までは本当に理不尽ルールの描き方も上手だったし、それ以前にも3話で夏凛ちゃんが加わるエピソードも複雑な心理描写に私が心を踊らさせたのもまた事実である。11話で夏凛ちゃんが再起不能覚悟で勇者部五箇条を言いながら満開でバーテックス五人抜きをするシーンは屈指の名シーンで、勇者部を嫌っていた花凛が、空で五箇条を言えるくらいに勇者部を愛していたという展開はもう本当に熱すぎる展開なのだ。なのだが…。

 

やはり落とし所は下手だったと言わざるを得ない。そもそも東郷さんが怪しいことを企んでいる時点で「おいおい…。どうやって終わらせるんだコレ…。」感はハンパなく、最終回を見るのが正直「怖かった」のだ。しかもラスボスは事実上東郷さんみたいなもんだから、かなーりやばい予感はしていた。記念すべきラストバトルが仲間割れって…。と思ってしまったのも事実。そして肝心の着地だが、まさかの全員回復オチで開いた口が塞がらない。それも再起不能→回復を最終話のたった1話だけでやってしまうんですよ?そりゃあもう詰め込み過ぎとしか言えない。

 

まどマギ』の場合、魔女化システムを食い止めるためにまどかが円環の理で概念と化す、というビターながらも整合性の取れた良いエンディングだった。ハッピーエンドとは言えないものの、これにより美樹さやかをはじめとし救われた存在が確かにあった。なので『まどマギ』の円環の理は落とし所としては"完璧"だったと言える。

同じように『レジェンズ 甦る竜王伝説』という知る人ぞ知るマイナーアニメがある。この作品はデジモンポケモンのようなモンスターを操る系のアニメなので魔法少女とは全くジャンルが違うのだが、話の展開は『まどマギ』のそれと全く同じだ。幾度と繰り返されたレジェンズウォーを止めるためにスピリチャルの力を借りて過去改変をし、闘う意味のなくなったレジェンズたちが自然に還り子供たちとお別れをする。それにより人間・レジェンズ双方が救われて終わる、というこれまたビターすぎるくらいのビターエンドとなっている。

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『ゆゆゆ』の場合どうだろうか。あれだけ不可逆的な後遺症に対する苦悩を描いておいて、最終回でいきなり「やっぱり供物返しまーす!」だ(それもセリフで説明しちゃっているのがまた不味い)。いや確かに「成せば大抵何とかなる」というテーマ自体は良いと思う。けれどそれを描くためのお膳立てがあまりにもデカすぎていまいちテーマとして収容しきれていないのだ。しかも神樹様の気まぐれで供物がいらなくなった、というのもモヤモヤ…。さらに言えば大赦が『まどマギ』で言うところのキュウべぇになりきれていないのも大きなマイナスだ。結果として大赦キュウべぇと違って明確に"悪"として機能していない。勇者システムの真実の隠蔽も乃木園子によれば「大赦なりの優しさ」で処理されており、大赦の狙いもいまいち分かりづらくなっている。さらに、あれだけ悪者扱いされてた大赦も結果的には「嘘を言っていない」ので、勇者サイドの勘違い感が浮き彫りになってしまう。もっと勇者サイドと大赦がコミュニケーション取っておけばいいのに…。という、本当に基本的な部分がグラついている。

 

結局のところ「回復オチ」というのはこれまでの苦悩や奔走を全て「なかったことに」してしまう荒技でもあるのだ。樹と風先輩の回も、花凛ちゃんの勇姿も全て台無しにしかねない「安易なハッピーエンド」と言わざるを得ない。後遺症に苦しみながらも受け入れて進んでいく、そこが"美味しい"のに。後遺症が治らないからこそ、樹ちゃん回も夏凛ちゃんの勇姿も輝いて見えるというのに。日常が非日常と化し最後には再び日常を取り戻す、という展開自体は良いのだが、やはりその描き方が単に"下手"だったと感じている。

つい最近放送されていた一期総集編にて東郷さんが「理由は分からないけど供物として捧げた体が戻ってきた」というとんでもない発言をしていた。これって公式が「理由はないけどハッピーエンドにしちゃいました」って言ってるようなもんですよ。これはいくらなんでも擁護できない。

 

加えて言えばバーテックスに対する根本的な解決はなされておらず「ひとまず主人公世代の勇者は何とかなった」だけの話である。次の世代への実質的な「投げっぱなしエンド」とも言えるので、今後のメディア展開で補完されることを願っている。ダラダラ書いてきたが、何が言いたいかというと「成せば大抵何とかなる」というテーマに"縛られすぎた"作風だなと。どんな作品にも伝えたいテーマがあるものだが、無理やり鋳型にハメ込んだような出来になってしまった。

 

『ゆゆゆ』が見せた「ポスト・まどマギ」の限界

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近年の魔法少女ものは『まどマギ』と比較されるのはある程度宿命と言えるので仕方がない。『ゆゆゆ』もその代表だが、確かに途中までは『まどマギ』と違った魅力を持つ作品だった。『幻影ヲ駆ケル太陽』という作品がある。こちらもポスト・まどマギの一つなのだが、ぶっちゃけあまり出来は良くなかった。義務のようなグロ描写と、義務のような水着回という見ていても目新しさがなく放送当時は劣化まどマギとまで言われていた。

今回の『ゆゆゆ』は不可逆的な後遺症・新日常系という新たなジャンルを生み出し、ある程度は「面白い!」と思えた作品ではあるものの、自分の中で『まどマギ』には匹敵しなかったと感じている。八方塞がりな展開に「円環の理」という一つの"解答"を与えた『まどマギ』は仮想敵としては強すぎたのだ。勇者システムはまどマギで言うところの「魔女化」なのだが、そのタネ明かしまでは良かったのに着地の仕方が納得できなかった。本当に"惜しい"作品だった。

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どうでもいいけどこのシーンで『グレンラガン』の「歯ァ食いしばれえぇ!!」を思い出した。

『君の名は。』を見た後に『秒速5センチメートル』を見たら何とも言えない気分になった

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こんにちは、シゲです!

昨年『君の名は。』がヒットしたこともあり新海誠氏の知名度がグンと上がった。実を言うと私自身、『君の名は。』を見るまでは新海誠の事は全然知らなくて、代表作の『秒速5センチメートル』(以下『秒速』)というタイトルだけは聞いたことあるかな?くらいの認識であった。

 

昨年では周りの『君の名は。』ブームに流されたこともあって映画を見に行ったのだが、結論として『君の名は。』は大変面白い作品だったと思っている。「過去改変」「入れ替わり」「世界の危機」(より踏み込んだ言い方では「セカイ系」とも言えるか?)といった、複雑な方法論で話が展開されて、一分一秒が目を離せない映画だ。加えてRADWIMPSの挿入歌も随所に使用されていてメリハリのある仕上がりとなっている。

 

そして今回、WOWOW新海誠特集の一環として過去作の一挙放送を行っていたのだが、そのうちの一つ『秒速』をこの機会に見てみようと思ったわけだ。

結果としては良くも悪くも"考えさせられる"作風だったなと…。正直に言うとあまり盛り上がるような作風ではないし、『君の名は。』のように笑いあり、時には涙ありといった緩急も特にあるわけでもない。何とも不思議なアニメなのだ。

 

分かりやすい言葉で言えば「切ない作品」という事になるのだけど、ただの「切ない」という言葉で片付けてしまうのはあまりにも勿体ないような…。今回はそんな『秒速』が私にとってどういう作品だったのか、モヤモヤの正体を解消する為にも考察していきたい。

 

 

君の名は。』との比較

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君の名は。』最大の特徴と言えば恋愛のみならず、過去改変・隕石・入れ替わりと言ったSF的要素だ。途中まで入れ替わりトリックは隠されており、お馴染みの前前前世をバックに「入れ替わってるぅ〜?!」のシーンで初めてそれが明かされる。そして入れ替わりの対象が「三年前に存在した女の子」というのがまた一風変わっていて実に面白い。入れ替わりと過去改変を巧く融合させた作品であることはもちろん、男女の巡り合いもきちんと描かれている。

 

一方で『秒速』はどうだろうか。「出会いと別れ」に比重を置いているのは『君の名は。』と同様。一方でSF的要素は皆無であるものの(誤解のないように言っておくが、それが"悪い"という訳ではない)、男女の距離感を巧みに表現されている。むしろ『君の名は。』と比べてより"リアル"な路線だ。

 

幼馴染との特別な感情から始まり、大人になるにつれて昔の恋愛は「淡い思い出」と化していく様をまじまじと見せつけられる。これが何とも切なくて、でも"大人になる"というのはそういうことなのだなぁ、と書いていて思っていたけれどとにかく「リアル」なのだ。

 

ついこの前WOWOW新海誠へのインタビューが取り上げられており、(うろ覚えだが)新海誠の作品は"距離"がテーマになっている」と言及されていた。『秒速』では東京と栃木の物理的な距離、『君の名は。』では3年という時間的な距離がある、というもの。

この番組を見て、男女間の距離を別のものに置き換えて表現することで、より"距離感"を際立たせる演出なのだろうか、と私は思った。

 

君の名は。』では瀧くんと三葉の邂逅と別れ、そしてラストには無事再会することでハッピーエンドとなる。対する『秒速』では貴樹と明里の邂逅から別れまでが描かれており、決してハッピーとは言えない仕上がりとなっている。

 

つまり『君の名は。』は出会い→別れ→再会なのに対し、『秒速』は出会い→別れという流れになっている。同じ新海誠の作品で、同じ「距離」というテーマを扱っているものの、方向性は真逆である。再会することで前に進んだ『君の名は。』と、別れることで"大人"になれた『秒速』は全くもって似ていない。落とし所としては対極に位置する。

 

『秒速』で描かれた"距離"

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離れる事で"大人"へのステップを描いた『秒速』だったが、近づいてから離れるまでの距離感が非常にハラハラするものだった。例えば「桜花抄」で貴樹が明里に会うために電車で栃木まで行くシーンだ。田舎の電車はただでさえ本数が少ないのに、雪がさらに遅延という追い討ちをかける。雪がゆっくりと地面へ降りて行くように、電車も実にゆっくりと進んでゆく。

 

しきりに腕時計で時間を確認する貴樹。たしかに明里との物理的な距離は縮まっているはずなのに、むしろ"遠のいていく"ような感覚に視聴者は襲われる。この「近づいているのに遠のいている」ような不思議な感覚が、我々を映画の中に引きずり込んでしまう。

 

待ち合わせの19時から3時間ほど遅れてようやく明里と再会できた途端、私は謎の達成感を味わってしまう。ジリジリと近づいて、でも何故か遠のいているような焦燥感、そして最後には無事再会できた安心感を我々に"与えさせる"、否が応でも感情移入させるよく出来たエピソードだった。どうでもいいが個人的にファーストフード店で2人が古生物の話題で盛り上がっていたシーンがお気に入り。

 

コスモナウト」では、舞台は高校に変わりヒロインは澄田花苗へとバトンタッチされる。種子島での高校生活と、新海誠の抜群の風景描写は非常に相性がよく「種子島行きてぇ!」となるのは置いといて、今度はヒロインの方から貴樹に近づこうとする物語だ。

しかしここで注目すべきは2人の距離感が全くもって"縮んでいない"ということ。遠のいてすらいない。つまり、「貴樹にとって花苗のことはアウトオブ眼中ですよ」というお話。これが端的に表れたのがロケットを眺めるシーンだ。

いざ告白しようとしたら、貴樹は打ち上げられるロケットに興味をそそられるばかりで花苗のことを全く見ていない。

 

これはあくまで個人の見解なのだが、貴樹はどうも「モノ」に興味を持つタイプの人間なのかなと。前述した古生物のくだりもそうだ。あれくらいの歳の男の子ならば普通はスポーツだったり、文化系の人間だとしても流行りのゲームに興味を持つはずなのだが、貴樹の場合よくわからないサソリみたいな古生物に興味をそそられるんですよ。これが凄く面白い。打ち上げられたロケットを見る目もきっと古生物を見る目と同じだったはずだ。明里の時は本当に奇跡的に趣味が合っていたのだが、花苗の場合は「共通の話題」すら無いのだ。

ザックリ言ってしまうと明里の時は明里>古生物であり、たしかに古生物が好きながらもそれ以上に明里を想っていたのは明らか。対する花苗はロケット>超えられない壁>花苗という不等号になっている。あえて残酷な言い方をすれば貴樹にとって花苗はロケット以下の存在だったわけですよ。貴樹がロケットに何を見出していたのかは不明だが、花苗には何も見出せなかった。その「人がモノに負ける」構図がすごく冷淡で恐ろしいのだ。

 

ビターエンドな落とし所

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そして物語のキモである「秒速5センチメートル」で幕は降ろされる。就職をし、社会人としての生活を送る貴樹。新しく彼女もできたけれど変化の無い毎日に嫌気が刺してくる。ついに彼女からは「私たちは1000回メールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」と言われる始末。しかも文面で、ですよ。味気ねぇ!って話ですよね。ふと「あの子は今どうしてるだろう」と思い浮かぶのだが、その子も今は別の男の人と付き合っている。あれほど距離が近かったあの子も、今では全く別々のライフを送っている。ラストでは踏み切りで電車が通過した後、振り返っても再会する事なく貴樹は新たな一歩を踏み出す。

 

この作品のメッセージは「人生ってそういうもんだよ。大人になるってそういうことだよ」というものだろう。思い出は思い出のままに、過去は過去。今は今を精一杯生きるべきだ、という仮面ライダーウィザードのような落とし所となっている。

こういった落とし所は『君の名は。』で奇跡的な再会を味わった人からすればモヤモヤは拭えないだろう。もちろん『君の名は。』感覚で見た私も最初はそういったモヤモヤを感じていた。しかし考えてみれば『君の名は。』と『秒速』は前述した通りそもそもの特性が全然違うのだ。『秒速』の落とし所はいわゆる「ビターエンド」であり、決してハッピーとは言えないものの、完全にバッドエンドとも言い切れないものとなっている。

そういった意味では巷で「君の名は。は新海さんらしくない作品だ」と言われているのもまぁ頷けるのかなと(他の新海誠の作品を見ていないけど。これを機に『言の葉の庭』も見ようかな)

スーパーで迷惑な客1位が一夜で更新された話

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こんにちは、シゲです!

これから書く内容はほとんど愚痴みたいなものなので嫌な方はスルーを推奨します。

 

スーパーでバイトしてたら色んなお客さんがいるわけですよ。最近では少子化が進んでいる影響か、おじいさんおばあさんがメイン層なんですが中には学生がジュースとお菓子を買いに来たり、夜になれば仕事終わりのサラリーマンさんが疲れた様子でビールと揚げ物というテンプレセットを購入したり。いやー、うまく言えないけれどスーパーのお客さんの対応しているとその人の「生活」までちょっと透けて見えるような、そんな不思議な感じがするんですよ。この人もこれから友達と一緒にアイス食うんだろうなーとか、あーこの子はガムを噛みながら帰宅するんだろうか、この人今日の夕飯はおでんなんだなぁとかそういう要領で。

 

 

しかしたまーに迷惑な客がいるわけだ。「ポイントカードお持ちですか」「レジ袋はご利用ですか」と尋ねてもノーコメントだったり、ありったけの小銭を出してきて計算合うように店員に数えさせたり。でもですよ、今回そんなレベルの「迷惑」はめちゃくちゃ可愛いな〜!もうハリネズミか!っ言いたくなるくらい可愛い可愛いかわい子ちゃんだと言うことが判明したのだ。

そう、「クレーマー」だ。いやー凄まじいですよ"あれ"は。見る限り家族連れの40代ですかね?2つの籠いっぱいに食材を詰めてやってきたわけですよ。絶対これ1つの籠じゃ足りないと思ったからもう一つさらに籠を加えて会計を通してたんだけど、そしたら急に「お前籠詰めろや!!!!」って怒鳴り始めるんです。いやもう、思わず「は?」と心の中で呟いてしまうわけだ。それで会計の籠にどんどん商品詰めていってたら今度は「なんだその詰め方は!!!」ですよ????いや、こっちこそ「なんだその言い方は!!!」ですよ!! 

 

今度はさらに「責任者呼べや!!!」はぁ…また面倒ごとだ。私はそこで自分から責任者を呼べば奴の思うツボだと思い「サービスカウンターにお越しくださいませ」と返答する。まぁ当然ながら「呼べいうとんねん!」って返ってくるんです。

「いや、ですからサービスカウンターへ(ry」「もうええわ!!!アホ面しよって!!!」

アホ面??!?、何ですかそれ?自分の事言ってるんですか???いや別に心の中でなら私の悪口はなんぼでも言ってもらって構いませんよ?それをわざわざ口にしなければ気が済まない、なんて器の狭い客なんだ…。

 

しかも周りの人も聞いてるわけですよ。そんなお客さんの怒号を聞いてだれがいい気分で買い物できるんだっちゅう話ですわ。

驚くことにもう一度言いますけどこの方、「家族連れ」ですよ??しかも子供も2,3人いるわけだ。挙げ句の果てに「おい、よー見とけよ!あんな奴になったらあかんぞ」と言われる始末、あの〜?それ全部ブーメランですけど???

何よりも子供が「あんたみてーになりたくねぇわ」って思ってますよ?

 

今回一番可哀想なのは子供ですよ。沸点の低すぎる親の元で育つ子供なんて可哀想すぎますよ。嫁さんも彼が怒鳴っている間、ずっとだんまりでなんだか彼の言いなりになってそうな方で、本当に不憫でならない。あんな方でも嫁さんがいて、子供つくって日本の少子化に貢献しているなんてすっげー胸糞悪い話ですわ。

 

後々聴いた話によると、そこのスーパーでは頻繁に現れてアルバイトの子たちに当たり散らしているみたいです。これじゃあ他のアルバイトの子があまりに可哀想だからマジで二度と来んな!って言いたくなりますよね。

サービス業って何なんですかね?スーパーではお客さんのストレスを発散させるサービスをやってる訳じゃないんですが…。

『がっこうぐらし!』はただのゾンビ物ではなかった

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こんにちは、シゲです!

がっこうぐらし!』の第一話を見たときの事を未だに覚えている。序盤からずーっとゆるふわな日常が描かれ、正直「変化がなさすぎてつまらない」と思ってしまった。私はそこでラスト数分の「あのシーン」を見ることなく電源を落としてしまったのだ。

翌朝、ツイッターのトレンドに「がっこうぐらし」というワードが浮上し、一瞬理解できなかった。「なぜあの”よくある日常アニメ”が話題になっているのだろうか」という疑問が浮かんだ。そしたらまぁ、みんな「一話のラストで全部持ってかれた!」とか「衝撃の展開」「視聴決定」だの色々言われていたわけですよ。何やら一話ラストに大きな”仕掛け”があったみたいで、途中で電源を落とした私は全く話題についていけず、最後まで見なかった事を激しく後悔した。

それからというものの、私は心の中で「がっこうぐらし舐めてましたごめんなさい」とスライディング土下座をかましながら2話以降を視聴したのだった。いや、だって普通あの「ゆるふわ学園もの」の本当の顔が「ゾンビ物」だなんて思わないはずですよ。私はそんな『がっこうぐらし!』が張った「日常系と見せかけたゾンビ物」という罠に見事にハマっちゃったんですよね。(ハマり過ぎて電源切っちゃったけど...。)

そんな数奇な?出会いをした『がっこうぐらし!』なのだが、改めて考えるとすごいアニメだなと思うわけですよ。今回はアニメ『がっこうぐらし!』が持つ特異性をとことん考えてみようと思います。

 

 

新日常系アニメとしての『がっこうぐらし!

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「新日常系アニメ」を聞いたことがあるだろうか。この言葉自体は『結城友奈は勇者である』のインタビューにて、MBSの前田俊博プロデューサーから初めて語られたものである。

 

日常系作品は「日常っていいよね」と共感しながら見る方も多いかと思いますが、「結城友奈は勇者である」は「日常っていいよね」と痛感しながら見る作品になっているのでは?と思っています。お知り合いにこの作品をオススメする際は「日常系(切実)」、「新日常系」などのタグを付けて紹介していただけると幸いです。

 

つまり、シリアス展開の中にあえて日常やギャグパートを描くことで「日常っていいなぁ(痛感)」といった具合に、「シリアスと日常を対比させることで、日常のありがたみを実感させる作風」のことを指す。『がっこうぐらし』はその典型例で、ゾンビが徘徊する「非日常」の中でなんとか由紀たちが「日常」を送ろうとする。

しかし『がっこうぐらし!』の場合、「非日常と日常の対比」がかなり色濃いというか、むしろ「日常」の部分があまりにも日常しすぎていてある意味”狂気じみて”いると感じられた。 この”狂気”を最初に視聴者へ提示したのがあの第一話ラストのシーンだったと考える。何の変哲もない学校でのやりとりが実は主人公・由紀の妄想であることが明かされたのだが、冷静に考えると「実はゾンビ物でした」よりも「これまでの日常パートはほとんど妄想でした」という事実の方が個人的には衝撃的だった。由紀の現実逃避は、後に大きなテーマとなってくる。

 

 

「信頼できない語り手」としての由紀

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由紀というキャラクターは非常によくできている。基本的に視聴者は「由紀視点」でストーリーを追うことになるのだが、それがまたミスリードを誘うわけだ。まさにアニメ版「叙述トリック」とでも言うべきか。叙述トリックの中でも、「信頼できない語り手」と呼ばれる技法がある。

 

信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、信用できない語り手、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである。

 

例えば 小説での語り手が子供ならば、誇張した表現で読者を惑わすかもしれない。記憶障害の語り手ならば時系列や出来事があやふやになり、ミスリードを誘う。がっこうぐらし!』では由紀が精神疾患の語り手」に近い状態であり、現在映っている景色や登場人物の存在が彼女の幻覚や妄想の可能性が高まり、本当にそこに”ある”のかが曖昧になっている。何が正しくて何が間違いなのか、視聴者には全くわからなくなる仕掛けだ。

ひぐらしのなく頃に』では雛見沢症候群と呼ばれる、被害妄想や幻覚を引き起こす風土病があった。鬼隠し編では病気を発症した前原圭一の視点で物語が進む。彼の行動にはある程度説得力があるので視聴者は「おかしいぞ」と思うことなく事は発展し、最終的に被害妄想に苛まれてレナと魅音を殺してしまい、ここでようやく我々は「圭一が狂っていた」と気付くのだ。

要するに一話でやりたかったことは『ひぐらし』の”それ”と似たことだと思っている。

 

一度、由紀の妄想癖が発覚すると視聴者は「もしかしてこれも妄想なんじゃ」と感じる他は無くなる。極端な例だが、考え方によっては由紀以外の全員が既に死んでいる可能性だってあるし、そもそも「舞台が学校」という前提すらも揺るがしかねないのだ。

色々と話題性のある一話だったが、見る者の視点を揺さぶるというだけでも作者の思惑通りだったのかもしれない。

 

「モラトリアムからの脱却」というテーマ

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妄想の学校生活を送る由紀なのだが、そんな中で大きな心の支えとなっていたのが「めぐねえ」なのだ。幼児退行する由紀にとってまるで母のような存在で、彼女にとって無くてはならない存在の1人だ。しかし中盤でみーくんが加わった頃に「めぐねえは既に死んでいる」事が明らかになる。第6話にて「めぐねえって一体誰ですか?」というみーくんの指摘を引き金とし、ラジオの軽快な音楽が急激に変調して不協和音と化す演出に心臓を掴まれる。

現実逃避をしていた由紀を支えていた存在そのものまで妄想の産物であると判明し、我々の嫌な予感が的中してしまうのだ。「めぐねえの死の判明」「学園生活部と由紀の共依存関係」この2つが6話で提示された大筋となる。

 

みーくんは由紀の妄想について、りーさんに「あのままではいけない、治さないと」という趣旨のセリフを投げかける。原作ではさらにそこへ「これじゃただの"共依存"じゃないですか」と続く。それに対しりーさんは「治るとか治らないとかの問題じゃない。今は由紀の調子に合わせてほしい」と返す。

学園生活部のみんなはこれまで由紀の妄想に付き合ってあげる事で彼女を支えていた。しかし、同時に学園生活部での楽しい日常は由紀の明るいテンションによって支えられていたのだ。由紀がいるおかげで支えられてきた「日常」が、みーくんの指摘によって崩壊してしまいそうになるわけだ。

一見すると「お互いに支え合っている」理想的な関係に見えるのだが、この状態はみーくんの言う通り「共依存」の関係である。そこでこの作品のテーマ「モラトリアムからの脱却」が提示される。幼児退行する由紀と、それを良くないと思いながらも由紀に合わせる以外の選択肢のない学園生活部。この両者が如何にして前に進めるか?がこのアニメの本筋だ。

 

がっこうぐらし!』の舞台が学校なのは決して偶然ではないのだ。「モラトリアム」と言えば社会に出るまでの猶予期間のことを指すが、「学校生活」そのものの事を指す場合も往々にしてある。このアニメの舞台「学校」は由紀と、学園生活部のみんなが学校の外へ出て新たな世界を切り開くという一筋のプロットで成り立っている。「ゾンビ要素」はパニック映画というよりはあくまでも「学校からの脱却」を理由づけるギミックとしての役割が色濃く感じ取られる。つまり『がっこうぐらし!』は単に「ゾンビもの」+「学園もの」という構成ではなく、「学園もの」をメインに添えて、「モラトリアムからの卒業」というテーマを自然に、時には衝撃的に描くために「ゾンビ」という要素をサブで加えたアニメだと私は考える。

 

だからこそ、最終回の放送室で由紀が発した「学校は好きだけど、いつかは終わる時が来る」というセリフは感慨深いのだ。めぐねえの死を受け入れられなかった彼女が、精神的な成長を成し遂げた瞬間なのだ。

なぜならば彼女自身、一番あの学校を愛していた存在だからだ。もちろん、学校を出た後に平和な生活が待っているとは限らないし、むしろより過酷な状況に追いやられる可能性がある。

それでも、由紀と学園生活部にとって心地よかった「学校」を出るという選択を選んだのは、外の世界で生きる事に価値を見出したからだろう。究極的に言えば、『がっこうぐらし!』はどんなアニメよりも「成長もの」であると言える。別に修行で強くなったりする訳ではないが、これほどまでに「精神的な成長」を描いた「成長アニメ」は中々無いだろう。

「なのは」の冠を外した『ViVid Strike!』女の子同士がガチで殴り合う、文字通りビビッドなアニメだった

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こんにちは、シゲです!

ViVid Strike!』をご存知だろうか。そう、なのはシリーズの系譜ながらも「なのは」の冠を外した昨年度のアニメである。いやもう、本当に(良くも悪くも)「挑戦した」作品としか言いようがない。まずは自分自身のなのは歴を見てみると、無印・A'sは視聴、ストライカーズだけ未だに視聴せず。そして2015年度に放送されたアニメ『なのはVivid』を見ているので、なのはシリーズに対する理解度は一応、"最低限度は"ある状態だ。

『なのは』シリーズはテーマに「友情」を置いている。宿敵との信念のぶつかり合いや様々なすれ違いを経て、最終的には諸悪の根源とも言えるラスボスを倒すために共闘するうちに友情を深める、という展開がなされる。無印はなのはとフェイトの確執から始まり、フェイトの記憶と出生の謎に迫り、最終的にはフェイトの母・プレシアの陰謀を打破する物語だ。『A's』では「はやて」という新キャラを添え、闇の書を巡り、ヴォルケンリッター一味との激しい抗争が繰り広げられる。

 

 『ViVid Strike!』は『なのはVivid』の主役である高町ヴィヴィオを脇役に添え、新キャラのフーカ・レヴェントンとリンネ・ベルリネッタというダブル主人公形式で物語が進められていく。しかし私個人として一番の見所はフィジカルに全振りした戦闘シーンだと思っている。『なのはvivid』を契機に、なのはシリーズでの戦闘はこれまでのように命をかけた「戦い」ではなく、「競技・試合」としての意味を持つようになった。なのはvividの段階から既に「魔法少女ではなく、もはや"格闘少女"だ」と散々言われていたが、『ViVid Strike!』はその"格闘少女"の側面をさらに強化したアニメだった。

 

例えば試合中の魔法の使用には制限があり、基本的には自らの肉体を武器に戦闘が行われる。また、なのはvividの時からそうであったが、試合に向けて筋トレをするシーンが幾度と描かれる(しかも今作については筋肉のつき方が無駄にリアル)。言っておくが、仮にも彼女たちは魔法少女なのだ。その魔法少女が勝つために筋肉を鍛えるというのが非常に"漢らしい"のだ。

もっと言えばリンネのコーチだったジルは、現役時にはあまり恵まれた肉体を持ち合わせておらず、度々体を故障して引退を余儀なくされたという。つまり『ViVid Strike!』において、「肉体」は魔法以上に強い意味を持つ要素なのだ。作中では度々「才能・資質」といったワードが出てくるが、ViVid Strike!においての才能とは「肉体」のことである。リンネが筋肉の鎧で相手の打撃を軽減したり、まさに筋肉はすべてを解決してくれる存在だったのだ。これほどまでにフィジカルに特化している本作は、まさに「魔法少女、辞めました」とも言えるアニメだ。

 

強さへの執着、あるいは狂信的な「強さ観」

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4話は衝撃的だった。リンネがあれほどまでに「強さ」を求め、勝ちにこだわり続ける理由が語られたエピソードだ。クラスメイト三人によるいじめが原因で、祖父のように慕っていたロイの死に目に会えなかったリンネが「弱い自分」を断ち切る為、いじめっ子達に報復をするあのシーンだ。自分の弱さゆえに誰も守れなかった事を悔やみ、屈折した「強さ観」を持つようになる。

実は私はこのシーンを見て内心スカッとした。そりゃあもちろん流血沙汰だからビックリしたのは事実だけど、いじめっ子を野放しにしてたら次に何されるか分からないし、やられっぱなしじゃ流石に胸糞悪すぎるのでリンネの行動には少しだけ共感できる部分がある。それは置いといて、リンネの強さの元である「強くならなければ何も守れない」という価値観は一見、彼女を成長させてるように見えるのだが、これがまた彼女をより複雑な形に拗らせることになるのだ。

 

さらにリンネにはもともと恵まれた肉体がある。つまり屈折した「強くなりたい」という思いと、「強くなれる身体」がベストマッチしていたわけだ。その資質とベストマッチ加減に目をつけたのが眼鏡コーチのジル・ストーラだ。ジルは上述の通り、現役時には自らの身体の恵まれなさ故に引退した過去がある。このことから才能・資質に対して異常なまでの執着心を持っているのだ。現役時に自分が成し遂げられなかった事を、リンネならやってくれる。リンネに対する狂信的な態度が見受けられた。

「強くなりたい」という思いと「強くなれる身体」、そこへさらに「強くしてくれるコーチ」が加わり、ベクトルの違った歪な"強さ観"がより強大なものへと膨れ上がってしまったのだ。それ故にフーカ達とのすれ違いはますます加速することになる。

 

露呈された「強さ観」の脆さ

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ミウラとの試合に勝利したリンネだが、格下の相手に二度もダウンを取られたことに焦りを感じる。そして8話、リンネに唯一黒星をつけたことのあるヴィヴィオとの試合が繰り広げられる。ずっと勝ち続けてきたリンネにとって、黒星をつけたヴィヴィオは自身の信じる「強さ観」を揺るがす存在だった。

ここで面白いのは、劇中でも明言されていたのだがヴィヴィオは大して身体的に恵まれているわけではない、という所だ。体力や筋力はリンネに大きく劣るのだが、自慢のスピードでカバーをして戦闘を優位に進め、結果的にリンネは因縁の敵ヴィヴィオに二度目の敗北をするのだ。ヴィヴィオに「試合を楽しんでいない」と指摘されたリンネ。そもそも彼女は「自分が強くなる」だけの為に筋トレや格闘技をしていた。

彼女の原動力は「弱ければ何もできない」「強くなければまた誰も救えなくなる」という強迫観念のようなものだった。ヴィヴィオに敗退したことをキッカケに、リンネを突き動かしていた「強さ観」は脆く崩れ去ってしまった。強さ観が崩壊すれば、リンネにとってもはや格闘技を続ける意味は無くなってしまう。なぜならばヴィヴィオと違い、彼女は格闘技を好きでやっているわけではないからだ。

 

同時に才能至上主義でリンネを指導してきたジルとの関係も危うくなる。上述の通り、リンネは「強くなりたいという思い」「強くなれる身体」「強くしてくれるコーチ」という三要素がうまくマッチしていたからここまで来れたのだ。ではその3つから「"強さ"に関わるもの」を全て抜いたらどうなるだろうか。そう、彼女にはもう何も残らなくなったのだ。

 

フーカとリンネの確執、そして歪な師弟関係の終着点

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まさかのヴィヴィオ勝利でフーカとの試合が不意になったと思われたが、アインハルトの「フーカとの試合に勝てばタイトルマッチを正式にやりますよ」という条件で、待ちに待ったフーカvsリンネの試合が行われる。初っ端から激しすぎる戦闘で、冷静に考えるとルーキーの癖にフーカ強すぎだろとツッコミを入れたくなるのだがそんな無粋なツッコミをさせる暇もなく、ただ勢いで見てしまう。ミウラやヴィヴィオ戦の時もそうだったが「おいおい本当に女の子が主役のアニメかよ」と言いたくなるくらい激しい殴り合いだ。ライバル同士が殴り合って信念をぶつける様はどこか『スクライド』を彷彿させる。

 

フーカは「ドブのような濁った」リンネの目を覚まさせる為に一発殴って喝を入れてやる!という何とも昭和チックというか、これまた他のアニメの名前を出すことになるが『グレンラガン』のカミナが「シモン!歯ぁ食いしばれぇ!」と喝を入れるシーンを思い浮かべてしまう。強烈な一撃をリンネに浴びせる。意識朦朧とする中、リンネはジルとの厳しい練習の日々を思い出し、歪な形ながらもしっかりと絆で結ばれていた事に気づく。リンネの持っていた「強さ観」は崩れたものの、ここに来るまでにコーチと共に積み上げてきたものは確かに今も存在しているのだ。屈折した師弟関係はようやく正しい形に収斂する。

激しい攻防の末、フーカが勝利する。気絶して倒れこむリンネの体を支えるフーカはまさにイケメンだった。才能・資質・強さに執着していたリンネはもうそこにはいない。拗らせまくっていたリンネを、殴って目を覚まさせたフーカ。非常に入り乱れた関係は「フーカのワンパン」で全て綺麗に解決したのだ。

 

ViVid Strike!』はまさにビビッドなアニメだった

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もはや魔法少女ではない『ViVid Strike!』、タイトルからもついに「魔法少女リリカルなのは」の部分が消えた作品だが、無印でのフェイト・A'sでのヴォルケンリッターのように「ライバルとの確執と、和解のプロセス」をきっちり描いていた点は他のなのはシリーズと共通している。

なのはから離れた部分ももちろんかなり目立った本作だが、なのはシリーズでずっと描き続けていた系譜は確かに受け継がれていた。

魔法少女からスポ根への大転換を成し遂げた『なのはvivid』、そこへさらに「圧倒的なフィジカル要素」と「複雑な師弟関係」を組み込んだ、文字通り新鮮なアニメだった。