シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『何者』は一周回って何回も見たくなる作品だった

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こんにちは、シゲです!

映画『何者』、本当にハラハラする作品だった。ハラハラの大きな要因として「SNSの恐ろしさ」と「就活」の2つの軸がある。SNSについては非常にナウい要素であり、よくある充実アピールや裏垢の存在など、今の若者たちに「あるある!」という共感を生み出していた。さらに「就活」に至ってはこれから経験する大学生ほか、もう既に就職して働いている人にも「俺の時もこんな感じだったな〜」と感じさせる。

 

つまりSNSも就活も「強い共感」を生むのに活かされていたな、と。それが映画『何者』の最大の特徴である。そしてSNSと就活の二要素が劇中で思わぬ「共通点」が提示された。今回は主にその事について書いていきたいと思う。そんな『何者』が如何に我々の胃にダイレクトアタックを成し遂げたのかを見ていきたい。

 

 

二宮拓人は典型的な「ひねくれ主人公」

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まずもって主人公がめちゃくちゃ捻くれてるんですよね。ライトノベルで言ったら「やれやれ系」であったり、ちょっと斜に構えて物を見ている人間だ。そしてそんな自分を「冷静」である、と強く思い込んでいる。これがもしアニメならば何故かモテてハーレムだったり、主人公補正で事がうまく進んだりしていたかもしれない。

 

しかし『何者』では「主人公補正」などというものは全くもって存在しない。物語序盤では就活をダウトに例えたり、理香を「学級委員がそのまま大学生になったみたい」と冷静に分析してる風を見せ、瑞樹と光太郎から「分析が冴えるな〜!」と言われていたのだが終盤でボロが出まくる。理香が指摘したように彼は単に人を嘲笑っているだけであり、自分自身は何の努力もしない所謂クズ主人公である。

そしてそんなクズ具合は誰にだって伝わっている、と理香に指摘され狼狽する。極め付けには「そんな人、どこの会社も欲しいと思うわけないじゃん」と言われる始末。

 

 

『何者』の凄いところは「主人公補正」なんていうご都合主義を徹底的に排除しているところだ。安易にラノベと比較するのは間違いかもしれないけれど、ラノベだったら絶対拓人は持ち上げられていたと思う。その冷静を装って人を分析する様も、もしかしたら作品の中では「良し!」とされて拓人マンセー状態になっていたかもしれない。

拓人という人物は正直、みんなから嫌われるタイプのキャラである。Twitterの裏垢で悪口を言いまくったり、人のツイートを見て嘲笑ったり、そうした「闇」の部分は理香やサワ先輩が指摘してくれる。この「主人公の行動を咎める」事を、決して手を抜かずに描いていたのが私としてはめちゃくちゃ嬉しいのだ。駄目なところを「駄目だよ」と言ってくれる人間がきちんと作中で活かされているため、個人的にはよく言われる「ドロドロ感」というものはそこまで強くは感じなかった。むしろ拓人に指摘するシーンを見て思わずスカッとしてしまったのだ。

 

 

信念のある者だけが生き残る

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ここまで拓人について掘り下げてきたが、本作では登場人物を分かりやすく「ハッピーエンド組」と「バッドエンド組」の2つに分ける事ができる。まずもってハッピーエンド組とは光太郎・瑞樹・ギンジの3人を指す。バッドエンド組は拓人・理香・隆良だ。

 

ハッピーエンド組に共通していることは「軸がブレなかった」ということ。光太郎は志望動機こそ、自分の恋人に会いたい!という褒められたようなものではないが、間違いなく彼には「そこへ就職したい!」という強い信念があったに違いない。光太郎は言って仕舞えばチャラ男で頭の悪そうな奴なのだが、ああ見えて自分の考えはしっかりと持っているので非常に好きなキャラである。彼の素直で何事にも全力で取り組む姿勢は社会に評価されて然るべきであった。そして何より光太郎のキャラは『何者』の中でもかなり特異だ。腹の探り合いや価値観のすれ違いが度々描かれる中、彼だけは天真爛漫で「いい意味でのアホ」だった。彼のおかげで『何者』の殺伐とした空気感はある程度緩和され、ストレスフルな作風でありながらもある種の「逃げ場」を設けてくれた存在なのだ。

 

瑞樹についても、彼女の肩書き「地道素直系女子」の通り「凄い!」と素直な感情を出せる人間だった。例えば序盤で飲み会の集金をするサークルの女子に対して「ああいう面倒ごとを自分からやろう!と思えるのはすごいよね!」という発言や、演劇の脚本を書く拓人に対する「すごい!」など物事を斜に構えて見る拓人と対を成すように、彼女は純粋な目で物を捉えられるキャラである。

さらに瑞樹には「母を支えなければならない」という大きな課題があった。普通母は子供を支える存在であるが、色々と事情があり今度は自分が母の世話をする番になる。その為にはまず、出来る限り大きな会社に就職をしなければならなかった。結果として本作で一番最初に就職に成功したのだ。

彼女が一番乗りで就職できたのはやはり、「一番最初に"大人に"なれた」という事になるのだろう。

 

ギンジについては上2人とは違い、「就職」という道を選ばなかった存在である。拓人と口論になった際「俺は舞台の上で生きる」ことを宣言した。もちろんそうして生きていくことは簡単にはいかないはずだが、彼の心にも間違いなく「信念」が燃えていたことだろう。おそらく殆どの人が「就職を良し」とする中で「舞台で生きる」という選択は、一見するとレールから外れたようなイメージを持つかもしれない。確かに、仮に彼の劇がウケそれを生業にして生きていこうとしても、その勢いが長年続くとは限らない。しかしながらそんな茨の道を、強い意志を持って選択した彼の行動は褒められるべきだろう。彼にとって「自分らしい生き方」は就職ではなく、劇団の中で生きることだったのだ。作中で拓人が「ギンジと隆良は似てる」と言及したが、隆良とは比較にならない決断力と信念である。彼もまた、演劇の道に進む覚悟がなく何となくで就職の道を選択した拓人と対をなす存在だ。

 

 

人間の醜悪な部分を押し固めてできた「バッドエンド組」

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何者で一番美味しい部位はバッドエンド組の他はあるまい。むしろバッドエンド組を見るための映画といっても差し支えない。三人に共通するのは「自分を"自分たらしめる"努力をできなかった事」。これに尽きる。

グループディスカッションでも「私は!私は!」の一点張りや多くの肩書きで自分をアピールするあまり、もはや何者なのかすら分からなくなった理香。「就活なんて時代遅れでこれからは"孤"の時代だ!」と豪語したものの結果的に周りに流されて就活をするようになり、誰よりも軸がブレブレだった空想クリエイター系男子の隆良。そして上で述べた通り人を「冷静な分析」と称して裏で嘲笑う癖に、自分のことは全く分かっていなかった拓人。

 

この三人は見事なまでに人間の負の側面を体現したものであった。と同時にこれから来る就活への反面教師として活きていたのだ。いや確かに彼らは彼らなりに頑張っていたというのは分かる。しかし三人の根底にあったのは「他人を見下す心理」だった。一見、人間の汚い部分がごった煮で合わさったように感じる『何者』だが、「ひたむきに頑張るものだけが生き残る」という極めてシンプルな落とし所だったと感じている。

頑張る者を見下したりバカにするような人は、いずれ自分の首を絞めることになる。なんて単純明快な着地点なのだろう。「就活がテーマ」「もう二度と見たくなくなる」と聞いていてものすごく身構えて見ていたのだが、むしろこの着地は非常にスカッとする上に何度も何度も見てしまいたくなる綺麗さだ。

 

 本質的にSNSと就活は似ているのでは?というテーマ

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『何者』において、SNSは非常に強い共感を生む仕掛けだったと最初に述べた。ツイッターだけを見て「隆良とギンジは似てる」と切り捨てようとする拓人に対してサワ先輩は「ギンジと隆良は全然違う。たった140字の集まりで片付けようとするな」と叱責するシーンがある。

つまり、たった140字の集まりだけじゃその人の事など何にも分かるはずがないだろう、と言っているのだ。確かに我々もツイッターを遡ることで「この人はこんな性格なのか」と簡単に判断してしまいがちで、言葉の裏にある人格にまで考慮できていないかもしれない。なのでこのセリフは拓人というよりも我々に向けたセリフとも取れる。

 

しかし、私はこのセリフからSNSとは別のことを指摘しているように感じた。アバンで拓人が「面接ではツイッターの140字と同じく、限られた時間で自分を表現する必要がある」と言っていたが、これは「就活とSNSは似ている」ということをダイレクトに表したセリフのように感じるのだ。つまりサワ先輩の「たった140字で人を判断するな」はそのまま就活にも同じことが言えるのではないか、と私は考えた。

何が言いたいかというと、「たった140字で判断するツイッター」と「たった数分間の面接で判断する就活」は本質的に同じなのではないか?という事である。

 

つまり、サワ先輩の「ほんのちょっとでも、言葉の裏にある人格に目を向けろ」というセリフはSNS云々の問題ではなく「就活システムに対する疑問」なのではないだろうか。SNSへの警鐘を鳴らしたように見える『何者』だが、見方を変えれば就活システムへの痛烈な風刺とも取れてしまう。本当に噛めば噛むほど味わい深いスルメ映画だった。

ムシキングのショルダーネームでランキング作ってみた

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こんにちは、シゲです!

ムシキングが最近すごい方向に進化していると話題になっている。私自身、現在は新ムシキングをプレイしているわけではないが旧作ファンとしてはこのまま長く愛されるコンテンツになってほしいなと。

ムシキングブーム」と呼ばれた時期は2003年〜2008年の間だった。ちょうどアダー完結編以前のシステムで稼働していた時期だ。私がムシキングにハマっていたのは2004年の夏からアダー完結編が稼働終了した年の2009年までの間だったので、生粋のムシキングオタクだったと自負している。小学生時代をガッツリと「ムシキングブーム」の中で過ごしてきたので、やはり当コンテンツへの思い入れは人一倍ある。

 

 そんなムシキングの特徴と言えるのが、ムシ毎に付けられている「ショルダーネーム」のハイセンスっぷりなんですよね。もう、めちゃくちゃ(良くも悪くも)印象的だ。今回は参戦ムシのショルダーネームと、そのムシの解説をランキング形式で紹介したいと思う。ベスト15から見ていこう。

 

15位〜11位

15位 いぶし銀の戦士・タイゴホンヅノカブト

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小学生のころに「いぶし銀」なんて言われても何のこっちゃわからんのだが、「影で活躍する奴」という意味を知ってからその渋カッコよさに惚れてしまった。

タイゴホンヅノカブトの図鑑説明では「ゴホンヅノカブトの仲間にしては地味」と散々な言われようである。何となく悪魔っぽいフォルムが個人的にはお気に入り。ちなみにこいつの鳴き声は『龍の歯医者』でガッツリ使われていた。

 

14位 幻の巨神・ネプチューンオオカブト

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ヘラクレスオオカブト系が「伝説」ならばこちらは「幻」という対の関係なのだろうか。名前も見た目もめちゃくちゃカッコよく、ヘラクレスに次いで世界で二番目に大きいカブトムシ。なのだが、旧作でのつよさは160。近縁種でより小柄なサタンオオカブトのつよさ180にすら劣る不遇っぷりだった。(新作では最高ランクに昇格しているらしいが…)ちなみに私が一番気に入っているカブトムシがネプチューンなので、今後の活躍に期待。また、さすらいのムシマスター・ムシキングジョニーの相棒でもある。

 

13位 ダンシングビート・マンディブラリスミツノサイカブト

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こいつの必殺技・ヘッドスピンラッシュは何気にお気に入りの技だったりする。「ビート」と「ビートル」を掛けているのが高いポイントだ。マンディブラリスとは「巨大な大アゴ(クワガタのハサミのこと)」を指すはずなのだが、こいつにはそんなものは見当たらない。三本の角は全て胸の角なので動かすことはできない。ずんぐりしてて可愛らしく、個人的に一番好きな小型甲虫だ。

 

12位 悲劇の反逆者・ダビディスカブト

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ルルーシュっぽいショルダーネームで最高に厨二だ。どの辺が「悲劇」なのか理解に苦しむが響きだけはカッコいい。日本のカブトムシとよく似ているが、頭の角に突起があり、体は黒く艶があるのが特徴。たぶん日本のカブトムシと近い種類のはず…。

 

11位 怒れる風神・クロパプアサンボンヅノカブト

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サンボンヅノカブトの亜種だと思う。必殺技「フウジン」は羽ばたいた時の風で相手を吹き飛ばすという変わった技。つよさ120・必殺技がパー・ディフェンスタイプという、事実上のサンボンヅノカブトの焼き直しなので手抜き感が否めない。ムシキングにはこいつだけに限らず、ガワだけ変えてステータスが全く同じムシが多数存在する。アダー完結編では仕様変更されて無くなったけど。

 

10位〜6位

10位 静かなる鬼神・ヒメゴホンヅノカブト

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ゴホンヅノカブト属で唯一、小型甲虫でないムシ。ショルダーネームの「静かなる」の通り、ゴホンヅノカブト属は見た目に反してほとんどケンカをしない。こいつは「ゴホンヅノカブト」よりも小さい種のはずなのに何故かつよさは140という謎の優遇っぷり。必殺技「ダイブボンバー」は小学館の「ムシキング新技コンテスト」で選ばれた技だ。

 

9位 革命の刃・アルケスツヤクワガタ

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説明文によると黒一色のツヤクワガタの中では最大とされているが、インターメディアツヤクワガタがいるので間違いである。ショルダーネームがなんとなくセイバーっぽくてかっこいい。つよさ160のスーパーアタックタイプなので、攻撃力だけ見ればつよさ200のマンディブラリスと同等。耐久は紙。技名「サイズ」はムシキングで最も短い三文字である。(二番目はおそらく「ダンガン」と「フウジン」か?)

 

8位 紅の忍者・アカアシクワガタ

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ようやく我らが日本のクワガタムシの登場だ。アカアシクワガタはオオクワガタ・ヒラタクワガタ属と同じ「ドルクス属」の仲間である。ショルダーネームだけで何の虫なのかが分かるので高ポイントをつけた。ムシキングでは必殺技「キリガクレ」など忍者キャラで通っている。

大きさはコクワガタとほぼ同じで、タッグマッチでコクワガタと組ませると「ジャパニーズスーパージュニア」という特別なコンビになる。

 

7位 ヴァガブント・オオツヤヒサシサイカブト

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アダー完結編から参戦した新参者。「ヴァガブント」とはバガボンドの英語読みで「放浪者」という意味。オオツノメンガタカブトというこいつにそっくりなカブトムシがいるのでややこしい。この虫はめちゃくちゃマイナーなのであまり画像検索しても出てこない。サイカブト属にしてはめずらしく必殺技がパー。

 

6位 最強の軍神マルスゾウカブト

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ここにきてようやく大型甲虫の登場。旧ムシキングでは一番最後に登場した大型甲虫。こいつの登場によってオウゴンオニの復活が遅れたのは有名な話。有名な割にムシキングへの参戦が遅い。リアルでのカブト・クワガタバトル番組ではアクティオンやエレファスを差し置いて度々参戦するので動画を探してみるといい。ショルダーネーム「軍神」のとおり、ローマ神話軍神マルスが名前の由来。

 

番外編 ショルダーネームもっと頑張れよ!ランキング 

 

残り5位の発表の前に、こいつもっとショルダーネーム考えてやれよ!とツッコミたくなるやつらを紹介したい。分かりやすく全員アダーコレクションの画像にしているが、たまたまアダーコレクションのあるムシに偏っただけであり、アダーコレクションの中から選んだ訳ではないのでご了承ください。

 

5位 最強のオオクワ・グランディスオオクワガタ

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世界最大のオオクワガタ。大型甲虫にしては珍しくディフェンス系統の性格。いやまぁ、確かに「最強のオオクワ」は間違いではないんだろうけどそもそも「オオクワ」という響きがあんまりカッコよくない。「最強のオオクワガタ」ならばシンプルで良いのに惜しい。旧作においてオオクワガタ属の中で最もレアリティが高いほか、唯一のレアカード(つよさ160以上)だったりする。こいつの鳴き声をワントーン上げるとヘラクレスリッキーブルーになる。

 

4位 飛べないアラワシ・ミクラミヤマクワガタ

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ムシキングにおいてムナコブクワガタに次いで二番目に小さいムシ。現実のミクラミヤマクワガタは本当に空を飛ぶことができないから「飛べないアラワシ」としたのだろうが、必殺技「サーフィンライド」では何を間違ったのか思いっきり飛んでいる。つまり、ショルダーネームとガッツリ矛盾しているので大きなマイナスポイントだ。小さい割に気性が荒い。

 

3位 ブラジルの謎・アヌビスゾウカブト

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謎って何なんですかねぇ…。アヌビスと聞いたらみんなパズドラしか出てこないだろうけど、私の場合はアヌビスといえばこいつだ。「ブラジルの」までは思いついたけどネタがなくて苦し紛れに「謎」を付け加えた感がハンパない。ゾウカブト属で唯一、レアリティがノーマルである。タッグマッチではつよさ160・ディフェンスタイプの「ギアスゾウカブト」と組ませるとちょうど良い。余談だがカウントダウン時のショートボイスがキモい。

 

2位 錆色兜・サビイロカブト

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大事な事なので二回言いました、ではない。サビイロカブトのショルダーネームはまさかの「サビイロカブト」もはや手抜きというレベルではない。新ムシキングでは「古来よりの荒武者」に変更された。日本のカブトムシもかつてこいつと同じアロミリナ属とされていたのだが、近年では日本のカブトムシの方が独立したので一属一種になってしまった。『ザックの冒険編』では暗黒甲虫として登場し、カブト丸をガチで殺しにかかるのですげー印象的だった。

 

1位 迫力顔面・ミヤマクワガタ

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シンプルにダサさを考えたらやはり一位はこいつで文句なしだろう。ミヤマクワガタ属は頭部が立体的に張り出しているのが特徴で、ショルダーネームもそれを表したつもりなのだろうが…。それでもダサい。近年では日本でミヤマクワガタの数が減ってきているのが問題視されている。つよさこそ140だが、現実ではノコギリクワガタにすら負けてしまうらしい。しかもこれはどっかの研究で実際に戦わせて統計を取った結果なので、ノコギリクワガタ>ミヤマクワガタという図式が成り立ってしまって何とも言えない虚無感がある。

 

5位〜1位

 

本題に戻ろう。趣味満載のランキングもようやく残り5位となった。ここからも盛り上がるはずなので最後まで付き合っていただきたいw

 

5位 南洋の錬金術師・ウォレスノコギリクワガタ

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まず「錬金術師」ってのがカッコいい。ウォレスノコギリクワガタのメタリックなボディから「錬金術」を連想したのだろうか。なんだか等価交換してそうなショルダーネームである。ノコギリクワガタにしては体がガッチリとしているので割と人気の種類だったりする。「スーパーコレクション」では最終面で小型甲虫でありながらつよさ170で登場するので焦ったプレイヤーも多いはず。

 

4位 北米の将軍・グラントシロカブト

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ネブ博士の相棒。皆も真似をして「あいこやぶり・スーパートルネードスロー・最後の力」をカスタマイズした記憶があるのではなかろうか。「グラント」とは長らく将軍の名前が由来と考えられていたのだが近年ではこいつの生息地であるアリゾナ州を表す「Fort Grant」が有力説となっているらしい。北アメリカの人にとってカブトムシは「白いもの」という認識だとか。ちなみにアメリカから南に行くほどヒルスシロカブト→ヘラクレスオオカブトと生息するカブトムシがデカくなっていく。

 

3位 太閤殿下・ルイスツノヒョウタンクワガタ

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こんな名前でこんな見た目だが一応日本のクワガタムシ。太閤殿下は豊臣秀吉のことだった気がする。アダー完結編で初出したムシで、ムシキング参戦ムシとしてはムナコブクワガタを抜いて最も小さい体長23mmを記録。ステータスが低すぎて使いにくい。アダー完結編ではこいつに限らず日本産のムシは意図的に弱く設定されている。必殺技が無駄にかっこいい。

 

2位 ステルス戦士・ヒラタクワガタ

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またも日本ムシがランクイン。「ステルス」がミリタリー感満載でハートを掴まれる。おそらくヒラタクワガタの木の隙間に隠れる習性からとったものだろう。ロケテスト番ではつよさ140で必殺技が「ローリングクラッチホールド」という、ミヤマクワガタの前世だった。本稼働した際にはつよさ120に降格。どうでもいいが、本稼働後にも関わらず2003年春(最初期)でのローリングクラッチホールドのイラストはミヤマクワガタではなくこいつになっている。

 

1位 闘将飛龍・ヘルマンミヤマクワガタ

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闘将飛龍、意味は分からないけど響きがかっこいい。ムシキング五周年記念で登場したため、旧ムシキングでは一番最後に登場したムシの1つである。小型甲虫にしては92mmと、エラフスホソアカクワガタの100mmに次いで二番目のデカさ。ムシキングにおいてミヤマクワガタ属はどういう訳かあまり充実しておらず、ミクラミヤマクワガタの登場から2年も空いてしまった。同時にミヤマクワガタ属で唯一のアタックタイプ以外の性格。

 

 

ランキングの雑感とまとめ

まずもって、普通に「好きな虫ランキング」にしなかったのは理由があります。やはり好きな虫だとコーカサス、パラワンとかに偏って意外性が無くなってしまうからである。そうなると必然的に大型甲虫ばかりになり、面白い小型甲虫にスポットが当たらなくなってしまう。そんな時に「ショルダーネームのかっこよさ」という観点からランキング付けたら面白いのでは?と思ったのが事の発端。

 

結果的にダビディスカブトとかオオツヤヒサシサイカブトみたいなドマイナーな虫を紹介できたので満足である。それだけでなくムシキングの歴史を簡単に復習できたので懐かしい気分になりました。これを期に「ムシキングいいな」って思ってくれれば一番ですね。長々とお付き合いありがとうございます。

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心霊番組はなぜ衰退したのか

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こんにちは、シゲです(^ ^)

9月に入り、少し暑さもおさまって過ごしやすくなってきた。ところで皆さんはこの夏、心霊番組を見ましたか?私が小学生の頃は、毎年恒例・心霊番組の金字塔『本当にあった怖い話』やギャグ路線の垣間見える『怪談新耳袋』を密かな楽しみにしていた思い出がある。現在でも"ガチ"の心霊映像を集めた『呪いのビデオシリーズ』をニコニコ動画やユーチューブで暇つぶしに見ている。

 

しかしここ最近の夏はホラー特集が減少傾向にあり、どこか物足りなさを感じてしまう。それに加えて、作りが荒すぎるガバガバな映像や体験談だったり、過去の映像の使い回しなどが目立つようになってきた。「怖いもの見たさ」という心理学を十二分に活かしたはずの心霊コンテンツはなぜここまで衰退してしまったのだろうか。

 

深刻すぎる「ネタ不足」

 

とにかく「ネタが無い」に尽きるだろう。上でも使い回しが多いと書いたが、近年の心霊特集では10年以上前の映像をそのまま流用していることがある。(というかほとんどそう)

一般人からの応募でそういった映像を集めるのが主流のスタイルだったが、そもそも居るか居ないかわからない「幽霊」を、たまたまハッキリとした映像に残せるのは稀である。そりゃあ純粋な心霊映像を集めるのは困難なはずだ。そういう場合、ピンチヒッターである「作りもの映像」が登場するものの、その映像がまた荒すぎる編集なのである。ただでさえネタが不足しているのに、ピンチヒッターの作りもの映像すら質が悪い。せめて作りものくらいはもうちょっと頑張って作って欲しいものだ。

 

ここまで「心霊映像」について書いてきたが、『ほん怖』のような「体験談」にも同じことが言える。「体験談」の場合、映像とは違い再現ドラマによって作られるため、ある程度自由度が高いと言える。しかし、再現ドラマですら深刻なネタ不足によって大打撃を受けているのだ。どうしても心霊体験はシチュエーションや展開が似通ってくる。「病院」「お墓参り」「会社の残業」「トンネル」「肝試し」大体はこの5つに絞られてくる。さらに幽霊を発見して逃げようとしたらドアが開かない!なぜだ!となり、最後に振り返ると目の前に幽霊(それもよくある白い服を着た貞子型)の顔がどアップで映され「うわぁぁあ!」

そして何故か「この後の記憶はありません」というご都合主義すぎる記憶喪失を引き起こしてドラマは終わる。

 

書いていて思ったけど"テンプレ"が過ぎるのである。最近のアニメは主人公TUEE!や異世界転生ばかりだ!!と叫ばれているのをよく耳にするが、正直アニメよりもホラー番組の方がテンプレである。別に私としては嘘だろうが本当だろうが面白ければそれで良いのだ。なのに「嘘」すらもテンプレ構成でつまらない。まとめると、

 

・そもそも本物とされる体験談や、映像のネタがない

 

・だからと言ってニセモノのクオリティが高いかと言われれば、そうでもない

 

・似たシチュエーション、似た展開で食傷気味

 

この3つのパンチが全て致命傷となっているのだ。本物の蟹は高すぎるから代わりにカニカマを出されたが、そのカニカマが賞味期限ギリギリで不味い。例えが下手すぎるけど、そんなイメージである。

 

そもそも「心霊」自体が番組の足枷でしかない

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「心霊」という要素自体、かなり賛否両論である。下手に怖過ぎる映像を流せばクレームの元になるし、一時期話題になった「呪いの仮面」だって無駄に不安を煽っただけだった。また、巷では「本物の心霊写真はやばいから使えない」とも言われている。つまるところ、視聴者への配慮の必要性から無難なものしか取り扱うことができなくなってきたのだ。「時代の変化」や「配慮」という制約の中では、自由な番組編成は不可能になったのかもしれない。

 

さらには「霊媒師」という、一般人の目から見たら胡散臭すぎる存在も足枷となっていた。どうしても霊媒師や心霊といった要素は「宗教じみた」ものを感じ取ってしまうのだ。もちろん霊媒師だって立派な仕事なので、全否定するつもりはない。ただ、必要以上に不安を煽るのはどうしてもビジネス臭や売名臭さを感じ取ってしまう。

霊媒師による「除霊コーナー」が番組で挟まれることが多いのだが、ハッキリ言って何が面白いのかが全く分からない。他人がキャーキャー狂ったように叫びながら除霊される様(それも嘘か本当か分からないし、ヤラセだとしてもつまらない)を見せられて誰が喜ぶのだろうか。

「怖いもの見たさ」という心霊番組ならではの強みは、「心霊要素」そのものが持つデメリットによって完全に消え去ってしまったのだ。

 

いっそフィクションに振り切ってほしい

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心霊番組自体のつまらなさは、「本物っぽく見せようとして滑っている」ところにあるだろう。どうしても本物っぽくしようとすれば上で述べたテンプレ構成となってしまう。そこで、いっそのこと嘘でもいいから超展開にしてほしいなと。私は『怪談新耳袋』がとてもお気に入りである。それはまぁ、おそらく作りもののお話なんだろうけど、頭だけ牛の女が追い回してきたり、首が勢いよく伸び縮みしたり、全身真っ青の男の子がよく分からない言葉を発しながら追いかけてきたり、時にはガチっぽくて普通に怖い話があったり、いい意味でツッコミ所満載で"面白い"のだ。

あくまで主観でしかないのだけれど、心霊番組を見ている人間はおそらく斜に構えて見ていることが多いのではないだろうか。「こんなシチュエーションありえねえ!」「どんな幽霊だよw」とツッコミを入れながら見るのが楽しい!という人も居るはずだ。(私がそうである)なので、「純粋に心霊番組を楽しめなくなった人たち」をターゲットにウケ狙い路線を目指してみるのも良いかもしれない。今となっては「ノンフィクション」というメッキは完全に剥がれ、「フィクション」として認識されるようになってきた心霊番組。新しい路線で復活してくれることを願ってやまない。

『レジェンズ 甦る竜王伝説』を観て余韻がもうどうにもとまらない!

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こんにちは、シゲです!

ボンバーマンジェッターズ』を観て以来、私は子ども向けアニメの沼にすっかりハマってしまったのだが、『レジェンズ 甦る竜王伝説』(以下『レジェンズ』)の存在は2chのスレを見るまではほとんど知らなかった。シロンのねずっちょフォルムだけはどこかで見たことあるかな?って具合の認識だった。確かに私が小学生のころに放送されていた筈なのだが、周りで「レジェンズ見てるよ!」という友達がいなかったからかもしれない。

玩具展開もあまり充実はしていなかったイメージなので(実際私が小学生の頃にスーパーでタリスポッドやソウルドールがおもちゃ売り場で置かれていたのを見たことがない…)ほとんど前知識なしで視聴に至ったのだが、逆にそのおかげで毎回ワクワクと新鮮味のある見方ができたので良かったと思う。

 

「モンスターと、それを操る子供たち」という、ポケモンデジモンを彷彿させる設定であった。敵サイドのJJとBBもどこかロケット団のような雰囲気を醸し出し、中盤でレジェンズのコマンドバージョンが登場したが、変身する際の背景がすげーコンピュータ感があってデジモンっぽかったりと、両者の要素をふんだんに盛り込んでいた。

だが決してポケモンデジモンの二番煎じという訳ではない。ニューヨークを舞台に洒落たジャズをメインのBGMとして用い、さらにエンディングテーマに「どうにもとまらない」の英語版アレンジを使うなど、選曲が無駄に濃くそれはそれで強烈な個性が光っていた。

 

結論から言ってしまうと、決してハッピーエンドとは言えない終わり方である。。理想的な結末ではないものの、それ以外の選択の余地は無かっただろうなという『まどかマギカ』に近い感想を抱いた。しかしハッピーエンドが否かは置いておくとして、50話という長期スパンを一切中だるみすることなく描き切ったので、その点は非常に満足している。

上でポケモンデジモンっぽさを感じるとは言ったがその「ポスト・ポケットモンスター」とも言える本作品は私の予想していた以上の鬱展開へと突入し、完全に第一印象である「ポケモンデジモンっぽさ」を払拭してしまったのだ。さらに言えば、「今まで頼ってきたもの(レジェンズ)が実は人間を脅かす存在だった」「レジェンズウォーから感じる"ループもの"の色彩」「綺麗に終わらせたものの、ハッピーエンドとは言い切れない作風」など、むしろ『まどマギ』のような深夜アニメ的な文法が使われていたな、というのが最後まで見た感想である。

つまり見る前までは『ポケモン』であり、見たあとには『まどマギ』になる何とも面白いアニメだったなと。それでは『レジェンズ』はどのようにしてポケモンデジモンとの差別化を成し遂げてきたのかをこれから見ていこうと思う。

 

 

レジェンズとサーガの屈折した関係性

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 モンスターを操る作品では、モンスターとの絆を深めるまでの過程が描かれる。ポケモンならばサトシがオニスズメの大群からピカチュウを守ろうとしたことで、両者が強い絆で結ばれることになった。レジェンズでももちろんこういった過程は描かれるのだが、絆を深めるまでのプロセスがきわめて特殊だった。

レジェンズ」が操られる側のモンスターであり「サーガ」はレジェンズを操る側という主従関係であるが、この関係性が非常に屈折して描かれていたのだ。

 

とは言うものの、主人公のシュウとシロンは「ちょっとバカでやんちゃな少年」と「それを見守る相棒」というとても理想的な関係だった。時にはシュウがボケ倒し、それをシロンがつっこむというバランス感が保たれていた。つまり、主人公とそのパートナーは最初から割と良好な関係だったのだ。

シロンがシュウをレジェンズウォーに巻き込みたくないがために家出してわざと距離を置くなど、むしろ気を遣いすぎな部分が見受けられた。シュウを巻き込まずに一人でダークウィズカンパニーに立ち向かうがサーガの力無しでは何も出来ないと分かり、家出した後にようやくシュウの大切さに気づく。「相棒から離れて、初めて相棒の偉大さが分かる」展開はよく使われるが、レジェンズ』において「サーガとレジェンズは切っても切り離せない関係」がそのまま作品のキーとなってくるのだ。

 

このように王道展開でシュウとシロンは絆を深めてきたが、問題は他のメンバーである。ディーノとグリードー組を一言で表すと「ヤンデレ」と「距離感をあえて離そうとする男」という、非常に危なっかしいものである。ディーノはあまり人と仲良くできない人間であり、他のキャラとも距離を置いていた。そして自身のレジェンズであるグリードーを数少ない「友達」として認識し、グリードーを我が物にしようというヤンデレっぷりを発揮する。しかしグリードーは過去のレジェンズウォーの際に大切なサーガを亡くした経験があり、必要以上にサーガと仲良くなることを避けていたのだ。

そして遂に「君は僕の友達だよね?」というディーノの問いかけに対し、グリードーは「お前は…。俺の友達なんかじゃねぇ!」と返してしまう。どちらもワケがある上、そんな微妙な距離感故のすれ違いに心がチクリとくるのだ。シロンもグリードーも「サーガを傷つけまい」という意志のもとであえて距離を置くという"優しさ"を持っているのだが、その優しさがアダになる歯がゆい関係性だった。グリードーの場合はさらに「サーガがヤンデレ気味」という困った属性を持っていたため、より一層入り乱れた関係である。

 

メグとズオウの関係性もこれまた非常にしんどいものがある。物語の流れとしては、レジェンズの恐ろしさについて身をもって知ったメグが、タイミング悪く水のレジェンズであるズオウに好かれてしまうという話。メグは「レジェンズ=恐ろしいもの」というイメージを持ち、一向にズオウに心を開こうとしないのだ。メグの目の前に水のタリスポッドが出現し、いよいよサーガとして目覚める時が来たか!と思えばあろうことかタリスポッドを投げ飛ばす始末である。メグを守りたいというズオウの思いが、ことごとく裏目に出てしまう。同時に、この「レジェンズへの恐怖心」というものは後に物語の根幹に関わってくる要素にもなってくるのだ。

 

中でもマックとガリオンの関係はかなり特殊である。お互いに「自然を愛する」という点で共通しているものの、手段が全くもって一致していなかった。登場当初のガリオンの考えは「自然を守るためなら人間はどうなってもよい」という極端にも程があるものであり、どちらかと言うと悪役側に近い考えを持っていた。それも、レジェンズウォーが起こるのは必然だから仕方がない、という半ば悲惨な運命を受け入れてしまうような言動が見受けられた。さらに面白いのが「マック自身がガリオンに変身してしまう」という点。そもそも「レジェンズと、それを操るサーガ」という関係が成り立っていないのである。この性質故に、マックとガリオンは暫く平行線を辿ることとなるのだ。だからこそ、人間を悲観視していたガリオンがマック家に行った際に、自然をふんだんに使って作られた"陶器"を見て「人間のつくったものの良さを知る」展開はグっとくるのだ。同じような考えに見えて、実は根本的な部分が食い違っていたマックとガリオンの関係はようやく解消される。

 

シュウ、ディーノ、マック、メグのそれぞれの「レジェンズとの関係性」を見てきたが、共通点として「衝突が起こっていない」という所がある。サトシとピカチュウのようにお互いがぶつかり合った末で絆を深めたり、ザックとカブト丸のような「凸凹コンビ」を通じた絆の描かれ方は一切なされていない。これが『レジェンズ』において"美味しい"と感じたポイントである。

シュウを巻き込みたくないために1人で家出したシロン、ディーノの身を守るためにわざと突き放したグリードー、メグに嫌われまくりでまともに話ができなかったズオウ、そもそも顔合わせすらできなかったマックとガリオン、これらは全て「どちらかが一方的に距離を置いてしまっている」という非常に特殊な関係性である。この複雑なすれ違いから始まり、「レジェンズとサーガは切っても切り離せない運命にある」というギミックを用いて、最終的にはレジェンズウォーに立ち向かう過程でサーガとレジェンズとの絆を描いた点は非常に秀逸であった。

 

例えばマックがガリオンと分離をし、初めて対面した際「嬉しかった」ことを、その頃ズオウとすれ違い真只中だったメグに対して言うシーンは、「対面することで分かり合える喜び」をメグに伝えたかったのだろう。マックのそのセリフがメグとズオウの絆を深めるキッカケとなったのだ。まとめると「レジェンズとサーガが"向き合う"こと」を徹底していたなと。決してぶつかり合うわけではなく、ただ運命を共にする。複雑に入り組んだ関係性は、意外にもシンプルな着地を成し遂げたのだ。

 

 

レジェンズが人間を脅かす

or人間がレジェンズを脅かす

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4人のサーガとレジェンズがようやく結束を固めた頃、その裏では「ハルカ先生の闇落ち」「ハルカの父・ユルの陰謀」「シロンとランシーンの関係」「ジャバウォックの登場」など、終盤にかけて加速度的に新たな展開が繰り広げられる。中でも作中で最も脅威だったレジェンズ・ジャバウォックの存在は無視できない要素である。ジャバウォックは他のレジェンズとは全く違う性質を持っていた。人間の黒い感情を具現化した存在であり、さらにハルカの母・ラドを心臓にして動いているのだ。つまりジャバウォックという存在は、究極的には「人間そのもの」だったのではないだろうか。

 

ズオウを拒絶するメグ、ハルカ先生の闇落ち、レジェンズを滅ぼそうというユルの陰謀、これらは元を辿れば全て「レジェンズへの恐怖心」に帰結するのだ。そしてその恐怖心を最初に抱いた人間がハルカの母・ラドだったのだ。彼女がランシーンを目撃した瞬間から、全てが始まってしまったのだ。このランシーンこそが全ての元凶であり、同時に一番の被害者であると言える。レジェンズウォーで人間を滅ぼそうと考えていたが、反対に人間によってレジェンズが滅ぼされそうになるという逆転現象が起こる。

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これを踏まえて見てみると、最終回ではランシーンが自分の身を犠牲にしてジャバウォックを道連れにし、「自分が人間を恐怖に陥れた」ことに対して罪滅ぼしを行うシーンはただただ"深い"と感じるのだ。そして同時にランシーンの株が自分の中で爆上がりである。ランシーン自身もハルカ先生に利用されていた、「人間の被害者」でもあるのだ。にも関わらず、人間を守ろうとしてジャバウォック共々消え去そうとするのだ。何が言いたいかというと、つまり一番の脅威は他でもない「人間」だったなと。上で書いた通り、最強のレジェンズであるジャバウォックは最も人間に近い存在である。レジェンズが人間にとっての脅威」という話の流れは終盤で完全に「人間がレジェンズにとっての脅威」という構図にひっくり返ってしまったのだ。

 

 

あの結末はハッピーエンドだったのか

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そんなこんなで複雑に絡み合った「人間とレジェンズの対立構造」は遂にレジェンズウォーにまで発展して文字通りもうどうにもとまらなくなってきたのだが、光属性のレジェンズ「スピリチャル」の登場によって状況は一変。歴史の中で幾度もレジェンズウォーが起こり、その度にスピリチャル達は戦争を止めるように働きかけてきたことが判明する。シロンはスピリチャルの説得を受け、戦いを止める決心をする。つまり『レジェンズ』の物語は、幾度と繰り返されてきたレジェンズウォーのうち、"一番最後のもの"である。

 

スピリチャルの力で時間を巻き戻し、過去改変を行うことで世界を救う。惨劇を回避する方法として、過去改変はよく使われるものだが「過去改変して戦いを終わらせる事ができてよかったね!」では済まないのが『レジェンズ』なのだ。そもそもレジェンズは戦う為に生まれてきた存在なので、本当はレジェンズウォーを行うのがレジェンズの役目なのである。戦いが終わった今、レジェンズの存在意義は無くなってしまったのだ。戦う必要がなくなったレジェンズがサーガ達に別れを告げて自然に還る。サーガとしての役目を終えた子供たちは、レジェンズに関する記憶を失って日常に戻る、という劇的な物語の終わりは我々に大きな衝撃と、余韻を残したのだ。

 

この終わり方は一見すごく綺麗に見えて、でも「共に過ごした記憶がなくなる」のはすごくバッドエンドっぽいし、けどあれ以外に良い終わり方もないだろうし、やっぱ結果としては「良かった」のだろうか?こんな疑問が頭の中をグルグルと駆け巡る。

とは言うものの、安易なレジェンズとの共存エンドではあまりに普通すぎるし、俺たちの戦いはこれからだエンドにしなかったのは良かったなと。結局、レジェンズは最後まで「人間の憎まれ役」だったのだ。人間のエゴによって強制的に"甦らされた"レジェンズが、人間の都合で滅ぼされそうになり、最後にはひっそりと消えてゆく。あまりにもレジェンズ側が不憫な終わり方ではないだろうか。見た当初は正直、この結末には納得できなかった。

 

それでも、シロンの「子供たちを巻き込みたくない」という願いは自身が消える事で果たされたと言えるし、グリードーもディーノを死なせずに済んだ。彼らの消滅には意味があったのだ。そう考えると少しはレジェンズ側も救われたと言えるのだろうか。

と、そんな感じで色々と考えさせられる結末だった。最終回Cパートで、消滅後にねずっちょフォルムで地球に転生したシロンが、元サーガたちと再び出会う。お互いに記憶を失っているので「再会」とは言えないかもしれない。

ハッピーエンドか否かは完全に「見る者の解釈次第」である。マイナー故にあまり語られないアニメだが他の人の目にどう映るのか、とても興味深いので是非味わってもらいたい。

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なぜ当たり前のようにSNSを使うのか。そしてその恐ろしさを自分なりにまとめてみた。

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こんにちは、シゲです!

インスタグラムのユーザーがここ最近一気に増え、「インスタ映え」なる言葉をよく耳にする。ちょっと前まではフェイスブックが主流なSNSだったが、インスタグラムも新たな勢力としてトレンドになっている。10年前にEメールで友とやりとりしていたのが嘘のようである。「いつでも、誰とも繋がれる」のはSNSの強みだなと感じる。

 

ラインの便利さはわざわざ説明しなくても身をもってわかるはずだ。また、ツイッターはどうでもいいことを垂れ流すのにとても便利である。同時に友や有名人の近況だってすぐに知ることができるのだ。

そしてツイッターの凄いところは「情報の早さ」にあると思う。ドラマの感想などはハッシュタグをつければ一瞬で見つけることができる。以前まではまとめサイトに感想スレがあがるのを待つ他はなかったが、ツイッターではものの数秒で情報を得られるのである(真偽の問題はあるが、今はそういう話をするつもりはない)

 

しかし、SNSにはある種の恐ろしさを私は感じている。既にライン・ツイッターという便利すぎるツールがあるにも関わらず、さらにフェイスブックやインスタグラムにまで手を出すのである。私はラインとツイッターは使っているものの、フェイスブック・インスタグラムは使っていない。理由は「ラインとツイッターだけで十分」だからだ。

しかしながら、多くの人はラインのタイムライン、ツイッターに加えて嬉々としてフェイスブック、インスタグラムに写真を載せて充実アピールをするのだ。正直、(あえてこう書くが)異常である。別にネットリテラシー云々とかそういう事を言いたいわけではない。SNSというのはいわば、「自分が今何をしているのかをアピールする手段」というわけである。自分を知ってほしいというある種の「自己顕示欲」というものは誰にでもあるだろう。私にだって勿論、ある。ブログやってるのも誰かに読んでもらいたいからなので、それは否定するつもりはない。私が異常だと感じるのは「複数のSNSを通して自分を"魅せる"こと」「友との繋がりを"悪い意味で"強めるということ」の2つである。

 

 

SNSは自己顕示欲の捌け口なのか

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自己顕示欲を持つこと自体は何も悪くないと思っている。誰だって「かっこよくみせたい!」「できる人だと思われたい」という欲求はあるからだ。肝心なのは「自己顕示欲の矛先をどこに向けるのか」である。かっこよく見せるために筋トレやダイエットすることは褒められるべきだし(無論、健全な方法であるという前提だが…)、服をコーディネートするのも良いだろう。できる奴だと思われたいために、テストで良い点を取る努力をするのも自己顕示欲の良いコントロールの例である。

しかし私は自己顕示欲の矛先を「充実アピール」に使うことには苦言を呈したい。これを言うと謎の勢力に「非リアの嫉妬!」と言われそうだが、自分はあまりSNSで充実アピールはしたくない人間なので(なんかみっともないし、やるにしても「どこどこ行きましたー!たのしかった!以上!w」くらい)執拗に充実アピールをする人間の深層心理を疑ってしまう。本当はうまくいってないんじゃ…とか。

 

さらに、その「充実アピール」を複数のSNSでやるということが非常に恐ろしい。ツイッターだけで満足せず、フェイスブック、インスタ、ラインのタイムラインに同じような投稿を何回もやるのって普通にしんどくね?って話である。そこまでして充実アピールをするのは、「できるだけ多くの人に知ってもらいたい!」という欲望を充足させるためだろう。ツイッターならフォロワー、ラインなら友達、フェイスブック、インスタグラムのフォロワーなど、様々なジャンルの人たちが彼らの周りには存在する。そんな「別ジャンル」の人たちを取りこぼすことなく自分のことをアピールしよう、というわけなのだろうか。「インスタ映え」するアイスクリームを写真だけ載せて、あとは食べずに捨ててしまうというモラルを欠いた行動が問題視されているが、これは彼らの中に自己顕示欲と言う名の"怪物"が息を潜めているという何よりの証拠ではなかろうか。

 

 

人を繋ぎとめる鎖で自分の首を絞める人たち

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 「SNSが自己顕示欲の捌け口となっている」という話をしてきたが、もう1つの問題は「必要以上に友を繋ぎとめてしまう」という点である。いつでも友と繋がることができるSNSは確かに便利である。それは裏を返せば「どんな時でも友から離れられない」ことを意味するのだ。

ラインが来れば返事を考えなければならないし、その間ツイッターに浮上しようものならアリバイが成立せず「こいつライン返事しねーくせにツイッターやってんじゃん!」というめんどくさい事態に陥る。つまり、整合性をとる努力を強いられるわけだ。アリバイを成立させるためには「ツイッターに浮上しない」か「ラインの返事をすぐに返す」の二択しかないのである。

厄介な事にツイッターには「◯◯さんがいいねしました」という、誠にありがたくない機能が備わっている。ツイートせずともいいねから分かってしまうのである。

 

いわゆるSNS依存症である。SNSの恐ろしさを語る際「知らない人と簡単に繋がることができるから、トラブルに発展しやすい」ことが挙げられるが、私としては「リア友との繋がりが必要以上に強固になる」事の方が恐ろしいのである。SNSでは間接的とはいえ、24時間友達と共に過ごす事になるのだ。つまり実質的には1人になることができないのである。少し大袈裟かもしれないが常に誰かに監視されている状態である。フォローしてる人やフォロワーだって簡単に見ることができる。「こいつとこいつにはこんな繋がりがあるのか!」ということがバレバレである。

 

我々はSNSという名の鎖で人間関係を繋いでいる。さらにその鎖は一本だけではなく、人によれば二本、三本という者もいるだろう。自分では人と繋がっているつもりでも、実質的には色々な人によって"飼いならされている"にすぎないのではないか。そしてその鎖で自分の首を絞めているような気がしなくもない…。

圧倒的な瞬間最大風速 『リトルバスターズ!』の大どんでん返しが今でも忘れられない

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こんにちは、シゲです!

当ブログは一応、アニメの感想・考察等をまとめたブログというコンセプトだったが、最近はアニメの話題をあまり挙げてなかった気がするのでそろそろガソリンを補給しようかなと…。

 

 

 そこで今回紹介したいのはkey作品の4作目『リトルバスターズ!』である。ゲームが発売されて10周年ということで、スピンオフの『クドわふたー』アニメ化プロジェクトが動いている。私もせっかくだからこの流れに乗って『リトバス』について語りたいと思う(と言っても原作未プレイだからあんまり偉そうには語れないが…)

 

 

結論から言うと純粋に面白い青春ドラマであった。refreinからが本番で、ヒロインの個別ルートは前座とよく言われているがとんでもない。個人的には十分に各ヒロインのエピソードを楽しめた。特に小毬のエピソードは後々の展開を考えると非常に大きな役割を担っていた。(ゲーム原作アニメだから所々端折られているところはあるだろうけど、それでも良くキャラクターが掘り下げられていたと感じる)

 

 

野球要素は如何に自然なギミックとして働いていたか

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アニメ版が放送されたのは2012〜2013にかけてだった。大きく分けて各ヒロインの個別ルートドラマをメインで描いた「無印」、世界の秘密・理樹と鈴の成長を描いた第2期「refrain」に分けられる。無印ではkey作品の例に漏れず個別ルートが描かれるが、本作品で特に面白いのは「野球要素」が全面的に押し出されている所にある。あくまで野球チーム「リトルバスターズ」を結成するまでの過程の中で、ヒロインたちの掘り下げを行っている。「key作品は野球要素が恒例」とは良く言われるイメージがある。その原点とも言えるのが『リトルバスターズ』なのだろうか。

 

 

「野球」というスポーツは正直私はあまり詳しくはわからない。ルールすら理解していないレベルである。しかし部活動なら中高問わずどこの学校でも盛んに行われていて、夏には高校球児の晴れ舞台とも言える甲子園が開催される。プロ野球に至っては老若男女問わず熱狂的なファンが居る。「野球」というスポーツは日本を代表するものなのである。

 

ルールすら分からないのにホームランを打てば「うおおお!」となるし、さらに「サヨナラ」の冠を被れば何故か涙が出てくる。野球のことは何も分からないが小学生の頃は『ルーキーズ』を食い入るように見ていた記憶がある。つまり野球は「ルール」や「知識」を越えた魅力があるスポーツなのである。それ故に様々な漫画・アニメでは「野球」を題材にしたものが多いのではないだろうか。

 

 

野球といえば青春。リトルバスターズが掲げるテーマ「友情」を描くのにはピッタリすぎる材料だったのではないだろうか。また、野球用語がそのまま物語のギミックとして働いていた印象がある。恭介の「コールドゲームだ」「サヨナラホームラン」など、随所に用語が散りばめられていて非常に"上手い"やり方だった。

 

 

少年漫画のような成長ストーリー

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key作品はいわゆる「ノベルゲーム」である。「ノベルゲーム」は傾向としては恋愛ものが多いイメージがあり、keyというブランド自体も「恋愛」から発展した「泣き」をウリにしている。そんな中で「友情」というテーマを掲げたのはある意味では大きな挑戦だったのかもしれない。というのも私自身「恋愛」と「友情」は非常に両立し辛い材料だと思っている。普通に両立させようとすると「恋愛」がメインで「友情」はおまけみたいになってしまうことが多い。しかし『リトバス』は「友情」をメインに添えて、恋愛はあくまで一要素という逆転した作風になっていた。それでも決して理樹と鈴の関係性を軽視するわけではなかった。2人の出会いから始まり、refrainで描かれた逃亡劇など、理樹がひたすら鈴を守るために奔走する描写もしっかりと描かれていたと感じる。

 

 

そもそもkey作品は一要素として「恋愛」を使っているものの、それを全面的に押し出すような作風ではない事が多い。例えば『AIR』の「親子愛」、『CLANNAD』の「家族愛」、『Angel Beats!』では「人生観」というように「恋愛から発展した心の変化」に重きを置いているからだ。あくまで全体像のうち、一部分に恋愛があるに過ぎない。『リトバス』の場合"それ"が「友情」だったのだ。

 

 

また、『リトバス』は少年漫画のような色彩を帯びていたと感じている。「虚構世界」という独特な世界観は今までのkeyっぽさを残しつつも、季節感を全面的に出していた三部作からデザイン自体も一新され、ストーリーもこれまでのkey作品とは一区切りつけたような印象。

 

「野球」「友情」については上で触れたが恭介をはじめとし、真人や謙吾といった「男キャラクターの存在」が非常に強いスパイスとなっていた。それも彼らの存在なしでは『リトバス』が成り立たないくらいの大きな役割である。

理樹と鈴の成長を主軸として物語を進めて来たが、「男サイド」もリトルバスターズを通して同時に成長させられていたなと。虚構世界に浸っていたのは理樹たちだけではなく例えば謙吾だってそうだったのではないだろうか。

少年時代を剣道一本で過ごし、いい思い出を作れなかったブランクを虚構世界で埋めようとする謙吾もある意味で「現実逃避」とも言えるかもしれない。『リトバス』において虚構世界はあくまでも虚構であって、現実ではない。虚構世界はいつか出ていかなければならない場所だった。この「心地良い世界から脱却する必要性」というものは後の『Angel Beats!』における「成仏」「卒業」にも繋がってくる要素である。

 

 

直枝理樹というキャラクターもまた、この"少年漫画っぽさ"に拍車をかけていた。key作品にしては珍しく「大人しめの男の子」であった。後にも先にも、このような控えめな性格の主人公はkey作品にいない。(前3作の主役相沢祐一国崎往人岡崎朋也は割としっかり者という印象が強い。さらに後2作の音無結弦、乙坂有宇、天王寺湖太郎も決して気が弱い感じの性格ではなく、時にボケ役に徹して場を盛り上げるチャラ男っぽさのあるキャラ付けであった。(あくまでアニメを見ている限りでは)

 

言って仕舞えば理樹は色々な意味で「弱い」タイプの主人公だった。恭介をはじめとし、様々なキャラクターたちに守られながらストーリーは進んでいた。真面目で普通の男の子の"理樹"と、破茶滅茶ながらもかなり大人びているみんなのヒーロー"恭介" この2人の男は物語を絶妙なバランスで支えていたのだ。

 

また、理樹の精神的な脆さを表現する手段として「ナルコレプシー」が用いられていた。眠りについた状態は「現実から離れている」とも言えるので、現実から目を逸らしたいという理樹のストレスを表すには使いやすかったのかもしれないが…。どうしても「便利な場面転換の手段」という側面がチラついてしまった。

そもそもあまりナルコレプシーという設定自体があまり活かされていないなと…。後半になるにつれて「そういえばナルコレプシーなんてあったな〜」となってしまう。物語の都合上ナルコレプシーという設定が、死に設定とまではいかないものの「場面転換の手段」の域を出ないなぁと感じてしまった。

 

まとめると、「虚構世界」「ナルコレプシー」「主人公が"弱"のイメージ」という3要素は、全て「成長」のストーリーを描く為の土台であったと感じている。

 

総じて、『リトバス』は今までのkeyっぽさを残しながらも「豊富な男キャラクター」「友情というテーマ」「スポーツ要素」「成長」など、少年漫画に見られるメソッドを沢山盛り込んでいたのである。

 

 

リトバス』の大どんでん返しは如何に"凄かった"のか

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リトバスの最大のネタと言ってもいいものが「虚構世界の秘密」である。上で虚構世界について少し触れたが、リトバスで描かれている劇が虚構世界での出来事である」ということを視聴者が知るのは物語のかなり終盤に差し掛かってからである。表面上はいわゆる「夢オチ」にも似た仕掛けである。「今までの物語が無かったことになる」夢オチは往々にして批判されるが、リトバスの虚構世界は「現実に戻る前に理樹と鈴を成長させる」という役割があったので「今までの物語が無駄だった」とはならない。分かりやすく言えば現実に戻るまでの"予行演習"であった。

 

リトバスの比較対象として『Angel Beats!』が挙げられるだろう。あちらの世界観は「死後の世界」なので厳密に言えば臨死の世界である「虚構世界」とは少し異なるが、上で触れた通り世界からの脱却という点で共通している。また、キャラクターが消滅するカタルシス的なものも双方で見られる。両者の決定的な違いは死後の世界や虚構世界といった「物語の根幹に関わる世界観設定」を視聴者に“最初に提示”するか“最後に提示”するか、というところである。

 

Angel Beats!では最初に「死後の世界」ということを提示し、そこからキャラクターの生前の記憶と後悔・葛藤を描き、自分の人生を受け入れて成仏していくというストーリーの流れだった。リトバスではこれまでのkeyと同じく個別ルート型ドラマの中でヒロイン達の苦悩を解決していくという方法を用い、終盤で世界の秘密について迫って行くという流れである。

 

虚構世界というネタばらしは今までの「リトバスのイメージ」を白紙に戻すというある種の力技であると感じている。私自身、『リトバス』のネタバレを知る前には、所々「世界の秘密」について仄めかす描写があったものの基本は普通の青春ドラマだと思っていた。(いかんせん当時の私はおつむが弱く、世界の秘密について伏線が多かったものの「虚構世界」であることを見抜けなかった)

10〜11話でネタばらしをされた後は、「リトバスは生易しい青春ドラマでは無かった」という衝撃にノックアウトしてしまう。「ヒロインが悩んでいる」なんて優しいもんである。実際にはバスの事故で生死を彷徨っているのだから。

 

これまで理樹たちが奔走していた世界は「理樹と鈴のために作られた世界」だったのだ。麻枝准は毎回独特なファンタジー的世界観を物語の根幹としてストーリーを描いていたが、リトバスの場合"それ"についてのネタばらしは最後の最後だったから、余計に衝撃が凄かった。

 

11話の恭介との別れはリトバス屈指の名シーンだった。クールで完璧な男だった奴が大粒の涙と声にならない声で嗚咽を漏らすシーンは未だに脳みそに焼き付いている。その後の消えかかった学校にて、壁を指でなぞりながら自分たちが過ごした教室へ戻り、徐々に画面が白く消えていく演出など、余韻を大きく残すやり方が何ともkeyらしい…!「衝撃」と「感動」のダブルパンチが見る者をノックアウトさせるのだ。

 

 

リトルバスターズ!』のメッセージは何だったのか

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「いつまでも子供のままじゃいられない」

上で述べたが、これが本作品のメッセージだったと感じている。漢字二文字で表せば「成長」である。一期オープニングの「Little Busters!」では「手を繋いでみんなで仲良くしよう!」といった意味合いの歌詞であるのに対し、二期オープニングの「Boys be smile」では「手を繋いだままじゃ子供だ。」という、一期へのアンチテーゼとなっている。

 

人はいつか、1人で進んでいかなければならないという主張がリフレインではなされていたのだが、結果としては全員生存エンドだったので正直拍子抜けした感じは否めなかった。それでも「困難を乗り越えて全員を救う」という行為はそれこそ「成長した理樹と鈴」にしかできないことである。この作品が伝えたかったのは「成長のあり方に"正しい"はない」ということなのだろう。間違った方法で成長させようとして鈴は精神を病んでしまった。自分にとってベストな成長の仕方がある、私はそう解釈している。

 

ちなみに『リトルバスターズ!』のタイトルを普通に訳すと「小さき破壊者」になる。子供ながらに破天荒な遊びをする奴らだぜ!という解釈が一般的だろう。しかし私は『リトルバスターズ!』には「子供を打破する者たち」という意味が含まれていると考える。

子供のままじゃいられない。だから「子供」の状態を打破しよう。それこそが成長の一歩である。その願いが「リトルバスターズ!」というタイトルに込められているのではないだろうか。

 

ゲームが発売されて10周年となる現在、クドわふたーのアニメ化計画がなされている。無事にアニメ化されることを願っている。

世にも奇妙な物語の『ズンドコベロンチョ』はなぜ傑作なのか。 分からないことを分からないと言って何が悪い!

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こんにちは、シゲです!

7月になれば、新しい環境にもそろそろ慣れてくるシーズンだろうか。この4月に高校、大学へ入学した人も、授業や人間関係に慣れてきたことだろう。大学生になるとバイトにサークルに忙しい一日を過ごしている人もいるはずだ。また、この春に社会人になった人はそれの倍以上の忙しさに疲弊する毎日を送っているかもしれない。今の時期はバイトや仕事で「教えてもらっていないのに怒られた!」と嘆く人々も出てくるシーズンだと思う。

 

 

前振りはこの辺にしておいて、今回はタモリが進行を務める『世にも奇妙な物語』の傑作エピソードとしてしばしば挙げられ、2015年の傑作選では藤木直人を主演としてリメイクまでされた『ズンドコベロンチョ』について語りたい。

そもそも、世にも奇妙な物語は、純粋なホラー路線の物語や人間的な恐ろしさを描くエピソードから、感動系やウケ狙いのものまで幅広くカバーした「超オールマイティ型」のオムニバスドラマである。私が小学生の頃はワクワクしながらテレビにかじりついて見ていた記憶がある。(同じように『ほん怖』も夏休みの楽しみであった)なので「マニア」まではいかないものの、ある程度有名なエピソードは把握しているつもりである。

 

 『ズンドコベロンチョ』はなぜ意味不明のままなのか

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その中でも『ズンドコベロンチョ』は異彩を放っている作品だ。物語の進め方としては、普段から小難しい言葉を使いたがる主人公のエリートサラリーマン。言葉を理解できない部下を「無能だ!」と罵る。ある日「ズンドコベロンチョ」という未知の言葉を耳にする。どうやら周りの人たちはズンドコベロンチョが何なのかを把握している様子で、理解していないのは自分だけだという状況に困惑する主人公。そして意味を教えてもらおうとしても「そんなことも分からないのか!」の一点張り。主人公は「結局ズンドコベロンチョって何なんだ!」と叫んで終わる、というある種の「因果応報」の物語となっている。
いわゆる、「ウケ狙い」路線のエピソードなのだが、この作品が特異である理由はまず「謎を明かさずに終わる」という所にある。劇中では最後まで「ズンドコベロンチョ」が何なのか明かされない。ズンドコベロンチョの意味を理解しているのは、劇中の主人公以外の人物だけなのである。「ズンドコベロンチョ」を当たり前に知っているという「てい」で話が進んで行く。そして我々視聴者も、主人公と同じように惑わされる、という仕掛けになっている。

「謎が明かされない」という仕掛けは、視聴者を強制的に「主人公の目線」にしていまう、非常によく出来た演出である。否が応でも視聴者に感情移入させるのだ。この点においても『ズンドコベロンチョ』は上手い作品だと言える。

 

 

初回放送の直後にはテレビ局に「結局、ズンドコベロンチョって何なんだ!」という電話が殺到した話も有名である。劇中でも一応、ズンドコベロンチョについてが掲載されているウィキペディアらしきものが映るシーンがあったが、その内容もめちゃくちゃであり、「現段階では定義出来ない」というのが現状である。なので、ここでは「ズンドコベロンチョの意味」ではなくて、「ズンドコベロンチョという作品が何を我々に伝えたかったのか」を見ていきたい。

 

 

分からないことを分からないと言って何が悪い!

リメイク版の劇中冒頭で、主人公が部下に「何だ!コア・コンピタンスの意味も知らないでコンサルやってるのか!」と小馬鹿にするシーンが描かれる。そもそもコア・コンピタンスとは何なのだろう。ウィキで調べたら下のように出てきた。

コア・コンピタンス (Core competence)とは、ある企業の活動分野において「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」「競合他社に真似できない核となる能力」の事を指す。
コアコンピタンス - Wikipediaより

なるほどなるほど…。だがこんな言葉、普通に生活してたらまず使わないだろうw

たとえコンサルタントの中では常識中の常識であっても、初めて聞く人には優しくない言い回しである。そんな主人公も「ズンドコベロンチョ」の意味を求めて奔走するハメになる。誰も教えてくれないという苦悩を抱えたまま因果応報の物語は幕を閉じる。

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この作品が提示したテーマは「分からないことを分からないと言えない社会への風刺」だと私は感じている。記事の冒頭でわざわざ「教えてもらってないのに怒られた!」といった話を書いたのは、我々もバイトや仕事でこういった場面に幾度も晒される事になるからである。私が大学一回生の頃に学習塾でアルバイトをしていた時も、「知らない事、教えてもらってない事」でトラブルがあった。そんな場面でも「教えてもらってないです」と言えば「ゆとり世代」「使えないやつ」の烙印を押される事もあるのだ。「教えてください」と頼んでも「自分で考えろ!」と切り捨てる人もいる。

 

 

「そんなの常識だ!」は上司の常套句である。だがその「常識」は一体誰が決めたのか、そもそも知る機会はどこにあるのか、なぜ「分からない、知らない」と言っても素直に教えてくれないのか、こういった若者のモヤモヤを作品として昇華した『ズンドコベロンチョ』は本当に傑作だなと私自身感じている。

そもそも本作品は1991年が初回放送である。放送当時も大きな反響を読んだが、24年後、2015年のリメイクも相変わらずの高評価であった。24年という期間は決して短くはない。当時24歳の新入社員も今では単純計算で48歳になる。つまり初回放送の世代は現在、それなりに偉い地位に立っている頃かもしれない。世代交代をしても未だに『ズンドコベロンチョ』が高評価なのは、「どの世代にも同じような経験がある」からではないだろうか。

わざわざ24年越しのリメイクをしたのは、自分たちが上司になった時、部下の「分からない」を受け入れられるか?という挑戦状なのかもしれない…。