シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

インターネッツに足跡を残すということ 「ストーリー不要の時代」「ポリゴンはわるくない!」を例に

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ちょっと前にはてな匿名ダイアリーにて、以下の記事が話題になっていた。

https://anond.hatelabo.jp/20180116071707

 

シナリオライターをされている方が、今流行りのポプテピピック、鉄血、異世界スマホを例に挙げて「今はストーリーに価値が見出されない時代だ」と愚痴をこぼしたもの。

しかしながら反響は本人が思った以上に大きく、ネット上(主にツイッター)では「ポプテピピックが流行っているからといって、ストーリーが軽視されている訳じゃないだろう」「君の名は。シン・ゴジラがあれだけヒットしたのはストーリーが良かったからだろう」など、ビシビシと叩かれていた印象だ。

 

いやまぁ、確かに異世界スマホやらポプテピなどのごく一部の例を挙げて「ストーリーが要らない時代だ!」と結論づけるのは無理があるとは思う。本人も「酔った勢いで書いたような愚痴」と認めている訳だしそこまでガチになって叩かなくても、と思ったのが正直な感想。インターネットでは迂闊なことは口にできないなと心底思いました。

 本人からすれば本当に「チラシの裏の殴り書き」だったんだろうけど、いくらチラシの裏とはいえネット上なので、まとまりのない頓珍漢な主張でも全国に広がり、識者によってビシビシと叩かれてしまうのはなかなか怖いですよね。自分が今書いている記事だって、ひょんなことからビシビシ叩かれて可能性だって無いわけではないのだから。

 

もう一つの例としてニコニコ大百科の記事「ポリゴンはわるくない!」があります。まずは有無を言わずに読んでほしい…。

 http://dic.nicovideo.jp/t/a/ポリゴンはわるくない!

 

 最初の方はあの有名な「ポリゴン事件」の概要について、どのシーンで誰がどんなアクションを起こした時に"それ"が起こったのかが、若干癖の強い口調ながらも詳細に書かれている。自分も途中までは「なるほどなるほど…。」と読んでいた。

事故が起これば、誰かが責任を取らなければならない。ポケットモンスターの看板キャラであるピカチュウにその役割を負わせるのは色々と不味いだろう。ならばその回のゲストキャラ「ポリゴン」に責任を負わせよう。という経緯が割と正確に書かれていたのだが、途中から「今のポケモンファンは心が汚れている!」などとかなり話がぶっ飛んでおり、ツッコミどころが満載だ。

そのすぐ下にあるカタカナのセリフも見るに耐えない惨状だ。挙げ句の果てにはポケモン「ルビー・サファイア」の赤と青はポリゴン事件で話題になった「パカパカ」の手法が暗喩されているのでは…?など、(それはそれで面白い解釈だが)普通に考えると「いや、それはないだろ」となる考察がなされている。

そしてポリゴンは記事内で「ヤンデレ」としてのキャラを付与され、ちょっと頭のネジが数本飛んだようなセリフを発する。

 

もう完全に「ポリゴン事件」云々の話から遠ざかってますよね。ポリゴン事件の経緯と、ポリゴンに対する誤解を解くのが記事の趣旨だったはずなのに、勝手に仮想敵を作って「今のポケモンファンはおかしい!」としてしまったり、さらには「もしもポリゴンに感情があったら」など、妄想がふんだんに盛り込まれており、事実確認としてはあまりにも突飛な内容の記事と言わざるを得ない。

 

ちなみにこの記事が作成されたのは2009年。

仮に記事主が当時中学1年生だとしても、今はもう22歳あたりか?いずれにせよ黒歴史である事には変わりない。書いた当時としては、自分の中に渦巻く「ポリゴン愛」をどうにかして昇華していまいたい、皆の誤解を解きたいという正義感からこのような結果に至ったのだろう。

この記事のスレッドは1500レスにまで登り、今でも掲示板内で賛否が繰り広げられているほか、中には「こんな記事削除してしまえ!」という声も。記事主もここまで騒ぎになるとは想像してなかっただろう。

 

インターネットという永久凍土層

 

ところで皆さんには学生時代の「黒歴史」ってありますか?もしかすれば右腕が疼いちゃったり片目に眼帯つけていたテンプレ厨二病の方もいるのではなかろうか。ちょっと痛い言動だったり、自分で描いたちょっとヤバめの漫画だったり、色々なタイプの黒歴史ってありますよね。でもそうしたアナログの黒歴史は時間が経つにつれて人の記憶から消えていきます。本人は覚えていても、周りの人が忘れてしまえばその歴史は「なかったこと」になります。めでたしめでたし。 

 

しかし、それがインターネット上であれば話が別だ。よく言われているのは、「ネット上にあげられた画像は半永久的に拡散されて、消えることはない」です。高校の情報の授業で、一番最初に教えられた話がそのことでした。バカッターの全盛期だったから仕方ないね。

 永遠に残るかと言われれば永遠に生きてみなければ分からないのでアレなんですけど、言わんとしてる事は大体分かりますよね。少なくとも私が生きている間は残っているでしょう。

 

つまり、「ネット上での黒歴史は時間が経っても新鮮なまま生き続ける」ということです。恐ろしい。いや、もうすっごく当たり前の話ですけどね。上からものを言っているけどあんたはどうなんだ!と言われそうですが、安心して下さい。私も中学の時にポケモンの動画を挙げていた頃がありましたし、個人ホームページに訪問してポケモン交換やら掲示板で会話やらを知らない人とやっていました。完全に黒歴史ですね。流石にここに動画を貼り付けることはしないが…。

 

そしてこのブログだって何年か経てば黒歴史と化すかもしれない。ネット上に何かを残すという事は「永遠に周知され続ける」こと他ならないのだ。ちょっとイライラした時に書いた頓珍漢な主張も、若かりし時のエネルギーを暴発させたような痛々しい文章も、「当時の気持ちそのまま」で新鮮なまま保存されてしまう。自分は今、できる限り精神状態がフラットな時にブログを書くようにしている。それが「インターネッツに生き続ける黒歴史」にならないように…。

【ブログ開設から1年】ブログ概要を今更ながらまとめてみた

2/15日をもって、当ブログは開設から1年経過しました!これまで見てくださった方ならお分かりの通りアニメ・映画を中心に感想をまとめていますが、よくよく考えたら「ブログの運営記事」って書いてなかったなぁ、というわけでこの機会にまとめてしまおうと思いました。

 

このブログについて

 

基本的にプロフィールの通り、アニメ・特撮などジャンル問わず作品を語っていくスタンスです。たまーにソーシャルな話題についても自分の意見を主張しています。自分の中のモヤモヤを文章として昇華するのは良い発散方法だと思うので、そういった意味でも健康的な趣味ですね。カテゴリについてもアニメ・ソーシャル・雑記・たまに映画だったり、他のブログと比較すると少なめにしています。と言うよりは扱うトピックがそんなに多くないからかもしれない…。

 

ブログを始めたきっかけ 

 

そもそも何故ブログを始めようと思ったのか、という話ですけど結論から言えば「他の人の影響を受けたから」ですね。元々特撮が好きで、感想ブログを読んでいたのですが、その特撮ブロガーの方が非常に優れた作品解釈をされていて、さらに文章も読み応えがあり、いつも楽しく読ませていただいてました。漠然と「自分もそういう文章を書けたらなぁ」と思ったのが1つ目のきっかけ。

 

もう一つは大学の英語の授業です。英語にも多くのクラスで分かれていたのですが、私が登録していた科目は「洋画を通して、アメリカの文化と作品のメッセージを読み解く」スタンスの授業でした。この授業で扱った作品は『メメント』『セッション』『スパイダーマン』『アメリカンスナイパー』『ゼログラビティ(ゼロいらない定期)』など、割と最新の映画が扱われており、なかなかに見応えのある作品が揃っていました。さらに、先生の作品解説が毎回とても説得力がある上に語り口も面白くて、毎週の楽しみになっていました。

これがきっかけで「自分も先生と同じように、作品を読み解いてどこかで発表してみたい」という思いが芽生え、ブログという媒体でそれをやってみようという話になりました。

なので特撮ブロガーと英語の先生の影響で今に至るわけです。

 

アフィリエイトおよびアドセンスについて

 

当ブログでは収益化は一切行っておりません。あくまでも趣味の範囲でやっていこうというスタンスです。というのも、個人的な意見ですがお金が目的になってしまうと「書きたいこと」が書けなくなるのではないか、という不安があるためです。もちろんアフィリエイトが悪いという訳ではありません。むしろ「読ませる記事」を沢山書いてお金が貰えるレベルのブロガーさんは非常に優れた方だと思います。しかし、自分としては「書きたいことを好きな時に書く」のが肌に合っていると感じたので、そもそも自分にはアフィリエイトは向いていませんね、という話。

 

変更点

 

・記事分類について

当ブログでは上で述べた「アニメ・映画・ソーシャル・雑記」のカテゴリ以外に、全ての記事を流さや内容によって「エッセイ」「コラム」の二種に分けています。

 

コラム:2000字程度の比較的短い記事。あまりまとまっていない、とりあえずの殴り書きのようなもの。加筆修正によって「エッセイ」に進化する事もあるかも?

 

エッセイ:2000字を大幅に超えるもの。コラムと比べて力を入れて書いている"つもり"。中には4000字〜5000字のものも。主にアニメ記事に多い

 

例外:ランキング形式の記事についてはエッセイ・コラムと呼ぶにはあまり相応しくないという理由から、どちらにも分類していません。今のところムシキングのショルダーネームランキングのみ

 

分類の理由としては、これから読む記事が長いか短いかが明らかな方が読むモチベーションが上がるのではないかと思ったためです。体感として「2000字」はサラッと読むのに丁度良い長さだと思うので、コラム・エッセイの分類は共に2000字を基準にしている。きっちり2000字という訳ではなく、許容範囲は2000〜2200くらいだろうか。

 

・カテゴリ名の変更

ちょっと前から「社会」カテゴリの名称を「ソーシャル」に変更いたしました。理由はカタカナの方がかっこいいからです。カテゴリがソーシャル・コラムだとなんかスマートな感じで響きが良いから仕方ないね

 

 

アクセス数について

 

ブロガーならば「アクセス数」は成績表みたいなものですよね。ですが私はあまりアクセス数を気にしすぎないようにしています。やはりアクセス数に拘るとどうしても「書きたいこと」から離れてしまう、という謎の不安感があるためです。上で述べた収益化しない理由と同じですね。とは言ってもとりあえず確認程度で毎日アクセス数を見ています。開設当初は1日に10人来れば良い方だったのですが、最近では記事数が多くなってきたこと・できるだけ長文記事を書くように意識したこともあり、1日で100アクセスまで伸びました!

実感としては本当に徐々〜に伸びて行った感じなので、もし収益化を目指してアクセスに拘る方がいれば、「アクセス数は徐々に伸びるもの」だと言うことを知っていた方が得かもしれませんね。たまに一つの記事が爆発的に伸びる(いわゆる「バズり」)こともあるそうですが、今のところバズり記事はございません。

 

最後に

とりあえずこれが当ブログで最初の「運営記事」になりますが、この一年であまり中間報告などはしていなかったのでもしかしたら最初で最後の運営記事になるかもしれませんね。

はてなブログには有料コンテンツの「はてなブログpro」がありますが、今のところproに進化させるつもりはございません。ぼちぼちと無料で好きな事書いていくつもりですー。

優れた文学としてのポプテピピック あるいは『君の名は。』の再来

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もうポプテピピックに関する考察は死ぬほど語られてもう何も語る事など残されていないとは思うし、この記事もn番煎じなのだろうけどとりあえず「何故こんなにも流行っているのか」を自分なりに考えてみました。

 

元々ポプテピピックが流行り出したのはアニメより前なんですよね。私の記憶では2016年の上半期くらいだっただろうか、主にツイッターでの煽り画像として使われていたイメージがある。つまり、元々SNS上で使いやすいネタが多かった訳ですよ。「さてはアンチだな?オメー?」「なるほどそういう事ね(分かってない)」など非常に汎用性が高く、一種のネットスラングとして、SNS上に浸透していった。キャラデザも簡易ながらとても特徴的で、煽り性能がバツグンに高く、そうした「使いやすいセリフ」と「ストレートさ」がウリだった。

なのでぶっちゃけパロディネタ知らなくても雰囲気で「やべぇ!ww」といった具合に楽しめるタイプの漫画だ。原作で扱われてるパロディも細かすぎて、むしろ元ネタを知らない回の方が多い。それでも、何となく面白いと思える空気がある。

 

そしてこの冬ついにアニメが放映され、瞬く間に社会現象となる。元々人気のあった漫画なのでこのようにヒットするのも不思議ではないのだが、ある時「パロディネタはこれまでになかったからここまでヒットした」との噂が流れてきた。私は正直、その意見には賛同できないと感じた。なぜならば皆さんもお察しの通りパロディをウリにした作品は腐るほどこの世に存在しているからだ。私の世代だと『星のカービィ』は子供には伝わりづらい洋画パロや、アニメーション制作の裏側を面白おかしく書いたあのカオス回など、子供向けの皮を被った化け物であった。私は見た事ないのだが『銀魂』『ケロロ軍曹』もパロディの代表例らしい。

 

そして、最近の作品では『ニャル子』がかなりポプテピピックのそれに近い「パロディ全振りアニメ」だ。まずは単行本の表紙が仮面ライダーの変身ポーズを真似たものだし、セリフの随所に仮面ライダーシリーズの挿入歌のワンフレーズを用いており、まさに「わかる人にしか分からないパロネタ」の宝庫となっている。サイクロン掃除機のカラーリングがまんまダブルのサイクロンジョーカーだったのは流石に笑った。

 

もうお分かりだと思うけれど、つまり「パロディ」という属性は何も今に始まったものではないのだ。銀魂ケロロならば皆が子供の頃に触れてきたハズだし(私はそうじゃなかったが)、「パロディなんて見たことがなかった」なんて事は決して無いんですよね。

では何故、ずーっと続いてきたパロディの系譜「ポプテピピック」がこれほどまでに流行ったのか、という本題について考える必要がありますね。結論から先に言えば「パロディが新しく見える」からだ。

「新しいもの」は往々にしてウケる。古き良きものを受け継いでいくのもいいが、それが過ぎるとマンネリズムが生じる。つまり、既存のものをずっとやっていても飽きられるって事ですね。文学者の桑原武夫氏は著書『文学入門』にて、優れた文学の一例として「題材が新しいもの」を挙げておられます。私も文学については本当に触りしか知らないので深い知識は無いのだが、割とこの話は現在のアニメにも当てはめる事が可能だと思う。

 

これは俗に言う「ポストモダン」ってやつだと思います。近代文学では秩序だった、当たり障りのない普遍的な文学が流行っており、対する近代文学が流行った後=ポストモダンにおいては、あえて混沌とした作風・時系列をバラバラにしていたり、そうした真逆の性質が流行になった、らしい。ざっくりこんな感じ。

めっちゃ噛み砕いて言えば「前の時代に流行ったモノとは逆のモノが次の時代では流行りますよ」という事ですね。何度も「触りしかしらない」と保険をかけておきますけれどガチ文学勢さん、間違ってたらごめんなさい。

つまり、「新しいモノ」はその時代によって変わるんですよね。逆にカオスな作風が受けた後は秩序だった無難なモノが流行るだろうし、文学はおそらくそれの繰り返しである。桑原氏の「新しい題材を扱ったものが優れている」とはこの事だ。

 

何故ポプテピピックは「新しいもの」とされるのか

 

ツイッターでの反応を見ている限り、ポプテピピックは「今までにない新しいモノ」として楽しまれている。しかし上述の通りパロディなど今に始まった属性ではなく、むしろ使い古されたものだ。映画に音声がなかった時代ですら、チャップリンナチスをパロっている。

ポプテピピックが新しいモノ扱いされている理由は「非オタの視聴者層」の存在だ。SNS上で前から話題になっていた漫画のアニメ化だ。流行について行こうとする者だって、非オタの中には存在するはずだ。

これまでアニメに触れてこなかった人間が、パロディ成分100%の濃厚なアニメを口にすればどうなるか。答えは簡単。「こんなの初めて!!」である。当然だ。野球を知らない私が、たまたまホームランの場面を見たら「こんな凄いホームランは彼が初めてに違いない!」と、つい頓珍漢なことを言ってしまうのと同じだ。

 

そして近年でも、今回のポプテピピックムーブメントと同じ動きがあったのを皆は覚えているハズだ。『君の名は。』である。元々の新海誠ファンはもちろん、新海誠は知らないけどアニメは好きなオタク、そして恋愛ものにキュンキュンしたい非オタリア充まで、幅広い層を映画館へ運ばせた名作だ。

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ここで私の『君の名は。』に対する感想を書いておく。評判通りとても面白く、コンパクトにまとまった作品で映画館で見に行った価値は間違いなくあったと思う。だけどその面白さは「こんなアニメは初めてだった」からではない。言ってしまえば「過去改変」の要素はひぐらし・シュタゲ・まどマギといった過去の人気作でよく見られる展開だし、子供向け作品ならば『仮面ライダー龍騎』『レジェンズ』でも採用された程だ。

なので「過去改変」そのものに惹かれる事はなかった。「おお、これは俺の"好きなやつ"だ」と、あくまで"過去作を踏まえた上で"面白いという感想を抱いた。

考えてみれば非オタが君の名はを楽しめるのは当然だ。彼らにとって間違いなく「過去改変」は新しいものだったからだ。新しいものにインタレストを感じるのは誰だってそうだし、彼らが君の名はを絶賛したからと言って「にわかめ!!」と切り捨ててしまうのは少し違うと思う。

 

やや話が逸れたが、要するにポプテピピックは君の名はの再来なのだ。オタクはこれまでのパロディ作品と同じように「パロディ作品の1つとしての面白さ」を見出せるし、非オタならば「初めて触れるパロディ作品」として強いインタレストを感じる。

つまり、ポプテピピックはパロディという使い古された系譜にも関わらず、非オタによって「新しいモノ」として認識されてしまう、文学におけるチートなのだ。桑原氏『文学入門』の「優れた文学」の定義からすればポプテピピックは決して新しくはなく、むしろ「マンネリズム」を生みかねない作品だ。にも関わらず、周りの人によって「新しいモノ」にされてしまう。周りの人の力で無理やり「優れた文学」と化してしまったのがポプテピピックに他ならない。

『宇宙よりも遠い場所』前半の雑感と、「淀み」のテーマ

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今期アニメが全て出揃い、多くの作品で方向性が定まってきた頃だろう。ポプテピピックという特異点をはじめとし、京アニの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、triggerとA-1の合作『ダーリンインザフランキス』、タカラトミーの本気『シンカリオン 』など、それぞれ独自のテイストが光る豪華なシーズンとなった2018年冬アニメ。そんな中で『ノーゲーム・ノーライフ』スタッフが制作するオリジナルアニメが始まった。その名も『宇宙よりも遠い場所』(以下『よりもい』)。『中二病』『シュタゲ』『ラブライブ』でおなじみの花田十輝氏がシリーズ構成を務める。

 

「女子高生4人が、南極を目指して奔走する青春ストーリー」もうこの時点で"その手"のアニメが好きな人にはたまらない。言ってしまえば女の子同士の掛け合いは同じく花田氏が脚本に加わった『けいおん!』『ラブライブ!』シリーズでやってきた事だし、特に大きな目新しさというものがあった訳ではない、というのが第一印象だった。キマリは唯ちゃんポジションだし、主人公を影で支えるめぐみはのどかの位置付けとなる。そして報瀬の一見クールに見えて実はちょっとドジな一面も澪のそれを彷彿させる。だからといって「けいおんの二番煎じ」とは決してならないのが実に面白いポイントだ。

「ガール・ミーツ・ガール」で「探索もの」という基本プロットで、青春作品とアドベンチャーのいいとこ取りをしているのが本作だ。

 ゴールとしては「南極に辿り着くこと」なのだが実際に舵を切り始めたのは5話からであり、1クールのうち実に半分が「出発準備編」に割かれている。あの『メイドインアビス』ですら出発まで長くとも3話だったのが、『よりもい』ではなんと5話だ。1クール作品の「探索もの」としては比較的ゆっくりとしたペースで話が進んでいく。

 

だが決して「間延びしている」とは感じない。何か思い出を作りたいと願うキマリと、行方不明の母の手がかりを探すべく南極に行こうとする報瀬。有名人故に高校で友達と遊ぶ機会に恵まれず、常に孤独感に苦しむ結月。学校を辞めた過去を持つも多くを語らない、どこか達観した視点を持つ日向。4人の出会いと、垣間見える「心の闇」。彼女たちが掛け合っているだけで次々と新たな発見があり、見ていて飽きない。 

例えば第3話で南極チャレンジに参加するため、3人が結月に説得を試みようとするシーンでは、報瀬が自分の「行きたい」という気持ちを優先させすぎてつい周りが見えなくなってしまい自己嫌悪に陥る。自分が行きたいと思っており、その目標を達成する為に結月を説得しようという考えだったが、日向から「相手にも行きたくない理由があるんじゃないの?まずはそれを聞いてみないと」と諭される。

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結月は幼少期から子役で友達に恵まれず、友達を作るチャンスとなる高校生活を犠牲にしてまで南極には行きたくないという思いがある。結月は説得に来た報瀬たちに「友達のできなかった自分の気持ちが分かるはずがない」と言う。「自分にとっての当たり前が、他の人にとって当たり前とは限らない」こと、そして異なる「当たり前」を持つ者同士の掛け合いが絶妙に味わい深いのだ。そして3話ラスト、キマリ達が結月を迎えに来るシーンがもう最高に泣けてしまう。キマリ達は当たり前のように結月の家に来るのだが、結月にとって「誰かが自分の家に迎えに来てくれる」なんて事は滅多になかったわけで。友達がいるのが「普通」だったキマリ側と、逆に有名人であることが「普通」で友達がいることが「普通じゃなかった」結月、それぞれの「噛み合わなさ」が話にテンポを生み出し、このような面白い化学反応を起こしてしまう。

 

しかも、どのキャラクターの心情も本当に「現実」のそれと非常に近いのだ。まず第1話、よくある「退屈な毎日なら、反対の電車に乗れば良い」をキマリは実践しようとするも、一瞬で諦めてしまう。冒険もののストーリーで早速挫折を描いてしまえるこの"大胆さ"も勿論良いのだが、「何かを始めようとすると、どうしても直前で怖くなる」ことは誰にでも経験があるのではないだろうか。「皆、こんな気持ちになった事があるだろう?」と視聴者に投げかけて、否が応でも感情移入"させられる"のだ。上述した結月の「友達ができない」悩みも、我々の心にダイレクトに伝わってしまう。つまり登場人物の悩み事そのものがリアルと地続きな上、その描き方がまたリアルなのでより一層我々の心を揺さぶりにかかる。さらに、その「リアルと地続きの悩み」が全て、話を進める為の"ギミック"として非常に上手く使われているので感情移入しつつも全く「嫌な感じ」はなく、むしろ見る者の心を浄化させる気持ち良さを感じる。

 

 

そうした登場人物の持つ「心の闇」へ一気にクローズアップしたのが第5話「Dear my friend」だった。キマリの幼馴染・めぐみは常にキマリの世話を焼いて優越感に浸っており、そうする事で自分のアイデンティティを確立していた、と少し複雑な共依存関係が明かされる。キマリがめぐみに借りていたゲームをひさびさに発見してめぐみの家でプレイするのだが、ここでの2人の掛け合いがただ、"怖い"のだ。

プレイしていたゲームは幼い頃、唯一キマリがめぐみに勝てたゲームで、キマリにとっては特に思い入れの深いもの。その事を嬉々として話しながらプレイするキマリと、ゲームのコンセントを見つめるめぐみ。不穏な空気が流れる。そしてゲームも盛り上がってきたタイミングでわざとらしく足を引っ掛けてコンセントを抜いてしまう。もうこの時点でうわぁぁあ!ですよ。キマリはめぐみにとって優越感に浸る為に必要な「依存先」なんですよね。恐ろしい。要は世話を焼きながら常に心の奥底でマウンティングしていた訳ですよ。「キマリは自分より下であってほしい」「私が居なければ何もできない」そう思いたかったんですよね。だからこそ、「キマリに唯一負けた」ゲームのことに触れられたくなかったのだ。それは「キマリよりも上の自分」を否定してしまう事だからだ。

 

 

このマウンティング精神、ツイッターで感想を見る限りだと「共感できた!」「誰にでもこういう思いはある」という意見が多く、自分は非常に驚いた。確かに「自分の方が上でありたい」という心理や「世話をしていた人が自分から離れる哀しさ」の理屈自体は理解できる。

だが自分自身人にマウントを取る行為を好かないので、正直に言えばめぐみには感情移入できなかったのだ。それでも、マウンティング癖のある人はなるほどこういう心理なのかという勉強になったし、マウント取る側も取る側で色々な感情がこんがらがった結果そうなってしまったのか、と「自分の理解できなかったこと」をキャラクターを通して教えてくれる。上で「自分にとっての普通が他人にとっては普通でない」ことについて触れたが、まさに自分のような「マウンティングする人の精神が理解できない」人にも、「マウンティングで自分を支えているのが"普通"」になっている人の心理を、できる限りリアルさを損なわない範囲で再現してくれる。そうして「理解できない普通」を「理解できるように」してくれる。まさに「人間学」とも言えるアニメなのだ。

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そして第5話ラスト、いよいよキマリが出発する朝にめぐみが迎えに来る。そして開口一番に「絶交しにきた」。もう開いた口が塞がらない。めちゃくちゃ不穏な空気が続いていたが、ここに来てついに爆発してしまう。ただひたすら「うわぁぁあ!」と変な声を上げてしまう。

 キマリが今まさに自分から離れて「自立」しようという時に、ようやく「依存していたのは自分だった」と気づくめぐみ。悩みに悩み抜いてようやく出した彼女の結論が「絶交」だったのだ。

 

この「絶交」以上に深いセリフはあるだろうか。めぐみにとって、キマリから離れる選択肢はとても苦しい。キマリの居ない世界に飛び立つことは、それこそキマリ達の目指している"遠い場所"のそれと同じくらい果てしない道かもしれない。頼るもののない世界に飛び立つのは何も南極メンバーだけではないのだ。残された者もまた、残された者なりの"遠い場所"を目指す時が来る。全てを告白しためぐみ、そして一瞬だけ挟まれる淀みのない川のカット。そう、めぐみは全ての"闇"を吐き出せたのだ。

 

 「淀みの中で蓄えた力が爆発して、全てが動き出す」これはどんな"心の闇"でさえも、自分を変える力になるという『よりもい』の作品テーマを表した言葉である。めぐみの中の「淀み」は見事に決壊し、全てを吐き出し、ようやくめぐみは"前へ進めた"のだ。そしてキマリが「絶交無効」と囁く。キマリがめぐみのどんな悪意も、闇も、嫌な部分も全て受け入れた上で「親友」として認めた。悪意も何もかも全て蓄えて力にできる。だからこそ「絶交しない」という選択ができたのだろう。そしてこの「悪意を受け入れる」は、境内での日向の「悪意に悪意で立ち向かうな」というセリフと綺麗に繋がっているのだ。彼女の過去も後に明らかになるだろう。そうした「悪意を力にする」テーマを大々的に宣言したのが5話だったと思えてならない。今後とも、「淀んだ水が一気に流れていく」展開に目が離せない。

組体操不要の時代

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組体操といえば小学生の頃を思い出す。私は体重が軽いほうだったので、毎回上ばかり任されて正直良い思い出がない。こう言えば「上は乗るだけだから楽だ」といった反論が飛び交ってきそうだ。なるほど確かに下で支えるのは100キロ近くの負荷がかかる上に、砂利が膝に刺さる痛みに耐えなければならないため、自分のような「上の人」には理解できない苦しさがあるだろう。しかし、だからといって「上は楽だ」という話にはならないのではなかろうか。上は上で常に「落ちるかもしれない」という不安感と戦わなくてはならない。

しかも、足場の不安定さがそれに拍車をかける。肉体的な負担で言えば上になるにつれ、減っていくのは事実であろう。だが、逆に上になればなるほど疲労感が減る代わりに「恐怖心」のゲージがあがってゆく。実際、私は小さめのピラミッドの一番上になったことがあり、練習中に崩れて足を強打してから上に対するトラウマが出来上がってしまった。

 

今回話題になっていたのは「工事現場ですら2メートル以上の場所で作業する際は命綱が義務付けられているのに、組体操ではこのありさま。子どもの人権はどうした」といった趣旨のツイートだった。「組体操不要論」に全面的に賛同する私としては、このツイートに共感する他なかった。しかし奇妙なことに、そのリプ欄では「下の人を台にして上へ登る」体勢から「これは社会の縮図だ」と揶揄するものが複数いたのだ。

 

これはどういう事なのだろうか。元ツイ主は「2メートルもの高さで、こんな不安定な足場にも関わらず子どもにやらせるのはどうなんだ」という趣旨であり「上の人の安全性の配慮」に関するツイートなのに、リプ欄ではさも「上の人は楽」であるかのようなツイートがぶら下っている。ツイ主同様、教育委員会を批判しているように見えて実際には「上の人の安全性は?」という議論にも関わらず「下を土台にするという”社会の縮図”」などと、上の人の安全性には目を向けずツイ主とは真逆の主張をしている。つまり、議論が全くかみ合っていないのだ。

 

体重が軽ければ問答無用で上にされ、常に重大事故と隣り合わせの「上の人への配慮」の議論なのに何故「下が踏み台になって、上が”得をする”」かのような主張ができるのだろうか。いや、もちろん下の人も上述の通り負荷がかかるのでそれはそれで苦しいとは思うし、実際、下段の事故の割合も非常に高い。「どっちも大変だから組体操はいらない」という意見ならまだしも、当たり前みたいに「上が楽」かのような前提で話を進めるのはツイ主の意見を真っ向から否定してますよ、という話だ。

 

教師が大事にしているのは「生徒」ではなく「世間体」

 

「上下どっちが大変か議論」はここまでにしておく。このような上の危険性、下の負荷に関する議論が起こっている時点で「組体操」はデメリットしかないという事実が露わになっている。「子供の鍛錬」「団結」ってそれ本当は学校の先生のエゴでしかなくない?という話。

よく学校側がいじめ隠蔽するアレだって、本当に生徒のこと考えていれば隠蔽なんて真似はできない筈だ。にも関わらず隠蔽工作なんて当たり前にやっちゃうのは「学校が大事にしてるのは世間体」だからなんですよね。

 

私が高校で運動部に所属していた頃、部活と勉強の両立が苦で担任の先生に「運動部を辞めようと思っている」という趣旨の相談をした事がある。その際の担任の返答は「いや、お前なら続けられるはずだ。2年生になればトレーニングの成果で体が強くなるから練習も苦じゃなくなる。3年間続けないければ意味がない。勉強を理由に逃げてはいけない」。どうなんですかね、これ。一見励ましてるように見えて実は「文武両道」の型にハメ込もうって魂胆が見え見えである。正直、この返答を聞いて自分は「あぁ、こいつわかってねえな。これ以上両立し続けるのが限界って話なのに何が『お前なら両立できる』じゃ。話聞いてんのか」って思いましたね。

 

そりゃあ学校からすれば「部活も勉強もできる生徒」が望ましいし、その方が進学実績とか部活の戦績とかが華やかになって学校のイメージアップに繋がるからだろう。しかしそれは「生徒の意向」を全く無視している行為である。 

 もうこの時から先生にとって生徒は二の次で、一番大事なのは「学校」そのものなんだなと悟ってしまった。悲しい事ですけど、これが現実なんですよ。教師は皆さんが思ってる以上に生徒の事なんてどうでも良く思ってるんですよ。

だからもし、今学校でいじめられて苦しんでる人でも、学校の先生はあまりアテにならないので相談するならば外部の心理カウンセラーにかかった方が良さそうだ。

 

話が逸れたが、要は「組体操」というものは教師が生徒に「かくあるべし!」を求めた結果なんですよ。10段ものピラミッドを作ればそれは「生徒の絆が目に見える形になった!!」と喜ぶだろうし、難しい技が決まれば「成長だ!!」と喜ぶ。もうこれは完全に教師の自己満としか思えない。毎年千単位の事故が起こっても自分たちの自己満足のために、組体操を続行する。何段ものピラミッドを立てれば見栄えがよく、世間体も良いからだ。「学校の世間体のためには多少の事故もやむを得ない」って事ですよこれ。「生徒の成長、教育のため」などと生徒を盾にして、しかもそんなフワっとした概念のために子供を危険に晒す。ちょっと正気とは思えませんね。

 

 生徒の安全を二の次にして「団結力」を鍛える意義について

 

たしかに、クラスメイトのみんなで力を合わせる経験はあるに越した事はない。そうしたマネジメント能力は生きる上でも役に立つし、子供の自己形成には必須なのかもしれない。だが、それは事故の危険と常に隣り合わせの「組体操」でやる意味は無いと思っている。

私は小学5年生の頃に、運動会でチアリーディングという組体操のそれとほぼ同じ性質のものを披露した。結果的に怪我もなくクラスの団結に繋がったし、今でもその経験は"いい思い出"として残っている。それでも常に危険と隣り合わせだった事にはなんら変わらないし、生徒の安全を考えればむしろ「無い方が良い」ものだと言える。私の代がたまたま怪我人の出なかった年に過ぎないからだ。

 

小学6年生の頃、もちろん件の組体操だってやったのだが私のクラスでは運動会とは別の機会で「大縄大会」に出場した。自分の年上の先輩たちが大縄で結構な記録を残していたこともあり、私たちの代でもやってみようという話だ。

結果的に成績は惨敗だったけれど、それでも皆で練習するというプロセスでクラス仲は深まったと思う。何が言いたいかと言えば、なにもあなたたちの言う「団結力」って別に組体操じゃなきゃ鍛えられない、なんて事は無いと思いませんかって事です。大縄大会だってそりゃあ真面目に練習していないと足を捻挫する恐れだってあるし、「絶対に安全」なスポーツでは無いだろう。しかし、不慮の事故で生徒が重症を負う可能性は組体操のそれとは比にならないくらい低い事は容易に予想できる。こう書くと「大縄推し」みたいに思われそうだが、要は団結力を養うのにわざわざリスキーな道を敢えて選ぶ意味ってありませんよねって事です。

 

前々から教師に対する疑問みたいなものは感じていましたが、こういう形で(自分語りも多くなりましたが)アウトプットできてスッキリしている。

ドクターペッパーをできるだけ美味そうに表現してみる

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夏には麦茶やポカリスエットといった旬のようなものがあるけれど、味覚が平均値よりも外れている私はドクターペッパーに手をつける。
シュタインズ・ゲート』でその存在を初めて知った私は暑さで乾ききった喉を潤す、というのはあくまで名目にすぎず、実際にはオカリンの気分を味わいたかっただけだった。

暑い夏のラボでメンバーと団欒する。コーラやジンジャエールではなく、一般的には"不味い"とされるドクターペッパーにあえて手をつけて通ぶるあたりが、オカリンという人物がどういう奴なのかをどんな言葉よりも端的に表していた。


と、私は思うのだが肝心のドクターペッパーを飲んだ事がない。コーラと変わらぬ見た目をしているため、味はコーラに近いものなのだろうか。
おそらく、ペットボトルの形状から考えたら炭酸飲料だろう。とか、それくらいの誰にでも想像できるような予想が頭の中を駆け巡った。
厄介なのは「不味いことで有名」である事。コーラに似たような見た目で、おそらくはコーラのそれと近いであろう味でどうやって「不味く」なるのだろうか。甚だ疑問であった。


「これは飲んでみなければ分からない」
何でも実践あるのみ!百聞は一見にしかず、とは私がよくここで書いている諺だが、案外思い切って踏み出してみると「こんなもんか」と、身構えていたものがそんなに大したことがなくて拍子抜けすることがある。ドクターペッパーもおそらくそういう類の物だろう。
しかし困ったことに、私の住んでいる地域にはめったにドクターペッパーは出回らないため入手は困難であった。


数年後、買い出しのためにスーパーへ寄った際に、ドリンクコーナーでドクターペッパーが陳列されているのを目撃した。案外、指名手配犯を発見するかのような興奮は起こらない。さすがに「飲もう」と思ってから年月が経ちすぎてしまい、以前のようなドクターペッパーへの好奇心は薄まってしまったのだ。

それでも、もうこの機を逃したら私の地域ではドクターペッパーが飲めなくなるだろう、と思い購入した。たったの96円を惜しんだばかりに、美味かろうが不味かろうがドクターペッパーの味を知らないまま終わってしまうのは、私の中で許せない事だった。


ガタガタと舗装されていたり、されていなかったり凸凹とした道を、バッグに"それ"を入れながら走る。家に着けば"それ"の初体験だ。シュタゲのオカリンが愛した"それ"を私もついに飲む時が来たのだ。家に帰るや否や、すぐにバッグから出し、それを開ける。プシュッ!という炭酸飲料お馴染みの空気の音をあげながら、他の飲料とは似ても似つかぬ匂いを"それ"は発していた。恐る恐るゴクリ、と喉を潤す。


美味い。あれだけ不味い不味いと言われていたドクターペッパーだが、思っていたようなエグ味もなく、むしろ今まで「ありそうでなかった甘さ」に感動を覚える。何を血迷ったのか、今度は温めて飲む。美味い。炭酸が抜けて明らかに体に悪そうな甘みを帯びたドクターペッパーだが、その甘ったるさが逆にクセになるのだ。
もちろん、「ようやく求めていたものに出会った」という感動によって補完されてる感は否めないが、それでも純粋に味が美味いと思えた。

 

数ヶ月後、久々にそのスーパーへ買い出しに行った際、ついでにドリンクコーナーに寄る。そこには私に味を教えてくれた"それ"の姿はなかった。

『宝石の国』の独特な雰囲気は何なのか

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最終回が終わってからだいぶ日が経ったが、せっかくなのでメモしておきたい。「雰囲気アニメ」と言えばまるで「外観だけは立派だが中身の伴っていない作品」としての意味で使われることが多いのだが、私は決して「雰囲気アニメ」が悪い言葉だとは思わない。なぜならばアニメを見る上で独特な世界観や、名状しがたいワクワク感は非常に重要な役割を果たしているからだ。言ってしまえば「雰囲気」すらない作品は空気なわけで。アニメの楽しみ方はストーリーがどれだけ綿密に作られているか、も無論重要な要素だが「何となくいい感じだな」という、フワッとした楽しみ方もあると思う。

 

血界戦線』は個人的に雰囲気アニメの代表的な例だと思う。ニューヨークをモチーフにしたヘルサレムズロッドの煌びやかながらもどこかアングラ感が醸し出されている雰囲気が魅力的だ。加えて、ライブラのメンバーの活躍もめちゃくちゃイカしてて毎回爽快感があった。「レオくんの成長物語」というテーマを縦軸に添えて、かつサブキャラのカッコよさを全面的に押し出している。「摩天楼を影で支える秘密組織」ってだけで厨二心をくすぐられますね。ぶっちゃけ言ってしまえば内容全く理解してなくても楽しめる類のアニメなんですよね。

 

宝石モチーフの強み。あるいは『けものフレンズ』との比較

 

そんな『血界戦線』二期と同時に放送されていた雰囲気アニメが『宝石の国』だ。一言で言えば「ズルい」アニメだ。もうどこまでもズルい。まずはモチーフ「宝石」について。説明するまでもなく宝石は美しいものだ。現在のアニメーションでは3DCGが用いられる事が多いのだが、「宝石」と「CG」の組み合わせはまさにベストマッチでアニメ映えしない訳がないのだ。部位欠損シーンすらもノリノリで断面図が描かれており、まさに「待ってました!」と言わんばかりの演出だ。ダメージを負うシーンは他のアニメならば「痛々しい」と感じるのが普通なのだが、この作品は「ダメージ」に「美しくも儚い」という意味を与えている。

フォスの両腕が持ってかれた時も、アンタークがバラバラになった時も、単に「やられた!」というだけではなくそれ以上に「美しさ」が前面に出ている。『宝石の国』で最も美しいシーンはやはり「欠損」シーンである。堅牢な宝石が砕かれて宙に舞う。そんなピンチのシーンまで我々には否応なしに「美しく」見えてしまう。

いわば、視聴者を「月人の目線」にしてしまう荒技なのだ。宝石は美しい。もっと美しい所を見てみたい。もっと間近で見たい。そんな我々の欲望を「欠損」によって叶えてしまう。

月人は人間の「魂」が独立して進化した存在なのだが、まさに視聴者に「お前たちの心は月人の"それ"と同じなんだぞ」と訴えかける。そんな風に思えてくる。それほどに欠損シーンは力を入れている。

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けものフレンズ』がリアルの動物の生態を参考にしていたのと同様、『宝石の国』は宝石の硬さ・性質・分類など、"本物"の特徴をしっかりとキャラクターとして昇華している。

例えば主人公フォスは硬度が最低レベルだが希少性が高く、月人が興味を持つのも頷ける。

シンシャの元となった石は本当に毒があるし、"宝石"としての価値はやはり見出せない。そんな「宝石としての価値の無さ」はシンシャの葛藤としてそのまま描かれる。ボルツとダイヤは同じダイヤモンドの仲間であり、他のペアとは一味違った因縁のようなものを感じる。

一見すると『けもフレ』のリアル感と比較すれば"モノ"がモチーフだけあって地味に感じる。しかし、そんな"静"的モチーフを『宝石の国』なりにしっかりと物語のキーとして活かした点は良かったと思う。

 

けもフレ』を引き合いに出しているのは「実在するものがモチーフ」である事もそうなのだが、1番の理由としてはポストアポカリプス(人類が滅亡した後の世界)ものとしての世界観が、両者に見られる設定であるからだ。

けもフレ』はヒトが滅亡した後にかばんちゃんが「自分探し」もとい、「ヒトの集落」を求めて旅をするストーリー。道中でのさまざまなフレンズたちと出会い、「自己のアイデンティティ」を確立する。

 

宝石の国』も非常に『けもフレ』と似ている。ヒトが「骨・肉・魂」の3つに別々の進化を遂げ、かつての"ヒト"は存在しない世界。

月人の目的は何なのか、なぜ金剛先生だけは"ヒト"としての体を保っているのか、月人との関係は?など、多くの謎を抱えた作品だ。そんな謎だらけの世界を舞台に「自分の価値」を見つけていく。それが『宝石の国』だ。

要するにポストアポカリプス・テーマが「自己のアイデンティティ」・実在するモノがモチーフという3つの点において『けもフレ』と共通しているのだ。なので1話を見た時点での感想はまんま『けもフレ』だったわけですよ。

一応言っておくとどっちが良くてどっちが悪いとかそういう話ではなく、単に似た設定が基礎にありながらもそれぞれ別の進化を遂げたねという話。

 

強いということは"孤独"であるということ

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外せないエピソードが「アンタークチサイト」関連のお話。冬眠した仲間たちを守る役割をアンタークは担っている。つまりアンタークはこれまで一人で戦ってきたのだ。このことからアンタークは相当な強さを持つと推察できる。

しかし「強さ」には往々にして孤独がついて回る。金剛先生にハグを求めるシーンがあった。「例年の」と作中では言われていて何かとネタにされていたのだが、あれは「一人で戦う自分を、誰かに慰めて欲しい」という願いの表れに他ならない。そう考えるとあのシーン、ちょっと笑えなくなりますね。だからこそフォスと2人で仕事をする展開は尊いのだ。強さ故の孤独、そしてその孤独から脱却できた。そんな矢先に月人に拉致されるなんてもう月人空気嫁って話ですね。

 

拉致された後はあの新フォスの登場。性格がまるっきり変わってしまった事で話題になっていた。髪型は短くなり、目も細くまるでアンタークの生まれ変わりのようになってしまう。

足はカタツムリの貝殻、腕は金、そして雰囲気はアンターク似。もはやフォスではなくなってしまう。これめちゃくちゃ辛いですね。強くなるには「自分を捨てる」しか無い、という事ですから。「自分の価値は何か」が作品テーマなのだが、「価値」を突き詰めると自分が自分でなくなってしまう。強くなるって結局は「これまでの自分じゃなくなる」って事で。それはもう「自分の価値」じゃなくて「何か別のモノの価値」ですからね。

 

また、「強い」ことが価値に繋がるとは限らない。シンシャは毒を体から発しており戦闘においては敵無しなのだが、その性質上誰ともペアを組むことはできない。仕事がなく孤独に過ごす他ない。さらには月人にすら「価値がない」と判断される始末。そんな宝石たちのぶつかる壁「強さと孤独の葛藤」を乗り越えてきた存在がボルツだ。

彼の過去は作中で語られることはなかったが、元々「強さには孤独がついて回る」発言をしたのは彼である。やはりボルツの立ち位置としては「できる先輩」ポジションだろう。若い頃に苦労したからこそ、今の強さがある。そして自分の乗り越えてきた壁が多いからこそ、若手の今の「弱み」にもすぐに気づけるし、的確な判断もできる。ボルツのそうした「成長の歴史」は描かれなくとも想定できるものだ。

 

新フォスを見て他の宝石たちは興味津々で近づいたり、「フォス変わった〜!」と嬉しそうな反応がほとんどであった。これってちょっと異常な事態だと私は思う。なぜならば誰も「これまでのフォスではなくなった」ことを残念がらない。フォスがフォスでなくなってもそんな事は二の次でただ、新しく金の能力を得た事に注目して「強くなった」ことを賞賛する。

すごく個人的な話なんだけど、このシーンは胸糞悪くなりましたね。フォスを見てあげろよって。「強さ・価値」にしか目を向けてないじゃんって話だ。唯一、ボルツだけがフォスの身を案じるんですよ。かつて「強さ故の孤独」を感じてきた(であろうと推察される)ボルツだけが、フォスを本心から心配する。やっぱ強い者だけにしか分からない悩みがあるんだなと、あんなに憧れた「強い存在・役に立つ存在」もいざ自分がなってみるとなんだか"虚しい"。

 

振り切りすぎない独特の雰囲気

 

けど本編において新フォスのくだりはそこまで「鬱展開」として描かれている訳でもない。新フォスが出た後もギャグパートは抜かりなく存在したし、ギャグシーンでの新フォスも中々に味があって面白いものだった。本作の監督・京極尚彦氏は以下のように述べている

 

フォスが変わっていきますが、ポジティブなのか、ネガティブなのかを曖昧な状態に描くことが今作の特徴かなと。あとはシンシャと出会うことがその変化のきっかけになる、その2つが大きな柱だなと思いました。出典:アニメイトタイムズのインタビューにて

 

つまり、新フォスについては敢えて良し悪しをぼやかして描いている。自分も見ていて「今までのフォスじゃなくなって物足りないような、けど新フォスは新フォスで飽きないなぁ」という、ネガティブとポジティブが混ざり合った謎の感覚を覚えた。本編でも強くなったフォスを賞賛する者と心配する者の双方を添えて、「良いか悪いか判断のつかない」ような展開となっている。そして金剛先生と月人の関係を探る仕事に打ち込む。結局のところ月人との関係は不明で、月人の発する言葉の意味も明かされずにアニメは終了。

 

言ってしまえば「何も解決してない」んですよね。謎が謎のまま、新フォスについてもプラスにもマイナスにも見える展開だし、もっぱら「世界観」のみにずーっと浸かっていた1クールだったなと今になっては思う。

大型の月人にダイヤが襲われたと思いきや、どうやら金剛先生のペットらしくて和んだ、と思いきやよくよく考えたら先生と月人どういう関係あるんだよ、と緩やかな波が延々と続く。そんな独特の雰囲気に知らない間に飲まれていたなと感じる。まぁでも風呂敷広げたなら畳んで欲しいなとは思わなくはないが…。