シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『ゾンビランドサガ』における、「生き続ける」の意味について (7話までの所感を含めて)

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私はこれまでアイドル系のアニメに手をつけたことが無かった(というか「食わず嫌い」していた)。というのも、近年ではアイドルや音楽を軸としたアニメはかなり増えていて、一見(こう言えば誤解を招きそうだが)どれも同じに見えてしまう。また、アイドルアニメの最大手とも言える『ラブライブ』や『アイマス』はシリーズの多さから「今さら手をつけるのはなぁ...。」と感じてしまい、どうしても手を出しにくいジャンルだった。そんな中、2018年の秋に「これまでとは一線を画したアイドルアニメ」が爆誕したと聞いた。さらに評判も良いようだった。聞くところによれば「ゾンビがアイドルやるアニメ」らしく、「それならアイドルアニメを敬遠していた自分にも見れそうだ(謎理論)」と思い視聴に至ったのが『ゾンビランドサガ』との邂逅である。

 

そんなこんなでようやく7話まで追いついた本作だが、いや~見事に「やられ」ましたね。というのも、「五感を喚起させる画」が本作の魅力として映えるんですよね。例えば1話、開始1分ほどで主人公のさくらが轢かれて、デスメタル調の曲をバックに死ぬシーンは視覚的や聴覚に処理できないほどの情報を与え、「否が応にも視聴者の記憶に残してやろう」という気概を感じさせる。恐ろしいのはそれがまだ序章である事だ。その後なぜか場所がワープし、シーンは館の中に移る。

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さくらはゾンビに追い回されて逃げる後、「自分自身もまたゾンビである」ことが分かるシーンはある意味で「これまでのゾンビ作品」の固定観念を捨てさせるものである(例えば多くの作品は「ゾンビから逃げる」が基本プロットであり、本作においても放送前までは「私たち、生きたい」のキャッチコピーを巧みに用いて、そのような基本プロットに則った作品であるかのようにミスリードを誘っていた。)

 

ゾンビもので叙述トリックを用いた作品では『がっこうぐらし!』が記憶に新しいだろう。しかし、実際には「ゾンビから逃れる」基本プロットが変わる事は無く、舞台装置である「学校」を用い、「逃走」に「卒業」の意味を持たせたのが『がっこうぐらし!』だった。つまり「日常系っぽく見えて実はゾンビもの」の『がっこうぐらし!』がサバイバル描写を中心に添えつつも、時折「普通の日常生活」を挿入することで日常の有り難みを強調して「ゾンビ×学校生活」のベストマッチを図ったのに対し、「ゾンビサバイバルものだと思ったら、実はアイドル系だった」という、今度は別パターンの叙述トリックだったのがシンプルに面白い試みだなと。ゾンビを扱う作品にミスリードが多いのは何故だろう...。

 

さらに言えば「ゾンビ要素」ひいては「死」を活かした設定がまた”巧く活きている”なと。というのも「キャラクターが既に死んでいる」設定は、ある意味「ズルい」(褒めてます)ようにも思えるのだ。例えば山田たえが頻繁に四肢がバラバラになって他のメンバーを驚かせたり、脱走を試みる愛の腕がスッポリ抜け、さらには6話で自分を置いて進む車を止めようと前に出た純子を幸太郎がうっかり轢いてしまう、それらのギャグは「彼女たちはもう死んでいるから大丈夫」という強烈な説得力のもとに描かれている。死んでいるからこそ、視覚的にもインパクトのある演出が可能になっている。

 

そうした「死」ならではの演出・設定を考える上で、(かつて色々な意味で反響を呼んだ)『エンジェルビーツ』を挙げないわけにはいかない。こちらは「青春時代に夢半ばで命を落とした少年少女たちが、死後の世界で未練を解消していく」話になっており、現に『ゾンビランドサガ』でも6.7話で描かれたような展開を共通項として持っている。生前の記憶を欠いた音無が、自身の過去と世界の秘密を探って行く中で、仲間と出会い様々な人生観に触れる(個人的には)名作であった。偶然にも記憶喪失設定が源さくらと共通しているのも面白いポイントだ。

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ガルデモが初っ端からゲリラライブをかまして”天使”を撹乱しようと試みたり、5話で授業中に椅子が吹っ飛ぶシーンなど、「死後の世界」ならではの過激なギャグシーンは間違いなく視聴者の記憶にこびりついたことだろう。そうした中でも、「青春のやり直し」「神が居ない世界における救いの手段」といったテーマは外さずに描いており、特に12話におけるゆりっぺの「生前に死んだ兄弟と同じくらい、死後の戦線メンバーを愛するようになってしまった葛藤」や、「音無は奏に心臓を渡したドナーだった」ネタばらしと「エンジェルビーツ=天使(奏)の鼓動」という秀逸なタイトル回収は、自分的に本作で一番褒めたいポイントだったりする。しかし、『エンジェルビーツ』には同時に相当な”惜しさ”も覚えている。

 

というのは、やはり随所で言われている通り「キャラクター数に対する話数の少なさが起因して、キャラ捌きの困難さが浮き彫りになったこと」を根幹とし、「個別エピソードに傾注させるあまり、世界観に関する説明がおざなりになった」ことが挙げられる。

さらに言えば、せっかく椎名という「明らかに現代よりも古い時代を生きていたであろう人物」まで存在していたのに、「死んだタイミングの違いによる時代感覚のズレ」まで描かれなかったのは実に惜しい点だった...。そこを描いていれば、「死後の世界」設定ももう少し深みのあるものになっていたかもと、無いモノねだりをしてみたり...。

 

そしてそれらを踏まえた上での『ゾンビランドサガ』だ。上記で述べた「死んでいるからこそ説得力のあるギャグ描写」をはじめとし、6,7話で『エンジェルビーツ』では叶わなかった「時代感覚のズレによるアイドル観の衝突」にクローズアップしたほか、雷が帯電してテクノボイスのパフォーマンスを見せるなど「ゾンビだから出来る」という最強の言い訳?で視聴者を”納得させて”いるのだ(褒めてます)。

また、同じ「既にキャラクターが死んでいる設定」と言っても、「”死後の世界で”青春を謳歌する事」と「ゾンビ化して”現世で”もう一度やり直す事」とでは根本的に違う。

あくまでも彼女らは”現世で活躍している”という事だ。エンジェルビーツ』におけるNPCとは違い、生前に彼女らを知る人間も当然ながら存在する中でのストーリーだ。

 

「環境が生前と地続きである」ことは、幸太郎の言う「ゾンビィバレ(自分たちの正体がゾンビだと知られること)」しかり、新聞記者が純子の正体に気付いた事を思わせる描写しかり、本作における重要な(ストーリー上の)”足枷”として活きているのだ。

個人的にそうした”足枷”が有効にはたらいたのが6,7話だったと思う。愛が落雷で死んだ後も、元々所属していたアイドルユニットのアイアンフリルは今なおきっちり存在していることで、愛に生前の輝かしい日々を思い出させて苦悩を生む発端となったし、愛や純子が死んでいる間にも時間が進んでいる事実、それ故に”空白の時間”と向き合う必要性、時代の変化への対応を強いられる要因となっているのだ。

 

肉体の死と、”コンテンツ”の死

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本作において「死」とは2つの意味を持っていると考える1つはお分かりの通り「肉体の死」だ。そしてもう一つが「コンテンツとしての死」だ。6話にて、愛がパソコンでアイドルの現在を調べるシーンで、かつて一世を風靡したであろうアイドルたちが立て続けに解散している事実を知る。アイドル業界をはじめとする「エンターテインメント業界」は、往々にして”寿命が短い”ものである。アイドルに限らず、10年前にヒットしたゲームや漫画が今もなお続いていることはまず無いし、終わったとしても、その作品の人気がずっと続くことも稀な世界が、エンタメの特性であろう。

 

そんな中でも確実に”今なお生き続けている”ものも少数だが存在する。仮面ライダー戦隊シリーズウルトラマンがその代表例だ。ライダーと戦隊の生みの親・石ノ森章太郎は亡くなった後でもシリーズが続いており、今年で47周年・平成シリーズだけでも20年目に突入しようとしているし、円谷英二も同様だ。仮面ライダーでは現在でも、オープニングのクレジットには「原案 石ノ森章太郎」と一番最初に表示される。つまり、彼らは肉体の死を経験しながらも、”コンテンツとして生き続けている”好例である。

 

ゾンビランドサガ』本編においても、昭和と平成を代表するアイドル2人・天才子役・伝説の花魁といった、生前に「エンターテインメントの世界」で生きたものが主要キャラに添えられ、死してなお「この世に生き続けようと」する彼女たちを描いている。一見すると「自身の存在を永遠のものにする手段」として、上でも述べたとおり”寿命の短いエンタメコンテンツ”を用いるのはある意味で「矛盾」とも思える。

しかしオープニングの「徒花ネクロマンシー」が、アイドルとは似つかない古い特撮を模したような映像なのは、それこそ石ノ森章太郎がかつて生み出し、今も生き続けている「戦隊もの」のような「死んだ後も生き続けるコンテンツになりたい=私たち、生きたい」のテーマを宣言しているように思えてならないのだ。つまり、「戦隊もの」はフランシュシュにとっての最終目標であると私は解釈している。

 

7話時点でリリィの過去・新聞記者による身バレ・山田たえの謎・幸太郎の真の目的・さくらの記憶と、まだまだ謎を残している『ゾンビランドサガ』。私は最後まで彼女たちの性(サガ)を見届けたい。 

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「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術 『プーと大人になった僕』を視聴して。

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先日、話題の映画『プーと大人になった僕』を観に行った。自分は当然、キャラクターとしての「プーさん」は知っていたのだが、原作ストーリーについての知識は無かった。

「豚なのに細いキャラ、尻尾でジャンプというド◯キーコングの敵さながらの動きを見せる虎、よくわからないカバみたいな動物、そしてプーさんがいる」くらいの事前知識で観に行ったのだが、巷で言われているほど「予習が必要」な作品ではなかった。

むしろ事前知識がなかったからこそ、新鮮な目でプーさんの言動を見ることができた。そしてヒイタチとズオウの話も、その存在について知らずとも一応は「あぁ、見えない敵を表現してるんだな」と考えれば話の辻褄が合うようにできている。(もちろん、知識があれば話にとっつきやすいとは思う)

後述するが、この「ズオウとヒイタチ」の本作における役割も見事であった。

 

以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変化する現実」と「変わらない100エーカーの森」

 

そんな『プーと大人になった僕(以下『プーさん』)』だが、物語の主人公・クリストファーロビンが大人になった後のストーリーが描かれた。プーさんとの別れの後、徴兵されて戦争を経験、その後はレジャー鞄のメーカーに就職して休日返上で働きまくり、そうした仕事の多忙さ加減が災いし、ついには家族との仲も険悪になるという「リアルさ」加減が見事だった。仕事は往々にして「時間を金に換える」ように形容されるが、まさに本作でも「何も無いところからは何も生まれない」がキーワードとなっていた。

 

そんなある日、ひょんな事から旧友であるプーと再会する。しかし会社の存亡の危機が懸かっているロビンにとって、プーは邪魔者でしかなかった。ここの「お互いに住んでる世界が違う」演出も見事である。100エーカーの森の仲間たちは、まるで絵本から出てきたかのような文学的なセリフ回しをする。度々挟まれるプーやイーヨーの含蓄のある一言が「あぁ、忘れてたけど今自分はプーさんの映画を見てるんだ」と思い出させてくれる。ロビンの住む「現実の目まぐるしい変化」と、100エーカーの森の「いつ来ても変わらない仲間と景色」の対比がまた、我々の幼少期のような「忘れてたあの日」を想起させるのだ。

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我々が幼少期だった頃、友人たちと「秘密基地」を作ったはずだ。秘密基地とは、厳密に言えばただの公園の1区間だったり、例えば『20世紀少年』に登場したそれは、単なる舗装されていない草むらに過ぎないはずだが、我々の心にはたしかにそれが「秘密基地」に見えていただろう。

そしてそこからの「100エーカーの森」だ。本編ではそれが妄想の産物として描かれている訳ではないが、少しでも現実世界でそれに関する事をチラつかせると、「ぬいぐるみが喋る」「頭がおかしくなった」等々、やはり「浮世離れしたもの」として扱われている。つまり、100エーカーの森とその仲間たちは「現実と妄想の境目に位置するもの」として、それこそ我々で言う「秘密基地」と同じ文脈で語られているのだ。そんな「存在するけど、存在しない」矛盾を持ちながら、目まぐるしいロンドンを駆け巡るのだが、そこには「忙しいからこそ、妄想しても良い」という主張がなされているのだ。

 

言ってしまえば、『プーさん』では小さい頃にしていた妄想・そしてそれをさらに発展させたのが「中二病」であり、それらの圧倒的肯定がテーマとして添えられている。時としてその「中二病」が現状打破の決め手となる、という「今の若者はもちろん、大人になっても大事なテーマ」を狙い撃ちしている作品なのだ。

続いて、この作品が持つ新たな形の「錬金術」について触れたい。

 

「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術

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本作では言うまでもなく「何もないからこそ、何かを生み出せる」というメッセージを放っている。ここにもやはり、上述した「打開策としての中二病」を内包しているのだ。「何かを得るためには、何かを失わなければならない」とは、かつて『鋼の錬金術士』で克明に描かれてきたテーマだが、『ハガレン』において「錬金術」とは決して万能の魔法として表現されていない。例えば第1話で死んだ母を錬成しようとしたエドワードは片足を、さらにアルフォンスは全身を"持っていかれた"。そしてその弟の「魂だけは持っていかせん!」として、エドワードは自分の片腕を捧げた。ハッキリ言えば費用対効果がめちゃくちゃに悪い。ついでに言えば、人体練成という禁忌を犯してまで行ったものの、母の練成には失敗している。

 

ハガレン』の物語は上記のような「悲劇」から始まり、錬金術師が錬金術師としてではなく、あくまで「ひとりの人間」として成長するまでを描いた名作だ。最終的にエドワードは錬金術のスキルを代償に捧げることで、今まで通りの「普通の人間」として生きるエンディングとなっている。前にも個別記事で書いたように、ハガレン』はあくまで「錬金術は万能ではない」「錬金術師が人間に戻る話」であり、そこに妄想の世界・ひいては中二病要素は入る余地がない、極めて「現実的」なテーマだ。

 対する『プーさん』ではどうだろう。『ハガレン』とは180度も異なるテーマを掲げているのだ。100エーカーの森という、半ば妄想のような世界観から始まり、そして100エーカーの森で話が終わる。

 

つまり、始まりから終わりまでが綺麗に「幼少期の妄想賛歌」で一貫しているのだ。そして「ズオウとヒイタチ」の役割もまた「妄想賛歌」を強調している。原作ではズオウもヒイタチもれっきとしたキャラクターとして存在するらしく、プーさんたちをいじめる『ドラえもん』で言うところのジャイアンのような存在だと思われる。しかし本作でその姿を拝む事はできない。なぜならば、ズオウもヒイタチも「ロビンの頭の中に存在する、妄想の敵」として描かれているためだ。

 

 そしてその「見えない敵」であるズオウとヒイタチが、本作では解決の決め手になるのだ。物語中盤、100エーカーの森に迷い込んだロビンは、ズオウとヒイタチと頭の中で交戦を繰り広げることで、森の仲間達と打ち解けるシーンがある。これは言うまでもなく「何もないところから(存在しない敵を通じて)、何かを生み出す(仲間たちとの絆を強める)」というテーマとピッタリ重なっている。

 

「等価交換の原則」の必須条件について

 

何もないところから何かを生み出す力を「等価交換の逆原則」と呼ぶことにする。本作ではこの原則を適用できる錬金術師はごく限られている。それは「妄想力が優れた者」だ。100エーカーの仲間達は存在そのものが「浮世離れ」しており、妄想の具現化として見ることができる。その証拠に、われわれ視聴者=神の視点ではプーさんたちは「存在する」ように見える一方で、物語の他のキャラから見れば極めて非現実的な存在として描かれている。

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総じて、彼らの「妄想力」は(当然、存在そのものが妄想に近いので)作中屈指である。続いて、クリストファーロビンとその家族だ。仕事ばかりで現実しか見えていなかったかつてのロビンは妄想力はゼロに近かった。しかしプーさんとの再会、見えない敵との交戦を通じて妄想力を高めてきた。そして娘のマデリンも子供ということもあり、生来的な妄想力はかなり強い。彼女はプーたちを見て最初は驚いたものの、すぐに彼らと打ち解けたのは、妄想力の強さを裏付ける演出だ。

 

では作中、最も妄想力を欠いた人物は誰だろう?そう、全ての元凶であるジャイルズ(ロビンと共同で仕事をしていた(大嘘))だ。彼は「何もないところからは何も生まれない」現実主義の人間で、度々ロビンを社畜化させようと仕向けてきたやべーやつだ。そんな彼は、ロビンと共同でプレゼン資料を作る素振りを見せながら、休日返上して働いたロビンと対称に、のんびりとゴルフを楽しんでいたことが示唆される。その上、手柄を自分のものにしようとする、どこまでもゲスいキャラだった。

そんな彼が最後には、仕事をせずに遊んでいたことが皆にバレて大目玉を食らい、ロビンは家族旅行に出かけてリフレッシュという、スカッとジャパンもびっくりな因果応報物語で幕を閉じる。

 

 ところで皆さん、このシーンで「何もしなかったら怒られた」ジャイルズに疑問を感じなかっただろうか。「何もしない」をあれだけ賛美してたのに、何で彼だけは別みたいに扱われてるのか、と。

実は観終わった後、私もそのような「作品テーマとの食い合わせの悪さ」を感じてしまった。しかし、上で述べた「等価交換の逆法則を適用するためには、妄想力が必要」という仮説を当てはめると、これは納得のいくオチになるのだ。つまり、ジャイルズは「何もないところからは何も生み出せない」という、一般的な「等価交換の原則」に生きており、彼はその法則にただ従っているだけなのである。言い換えると、「何もせずに何かを得ようとした彼は、当然後でツケを払わなければいけない」原則が彼には適用され、そのツケというのがあの「遊んでたことがバレて大目玉を食らう」というオチなのだ。

 

総括 『プーと大人になった僕』とは何だったのか

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総じて、映画『プーさん』はどこまでも妄想に重きを置いた作品だったと言える。皆さんの中には、小・中学生時代に「学校にテロリストが現れる」とか、「もしこのゲームの登場人物に俺がいたら」みたいな妄想を繰り広げてきた人もいるのではないだろうか。時間が経てばそんな「妄想」も、なぜか「黒歴史」として、記憶の奥底に封印してしまう、そんな人がほとんどであろう。しかし、本作はそんな「妄想」を打開策の一つとして提示してくれる。つまり、「私たちは妄想してもいいんだ!!」という、ある種タブーのように見えるメッセージを堂々と肯定している。

 大人になるにつれて妄想する機会はうんと減り、現実的な選択を迫られる。ロビンだって、会社の存続の為に経理をリストラしようとした。そんな時こそ、何かを犠牲にするのではなく、「妄想力」という無限のリソースを用いて問題解決できるのだ!しかも「賢者の石」と違って、素材に国一つ滅びるほどの人口を要求されることもないのだ。

 観に行けば、あなたもいつの間にか「あの頃の森」に迷い込むはずだ。

 

『劇場版仮面ライダービルド』において「Be The One」は何を表したのか。次の10年に向けた究極のオマージュ

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今年もこの時期がやって来た。仮面ライダーの夏映画は劇場版ポケモンシリーズと肩を並べて映画業界を賑わせる、まさに「キッズコンテンツ夏の陣」である。映画の感想の前に『ビルド』TV本編をざっと振り替えるとこんな感じである。

 

・記憶喪失の天っ才物理学者・桐生戦兎の正体は、実は悪魔の科学者と呼ばれる「葛城巧」だった。

→葛城は「エボルト(地球を襲う火星人)」を倒すための兵器として「仮面ライダー」を作り、戦兎はそれを知らずにただ「人を守るヒーロー」として、ラブアンドピースをスローガンに掲げて(ここ重要)戦ってきた。TV本編ではそうした「自身の存在意義」「兵器としての生まれを持つ者は、果たしてヒーローなのか」という問題提起がなされる

 

・本編での「主な死者」

スマッシュ化した後に消滅した万丈の彼女

 戦争に巻き込まれた(ハザードフォームの暴走が代表的である)三羽ガラス

エボルトの攻撃から幻徳を庇った氷室泰山(幻徳の父)

焼肉を食う前に運悪く死んだ佐藤太郎(ある意味、本編で一番の被害者)

 

それらを踏まえた上で、劇場版『ビルド』の雑感を残そうと思う。

 

※以下、映画本編のネタバレを多く含みます。未視聴の方はブラウザバック推奨

 

 

 

 

 

『ビルド』とはこんな作品だ!を40分間主張し続けた劇場版

 

結論から言えば『ビルド』という作品全体、ひいては「桐生戦兎を構成するものは何か」を端的に、40分程度のコンパクトな仕上がりで描いたのが今回の『Be The One』だった。言ってしまえば「万丈の闇落ち」「エボルトの、意図が読めない”気まぐれさ”」「ネガティブな意味で使われる”仮面ライダー”の単語」は全て上述したように、本編で多く見受けられる要素だった。なのでそこに特別「目新しさ」は感じなかった。

 

参考までに前作『エグゼイド』劇場版の感想を言っておくと「本編で取りこぼした要素の昇華」だったように思える。医療とゲームを通じて「死んだ人間を生き返らせることの是非」というテーマを描いたのがTV版『エグゼイド』だった。しかし、SAO的な要素を期待していた身としては若干の物足りなさを感じた。

 

『トゥルーエンディング』では本編で扱えなかったVR要素、ひいては「仮想世界は現実の代替になり得るのか」といったSAOマザーズロザリオ編のようなテーマを大々的に扱っていた。時系列も本編最終回の後となっており、全ての問題が解決した後の物語だったのが大きいかもしれない。そのため、「本編との差別化」の意味で『トゥルーエンディング』は良い出来だったと思う。

 

対する劇場版『ビルド』では、「かなりの部分を本編に準拠させつつも、桐生戦兎の原点を補完する」物語だった。しかしその「補完」の部分がやや後付け感が否めなかったのが、今回の賛否を分けたポイントだったなと。ブラッド族の「万丈と戦兎を出会うように仕向けたのは俺だ」だったり、その他もろもろ…。さらには劇場版のスペシャルボス枠のはずのブラッド族が、本編で偉大なる存在感を放っているエボルトも相まって、全体的に「小物感」が出てしまった。

 

語られたラブアンドピースの原点

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上で「後付け感が否めない」と言ったものの、一つの例外がある。それは戦兎がスローガンに掲げている「ラブアンドピース」の原点だ。本編では割と唐突にその言葉が使われ、しかもそれがいつの間にか定着してしまったので戸惑った記憶がある。なので、そこをきちんと補完してくれたのは有り難い。

 

序盤、「仮面ライダーは兵器だ」と演説する、何ともきな臭いシーンから始まり、ゾンビ映画さながらの逃走劇が始まる。緊迫感を伴いつつもコミカルに描かれたこのシーンだが、「科学は恵みにも、武器にもなり得る」という当たり前の事実、そして例え自分に悪意がなくとも、守るための力であったとしても「力を持っている」という事実だけで、悪者扱いされてしまう。悲劇のヒーローとしての「仮面ライダー」を前面に出したのが今回の劇場版だった。

だからこそ、特別なことは必要最小限に"抑えて"「例え世界中の全員から敵とみなされても、愛と平和の為に戦うのが仮面ライダーである」という、大事な「ビルドのエッセンス」を詰め込んだ本作は賛否はありつつも、自分的には「良作」としてカウントしたい。

 

また、ビルドでは葛城巧・桐生戦兎の2人が「息子」としての位置付けで描かれており、両者の見る「父」の違いを見比べるのも醍醐味だと思う。記憶のない戦兎が、むしろ記憶が無いからこそ父を父として見ることができる点も、劇場版でも余すことなく見られる。

それと対比するかのように、これまで戦兎を裏切ってきたエボルトまでも、まるで自分が「育ての父」のような面をする。無論、「戦兎を偽りのヒーロー」として育て上げたという点では、「美味そうに育ってくれた家畜」くらいの認識だろう。つまり桐生戦兎は他人の手によって翻弄される中で、本当に信頼できる仲間を見つけて、それが「自身の出生に囚われない自己肯定」という幾度と描かれてきた戦兎のメンタリティへと繋がることを、今回の劇場版で改めて認識させられた。

 

『Be The One』が表す原点回帰のメッセージと、仮面ライダーダブルのオマージュについて

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ところでタイトルの「Be The One」は何を表すのだろうか。無論、中身のないゼロからのスタートだった戦兎が仲間との出会いを受けて「1になる」意味で使われている。しかし私はそれだけでなく「原点に戻る」というメッセージを放っているように思えてならないのだ。

 

そもそも『ビルド』自体、改造人間であったり元々は人を脅かす存在だった設定しかり、平成二期に見受けられるような「何かと何かの組み合わせ」を体現した「ベストマッチの概念」など、ライダーにおける必須事項を綺麗に満たした存在である。そして過去にも原点回帰を思わせるライダーがいた。それがゼロ年代最後の仮面ライダー「ダブル」である。

 

デザインは緑と黒を基調にし、マントをたなびかせる、かつ「敵の力を用いて戦う」プロットは、ライダーファンであれば周知の事実であろう。なので今更そうした要素を語る必要はなさそうだ。しかし私は「ダブル」という作品にはセカイ系の要素が含まれると考える。地球に存在する全ての記憶を持つフィリップは、存在そのものが言うならば「世界」であり、翔太郎との邂逅を通じて(世界と言うにはスケールは小さいが)街を守るプロットは、まさにゼロ年代アニメに見られたものだ。

 

そしてそこからの万丈だ。ビルドでも万丈と戦兎のバディが度々描かれるが、万丈の存在は単なる相棒とは違っている。何故なら存在そのものが「世界を脅かす」ものであり、それを受けて葛城巧は、何としてでも万丈を排除しようと試みた。そして今回の劇場版ではその万丈が「世界を変える」キーとなった。しかもクローズビルドフォームは戦兎との合体フォームだ!

ダブルファンの私としては興奮を抑えきれない。しかも変身後の「ひゅぉぉおお〜」という風の音がまさにダブルを思わせる演出だ!

 

私はそこで思わず泣きそうになった。と同時にガッツポーズをしたくなる衝動に駆られたのだ。何故なら「万丈との出会いがきっかけで世界が救われた」こと、そして「2人で一つの仮面ライダー」を再現したからだ。1人では成し遂げられなかった「ラブアンドピース」を、戦兎と万丈の2人で成し遂げたのだ!まさにこれは「ダブル」で描かれたゼロ年代セカイ系の再現だ。そして「Be The One=原点に戻る」秀逸なタイトル回収でもあるのだ。

 

平成最後の仮面ライダージオウへとバトンを渡す『ビルド』はまさに、仮面ライダーの本質を「原点回帰」の手段を用いて再認識させる作品だったと言える。正直に言えば若干詰めの甘い部分も無いわけではない。それでも『Be The One』は多くのライダーファンをニヤつかせる良作映画だった!

胃下垂の自分が体重50キロから60キロに増量させた方法と、変わったこと

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大学入学時、恥ずかしながら私の体重は50キロ前後で、同世代の中でもかなりのガリガリ体型でした。一番最初に大学で行った健康診断では何と48キロ!腹が減っているタイミングで測ったという事もあり、普段以上に痩せた数値になってしまった!

 

高校時代までは見た目にあまり頓着していなかったが、大学に入ってみると周りはガタイが良くてどんな服でも似合うイケメンばかりで、流石に焦った。とりあえず髪型や服装だけは大学生っぽくしようと奮起し、「ギリ大学生っぽい」ようなコーディネートに成功。

しかしそこで「体格」という、生まれ持ったパラメータの低さが重くのしかかってきたのだ。

 

男で体重50キロは皆が想像してる以上に凄まじい。それだけでなく自分は擁護できないレベルの「なで肩」だったので、外見はより弱そうに見えてしまい「男らしさ」が皆無だった。

そこで私は「とりあえず55キロまでは増やしたい!」と思い、さまざまな工夫を重ねる事にした。

 

55キロへの道のり

意識したのは「食事」「筋肉」だった。

やはり太るには食いまくるのが手っ取り早い。食堂のご飯は中サイズから大サイズに変えた(そうする事で一回あたりのカロリーをおよそ300kcaほど増やす事ができた。炭水化物の力ってすげー!)

また、食事の内容も炭水化物のほか、筋トレとの兼ね合いを考えて鶏胸肉を豊富に摂取。タンパク質はだいたい1日に300グラムは低くても取るようにしていた。あと、卵と納豆も手軽なタンパク質源。

 

あと、大学生にありがちな朝昼兼用みたいな、一食を抜くことは絶対にしなかった。抜いた分だけ一日のカロリーが減るからだ。しかしそれだけでは全く体重が増えなかった。何故なら私は「胃下垂」であり、消化の効率が悪い体質だった。そこで使用したのがエビオス錠と呼ばれるビール酵母サプリメントだ。巷では精力増強効果があると言われるこのサプリだが、自分はそうした効果は実感しなかった。

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ビール酵母は胃の動きを活性化させて消化を助ける働きをするので、消化効率の悪い自分の体にはピッタリである。朝は胃がもたれるほど食べないので、特に多くのカロリーを摂取する昼と夜のみ摂取した。一回につき10錠なので、結構大変。その結果、胃の動きが良くなったのか摂取した日の翌朝は空腹で目覚めるほどになった。確実に効いている証拠である。

 

そしてカロリー摂取以外に行ったのが二つ目の「筋トレ」だ。とは言っても自分自身、元々全くと言っていいほど運動の習慣がなかったので、ハードなものは行わないようにした。運動が苦手な自分が、無理なく筋トレを継続するには「自分でもできるレベル」のトレーニングである必要があった。

 

具体的には一般的な腹筋・腕立て伏せ・エセスクワットをそれぞれ30回ずつだ。筋トレガチ勢からすればトレーニングのうちに入らなそうなメニューだが、これでも始めた当初は全身筋肉痛になりました。しかしこの痛さがまた心地良い。部活と違って自分のペースでできるのが筋トレの良い所だ。

 

エセスクワットに関しては、足首が硬すぎて昔からひよこ座り(うんこ座り)しても踵が地面につかないレベル。一応これでも元水泳部。

そこで使ったのが、大学で使う「武隈ミクロ」と「例題で学ぶ計量経済学」のテキストだ。

これらはかなり分厚い教科書なので、自分のように踵が地面から離れる人にはピッタリの補助器具だった。そうする事で不安定な足元を固定する事ができ、より効果的なスクワットができたと思っている。例のごとくスクワットにも精力増強効果があるらしい。それ目的でやる人も結構多いと聞く。

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55キロから60キロの道のり

 

上記の食事・筋トレをした事で、何と1ヶ月程度で体重55キロに到達。その後は食事の量を毎日変えずに生活することで、プラスマイナス56キロ程度をキープ。というよりも伸び悩んだ。しかし自分としては、BMIの標準値となる61キロに到達したかったので(低身長がバレそう)、ひとまずこれ以上減らないように気をつけた。

あと、太り過ぎて一回生の時に使っていたスーツが入らなくなったので、極端な増量計画はここで一旦終了。

 

大学4回生4月時点の体重は55.7キロだった。しかし思わぬところで体重60キロに到達してしまった。薄々予想していたかもしれませんが、就活でここ最近忙しかったんですよね。どうしても面接前にはカフェやらファミレスやらでガッツリとパワーをつけたいと思い、カロリーが高いものを食べる機会が増えてしまった。

かといって、就活中は筋トレをしていたわけではないので完全に脂肪がついてしまいました。

というわけで、55キロから60キロの道のりは「就活での生活リズムの変化」によって成し遂げられてしまいました。とは言え、あまり良い太り方じゃないのでこれから筋トレ再開せねば…。

 

10キロ太ったことで起こった変化など

 

まず見た目ですけど、筋トレ+全体的に丸みを帯びた事でガタイが良くなりました、今まで夏服着るとガリガリが際立つので嫌だったんですが、今では堂々と着られるようになりましたね。あと、個人的に以前よりも健康的な第一印象ですね。少なくともぱっと見で「大丈夫か??」と言われるような見た目ではなくなりました。

 

あと、55キロ到達時点で感じたのが「暑がりになった」事です。太っている人は熱を帯びやすいと聞いたことはありますけど、5キロ太るだけでもかなり実感しました。50キロと55キロは「ガリと普通の壁」な気がするので、やはりそこでの変化は大きかったなと。

 

これは筋トレの成果かもしれませんが、「疲れにくくなった」のが個人的に嬉しいポイントです。何となく以前までは家事など、何をやるにしてもすぐ疲れてしまったり、エネルギーを使いたくない性格だったのが、筋トレを通じて気分的に楽になった気がします。

 

最も変化を感じた瞬間は「電車」です。椅子に座るとこれまでは何も感じなかったのが、めちゃくちゃ座り心地が良く感じました。座った瞬間に椅子が凹む!55キロ時点でも実感しましたが、さらに5キロ増えた今ではもっと実感します。

 

デメリットとしては家のベッドまで凹むようになったのと、あとは上で述べた「スーツが入らない」事ですね。ああいうのは太るとすぐに着られなくなるので、今後は少し気をつけねば…。しかし個人的に増量で感じたメリットはかなり大きかったので、見た目にコンプレックスを感じる男性は是非、挑戦して欲しいですね。

アニメ『ロックマンエグゼ』で印象に残った回をまとめました

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既に3ヶ月もの間、更新が途絶えてしまったためか、はてなブログに広告がチラつくようになった。「この広告は1ヶ月以上更新のない場合に表示されます」という、半ば晒しあげのような不名誉なレッテル貼りだ。リアルの忙しさルナティックだったので仕方ない。

 

アニメ感想ブログなのにアニメのことを一切更新しないのは自分としても気分が悪いため、今回は「記事にしやすそうな作品」を紹介しようと思います。『ロックマンエグゼ』です。おそらく現在大学の3〜4年生あたりがドンピシャ世代ではなかろうか。自分は2の途中までやっていた。途中でアメロッパか何かの行き方が分からずに放り投げた思い出。

 

dtvで全シリーズ上がっていたのと、脚本に『ウルトラマンネクサス』、『仮面ライダードライブ』の詩島剛闇落ち編で大活躍したあの長谷川圭一先生が参加していたので見るっきゃなかった。基本的に平和すぎる世界観なのだが、中には色々な意味でカオスだったり、子供にはまだ早そうなやばい回もあるほか、時には社会風刺にも挑戦するような、良くも悪くも「てんこ盛り」のアニメだ。今回は踏み込んだ考察とかではなく、単に印象に残った回を紹介していこうと思う。

 

18話 暗躍!ワールドスリー!

19話 戦慄!悪魔チップ!

 

いわゆるロールちゃん闇落ち回。序盤のヤマ、「N1グランプリ編」でそれは起こった。犯罪集団のワールドスリーの一味が、日暮先生に変装して怪しげなチップをメイルちゃんに渡し、それが原因でナビのロールちゃんが暴走という流れ。個人的に闇落ちといって安易にボディを真っ黒にするのではなく、妖艶なアイシャドウが加わるところが非常にポイントが高い。しかも驚くべきは1話完結ではない点だ。バンキシャのあのBGMをバックにロールちゃんがさらにパワーアップし、高らかな笑い声で何とそのまま次回まで引っ張るのだ。流石としか言えない。

 

 

チップの取り外しも困難で「おいおいどうすんだ」と思いきや、いつもの「感情に訴えかける」という、よくある展開でロールちゃんに説得を試みる。それでもうまくいかない。いつもならばここで元に戻ってハッピーエンドなのだが、妙な拘りを感じる。製作者はノリノリである

 

しかし、新たにチップを装填することですでに挿入済みのチップが外れるという、とーっても簡単な方法で闇落ちが解けるのだ。いや確かに「目を覚ませ!」で本当に目が覚めるよりは幾分マシなはずだし、ロジック的にも有りなんだろうけど、あまりにも呆気なさすぎてね…。

 

30話 エレキママの電撃作戦!

 

エレキ伯爵の株が上がった回。優秀な兄と比べられて劣等感を抱いて生きてきた弟のエレキ伯爵に共感した人も多いはず。エレキママが伯爵に喝を入れるのだが、兄を引き合いに出して露骨に嫌な反応をする伯爵。ナビがダメージを受けると自分も電撃を食らうデスマッチ戦で熱斗と対戦。普通に火事になりそうだし、実際この後の回には電撃デスマッチが起因して火災になる展開が待っている。

 

 

バトル後、久々に会えたと思った母親の姿はいつのまにか消え、残っているのは母の墓石のみ。兄を引き合いに出したのは他でもなく、自分を奮起させる為だと知った伯爵。何ともしんみりさせられるような回だった。エレキ兄弟の確執については、だいぶ後になってから回収されるので最後まで見届けよう。

 

35話 ダム決壊0秒前!

 

サロマさんの幼馴染のダイスケがクイックマンを使って、氷室家のダムの稼働を妨害する。長谷川脚本。しかしダイスケの狙いはあくまでも脅迫の域を超えず、最初からダムを崩壊させるつもりは無かった。するとクイックマンの背後からゴスペルの一味・カットマンが襲いかかる。かわいい風貌の割にえげつないキャラに仕上がっている。原作でもそんな感じでしたね。

 

一番の見所はサロマさんがラストで環境破壊をする人間たちに何かを訴えかけるように呟くシーン。単純な勧善懲悪ではなく、本当の悪はむしろ我々なのかもしれないという、一昔前までの特撮を思わせる意味深な回だった。

 

36話 デンサンシティ南極化計画!

37話 紅い閃光!

 

ヒートマンの初登場回。この二話は同じストーリーを熱斗目線・ヒノケン目線の2つの視点から展開した構成になっている。ここでもワールドスリー一味の株が上がる。フリーズマンに敗北し、デリート寸前になったヒノケンのナビ・ファイアマンの生まれ変わりとして、ヒートマンを名人からもらう。ファイアマンの敵討ちを目標に再び戦いに身を投じるヒノケンがひたすらカッコいい回。

 

51話 崩壊の刻!

 

ゴスペル暗躍編の最終回。エレキ伯爵とガウスの兄弟決戦の回でもある。フォルテの影響で体にバグが発生し、ロックマンはピンチに。そこで熱斗は諸刃の剣・エキストラコードを送り、バスターでマグネットマンを倒そうとするも、バグの影響で照準が定まらない。そこでエレキ伯爵のナビ・エレキマンがマグネットマンを抑えて、構わず打つように頼む。そのまま両者ともバスターを浴びてデリート。元ワールドスリーかっこよすぎかよ。

 

その後ロックマンはバグスタイルに変貌、ゴスペルを吸収して暴走し、ネットシティが次々と崩壊していく。ここの作画がいつも以上に力が入っていてびびる。収拾がいよいよ怪しくなってきたと思われたが熱斗くんの説得により崩壊は免れる。あるキャラとの邂逅・呼びかけが起因して世界を救うゼロ年代セカイ系を思わせる展開と言えなくもない。

 

振り返ってみると、基本はギャグかつ随所にガバい展開がありながらも抑えるところはしっかり抑えた、良質な子供向けアニメだったと思う。続編の視聴はまた時間があれば…。

名前が変われば別人になった気がするアレについて

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4月1日からは新年度ということで、みなさん忙しい日々を送られているでしょう。そう、4月というのは知ってのとおり「クラス替え」「入学」「年度初め」と、変わり目の時期であり環境がガラッと変わってしまう瞬間だ。初めて会う人も多く、慣れない生活に身を”置かれ”て精神的にまいりやすいシーズンでもある(詳しくは「木の芽時」でググろう)。しかし中には、前から知っている人のハズなのにどういう訳かこれまでと雰囲気が全然違うような、つい「お、お前どうしたんだ??」と台詞が出そうなほど変貌を遂げるヤツが現れる。毎回絶対現れる。実際、私の身近なところでも"それ"は起こってしまった。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASL1T4S92L1TPTIL00Y.html

 

この4月から大阪市営地下鉄は「osaka metro」へと名称を変更したとのこと。通りで乗り換え案内アプリを使った時に変な名前が出てくるわけだ。言ってしまえばこれまで真面目クンだった人が大学に入った途端、あたかも前から陽キャラだったかのように振る舞う「大学デビュー」を果たしたわけだ。東京メトロという、クラスでも人気のウェイ系を真似た結果、「大阪メトロ」というどうあがいても二番煎じの変貌ぶりには驚きを隠せない。けれど、そうした違和感を抱くのはあくまでもこれまで「大阪市営地下鉄」として接してきた大阪民のみであり、ほかの県の人や外国人を相手にした時は「前からosaka metroでしたけど何か??」と、黒歴史をひた隠しにして接するような、随分とセコイ手のように感じる。

 

だがちょっと待ってほしい(朝日新聞論調)。「名前が変われば別人になる」のは我々も同じなのではなかろうか。例えばツイッターアカウントだ。ハムスター系男子の「きよるん」が2chまとめで集中砲火された際には「カマドウマ大学生」へと転身し、最終的には炎上しすぎた挙句カリッと焼けたフライドポテトに変わったではないか。そう、ツイッターでは「転身」が当たり前のように行われている。「これまでの自分を捨てる」という決意は、かなり勇気を要する行動だが、ツイッターではいとも簡単にそれが出来てしまう。名前が変わるだけならまだしも「複数アカウント」を用いることで、自分の人格を無数に増やすことだって可能だ。

 

しかし「名前」というものはあくまでも人を判別する為の記号でしかなく、いくら名前を変えても「自分」というものは何ら変わり得ないのだ。自分を含め我々は「いつでも自分以外の人になれる"気がする"」社会に生きており、それがいい意味でも悪い意味でも「自分の中身」を試されているような気がしないでもない。

ひぐらし』で竜宮レナが「いやなこと」を忘れるために本名「レイナ」から「イ」を抜いたように、新しい生活に踏み入れようと奔走する者。『何者』で裏アカを駆使して自分以外の誰かになりたがった拓人のように、現在の自分から逃げようとする者。一口に「名前が変わる」といっても、その意味合いはプラスにもマイナスにもなり得るのだ。

osaka metroへの変貌がガワだけではない、良い意味での進化であることを願うばかりである。

野菜が美味しい

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リアルの方でとーっても忙しかったので更新できず仕舞いでしたが、生存報告も兼ねて。とりあえず何でもいいから書いときたいというのが本音で、本当はアニメ感想みたいなカッチリしたものを書きたかったけど、時間も取れないので例のごとく「食べ物系記事」で水増ししようという非常に汚いやり方である。

 

最近、私は家事に凝っている。というのも、元々スーパーの弁当で夕食を済ませていたのだが栄養面において偏ってる感が否めないのと、自炊した方が安くてたくさん食えるという理由から、多少料理や洗い物の手間ができても食欲の充足には敵わないと思ったので、簡単な炒め物やしゃぶしゃぶで野菜と肉をバランスよく摂るようにしている。

 

しかしながら、この冬は前代未聞の野菜恐慌で葉物野菜が軒並み爆上がりしていたのが非常に苦しかった。レタスも500円だし、しかもなんか小さい。それでも何とか食卓に届けようと噴気した農家の方、ご苦労様です。

今になってようやく気温が上がり、野菜も育ちやすい環境になったことでチンゲンサイが98円で買えるようになった。自炊マンにとって野菜が安い事ほど嬉しいものはない。だいたい腹が減った時は「肉!ご飯!」が真っ先に来るんですよね。自分にとって野菜はあくまで「余裕があればプラスアルファ」くらいの位置付けである。腹を満たすには腹持ちの良い炭水化物は必須だし、肉は疲労回復に必要な栄養素でビタミン・ミネラルの王様だ。そんな中でどうしても「食物繊維」の優先度が低くなりがちで、軽視してしまう。値段の変動が激しすぎる事も私の「野菜を敬遠」する姿勢に拍車をかけている。

 

ここにきてようやく野菜が買えるようになったのでチンゲンサイと豚肉の炒め物を使ってみたらめちゃくちゃ美味くて本気で泣きそうになりました。諸事情があって数日間コンビニ弁当で済ませていた反動があまりにもデカすぎた。

噛んだ瞬間にシャクシャクと新鮮な音が出て耳が幸せになる。野菜が美味しいってこんなにも幸せな事なのかと改めて思った瞬間でした。チンゲンサイだけでなくレタスも安い。しかも玉がデカい。まさに「野菜リターンズ」だ。感動の再会だ。人間に必要なのは「栄養」。すごく当たり前だけど、ここ一週間本当に実感しています。