シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

圧倒的な瞬間最大風速 『リトルバスターズ!』の大どんでん返しが今でも忘れられない

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こんにちは、シゲです!

当ブログは一応、アニメの感想・考察等をまとめたブログというコンセプトだったが、最近はアニメの話題をあまり挙げてなかった気がするのでそろそろガソリンを補給しようかなと…。

 

 

 そこで今回紹介したいのはkey作品の4作目『リトルバスターズ!』である。ゲームが発売されて10周年ということで、スピンオフの『クドわふたー』アニメ化プロジェクトが動いている。私もせっかくだからこの流れに乗って『リトバス』について語りたいと思う(と言っても原作未プレイだからあんまり偉そうには語れないが…)

 

 

結論から言うと純粋に面白い青春ドラマであった。refreinからが本番で、ヒロインの個別ルートは前座とよく言われているがとんでもない。個人的には十分に各ヒロインのエピソードを楽しめた。特に小毬のエピソードは後々の展開を考えると非常に大きな役割を担っていた。(ゲーム原作アニメだから所々端折られているところはあるだろうけど、それでも良くキャラクターが掘り下げられていたと感じる)

 

 

野球要素は如何に自然なギミックとして働いていたか

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アニメ版が放送されたのは2012〜2013にかけてだった。大きく分けて各ヒロインの個別ルートドラマをメインで描いた「無印」、世界の秘密・理樹と鈴の成長を描いた第2期「refrain」に分けられる。無印ではkey作品の例に漏れず個別ルートが描かれるが、本作品で特に面白いのは「野球要素」が全面的に押し出されている所にある。あくまで野球チーム「リトルバスターズ」を結成するまでの過程の中で、ヒロインたちの掘り下げを行っている。「key作品は野球要素が恒例」とは良く言われるイメージがある。その原点とも言えるのが『リトルバスターズ』なのだろうか。

 

 

「野球」というスポーツは正直私はあまり詳しくはわからない。ルールすら理解していないレベルである。しかし部活動なら中高問わずどこの学校でも盛んに行われていて、夏には高校球児の晴れ舞台とも言える甲子園が開催される。プロ野球に至っては老若男女問わず熱狂的なファンが居る。「野球」というスポーツは日本を代表するものなのである。

 

ルールすら分からないのにホームランを打てば「うおおお!」となるし、さらに「サヨナラ」の冠を被れば何故か涙が出てくる。野球のことは何も分からないが小学生の頃は『ルーキーズ』を食い入るように見ていた記憶がある。つまり野球は「ルール」や「知識」を越えた魅力があるスポーツなのである。それ故に様々な漫画・アニメでは「野球」を題材にしたものが多いのではないだろうか。

 

 

野球といえば青春。リトルバスターズが掲げるテーマ「友情」を描くのにはピッタリすぎる材料だったのではないだろうか。また、野球用語がそのまま物語のギミックとして働いていた印象がある。恭介の「コールドゲームだ」「サヨナラホームラン」など、随所に用語が散りばめられていて非常に"上手い"やり方だった。

 

 

少年漫画のような成長ストーリー

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key作品はいわゆる「ノベルゲーム」である。「ノベルゲーム」は傾向としては恋愛ものが多いイメージがあり、keyというブランド自体も「恋愛」から発展した「泣き」をウリにしている。そんな中で「友情」というテーマを掲げたのはある意味では大きな挑戦だったのかもしれない。というのも私自身「恋愛」と「友情」は非常に両立し辛い材料だと思っている。普通に両立させようとすると「恋愛」がメインで「友情」はおまけみたいになってしまうことが多い。しかし『リトバス』は「友情」をメインに添えて、恋愛はあくまで一要素という逆転した作風になっていた。それでも決して理樹と鈴の関係性を軽視するわけではなかった。2人の出会いから始まり、refrainで描かれた逃亡劇など、理樹がひたすら鈴を守るために奔走する描写もしっかりと描かれていたと感じる。

 

 

そもそもkey作品は一要素として「恋愛」を使っているものの、それを全面的に押し出すような作風ではない事が多い。例えば『AIR』の「親子愛」、『CLANNAD』の「家族愛」、『Angel Beats!』では「人生観」というように「恋愛から発展した心の変化」に重きを置いているからだ。あくまで全体像のうち、一部分に恋愛があるに過ぎない。『リトバス』の場合"それ"が「友情」だったのだ。

 

 

また、『リトバス』は少年漫画のような色彩を帯びていたと感じている。「虚構世界」という独特な世界観は今までのkeyっぽさを残しつつも、季節感を全面的に出していた三部作からデザイン自体も一新され、ストーリーもこれまでのkey作品とは一区切りつけたような印象。

 

「野球」「友情」については上で触れたが恭介をはじめとし、真人や謙吾といった「男キャラクターの存在」が非常に強いスパイスとなっていた。それも彼らの存在なしでは『リトバス』が成り立たないくらいの大きな役割である。

理樹と鈴の成長を主軸として物語を進めて来たが、「男サイド」もリトルバスターズを通して同時に成長させられていたなと。虚構世界に浸っていたのは理樹たちだけではなく例えば謙吾だってそうだったのではないだろうか。

少年時代を剣道一本で過ごし、いい思い出を作れなかったブランクを虚構世界で埋めようとする謙吾もある意味で「現実逃避」とも言えるかもしれない。『リトバス』において虚構世界はあくまでも虚構であって、現実ではない。虚構世界はいつか出ていかなければならない場所だった。この「心地良い世界から脱却する必要性」というものは後の『Angel Beats!』における「成仏」「卒業」にも繋がってくる要素である。

 

 

直枝理樹というキャラクターもまた、この"少年漫画っぽさ"に拍車をかけていた。key作品にしては珍しく「大人しめの男の子」であった。後にも先にも、このような控えめな性格の主人公はkey作品にいない。(前3作の主役相沢祐一国崎往人岡崎朋也は割としっかり者という印象が強い。さらに後2作の音無結弦、乙坂有宇、天王寺湖太郎も決して気が弱い感じの性格ではなく、時にボケ役に徹して場を盛り上げるチャラ男っぽさのあるキャラ付けであった。(あくまでアニメを見ている限りでは)

 

言って仕舞えば理樹は色々な意味で「弱い」タイプの主人公だった。恭介をはじめとし、様々なキャラクターたちに守られながらストーリーは進んでいた。真面目で普通の男の子の"理樹"と、破茶滅茶ながらもかなり大人びているみんなのヒーロー"恭介" この2人の男は物語を絶妙なバランスで支えていたのだ。

 

また、理樹の精神的な脆さを表現する手段として「ナルコレプシー」が用いられていた。眠りについた状態は「現実から離れている」とも言えるので、現実から目を逸らしたいという理樹のストレスを表すには使いやすかったのかもしれないが…。どうしても「便利な場面転換の手段」という側面がチラついてしまった。

そもそもあまりナルコレプシーという設定自体があまり活かされていないなと…。後半になるにつれて「そういえばナルコレプシーなんてあったな〜」となってしまう。物語の都合上ナルコレプシーという設定が、死に設定とまではいかないものの「場面転換の手段」の域を出ないなぁと感じてしまった。

 

まとめると、「虚構世界」「ナルコレプシー」「主人公が"弱"のイメージ」という3要素は、全て「成長」のストーリーを描く為の土台であったと感じている。

 

総じて、『リトバス』は今までのkeyっぽさを残しながらも「豊富な男キャラクター」「友情というテーマ」「スポーツ要素」「成長」など、少年漫画に見られるメソッドを沢山盛り込んでいたのである。

 

 

リトバス』の大どんでん返しは如何に"凄かった"のか

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リトバスの最大のネタと言ってもいいものが「虚構世界の秘密」である。上で虚構世界について少し触れたが、リトバスで描かれている劇が虚構世界での出来事である」ということを視聴者が知るのは物語のかなり終盤に差し掛かってからである。表面上はいわゆる「夢オチ」にも似た仕掛けである。「今までの物語が無かったことになる」夢オチは往々にして批判されるが、リトバスの虚構世界は「現実に戻る前に理樹と鈴を成長させる」という役割があったので「今までの物語が無駄だった」とはならない。分かりやすく言えば現実に戻るまでの"予行演習"であった。

 

リトバスの比較対象として『Angel Beats!』が挙げられるだろう。あちらの世界観は「死後の世界」なので厳密に言えば臨死の世界である「虚構世界」とは少し異なるが、上で触れた通り世界からの脱却という点で共通している。また、キャラクターが消滅するカタルシス的なものも双方で見られる。両者の決定的な違いは死後の世界や虚構世界といった「物語の根幹に関わる世界観設定」を視聴者に“最初に提示”するか“最後に提示”するか、というところである。

 

Angel Beats!では最初に「死後の世界」ということを提示し、そこからキャラクターの生前の記憶と後悔・葛藤を描き、自分の人生を受け入れて成仏していくというストーリーの流れだった。リトバスではこれまでのkeyと同じく個別ルート型ドラマの中でヒロイン達の苦悩を解決していくという方法を用い、終盤で世界の秘密について迫って行くという流れである。

 

虚構世界というネタばらしは今までの「リトバスのイメージ」を白紙に戻すというある種の力技であると感じている。私自身、『リトバス』のネタバレを知る前には、所々「世界の秘密」について仄めかす描写があったものの基本は普通の青春ドラマだと思っていた。(いかんせん当時の私はおつむが弱く、世界の秘密について伏線が多かったものの「虚構世界」であることを見抜けなかった)

10〜11話でネタばらしをされた後は、「リトバスは生易しい青春ドラマでは無かった」という衝撃にノックアウトしてしまう。「ヒロインが悩んでいる」なんて優しいもんである。実際にはバスの事故で生死を彷徨っているのだから。

 

これまで理樹たちが奔走していた世界は「理樹と鈴のために作られた世界」だったのだ。麻枝准は毎回独特なファンタジー的世界観を物語の根幹としてストーリーを描いていたが、リトバスの場合"それ"についてのネタばらしは最後の最後だったから、余計に衝撃が凄かった。

 

11話の恭介との別れはリトバス屈指の名シーンだった。クールで完璧な男だった奴が大粒の涙と声にならない声で嗚咽を漏らすシーンは未だに脳みそに焼き付いている。その後の消えかかった学校にて、壁を指でなぞりながら自分たちが過ごした教室へ戻り、徐々に画面が白く消えていく演出など、余韻を大きく残すやり方が何ともkeyらしい…!「衝撃」と「感動」のダブルパンチが見る者をノックアウトさせるのだ。

 

 

リトルバスターズ!』のメッセージは何だったのか

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「いつまでも子供のままじゃいられない」

上で述べたが、これが本作品のメッセージだったと感じている。漢字二文字で表せば「成長」である。一期オープニングの「Little Busters!」では「手を繋いでみんなで仲良くしよう!」といった意味合いの歌詞であるのに対し、二期オープニングの「Boys be smile」では「手を繋いだままじゃ子供だ。」という、一期へのアンチテーゼとなっている。

 

人はいつか、1人で進んでいかなければならないという主張がリフレインではなされていたのだが、結果としては全員生存エンドだったので正直拍子抜けした感じは否めなかった。それでも「困難を乗り越えて全員を救う」という行為はそれこそ「成長した理樹と鈴」にしかできないことである。この作品が伝えたかったのは「成長のあり方に"正しい"はない」ということなのだろう。間違った方法で成長させようとして鈴は精神を病んでしまった。自分にとってベストな成長の仕方がある、私はそう解釈している。

 

ちなみに『リトルバスターズ!』のタイトルを普通に訳すと「小さき破壊者」になる。子供ながらに破天荒な遊びをする奴らだぜ!という解釈が一般的だろう。しかし私は『リトルバスターズ!』には「子供を打破する者たち」という意味が含まれていると考える。

子供のままじゃいられない。だから「子供」の状態を打破しよう。それこそが成長の一歩である。その願いが「リトルバスターズ!」というタイトルに込められているのではないだろうか。

 

ゲームが発売されて10周年となる現在、クドわふたーのアニメ化計画がなされている。無事にアニメ化されることを願っている。

世にも奇妙な物語の『ズンドコベロンチョ』はなぜ傑作なのか。 分からないことを分からないと言って何が悪い!

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こんにちは、シゲです!

7月になれば、新しい環境にもそろそろ慣れてくるシーズンだろうか。この4月に高校、大学へ入学した人も、授業や人間関係に慣れてきたことだろう。大学生になるとバイトにサークルに忙しい一日を過ごしている人もいるはずだ。また、この春に社会人になった人はそれの倍以上の忙しさに疲弊する毎日を送っているかもしれない。今の時期はバイトや仕事で「教えてもらっていないのに怒られた!」と嘆く人々も出てくるシーズンだと思う。

 

 

前振りはこの辺にしておいて、今回はタモリが進行を務める『世にも奇妙な物語』の傑作エピソードとしてしばしば挙げられ、2015年の傑作選では藤木直人を主演としてリメイクまでされた『ズンドコベロンチョ』について語りたい。

そもそも、世にも奇妙な物語は、純粋なホラー路線の物語や人間的な恐ろしさを描くエピソードから、感動系やウケ狙いのものまで幅広くカバーした「超オールマイティ型」のオムニバスドラマである。私が小学生の頃はワクワクしながらテレビにかじりついて見ていた記憶がある。(同じように『ほん怖』も夏休みの楽しみであった)なので「マニア」まではいかないものの、ある程度有名なエピソードは把握しているつもりである。

 

 『ズンドコベロンチョ』はなぜ意味不明のままなのか

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その中でも『ズンドコベロンチョ』は異彩を放っている作品だ。物語の進め方としては、普段から小難しい言葉を使いたがる主人公のエリートサラリーマン。言葉を理解できない部下を「無能だ!」と罵る。ある日「ズンドコベロンチョ」という未知の言葉を耳にする。どうやら周りの人たちはズンドコベロンチョが何なのかを把握している様子で、理解していないのは自分だけだという状況に困惑する主人公。そして意味を教えてもらおうとしても「そんなことも分からないのか!」の一点張り。主人公は「結局ズンドコベロンチョって何なんだ!」と叫んで終わる、というある種の「因果応報」の物語となっている。
いわゆる、「ウケ狙い」路線のエピソードなのだが、この作品が特異である理由はまず「謎を明かさずに終わる」という所にある。劇中では最後まで「ズンドコベロンチョ」が何なのか明かされない。ズンドコベロンチョの意味を理解しているのは、劇中の主人公以外の人物だけなのである。「ズンドコベロンチョ」を当たり前に知っているという「てい」で話が進んで行く。そして我々視聴者も、主人公と同じように惑わされる、という仕掛けになっている。

「謎が明かされない」という仕掛けは、視聴者を強制的に「主人公の目線」にしていまう、非常によく出来た演出である。否が応でも視聴者に感情移入させるのだ。この点においても『ズンドコベロンチョ』は上手い作品だと言える。

 

 

初回放送の直後にはテレビ局に「結局、ズンドコベロンチョって何なんだ!」という電話が殺到した話も有名である。劇中でも一応、ズンドコベロンチョについてが掲載されているウィキペディアらしきものが映るシーンがあったが、その内容もめちゃくちゃであり、「現段階では定義出来ない」というのが現状である。なので、ここでは「ズンドコベロンチョの意味」ではなくて、「ズンドコベロンチョという作品が何を我々に伝えたかったのか」を見ていきたい。

 

 

分からないことを分からないと言って何が悪い!

リメイク版の劇中冒頭で、主人公が部下に「何だ!コア・コンピタンスの意味も知らないでコンサルやってるのか!」と小馬鹿にするシーンが描かれる。そもそもコア・コンピタンスとは何なのだろう。ウィキで調べたら下のように出てきた。

コア・コンピタンス (Core competence)とは、ある企業の活動分野において「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」「競合他社に真似できない核となる能力」の事を指す。
コアコンピタンス - Wikipediaより

なるほどなるほど…。だがこんな言葉、普通に生活してたらまず使わないだろうw

たとえコンサルタントの中では常識中の常識であっても、初めて聞く人には優しくない言い回しである。そんな主人公も「ズンドコベロンチョ」の意味を求めて奔走するハメになる。誰も教えてくれないという苦悩を抱えたまま因果応報の物語は幕を閉じる。

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この作品が提示したテーマは「分からないことを分からないと言えない社会への風刺」だと私は感じている。記事の冒頭でわざわざ「教えてもらってないのに怒られた!」といった話を書いたのは、我々もバイトや仕事でこういった場面に幾度も晒される事になるからである。私が大学一回生の頃に学習塾でアルバイトをしていた時も、「知らない事、教えてもらってない事」でトラブルがあった。そんな場面でも「教えてもらってないです」と言えば「ゆとり世代」「使えないやつ」の烙印を押される事もあるのだ。「教えてください」と頼んでも「自分で考えろ!」と切り捨てる人もいる。

 

 

「そんなの常識だ!」は上司の常套句である。だがその「常識」は一体誰が決めたのか、そもそも知る機会はどこにあるのか、なぜ「分からない、知らない」と言っても素直に教えてくれないのか、こういった若者のモヤモヤを作品として昇華した『ズンドコベロンチョ』は本当に傑作だなと私自身感じている。

そもそも本作品は1991年が初回放送である。放送当時も大きな反響を読んだが、24年後、2015年のリメイクも相変わらずの高評価であった。24年という期間は決して短くはない。当時24歳の新入社員も今では単純計算で48歳になる。つまり初回放送の世代は現在、それなりに偉い地位に立っている頃かもしれない。世代交代をしても未だに『ズンドコベロンチョ』が高評価なのは、「どの世代にも同じような経験がある」からではないだろうか。

わざわざ24年越しのリメイクをしたのは、自分たちが上司になった時、部下の「分からない」を受け入れられるか?という挑戦状なのかもしれない…。

「仕事だから仕方ない」は通用するのか。マスコミがゴミすぎてウンザリした話

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こんにちは、シゲです!

6月23日、市川海老蔵さんはブログで何やら意味深な投稿をした。大雑把な内容は「人生で一番泣いた日です。後ほど説明いたしますので、マスコミの皆様はお引き取り願います。どうかお察しください」といった趣旨の内容であった。

 

 

ツイッターでは「もしや小林麻央さんが亡くなったのでは?」という噂がたちまち広がる。結果的に皆の予想はやはり的中し、小林麻央さんが亡くなったという事が正式に判明するのだが海老蔵さんが2時の会見を行う前から、どこかのメディアによって「小林麻央さんが亡くなった」という情報が流されたのである。

つまり、海老蔵さんが「お察しください。後で説明します」と言っていたのにも関わらず、家に押しかけて半ば強制的に情報を聞き出した輩が居たという事である。

これに対して当然、ツイッターは大荒れである。マスコミに苦言を呈したツイートは何万とリツイートされ、マスコミの悪い側面が一気に話題となった。仕舞いには「マスコミ」がトレンド入りするほど、事は炎上したのである。

 

 

そんな中にも「マスコミはそういう仕事だから仕方ないですよ」という声もちらほらと挙がっていた。確かにマスコミからすれば「スクープをどの局よりも早く提供するのが一番大事」なのだろう。仕事では数字や利益を出すのが求められるので、その為にはある程度「押しの強さ」は必要なのかもしれない。だが今回の場合はあまりにもやり方が下衆すぎると言わざるを得ない。何度も言うが海老蔵さんはブログで「後ほど説明するので、今はお引き取りください」と明言している。にも関わらずマスコミは本人の意志を無視して家に押しかけるのである。モラルの欠片もありゃしない。

 

 

果たしてこんな状況を「仕事だから」の一言で済ませて良いのだろうか。「仕事だから」何なの?「仕事」だったらモラルを欠いた行動をとっても良い理由になるのだろうか?むしろ「仕事だからこそ」丁寧にやれよと思った。マスコミ的にもあまり国民には悪い側面は知られない方が嬉しいんじゃないの?って話。

中には「国民が情報を求めるから、マスコミはその情報を得る為に動いてるに過ぎない」という、国民に責任転嫁するような発言も見受けられた。確かに我々は日々、ニュースによって情報を得ている。ニュースに助けられている側面も否定できないし、国民が情報を求めているのもまた事実である。

 

 

しかし誰が「そんな下衆い方法で」情報を提供することを求めているのだろうか。実際、今回誰よりも早く「小林麻央さんが亡くなった」という情報を流したメディアは叩かれまくっていたし、マスコミの行動に苦言を呈している人もかなり多かった。それに対するリツイートも何万単位であり、マスコミの行動に疑問を抱く人はそれだけ多かったという事は明白である。

 

 

しかも今回の場合、海老蔵さん自ら「後ほど会見できちんと説明します」と発言していたのにも関わらず、である。つまり、国民は誰もそんな下衆い方法で情報を提供してほしいなんて思っていないのである。遅かれ早かれ、「亡くなった」という情報はどうせ会見で分かるのだから、なぜマスコミはそんなにもスピードを求める必要があったのか(それも本人の意志をガン無視して、である)甚だ疑問である。早く情報を得ないと死ぬ病気にでもかかっているのだろうか。

 

 

ダークヒーローなど、誰も求めていない

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マスコミの「どんな手段を使ってでも国民のために情報をゲットしてやる」という姿勢は、いわば「ダークヒーロー」と言えなくもない。我々に情報を提供するには、ある程度無神経さは必要なのかもしれない。だが何度でも言うがそんなものは誰も求めていない。今回の場合は無神経が過ぎていてもはやヒーローですらない。熊本地震の時もそうだったが、「ダーク」の部分があまりにも肥大しすぎな上、「ヒーロー」の部分が全く見えてこない。最早、ただの悪もんである。

『リトルウィッチアカデミア』はなぜドッキドキーのワックワクー!な作品になり得たのか 〜TRIGGERが深夜に遺した異色の王道

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こんにちは、シゲです!

元々は文化庁による若手アニメーター育成プロジェクトアニメミライ」の参加作品だった『リトルウィッチアカデミア』、その後クラウドファウンディングによって資金調達をし、2015年には映画『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』が公開された。今回紹介するのはアニメミライ版、映画版の設定はそのままに時系列をリセットしたTVアニメーション版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『リトアカ』)を語ります。何はともあれ、半年間を描き切ったTRIGGERスタッフの皆さまお疲れ様でした!

 

結論から言うと、本当に「ドッキドキーのワックワクー!」なアニメだった!

私自身TRIGGER系列作品は好きだったので、今回のリトアカも期待を膨らませながら見ていた。と同時に「TRIGGER」と「王道」の二要素が思っていた以上に相性が良かったと感じている。これから、リトアカを形成した王道成分とTRIGGER独特の作風が如何に完璧な着地をしたのかを見ていきたい。

 


てんこ盛りの王道成分


このアニメははTRIGGER関連作品の中でも「異色の王道」だったと感じている。というのも、「熱さ」に全振りしつつも、綿密な設定を活かして壮大なストーリーを編み出したTRIGGERの原点『グレンラガン』、危ない下ネタにメーターを振り切ったギャグアニメ『パンティ&ストッキング』、服をモチーフにして非常に屈折した「姉妹の確執」を描いたなんだかよく分からない(褒めてます)アニメ『キルラキル』、脚本にあの岡田麿里を起用した意欲作『キズナイーバー』など、TRIGGER関連の作品はどれもこれもドがつくほどの変化球だからである。(前2作品はガイナックス制作。後のTRIGGER結成に大きな影響を与えた)

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『リトアカ』を形作る要素として「魔法使い」「学園」「成長もの」「ライバルが優等生」「師弟関係」「ドラゴンボール型作劇」など、これでもか!というほど王道成分を詰め込んできた印象がある。これらの要素は大分使い古されてきた感はあるが、逆にここまで振り切っていると清々しいものである。その中のドラゴンボール型作劇とは私が勝手に考えた言葉である。簡単に説明すると『ドラゴンボール』なら「ドラゴンボール」、『ボンバーマンジェッターズ』なら「ボムスター」、『仮面ライダーオーズ』なら「コアメダル」のように、目的となるモノを求めて話が進んでいくストーリーのことである。(正確にはこの目的となるモノのことを作劇の専門用語で「マクガフィン」と呼ぶみたいだ)『リトアカ』の場合は「7つの言の葉」である。

 

こういったドラゴンボール型作劇は視聴者にストーリーの進捗状況が目に見えてわかるというメリットがある。7つの言の葉の役割は、単にグラントリスケルを蘇らせるという目的というよりも、アッコを成長させる一種のギミックのようなものであった。一つ一つの言葉がいわゆる「教訓」であり、アッコが精神的に大人になる為には不可欠だったのだ。

 

長くなったが『リトアカ』を形成する王道成分はTRIGGER関連作品の中でも異色だったが、深夜アニメとしてもここまで王道に振り切ったのはかなりの異色だったと言えるだろう。欲を言えば思い切って夕方に放送して子供達に言の葉の教訓を知ってもらいたかったなと私は思っている。それでも、ブレずに王道という一本の道を貫いたその"潔さ"はやはり『リトアカ』らしいなと感じるものであった!

 

 

 アッコを取り巻くキャラクター達

 

序盤から中盤にかけてはゆっくりとしたテンポで日常を描きつつ、「シャリオに憧れて躍起になるアッコ」と「アッコに対して強く当たるダイアナ」という対立的な構図がメインで話が進んでいく。こういう書き方をするとダイアナが悪者みたいな感じがするが決してそうではなかった。ダイアナ自身もアッコ熱意や型破りなスタイルを認めてはいる。特に嘆きのバハロワ回ではアッコではなく自分が月光の魔女に選ばれた時には、いわゆる「試合には勝ったけど勝負には負けた」というようなダイアナの描写がなされていた。アッコに敵対心を向けつつも、どこか憎めずにむしろ「こいつ本当はいい奴なんじゃ…」という雰囲気を感じずにはいられない。このようなシーンから後々にアッコとダイアナが手を取り合うような展開がくるのか…?というワクワク感が生まれたのだ!

 

そしてアッコの成長を見守る存在がアーシュラ先生である。序盤からアーシュラ先生=シャリオというフラグが全面的に出ていた。最初は逆にフラグが立ちすぎてミスリードじゃねーのと思ったがそんなことはなかった。むしろこの作品は最初から見る人にアーシュラ先生=シャリオという大前提を提示しておき、その上で「夢を諦めたアーシュラ先生」と「夢を追うアッコ」という切なすぎる師弟関係という構造を魅せたかったのではないだろうか。

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アッコを影で支えたのはアーシュラ先生だけではない。隙あらばアッコにイタズラをするスーシィもなんだかんだアッコの事を大事に思っているし、ロッテもなりふり構わず進むアッコの事を心配していたり、言ってしまえば全てのキャラクターがアッコの保護者だったように感じる。他にもコンスタンツェ、アマンダなどのサブキャラクター関連のエピソードもほんとうに良く掘り下げられていたのも良かったポイントである。(コンスタンツェ回のグレンラガンパロディは「やっぱTRIGGERだなぁ」という妙な安心感を覚えたのは私だけではないはず…)。

つまりアッコを取り巻くキャラクター達は、熱すぎる主人公を全力でラジエーターのように制御し、作品のバランス感を保つ役割を担っていたのだ!

 

 

20話以降のスピーディすぎる展開

 

こうして物語はバランス感を保ちつつ、終盤へと差し掛かる。20話では「ダイアナ、学校辞めるってよ」騒動が起こり、アッコは当然ダイアナに説得を試みる。20話で描かれていたのは「伝統」と「新たな力」の融合。古いしきたりを重んじるダイアナと、革新的な考えを持つアッコ。今まで対立していた2人がついに手と手を取り合って協力プレイをするのだ!これまでも対立しつつ仲間になるかも?という雰囲気を醸し出してきたが、ついにここで手を取り合うのだ!「やっとここまできたか!」という興奮でこれまたドッキドキーのワックワクー!である!

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だが物語のピークはここで終わりではない。まだまだジェットコースターは上へと上がって行くのである!黒幕のクロワの存在が中盤あたりからチラついていたが、本格的に動き出すのはこれからである。クロワは策士だった。アッコは単純な性格なのでクロワにとっていわば「カモ」である。アッコがクロワのSSSに魅せられてホイホイと騙されてついて行ってしまい、それを横で指を噛み締めて見ているアーシュラ先生=シャリオが非常に不憫でならないのだ!

 

さらに23話では「シャリオのショーによってアッコの魔法力が失われた」という超ド級の衝撃的事実が判明してしまう。あまりに衝撃的すぎて口が思わず開いてしまう。そして現実を受け入れることができずに失踪するアッコ。無理もないだろう。なぜなら自分に夢を与えた存在が、同時に「夢を奪った」存在でもあるのだから。そこでダイアナがアッコを見つけ出して話を聞くのだが、ダイアナも元々はシャリオに憧れていたという事が判明する。心の奥で、シャリオ一筋で突っ走っているアッコを羨んでいたことを打ち明けるのだった。ダイアナの株がここでも爆上がりである!対立し合っていた2人だが元を辿れば2人とも「シャリオ」に帰結する、非常に面白い「良きライバル」の関係であった!

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24話でついにアッコは念願のシャリオとの再会を果たす。「ずっとずっとシャリオの事を追いかけてきたアッコがようやく報われた」というだけでも既に涙腺崩壊なのに、まだまだピークは続く。アッコは何とシャリオにシャイニィロッドを渡すのだ!シャリオは「人を楽しませる魔女になる」という願いによってシャイニィロッドに一度選ばれたものの、ショーへのプレッシャーで自分を見失い、言の葉を最後まで見つける事なくロッドに見放された過去がある。その点でシャリオは本当に"不憫な"キャラクターだったと私は感じている。

アッコは7つ目の言の葉を蘇らせることに成功する。この場面はアッコ以上に、シャリオが報われたシーンでもあるのだ!シャリオが成し得なかった事を、アッコが実現したのである!もうこのシーンは涙無しには見られなかった…!そして20話以降、涙涙の連続だった『リトアカ』もついに最終回を迎えるのだ!

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『リトアカ』は如何に完璧なランディングを成し遂げたか

ダイアナとアッコの和解、シャリオとの再会と、やるべき事はほとんど終わらせた『リトアカ』。最後に残るのは一つ前の話で不穏な雰囲気を醸し出していたミサイルである。そしてクロワとシャリオもようやく手を取り合って協力プレイをするのだ!よく見たら2人とも髪の毛が昔の状態に戻っている、昔の関係に戻れたのだという細かな演出がグッとくる…!

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9人の魔法使い「ナインオールドウィッチ」をもじって「ニューナインウィッチ」がミサイルを止めるために立ち向かう!ロケットえんぴつのようにどんどんと後ろの魔女を分離?してミサイルを追うシーンはどこか『グレンラガン』最終回のマトリョーシカ戦法を彷彿する。

ヤスミンカから始まり、コンスタンツェ、アマンダ、そしてスーシィとロッテが次々と分離され、アッコとダイアナに全てを託す…。ミサイルを目前にした途端、ミサイルは急激に凶暴化し始める。と同時にTRIGGERの目まぐるしく動く作画が炸裂する!次々と飛んでくるミサイルをアッコは変身魔法で回避をする。ここの作画がめちゃくちゃカッコよくて興奮を隠せない!それでもミサイルの猛攻は止まる事なく、アッコたちを襲う。アッコが撃墜され、続いてダイアナまでも箒から落下…。と思いきや、アッコがいつかの箒レースのアレに乗ってダイアナの手をガッチリと掴むのだ!!!そしてこのタイミングで流れるShiny Ray!!正直、"完璧"である…!ダイアナが20話でアッコの手を掴んで空を飛んだ対比である!今度はアッコがダイアナの手を掴んで空を飛ぶのである!

ついに最終局面、"2人で"「ノットオーフェ・オーデンフレトール!!!」と叫びながら矢を放つのだ!!!もう駄目だった…!24話の時点でもう涙腺はとっくに崩壊していた…!なのに最終回でそれを超える作劇をしてくれたのだ…!

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「人との繋がり」これは本作品が提示したテーマであった。後期オープニングでは出だしがグラントリスケルの紋章から始まり、それがキャラクターの手と重なっていく、という演出がなされている。サビ前にはアッコとダイアナがガッチリと手を掴むシーンなど度々この作品には「手」が出てくる。先ほど述べた20話でダイアナがアッコの「手」を掴むシーン、最終回でアッコがダイアナの「手」を掴むシーンは「人と手を取り合うこと」の尊さを端的に表していたのではないだろうか。「人との繋がりを大事にする」というのは、言ってしまえば当たり前の事である。しかしその"当たり前のことを大事にする"ことを訴えかけたのがなんとも『リトルウィッチアカデミア』らしいのだ!

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リトルウィッチアカデミア』これはどこまでも王道を走り、我々に「人との繋がりを大切にしなさい」という直球のメッセージを投げかけたアニメだった!TRIGGERは深夜に、いや「深夜だからこそ」王道に挑戦して、私たちに「ドッキドキーのワックワクー!」を遺したのかもしれない。長くなりましたが、楽しい作品をありがとう、リュオーン!

『フレッシュプリキュア!』が提示した「幸せ論」とは何か

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こんにちは、シゲです!

プリキュアシリーズは今や仮面ライダー、戦隊ものと肩を並べる巨大コンテンツとなっている。仮面ライダーや戦隊ものが40年以上続いているのに対し、プリキュアシリーズの歴史は13年とかなり短い。その「超大御所」とも言える仮面ライダーと戦隊ものの二つに引けを取らず子供達からの支持を得ている「プリキュア」というコンテンツは本当に"もっている"シリーズだなと感じる今日この頃である。

普段私はあまりプリキュアを見ないのだが、シリーズ構成に前川淳が起用されているという所に惹かれ、『フレッシュプリキュア!』の視聴に至ったのである。プリキュアシリーズには疎いので他のプリキュアと比較してどのような位置づけだったのか、という視点での話は他にもっと詳しい人がいるはずなのでそちらに任せたい。

トーリーの構成としては25話までの主にせつなとラブの確執を描いた前半、26話以降でラビリンスの核心に迫った後半の二つに分かれる。

 また、フレッシュプリキュアを構成する要素として「ダンス」「恋愛」に関するエピソードもふんだんに取り入れられていて、非常に充実した作劇だった。

 

懺悔の物語を描いた怒涛の前半戦

 

フレッシュプリキュアの大きな特徴と言えるのが「敵が改心する」プロセスが非常に綿密に練られているという点である。敵が改心するという展開は同じニチアサ枠で「仮面ライダー」がこれでもか!というくらいやってきた事なので正直、そこまでの目新しさは感じられなかった。せつながキュアパッションとして目覚めたとき、ただ単に仲間になりました!では済ませないのがフレッシュプリキュアである。

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この前半を一言で表すなら「懺悔の物語」だったなと私は感じている。イースとして人々を不幸にしてきた事を後悔する描写が幾度と描かれるのである。イースからキュアパッションへの転換期は非常に不安定な時期だったと感じている。まるで幼虫と成虫の間の「サナギ」のような心理状態である。それもそのはず、人間は急な変化が苦手な生き物だ。せつながイースとして対立していた頃も、ラブに心を動かされたときは明らかに病んでいたし、パッションとして生まれ変わった当初も今までの事を悔やみ、「今まで不幸を集めていた自分が、幸せのために戦う資格があるのか」という葛藤をひしひしと感じさせられた。

そんな「サナギ」の状態から「成虫」へ変化したのが25話だった。25話では過去の自分と決別すべく、ナケワメーケ化した自分の影と戦う。そこでまさかの3話で登場した犬が出てきて共闘するというめちゃくちゃ熱い展開が繰り広げられる。と同時に自分が「キュアパッション」として戦う事を決心した瞬間であった。

「敵が改心する」のはよく見られる展開だと私は言ったが、フレッシュプリキュアの前半は「サナギ」の時期を飛ばさずに"ゆっくりと"成虫へのプロセスを描いた作品だったなと私は感じている。

 

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後半戦の意味深すぎる「ラビリンス編」はどのような着地をしたか

 

晴れてせつながイース改めキュアパッションとして仲間になり、フレッシュプリキュアも後半戦に突入する。正直、後半は前半と比べて失速した感は否めなかった。ラスト2話を除けば。

愛すべきバカと呼ばれ、視聴者から「西さん」と言わせしめたウエスターもウエスターでなんだかんだせつなのことを思っていて「実はいい奴じゃね?」的な微笑ましさを醸し出し、サウラーもサウラーで相変わらず策士っぷりが物語を加速させるギミックとしてうまく機能していた。せつなと各キャラクターの掛け合いや、ラブと大輔の恋愛関連のエピソードなど、バラエティに富んだ話も現れる中「新たな敵ノーザ」「シフォンの正体がインフィニティ」「管理国家ラビリンスの実態」など3つの軸で話が進んでゆく。

 

基本的には「インフィニティ化したシフォンを狙うノーザと、それを食い止めるプリキュア」という構図で展開されるのだが…。ぶっちゃけウエスターとサウラーはノーザ登場以降空気になってしまったのが残念な所である。「策士」という、話を動かす上で非常に使いやすいキャラクターで、「お母さん消滅」「ラブのお爺ちゃんとの記憶を利用して心を揺さぶる」という、視聴者もドン引きの頭脳派だったサウラーも終盤になれば脳筋のウエスターとそう変わらない戦法になってしまったのが惜しい…。

 

そうした中でプリキュアたちは管理国家ラビリンスに凸して総統メビウスに立ち向かう。ラビリンスに支配された市民たちに「自分の意志で選ぶこと」の大切さを説く。これがものすっごく"危ない"作劇だと私は感じている。というのも、まるで全てが統制されている(あるいは統制されていた)どこかの国のなんちゃら主義、なんちゃらイズム思い出してしまったからである。

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メビウス的には「誰も悲しまない為に人々を均一化させる」という考えであったが、それはイコール「幸せ」ではないという結論である。メビウスの言う誰も悲しまない世界は「無」の世界であって決して幸せな世界ではない。反対に、ラブたちが説いた「幸せな世界」とは「不安定な事は沢山あるけど、そんな状態だからこそ自分にとっての幸せを実現できる世界」だった。つまり「自分で選べる事が本当の幸せ」ということを我々に50話かけて伝えたかったのだろう。

 

 

「自分の意志」の裏側に蠢くもの

 

そしてラスト2話では「メビウスの正体が人間によって作られたコンピュータ」という衝撃の事実が発覚する。ラビリンスの市民が「便利な世の中」を求めた究極の形が「国家をも機械で管理すること」だったのだ。人間は技術が進歩すると怠惰になるという社会風刺だったのだろうか。そんな中、メビウスは自我が芽生えて人間を統制し始めるのだった。ある意味、メビウスはこの物語の一番の被害者だったのではないだろうか。「ラスボスが人間のエゴによって作られたもの」というのは割とよく使われる作劇の手法であるが、フレッシュプリキュアでこれをやるのは皮肉めいたものがある。管理国家ラビリンスはもともと管理国家だった訳ではなさそうだ。ラビリンスの市民が「自分たちの意志で」利便性を求めすぎた結果、その利便性がアダとなり管理国家になってしまったというオチは、ある意味ラブたちが説いた「自分の意志」の闇の側面だったのではないだろうか。

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自分の意志、すなわち「自由」とは文字通り「自分の思い通りに行動できる」ことである。自由と聞けばプラスの側面ばかり目立つが、裏を返せば「全て自己責任」である。何があっても全て自分のせいである。ラビリンスの世界だって元々は「自由の下」で発展したはずだ。つまりラビリンスの市民は自分たちが選んだ「自由」で自ら「管理国家」を作り出したのである。

 

フレッシュプリキュア!』が説く「幸せ論」とは「自分で選択する意志の大切さ」だと私は感じているが、その根底にあるメッセージは「自由と自己責任は表裏一体」という、あまりにも子供には重すぎるものだったのではないだろうか…。

田舎の泥臭さについて語りたい〜『おおかみこども』と『ひぐらし』を見て〜

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こんにちは、シゲです!

私の通っている大学のとある科目で、『おおかみこどもの雨と雪』を通して地域のコミュニティ形成を学ぶ、という変わった授業を行なった。なぜ『おおかみこども』をチョイスしたのか甚だ疑問であったが、私自身細田さんの作品は好きなので授業というよりはむしろ純粋に"映画"を楽しんでいた。

肝心の授業についてはあまり真面目には聞いていなかったのでうろ覚えなのだが、あの田舎の生活を受け入れる事こそが「コミュニティ」に入る上で重要だ!的な内容だった気がする(本当にうろ覚えなので勘弁…)つまり「郷に入っては郷に従え」という事なのだろう。

 

『おおかみこども』のテーマは「生き方の選択」だったと思える。人間として、と同時に狼として生きやすい場所、それがあの「田舎」だったのだろう。あの広さなら遠吠えしても近所迷惑にならないし、狼の姿でかけっこするにも十分なスペースである。ラストシーンでその「生き方の選択」を迫られた時に雪は人間として、雨は狼としてそれぞれ別の生き方を選択したシーンが描かれる。

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ものすごくザックリした説明だが恐らくこの解釈で間違いはないはずである…。が、私は「地域のコミュニティ形成」を『おおかみこども』で学ぶには、あまりにも田舎の泥臭さが足りなすぎると思うのだ。というのも『おおかみこども』自体「田舎」を全面的に押し出すような作品ではないと私自身感じたからだ。(前作の『サマーウォーズ』はかなり田舎要素が強かったが、どちらかというと"煌びやか"な印象だったなと…)。

 

いや確かに『おおかみこども』では育児の大変さや、田舎での生活の"慣れなさ"は描いてはいるものの、田舎を学ぶ上で1番重要な泥臭さ、つまり"負の部分"については全く触れていないのだ。(これは『おおかみこども』が作品としてダメとかそういう事を言いたい訳ではなく、あくまで「田舎のコミュニティ」を学ぶ上で『おおかみこども』を教材として使うのはナシじゃねーのって話です。ご理解お願いしますm(_ _)m)

 

ではその田舎の「泥臭さ」とは何なのかこれから見ていきたい。ここからは半分愚痴みたいなものなのでご了承ください。そもそも田舎の定義は何なのだろうか。田舎のイメージはなんとなく「自然がいっぱい!」「交通の便が悪い」「空気がきれい!」「スローライフ!」というもので、悪い部分はせいぜい「交通の便」くらいだと思われがちである。だが私はこれに「民度が低い」「祭りや風習がある」「葬式で接待しなければならない」の3つを加えたい。

私の今住んでいるところは所謂、住宅街である。心斎橋や難波、東京なら新宿のような大都会なんかでは決してない。それでも交通のアクセスは最寄駅が複数存在し、かなり良い方である。買い物に行きたい時もスーパーまで歩きで行ける。そのスーパーだってたくさんある。私自身とても住みやすい地域だと思っている。だが何故か私の周りには「ここらへんは田舎だ」と感じる人が多いみたいだ。私はそういう話を聞くたびに「本物の田舎を舐めちゃダメだ…」とどうしても思ってしまうのだ。私の住むところでは風習なんてものはないし、プライバシーもある程度は守られている。(というより、そもそも地域を都会、田舎で二分してしまう事自体がナンセンスなのではないだろうか)

 

ここからが本題である。私が田舎の泥臭さを感じたのは昨年に葬式で父の実家に帰らなければならない時だった。その実家はメチャクチャ田舎であった。不満だったのは家に頻繁にハエやカメムシが現れることでも、交通アクセスの不便さでもない。葬式に参列する"組"の人たちの民度の低さである。「組」なんて言葉、普通に暮らしていたら「○年○組〜」くらいでしか使われないだろう。なんか昔に「隣組」だのよくわからん組織があった気がする。たぶんその名残だろうか。葬式が終われば会食をするのが決まりなのだが、「組」の人たちは我先に!我先に!とメシに食らいつくのである。カルパッチョのサーモンだけ独り占めして下のタマネギは全部残すわ角煮があれば角煮独り占めで残ってるのはニンジンと白菜が数切れだけ。

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これが本当に大の大人(それも70くらい)がする行動なのだろうか。ちなみに言っておくとバイキングではないので出される料理の数は決まっている。つまり独り占めすれば割りを食う人間が必ず出てくるのだ。しかも私たちはそんな一度も世話になった覚えのない組の人に酒を注ぎ回らなければならないのだ。「いや〜お世話になりました!来てくださってありがとうございます(^ ^)」などと毛ほども思ってないのに接待を強いられるのである。ハッキリ言ってうんこである。

ここまで田舎の「組」に関する苦言を呈してきたが、他にも「ゴミを出す時にはゴミ袋に名前を書かなければいけない」とかいう謎ルールがある。誰が何を捨てたのか丸わかりである。同人誌なんて買おうものなら、あの閉鎖的な空間ではものの一瞬で噂話になる。(そもそもあんなど田舎で同人誌を入手する手段はあるのだろうか…)

 

上で『おおかみこども』には田舎の泥臭さを感じないと言ったが、逆にドロドロした田舎が描かれている作品は『ひぐらしのなく頃に』だと思っている。特に園崎家関連は非常にリアルである。園崎家での姉の優遇っぷり、しきたりにとらわれ過ぎの村人、そして「ケジメ」が例である。魅音と詩音が入れ替わって集会を開いた時に、誰1人として妹の詩音を心配する者がいなかった場面なんかリアルすぎて冷や汗をかいた。まとまりもなく愚痴も入れながら2,000字も書いてきたが何が言いたいかというと田舎の実態は想像してるよりもヤバいぞ!という事である。乱文失礼しましたm(_ _)m

チョコミント好きの俺がチョコミントの魅力を語る

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こんにちは、シゲです!

6月である。もう夏の幕開けである。そしてコンビニではそんな蒸し暑い夏を乗り越えるためか、「チョコミント」がズラリと並ぶ。そう、夏といえばチョコミントなのだ!と言いたいほど私は怪人チョコミント狂なのである! 

アイスを買うときはいつも必ずチョコミント。チョコミントがなければ落胆しながら代わりのアイスを探す、これほどまでのチョコミント狂なのだが…。

 

どういうわけかチョコミントが嫌いな人が多いようだ…。嫌いな人の言い分のほとんどが「歯磨き粉の味がする!」というものである。

だがチョコミントの美味さを知らずに夏を乗り越えるなんて私からしたら勿体無い!の一言である!今回はチョコミント嫌いの人にも少しでもその"魅力"を伝えたくて記事にしたのだ。

 

 

ここがスゴイよチョコミント

まずはビジュアルから語ろう。である!いまだかつて青い食べ物を見たことがあるだろうか?!それも清涼感のあるブルーだ。まさに夏に食欲をそそられる見た目である!そして砕かれたチョコレートがところどころに見え隠れするのだ。一言で表せばクッキーアンドクリームの色違いみたいなものである。

私は変わった色をした食べ物をどういうわけか食べたくなってしまうタチなのでチョコミントは私のレーダーに見事に反応した食べ物である。

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続いては味。見た目の清涼感通りのサッパリとした後味である。うまく言葉に表せないミントのあの「スースー」する感じが夏という季節には非常にマッチしている!また、アイスの冷たさとミントの「スースー」が見事なまでにマッチしているのだ!

チョコの甘さ、そしてその甘さをミントが「甘すぎないように」制御するこの相性の良さがたまらない…!そう、甘すぎない、そしてしつこくない後味が最高なのである!

アイス前提で話が進んできたが、もちろん普通のミントチョコレートも好きである。

 

 

 チョコミントは歯磨き粉なのか?

「歯磨き粉」と揶揄されるチョコミントだが、チョコミントは「歯磨き粉の味」で当然だと私は考える。そもそも歯磨き粉自体ミントの塊の様なものなのだから。乱暴に言ってしまえば、ミントガム、フリスクミンティア、これら全て「歯磨き粉の味」である。下手したらチョコミントよりも歯磨き粉である。

何が言いたいかと言うと、「歯磨き粉の味」なのは何もチョコミントに始まった話ではないということだ。

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毎度毎度戦争のように「チョコミン党VS反チョコミン党」の論争を見るのは大変嘆かわしい事である。 酷い時には「味覚障害!」などと言う人間もいる…。チョコミントに一体何の恨みがあるのだ!!と言いたくなる…。

 

1000字ほどダラダラと書いてきたが、とにかく私はチョコミントを「歯磨き粉だ!」と言って敬遠する人に「一歩引いてみた視点」で味わってもらいたいのだ!フリスクミンティアを食べるのと同じ様に、チョコミントを食べて欲しいのだ!

この夏を皆でチョコミントを食べて乗り越えようではないか!