シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

心霊番組はなぜ衰退したのか

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こんにちは、シゲです(^ ^)

9月に入り、少し暑さもおさまって過ごしやすくなってきた。ところで皆さんはこの夏、心霊番組を見ましたか?私が小学生の頃は、毎年恒例・心霊番組の金字塔『本当にあった怖い話』やギャグ路線の垣間見える『怪談新耳袋』を密かな楽しみにしていた思い出がある。現在でも"ガチ"の心霊映像を集めた『呪いのビデオシリーズ』をニコニコ動画やユーチューブで暇つぶしに見ている。

 

しかしここ最近の夏はホラー特集が減少傾向にあり、どこか物足りなさを感じてしまう。それに加えて、作りが荒すぎるガバガバな映像や体験談だったり、過去の映像の使い回しなどが目立つようになってきた。「怖いもの見たさ」という心理学を十二分に活かしたはずの心霊コンテンツはなぜここまで衰退してしまったのだろうか。

 

深刻すぎる「ネタ不足」

 

とにかく「ネタが無い」に尽きるだろう。上でも使い回しが多いと書いたが、近年の心霊特集では10年以上前の映像をそのまま流用していることがある。(というかほとんどそう)

一般人からの応募でそういった映像を集めるのが主流のスタイルだったが、そもそも居るか居ないかわからない「幽霊」を、たまたまハッキリとした映像に残せるのは稀である。そりゃあ純粋な心霊映像を集めるのは困難なはずだ。そういう場合、ピンチヒッターである「作りもの映像」が登場するものの、その映像がまた荒すぎる編集なのである。ただでさえネタが不足しているのに、ピンチヒッターの作りもの映像すら質が悪い。せめて作りものくらいはもうちょっと頑張って作って欲しいものだ。

 

ここまで「心霊映像」について書いてきたが、『ほん怖』のような「体験談」にも同じことが言える。「体験談」の場合、映像とは違い再現ドラマによって作られるため、ある程度自由度が高いと言える。しかし、再現ドラマですら深刻なネタ不足によって大打撃を受けているのだ。どうしても心霊体験はシチュエーションや展開が似通ってくる。「病院」「お墓参り」「会社の残業」「トンネル」「肝試し」大体はこの5つに絞られてくる。さらに幽霊を発見して逃げようとしたらドアが開かない!なぜだ!となり、最後に振り返ると目の前に幽霊(それもよくある白い服を着た貞子型)の顔がどアップで映され「うわぁぁあ!」

そして何故か「この後の記憶はありません」というご都合主義すぎる記憶喪失を引き起こしてドラマは終わる。

 

書いていて思ったけど"テンプレ"が過ぎるのである。最近のアニメは主人公TUEE!や異世界転生ばかりだ!!と叫ばれているのをよく耳にするが、正直アニメよりもホラー番組の方がテンプレである。別に私としては嘘だろうが本当だろうが面白ければそれで良いのだ。なのに「嘘」すらもテンプレ構成でつまらない。まとめると、

 

・そもそも本物とされる体験談や、映像のネタがない

 

・だからと言ってニセモノのクオリティが高いかと言われれば、そうでもない

 

・似たシチュエーション、似た展開で食傷気味

 

この3つのパンチが全て致命傷となっているのだ。本物の蟹は高すぎるから代わりにカニカマを出されたが、そのカニカマが賞味期限ギリギリで不味い。例えが下手すぎるけど、そんなイメージである。

 

そもそも「心霊」自体が番組の足枷でしかない

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「心霊」という要素自体、かなり賛否両論である。下手に怖過ぎる映像を流せばクレームの元になるし、一時期話題になった「呪いの仮面」だって無駄に不安を煽っただけだった。また、巷では「本物の心霊写真はやばいから使えない」とも言われている。つまるところ、視聴者への配慮の必要性から無難なものしか取り扱うことができなくなってきたのだ。「時代の変化」や「配慮」という制約の中では、自由な番組編成は不可能になったのかもしれない。

 

さらには「霊媒師」という、一般人の目から見たら胡散臭すぎる存在も足枷となっていた。どうしても霊媒師や心霊といった要素は「宗教じみた」ものを感じ取ってしまうのだ。もちろん霊媒師だって立派な仕事なので、全否定するつもりはない。ただ、必要以上に不安を煽るのはどうしてもビジネス臭や売名臭さを感じ取ってしまう。

霊媒師による「除霊コーナー」が番組で挟まれることが多いのだが、ハッキリ言って何が面白いのかが全く分からない。他人がキャーキャー狂ったように叫びながら除霊される様(それも嘘か本当か分からないし、ヤラセだとしてもつまらない)を見せられて誰が喜ぶのだろうか。

「怖いもの見たさ」という心霊番組ならではの強みは、「心霊要素」そのものが持つデメリットによって完全に消え去ってしまったのだ。

 

いっそフィクションに振り切ってほしい

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心霊番組自体のつまらなさは、「本物っぽく見せようとして滑っている」ところにあるだろう。どうしても本物っぽくしようとすれば上で述べたテンプレ構成となってしまう。そこで、いっそのこと嘘でもいいから超展開にしてほしいなと。私は『怪談新耳袋』がとてもお気に入りである。それはまぁ、おそらく作りもののお話なんだろうけど、頭だけ牛の女が追い回してきたり、首が勢いよく伸び縮みしたり、全身真っ青の男の子がよく分からない言葉を発しながら追いかけてきたり、時にはガチっぽくて普通に怖い話があったり、いい意味でツッコミ所満載で"面白い"のだ。

あくまで主観でしかないのだけれど、心霊番組を見ている人間はおそらく斜に構えて見ていることが多いのではないだろうか。「こんなシチュエーションありえねえ!」「どんな幽霊だよw」とツッコミを入れながら見るのが楽しい!という人も居るはずだ。(私がそうである)なので、「純粋に心霊番組を楽しめなくなった人たち」をターゲットにウケ狙い路線を目指してみるのも良いかもしれない。今となっては「ノンフィクション」というメッキは完全に剥がれ、「フィクション」として認識されるようになってきた心霊番組。新しい路線で復活してくれることを願ってやまない。

『レジェンズ 甦る竜王伝説』を観て余韻がもうどうにもとまらない!

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こんにちは、シゲです!

ボンバーマンジェッターズ』を観て以来、私は子ども向けアニメの沼にすっかりハマってしまったのだが、『レジェンズ 甦る竜王伝説』(以下『レジェンズ』)の存在は2chのスレを見るまではほとんど知らなかった。シロンのねずっちょフォルムだけはどこかで見たことあるかな?って具合の認識だった。確かに私が小学生のころに放送されていた筈なのだが、周りで「レジェンズ見てるよ!」という友達がいなかったからかもしれない。

玩具展開もあまり充実はしていなかったイメージなので(実際私が小学生の頃にスーパーでタリスポッドやソウルドールがおもちゃ売り場で置かれていたのを見たことがない…)ほとんど前知識なしで視聴に至ったのだが、逆にそのおかげで毎回ワクワクと新鮮味のある見方ができたので良かったと思う。

 

「モンスターと、それを操る子供たち」という、ポケモンデジモンを彷彿させる設定であった。敵サイドのJJとBBもどこかロケット団のような雰囲気を醸し出し、中盤でレジェンズのコマンドバージョンが登場したが、変身する際の背景がすげーコンピュータ感があってデジモンっぽかったりと、両者の要素をふんだんに盛り込んでいた。

だが決してポケモンデジモンの二番煎じという訳ではない。ニューヨークを舞台に洒落たジャズをメインのBGMとして用い、さらにエンディングテーマに「どうにもとまらない」の英語版アレンジを使うなど、選曲が無駄に濃くそれはそれで強烈な個性が光っていた。

 

結論から言ってしまうと、決してハッピーエンドとは言えない終わり方である。。理想的な結末ではないものの、それ以外の選択の余地は無かっただろうなという『まどかマギカ』に近い感想を抱いた。しかしハッピーエンドが否かは置いておくとして、50話という長期スパンを一切中だるみすることなく描き切ったので、その点は非常に満足している。

上でポケモンデジモンっぽさを感じるとは言ったがその「ポスト・ポケットモンスター」とも言える本作品は私の予想していた以上の鬱展開へと突入し、完全に第一印象である「ポケモンデジモンっぽさ」を払拭してしまったのだ。さらに言えば、「今まで頼ってきたもの(レジェンズ)が実は人間を脅かす存在だった」「レジェンズウォーから感じる"ループもの"の色彩」「綺麗に終わらせたものの、ハッピーエンドとは言い切れない作風」など、むしろ『まどマギ』のような深夜アニメ的な文法が使われていたな、というのが最後まで見た感想である。

つまり見る前までは『ポケモン』であり、見たあとには『まどマギ』になる何とも面白いアニメだったなと。それでは『レジェンズ』はどのようにしてポケモンデジモンとの差別化を成し遂げてきたのかをこれから見ていこうと思う。

 

 

レジェンズとサーガの屈折した関係性

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 モンスターを操る作品では、モンスターとの絆を深めるまでの過程が描かれる。ポケモンならばサトシがオニスズメの大群からピカチュウを守ろうとしたことで、両者が強い絆で結ばれることになった。レジェンズでももちろんこういった過程は描かれるのだが、絆を深めるまでのプロセスがきわめて特殊だった。

レジェンズ」が操られる側のモンスターであり「サーガ」はレジェンズを操る側という主従関係であるが、この関係性が非常に屈折して描かれていたのだ。

 

とは言うものの、主人公のシュウとシロンは「ちょっとバカでやんちゃな少年」と「それを見守る相棒」というとても理想的な関係だった。時にはシュウがボケ倒し、それをシロンがつっこむというバランス感が保たれていた。つまり、主人公とそのパートナーは最初から割と良好な関係だったのだ。

シロンがシュウをレジェンズウォーに巻き込みたくないがために家出してわざと距離を置くなど、むしろ気を遣いすぎな部分が見受けられた。シュウを巻き込まずに一人でダークウィズカンパニーに立ち向かうがサーガの力無しでは何も出来ないと分かり、家出した後にようやくシュウの大切さに気づく。「相棒から離れて、初めて相棒の偉大さが分かる」展開はよく使われるが、レジェンズ』において「サーガとレジェンズは切っても切り離せない関係」がそのまま作品のキーとなってくるのだ。

 

このように王道展開でシュウとシロンは絆を深めてきたが、問題は他のメンバーである。ディーノとグリードー組を一言で表すと「ヤンデレ」と「距離感をあえて離そうとする男」という、非常に危なっかしいものである。ディーノはあまり人と仲良くできない人間であり、他のキャラとも距離を置いていた。そして自身のレジェンズであるグリードーを数少ない「友達」として認識し、グリードーを我が物にしようというヤンデレっぷりを発揮する。しかしグリードーは過去のレジェンズウォーの際に大切なサーガを亡くした経験があり、必要以上にサーガと仲良くなることを避けていたのだ。

そして遂に「君は僕の友達だよね?」というディーノの問いかけに対し、グリードーは「お前は…。俺の友達なんかじゃねぇ!」と返してしまう。どちらもワケがある上、そんな微妙な距離感故のすれ違いに心がチクリとくるのだ。シロンもグリードーも「サーガを傷つけまい」という意志のもとであえて距離を置くという"優しさ"を持っているのだが、その優しさがアダになる歯がゆい関係性だった。グリードーの場合はさらに「サーガがヤンデレ気味」という困った属性を持っていたため、より一層入り乱れた関係である。

 

メグとズオウの関係性もこれまた非常にしんどいものがある。物語の流れとしては、レジェンズの恐ろしさについて身をもって知ったメグが、タイミング悪く水のレジェンズであるズオウに好かれてしまうという話。メグは「レジェンズ=恐ろしいもの」というイメージを持ち、一向にズオウに心を開こうとしないのだ。メグの目の前に水のタリスポッドが出現し、いよいよサーガとして目覚める時が来たか!と思えばあろうことかタリスポッドを投げ飛ばす始末である。メグを守りたいというズオウの思いが、ことごとく裏目に出てしまう。同時に、この「レジェンズへの恐怖心」というものは後に物語の根幹に関わってくる要素にもなってくるのだ。

 

中でもマックとガリオンの関係はかなり特殊である。お互いに「自然を愛する」という点で共通しているものの、手段が全くもって一致していなかった。登場当初のガリオンの考えは「自然を守るためなら人間はどうなってもよい」という極端にも程があるものであり、どちらかと言うと悪役側に近い考えを持っていた。それも、レジェンズウォーが起こるのは必然だから仕方がない、という半ば悲惨な運命を受け入れてしまうような言動が見受けられた。さらに面白いのが「マック自身がガリオンに変身してしまう」という点。そもそも「レジェンズと、それを操るサーガ」という関係が成り立っていないのである。この性質故に、マックとガリオンは暫く平行線を辿ることとなるのだ。だからこそ、人間を悲観視していたガリオンがマック家に行った際に、自然をふんだんに使って作られた"陶器"を見て「人間のつくったものの良さを知る」展開はグっとくるのだ。同じような考えに見えて、実は根本的な部分が食い違っていたマックとガリオンの関係はようやく解消される。

 

シュウ、ディーノ、マック、メグのそれぞれの「レジェンズとの関係性」を見てきたが、共通点として「衝突が起こっていない」という所がある。サトシとピカチュウのようにお互いがぶつかり合った末で絆を深めたり、ザックとカブト丸のような「凸凹コンビ」を通じた絆の描かれ方は一切なされていない。これが『レジェンズ』において"美味しい"と感じたポイントである。

シュウを巻き込みたくないために1人で家出したシロン、ディーノの身を守るためにわざと突き放したグリードー、メグに嫌われまくりでまともに話ができなかったズオウ、そもそも顔合わせすらできなかったマックとガリオン、これらは全て「どちらかが一方的に距離を置いてしまっている」という非常に特殊な関係性である。この複雑なすれ違いから始まり、「レジェンズとサーガは切っても切り離せない運命にある」というギミックを用いて、最終的にはレジェンズウォーに立ち向かう過程でサーガとレジェンズとの絆を描いた点は非常に秀逸であった。

 

例えばマックがガリオンと分離をし、初めて対面した際「嬉しかった」ことを、その頃ズオウとすれ違い真只中だったメグに対して言うシーンは、「対面することで分かり合える喜び」をメグに伝えたかったのだろう。マックのそのセリフがメグとズオウの絆を深めるキッカケとなったのだ。まとめると「レジェンズとサーガが"向き合う"こと」を徹底していたなと。決してぶつかり合うわけではなく、ただ運命を共にする。複雑に入り組んだ関係性は、意外にもシンプルな着地を成し遂げたのだ。

 

 

レジェンズが人間を脅かす

or人間がレジェンズを脅かす

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4人のサーガとレジェンズがようやく結束を固めた頃、その裏では「ハルカ先生の闇落ち」「ハルカの父・ユルの陰謀」「シロンとランシーンの関係」「ジャバウォックの登場」など、終盤にかけて加速度的に新たな展開が繰り広げられる。中でも作中で最も脅威だったレジェンズ・ジャバウォックの存在は無視できない要素である。ジャバウォックは他のレジェンズとは全く違う性質を持っていた。人間の黒い感情を具現化した存在であり、さらにハルカの母・ラドを心臓にして動いているのだ。つまりジャバウォックという存在は、究極的には「人間そのもの」だったのではないだろうか。

 

ズオウを拒絶するメグ、ハルカ先生の闇落ち、レジェンズを滅ぼそうというユルの陰謀、これらは元を辿れば全て「レジェンズへの恐怖心」に帰結するのだ。そしてその恐怖心を最初に抱いた人間がハルカの母・ラドだったのだ。彼女がランシーンを目撃した瞬間から、全てが始まってしまったのだ。このランシーンこそが全ての元凶であり、同時に一番の被害者であると言える。レジェンズウォーで人間を滅ぼそうと考えていたが、反対に人間によってレジェンズが滅ぼされそうになるという逆転現象が起こる。

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これを踏まえて見てみると、最終回ではランシーンが自分の身を犠牲にしてジャバウォックを道連れにし、「自分が人間を恐怖に陥れた」ことに対して罪滅ぼしを行うシーンはただただ"深い"と感じるのだ。そして同時にランシーンの株が自分の中で爆上がりである。ランシーン自身もハルカ先生に利用されていた、「人間の被害者」でもあるのだ。にも関わらず、人間を守ろうとしてジャバウォック共々消え去そうとするのだ。何が言いたいかというと、つまり一番の脅威は他でもない「人間」だったなと。上で書いた通り、最強のレジェンズであるジャバウォックは最も人間に近い存在である。レジェンズが人間にとっての脅威」という話の流れは終盤で完全に「人間がレジェンズにとっての脅威」という構図にひっくり返ってしまったのだ。

 

 

あの結末はハッピーエンドだったのか

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そんなこんなで複雑に絡み合った「人間とレジェンズの対立構造」は遂にレジェンズウォーにまで発展して文字通りもうどうにもとまらなくなってきたのだが、光属性のレジェンズ「スピリチャル」の登場によって状況は一変。歴史の中で幾度もレジェンズウォーが起こり、その度にスピリチャル達は戦争を止めるように働きかけてきたことが判明する。シロンはスピリチャルの説得を受け、戦いを止める決心をする。つまり『レジェンズ』の物語は、幾度と繰り返されてきたレジェンズウォーのうち、"一番最後のもの"である。

 

スピリチャルの力で時間を巻き戻し、過去改変を行うことで世界を救う。惨劇を回避する方法として、過去改変はよく使われるものだが「過去改変して戦いを終わらせる事ができてよかったね!」では済まないのが『レジェンズ』なのだ。そもそもレジェンズは戦う為に生まれてきた存在なので、本当はレジェンズウォーを行うのがレジェンズの役目なのである。戦いが終わった今、レジェンズの存在意義は無くなってしまったのだ。戦う必要がなくなったレジェンズがサーガ達に別れを告げて自然に還る。サーガとしての役目を終えた子供たちは、レジェンズに関する記憶を失って日常に戻る、という劇的な物語の終わりは我々に大きな衝撃と、余韻を残したのだ。

 

この終わり方は一見すごく綺麗に見えて、でも「共に過ごした記憶がなくなる」のはすごくバッドエンドっぽいし、けどあれ以外に良い終わり方もないだろうし、やっぱ結果としては「良かった」のだろうか?こんな疑問が頭の中をグルグルと駆け巡る。

とは言うものの、安易なレジェンズとの共存エンドではあまりに普通すぎるし、俺たちの戦いはこれからだエンドにしなかったのは良かったなと。結局、レジェンズは最後まで「人間の憎まれ役」だったのだ。人間のエゴによって強制的に"甦らされた"レジェンズが、人間の都合で滅ぼされそうになり、最後にはひっそりと消えてゆく。あまりにもレジェンズ側が不憫な終わり方ではないだろうか。見た当初は正直、この結末には納得できなかった。

 

それでも、シロンの「子供たちを巻き込みたくない」という願いは自身が消える事で果たされたと言えるし、グリードーもディーノを死なせずに済んだ。彼らの消滅には意味があったのだ。そう考えると少しはレジェンズ側も救われたと言えるのだろうか。

と、そんな感じで色々と考えさせられる結末だった。最終回Cパートで、消滅後にねずっちょフォルムで地球に転生したシロンが、元サーガたちと再び出会う。お互いに記憶を失っているので「再会」とは言えないかもしれない。

ハッピーエンドか否かは完全に「見る者の解釈次第」である。マイナー故にあまり語られないアニメだが他の人の目にどう映るのか、とても興味深いので是非味わってもらいたい。

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なぜ当たり前のようにSNSを使うのか。そしてその恐ろしさを自分なりにまとめてみた。

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こんにちは、シゲです!

インスタグラムのユーザーがここ最近一気に増え、「インスタ映え」なる言葉をよく耳にする。ちょっと前まではフェイスブックが主流なSNSだったが、インスタグラムも新たな勢力としてトレンドになっている。10年前にEメールで友とやりとりしていたのが嘘のようである。「いつでも、誰とも繋がれる」のはSNSの強みだなと感じる。

 

ラインの便利さはわざわざ説明しなくても身をもってわかるはずだ。また、ツイッターはどうでもいいことを垂れ流すのにとても便利である。同時に友や有名人の近況だってすぐに知ることができるのだ。

そしてツイッターの凄いところは「情報の早さ」にあると思う。ドラマの感想などはハッシュタグをつければ一瞬で見つけることができる。以前まではまとめサイトに感想スレがあがるのを待つ他はなかったが、ツイッターではものの数秒で情報を得られるのである(真偽の問題はあるが、今はそういう話をするつもりはない)

 

しかし、SNSにはある種の恐ろしさを私は感じている。既にライン・ツイッターという便利すぎるツールがあるにも関わらず、さらにフェイスブックやインスタグラムにまで手を出すのである。私はラインとツイッターは使っているものの、フェイスブック・インスタグラムは使っていない。理由は「ラインとツイッターだけで十分」だからだ。

しかしながら、多くの人はラインのタイムライン、ツイッターに加えて嬉々としてフェイスブック、インスタグラムに写真を載せて充実アピールをするのだ。正直、(あえてこう書くが)異常である。別にネットリテラシー云々とかそういう事を言いたいわけではない。SNSというのはいわば、「自分が今何をしているのかをアピールする手段」というわけである。自分を知ってほしいというある種の「自己顕示欲」というものは誰にでもあるだろう。私にだって勿論、ある。ブログやってるのも誰かに読んでもらいたいからなので、それは否定するつもりはない。私が異常だと感じるのは「複数のSNSを通して自分を"魅せる"こと」「友との繋がりを"悪い意味で"強めるということ」の2つである。

 

 

SNSは自己顕示欲の捌け口なのか

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自己顕示欲を持つこと自体は何も悪くないと思っている。誰だって「かっこよくみせたい!」「できる人だと思われたい」という欲求はあるからだ。肝心なのは「自己顕示欲の矛先をどこに向けるのか」である。かっこよく見せるために筋トレやダイエットすることは褒められるべきだし(無論、健全な方法であるという前提だが…)、服をコーディネートするのも良いだろう。できる奴だと思われたいために、テストで良い点を取る努力をするのも自己顕示欲の良いコントロールの例である。

しかし私は自己顕示欲の矛先を「充実アピール」に使うことには苦言を呈したい。これを言うと謎の勢力に「非リアの嫉妬!」と言われそうだが、自分はあまりSNSで充実アピールはしたくない人間なので(なんかみっともないし、やるにしても「どこどこ行きましたー!たのしかった!以上!w」くらい)執拗に充実アピールをする人間の深層心理を疑ってしまう。本当はうまくいってないんじゃ…とか。

 

さらに、その「充実アピール」を複数のSNSでやるということが非常に恐ろしい。ツイッターだけで満足せず、フェイスブック、インスタ、ラインのタイムラインに同じような投稿を何回もやるのって普通にしんどくね?って話である。そこまでして充実アピールをするのは、「できるだけ多くの人に知ってもらいたい!」という欲望を充足させるためだろう。ツイッターならフォロワー、ラインなら友達、フェイスブック、インスタグラムのフォロワーなど、様々なジャンルの人たちが彼らの周りには存在する。そんな「別ジャンル」の人たちを取りこぼすことなく自分のことをアピールしよう、というわけなのだろうか。「インスタ映え」するアイスクリームを写真だけ載せて、あとは食べずに捨ててしまうというモラルを欠いた行動が問題視されているが、これは彼らの中に自己顕示欲と言う名の"怪物"が息を潜めているという何よりの証拠ではなかろうか。

 

 

人を繋ぎとめる鎖で自分の首を絞める人たち

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 「SNSが自己顕示欲の捌け口となっている」という話をしてきたが、もう1つの問題は「必要以上に友を繋ぎとめてしまう」という点である。いつでも友と繋がることができるSNSは確かに便利である。それは裏を返せば「どんな時でも友から離れられない」ことを意味するのだ。

ラインが来れば返事を考えなければならないし、その間ツイッターに浮上しようものならアリバイが成立せず「こいつライン返事しねーくせにツイッターやってんじゃん!」というめんどくさい事態に陥る。つまり、整合性をとる努力を強いられるわけだ。アリバイを成立させるためには「ツイッターに浮上しない」か「ラインの返事をすぐに返す」の二択しかないのである。

厄介な事にツイッターには「◯◯さんがいいねしました」という、誠にありがたくない機能が備わっている。ツイートせずともいいねから分かってしまうのである。

 

いわゆるSNS依存症である。SNSの恐ろしさを語る際「知らない人と簡単に繋がることができるから、トラブルに発展しやすい」ことが挙げられるが、私としては「リア友との繋がりが必要以上に強固になる」事の方が恐ろしいのである。SNSでは間接的とはいえ、24時間友達と共に過ごす事になるのだ。つまり実質的には1人になることができないのである。少し大袈裟かもしれないが常に誰かに監視されている状態である。フォローしてる人やフォロワーだって簡単に見ることができる。「こいつとこいつにはこんな繋がりがあるのか!」ということがバレバレである。

 

我々はSNSという名の鎖で人間関係を繋いでいる。さらにその鎖は一本だけではなく、人によれば二本、三本という者もいるだろう。自分では人と繋がっているつもりでも、実質的には色々な人によって"飼いならされている"にすぎないのではないか。そしてその鎖で自分の首を絞めているような気がしなくもない…。

圧倒的な瞬間最大風速 『リトルバスターズ!』の大どんでん返しが今でも忘れられない

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こんにちは、シゲです!

当ブログは一応、アニメの感想・考察等をまとめたブログというコンセプトだったが、最近はアニメの話題をあまり挙げてなかった気がするのでそろそろガソリンを補給しようかなと…。

 

 

 そこで今回紹介したいのはkey作品の4作目『リトルバスターズ!』である。ゲームが発売されて10周年ということで、スピンオフの『クドわふたー』アニメ化プロジェクトが動いている。私もせっかくだからこの流れに乗って『リトバス』について語りたいと思う(と言っても原作未プレイだからあんまり偉そうには語れないが…)

 

 

結論から言うと純粋に面白い青春ドラマであった。refreinからが本番で、ヒロインの個別ルートは前座とよく言われているがとんでもない。個人的には十分に各ヒロインのエピソードを楽しめた。特に小毬のエピソードは後々の展開を考えると非常に大きな役割を担っていた。(ゲーム原作アニメだから所々端折られているところはあるだろうけど、それでも良くキャラクターが掘り下げられていたと感じる)

 

 

野球要素は如何に自然なギミックとして働いていたか

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アニメ版が放送されたのは2012〜2013にかけてだった。大きく分けて各ヒロインの個別ルートドラマをメインで描いた「無印」、世界の秘密・理樹と鈴の成長を描いた第2期「refrain」に分けられる。無印ではkey作品の例に漏れず個別ルートが描かれるが、本作品で特に面白いのは「野球要素」が全面的に押し出されている所にある。あくまで野球チーム「リトルバスターズ」を結成するまでの過程の中で、ヒロインたちの掘り下げを行っている。「key作品は野球要素が恒例」とは良く言われるイメージがある。その原点とも言えるのが『リトルバスターズ』なのだろうか。

 

 

「野球」というスポーツは正直私はあまり詳しくはわからない。ルールすら理解していないレベルである。しかし部活動なら中高問わずどこの学校でも盛んに行われていて、夏には高校球児の晴れ舞台とも言える甲子園が開催される。プロ野球に至っては老若男女問わず熱狂的なファンが居る。「野球」というスポーツは日本を代表するものなのである。

 

ルールすら分からないのにホームランを打てば「うおおお!」となるし、さらに「サヨナラ」の冠を被れば何故か涙が出てくる。野球のことは何も分からないが小学生の頃は『ルーキーズ』を食い入るように見ていた記憶がある。つまり野球は「ルール」や「知識」を越えた魅力があるスポーツなのである。それ故に様々な漫画・アニメでは「野球」を題材にしたものが多いのではないだろうか。

 

 

野球といえば青春。リトルバスターズが掲げるテーマ「友情」を描くのにはピッタリすぎる材料だったのではないだろうか。また、野球用語がそのまま物語のギミックとして働いていた印象がある。恭介の「コールドゲームだ」「サヨナラホームラン」など、随所に用語が散りばめられていて非常に"上手い"やり方だった。

 

 

少年漫画のような成長ストーリー

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key作品はいわゆる「ノベルゲーム」である。「ノベルゲーム」は傾向としては恋愛ものが多いイメージがあり、keyというブランド自体も「恋愛」から発展した「泣き」をウリにしている。そんな中で「友情」というテーマを掲げたのはある意味では大きな挑戦だったのかもしれない。というのも私自身「恋愛」と「友情」は非常に両立し辛い材料だと思っている。普通に両立させようとすると「恋愛」がメインで「友情」はおまけみたいになってしまうことが多い。しかし『リトバス』は「友情」をメインに添えて、恋愛はあくまで一要素という逆転した作風になっていた。それでも決して理樹と鈴の関係性を軽視するわけではなかった。2人の出会いから始まり、refrainで描かれた逃亡劇など、理樹がひたすら鈴を守るために奔走する描写もしっかりと描かれていたと感じる。

 

 

そもそもkey作品は一要素として「恋愛」を使っているものの、それを全面的に押し出すような作風ではない事が多い。例えば『AIR』の「親子愛」、『CLANNAD』の「家族愛」、『Angel Beats!』では「人生観」というように「恋愛から発展した心の変化」に重きを置いているからだ。あくまで全体像のうち、一部分に恋愛があるに過ぎない。『リトバス』の場合"それ"が「友情」だったのだ。

 

 

また、『リトバス』は少年漫画のような色彩を帯びていたと感じている。「虚構世界」という独特な世界観は今までのkeyっぽさを残しつつも、季節感を全面的に出していた三部作からデザイン自体も一新され、ストーリーもこれまでのkey作品とは一区切りつけたような印象。

 

「野球」「友情」については上で触れたが恭介をはじめとし、真人や謙吾といった「男キャラクターの存在」が非常に強いスパイスとなっていた。それも彼らの存在なしでは『リトバス』が成り立たないくらいの大きな役割である。

理樹と鈴の成長を主軸として物語を進めて来たが、「男サイド」もリトルバスターズを通して同時に成長させられていたなと。虚構世界に浸っていたのは理樹たちだけではなく例えば謙吾だってそうだったのではないだろうか。

少年時代を剣道一本で過ごし、いい思い出を作れなかったブランクを虚構世界で埋めようとする謙吾もある意味で「現実逃避」とも言えるかもしれない。『リトバス』において虚構世界はあくまでも虚構であって、現実ではない。虚構世界はいつか出ていかなければならない場所だった。この「心地良い世界から脱却する必要性」というものは後の『Angel Beats!』における「成仏」「卒業」にも繋がってくる要素である。

 

 

直枝理樹というキャラクターもまた、この"少年漫画っぽさ"に拍車をかけていた。key作品にしては珍しく「大人しめの男の子」であった。後にも先にも、このような控えめな性格の主人公はkey作品にいない。(前3作の主役相沢祐一国崎往人岡崎朋也は割としっかり者という印象が強い。さらに後2作の音無結弦、乙坂有宇、天王寺湖太郎も決して気が弱い感じの性格ではなく、時にボケ役に徹して場を盛り上げるチャラ男っぽさのあるキャラ付けであった。(あくまでアニメを見ている限りでは)

 

言って仕舞えば理樹は色々な意味で「弱い」タイプの主人公だった。恭介をはじめとし、様々なキャラクターたちに守られながらストーリーは進んでいた。真面目で普通の男の子の"理樹"と、破茶滅茶ながらもかなり大人びているみんなのヒーロー"恭介" この2人の男は物語を絶妙なバランスで支えていたのだ。

 

また、理樹の精神的な脆さを表現する手段として「ナルコレプシー」が用いられていた。眠りについた状態は「現実から離れている」とも言えるので、現実から目を逸らしたいという理樹のストレスを表すには使いやすかったのかもしれないが…。どうしても「便利な場面転換の手段」という側面がチラついてしまった。

そもそもあまりナルコレプシーという設定自体があまり活かされていないなと…。後半になるにつれて「そういえばナルコレプシーなんてあったな〜」となってしまう。物語の都合上ナルコレプシーという設定が、死に設定とまではいかないものの「場面転換の手段」の域を出ないなぁと感じてしまった。

 

まとめると、「虚構世界」「ナルコレプシー」「主人公が"弱"のイメージ」という3要素は、全て「成長」のストーリーを描く為の土台であったと感じている。

 

総じて、『リトバス』は今までのkeyっぽさを残しながらも「豊富な男キャラクター」「友情というテーマ」「スポーツ要素」「成長」など、少年漫画に見られるメソッドを沢山盛り込んでいたのである。

 

 

リトバス』の大どんでん返しは如何に"凄かった"のか

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リトバスの最大のネタと言ってもいいものが「虚構世界の秘密」である。上で虚構世界について少し触れたが、リトバスで描かれている劇が虚構世界での出来事である」ということを視聴者が知るのは物語のかなり終盤に差し掛かってからである。表面上はいわゆる「夢オチ」にも似た仕掛けである。「今までの物語が無かったことになる」夢オチは往々にして批判されるが、リトバスの虚構世界は「現実に戻る前に理樹と鈴を成長させる」という役割があったので「今までの物語が無駄だった」とはならない。分かりやすく言えば現実に戻るまでの"予行演習"であった。

 

リトバスの比較対象として『Angel Beats!』が挙げられるだろう。あちらの世界観は「死後の世界」なので厳密に言えば臨死の世界である「虚構世界」とは少し異なるが、上で触れた通り世界からの脱却という点で共通している。また、キャラクターが消滅するカタルシス的なものも双方で見られる。両者の決定的な違いは死後の世界や虚構世界といった「物語の根幹に関わる世界観設定」を視聴者に“最初に提示”するか“最後に提示”するか、というところである。

 

Angel Beats!では最初に「死後の世界」ということを提示し、そこからキャラクターの生前の記憶と後悔・葛藤を描き、自分の人生を受け入れて成仏していくというストーリーの流れだった。リトバスではこれまでのkeyと同じく個別ルート型ドラマの中でヒロイン達の苦悩を解決していくという方法を用い、終盤で世界の秘密について迫って行くという流れである。

 

虚構世界というネタばらしは今までの「リトバスのイメージ」を白紙に戻すというある種の力技であると感じている。私自身、『リトバス』のネタバレを知る前には、所々「世界の秘密」について仄めかす描写があったものの基本は普通の青春ドラマだと思っていた。(いかんせん当時の私はおつむが弱く、世界の秘密について伏線が多かったものの「虚構世界」であることを見抜けなかった)

10〜11話でネタばらしをされた後は、「リトバスは生易しい青春ドラマでは無かった」という衝撃にノックアウトしてしまう。「ヒロインが悩んでいる」なんて優しいもんである。実際にはバスの事故で生死を彷徨っているのだから。

 

これまで理樹たちが奔走していた世界は「理樹と鈴のために作られた世界」だったのだ。麻枝准は毎回独特なファンタジー的世界観を物語の根幹としてストーリーを描いていたが、リトバスの場合"それ"についてのネタばらしは最後の最後だったから、余計に衝撃が凄かった。

 

11話の恭介との別れはリトバス屈指の名シーンだった。クールで完璧な男だった奴が大粒の涙と声にならない声で嗚咽を漏らすシーンは未だに脳みそに焼き付いている。その後の消えかかった学校にて、壁を指でなぞりながら自分たちが過ごした教室へ戻り、徐々に画面が白く消えていく演出など、余韻を大きく残すやり方が何ともkeyらしい…!「衝撃」と「感動」のダブルパンチが見る者をノックアウトさせるのだ。

 

 

リトルバスターズ!』のメッセージは何だったのか

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「いつまでも子供のままじゃいられない」

上で述べたが、これが本作品のメッセージだったと感じている。漢字二文字で表せば「成長」である。一期オープニングの「Little Busters!」では「手を繋いでみんなで仲良くしよう!」といった意味合いの歌詞であるのに対し、二期オープニングの「Boys be smile」では「手を繋いだままじゃ子供だ。」という、一期へのアンチテーゼとなっている。

 

人はいつか、1人で進んでいかなければならないという主張がリフレインではなされていたのだが、結果としては全員生存エンドだったので正直拍子抜けした感じは否めなかった。それでも「困難を乗り越えて全員を救う」という行為はそれこそ「成長した理樹と鈴」にしかできないことである。この作品が伝えたかったのは「成長のあり方に"正しい"はない」ということなのだろう。間違った方法で成長させようとして鈴は精神を病んでしまった。自分にとってベストな成長の仕方がある、私はそう解釈している。

 

ちなみに『リトルバスターズ!』のタイトルを普通に訳すと「小さき破壊者」になる。子供ながらに破天荒な遊びをする奴らだぜ!という解釈が一般的だろう。しかし私は『リトルバスターズ!』には「子供を打破する者たち」という意味が含まれていると考える。

子供のままじゃいられない。だから「子供」の状態を打破しよう。それこそが成長の一歩である。その願いが「リトルバスターズ!」というタイトルに込められているのではないだろうか。

 

ゲームが発売されて10周年となる現在、クドわふたーのアニメ化計画がなされている。無事にアニメ化されることを願っている。

世にも奇妙な物語の『ズンドコベロンチョ』はなぜ傑作なのか。 分からないことを分からないと言って何が悪い!

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こんにちは、シゲです!

7月になれば、新しい環境にもそろそろ慣れてくるシーズンだろうか。この4月に高校、大学へ入学した人も、授業や人間関係に慣れてきたことだろう。大学生になるとバイトにサークルに忙しい一日を過ごしている人もいるはずだ。また、この春に社会人になった人はそれの倍以上の忙しさに疲弊する毎日を送っているかもしれない。今の時期はバイトや仕事で「教えてもらっていないのに怒られた!」と嘆く人々も出てくるシーズンだと思う。

 

 

前振りはこの辺にしておいて、今回はタモリが進行を務める『世にも奇妙な物語』の傑作エピソードとしてしばしば挙げられ、2015年の傑作選では藤木直人を主演としてリメイクまでされた『ズンドコベロンチョ』について語りたい。

そもそも、世にも奇妙な物語は、純粋なホラー路線の物語や人間的な恐ろしさを描くエピソードから、感動系やウケ狙いのものまで幅広くカバーした「超オールマイティ型」のオムニバスドラマである。私が小学生の頃はワクワクしながらテレビにかじりついて見ていた記憶がある。(同じように『ほん怖』も夏休みの楽しみであった)なので「マニア」まではいかないものの、ある程度有名なエピソードは把握しているつもりである。

 

 『ズンドコベロンチョ』はなぜ意味不明のままなのか

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その中でも『ズンドコベロンチョ』は異彩を放っている作品だ。物語の進め方としては、普段から小難しい言葉を使いたがる主人公のエリートサラリーマン。言葉を理解できない部下を「無能だ!」と罵る。ある日「ズンドコベロンチョ」という未知の言葉を耳にする。どうやら周りの人たちはズンドコベロンチョが何なのかを把握している様子で、理解していないのは自分だけだという状況に困惑する主人公。そして意味を教えてもらおうとしても「そんなことも分からないのか!」の一点張り。主人公は「結局ズンドコベロンチョって何なんだ!」と叫んで終わる、というある種の「因果応報」の物語となっている。
いわゆる、「ウケ狙い」路線のエピソードなのだが、この作品が特異である理由はまず「謎を明かさずに終わる」という所にある。劇中では最後まで「ズンドコベロンチョ」が何なのか明かされない。ズンドコベロンチョの意味を理解しているのは、劇中の主人公以外の人物だけなのである。「ズンドコベロンチョ」を当たり前に知っているという「てい」で話が進んで行く。そして我々視聴者も、主人公と同じように惑わされる、という仕掛けになっている。

「謎が明かされない」という仕掛けは、視聴者を強制的に「主人公の目線」にしていまう、非常によく出来た演出である。否が応でも視聴者に感情移入させるのだ。この点においても『ズンドコベロンチョ』は上手い作品だと言える。

 

 

初回放送の直後にはテレビ局に「結局、ズンドコベロンチョって何なんだ!」という電話が殺到した話も有名である。劇中でも一応、ズンドコベロンチョについてが掲載されているウィキペディアらしきものが映るシーンがあったが、その内容もめちゃくちゃであり、「現段階では定義出来ない」というのが現状である。なので、ここでは「ズンドコベロンチョの意味」ではなくて、「ズンドコベロンチョという作品が何を我々に伝えたかったのか」を見ていきたい。

 

 

分からないことを分からないと言って何が悪い!

リメイク版の劇中冒頭で、主人公が部下に「何だ!コア・コンピタンスの意味も知らないでコンサルやってるのか!」と小馬鹿にするシーンが描かれる。そもそもコア・コンピタンスとは何なのだろう。ウィキで調べたら下のように出てきた。

コア・コンピタンス (Core competence)とは、ある企業の活動分野において「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」「競合他社に真似できない核となる能力」の事を指す。
コアコンピタンス - Wikipediaより

なるほどなるほど…。だがこんな言葉、普通に生活してたらまず使わないだろうw

たとえコンサルタントの中では常識中の常識であっても、初めて聞く人には優しくない言い回しである。そんな主人公も「ズンドコベロンチョ」の意味を求めて奔走するハメになる。誰も教えてくれないという苦悩を抱えたまま因果応報の物語は幕を閉じる。

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この作品が提示したテーマは「分からないことを分からないと言えない社会への風刺」だと私は感じている。記事の冒頭でわざわざ「教えてもらってないのに怒られた!」といった話を書いたのは、我々もバイトや仕事でこういった場面に幾度も晒される事になるからである。私が大学一回生の頃に学習塾でアルバイトをしていた時も、「知らない事、教えてもらってない事」でトラブルがあった。そんな場面でも「教えてもらってないです」と言えば「ゆとり世代」「使えないやつ」の烙印を押される事もあるのだ。「教えてください」と頼んでも「自分で考えろ!」と切り捨てる人もいる。

 

 

「そんなの常識だ!」は上司の常套句である。だがその「常識」は一体誰が決めたのか、そもそも知る機会はどこにあるのか、なぜ「分からない、知らない」と言っても素直に教えてくれないのか、こういった若者のモヤモヤを作品として昇華した『ズンドコベロンチョ』は本当に傑作だなと私自身感じている。

そもそも本作品は1991年が初回放送である。放送当時も大きな反響を読んだが、24年後、2015年のリメイクも相変わらずの高評価であった。24年という期間は決して短くはない。当時24歳の新入社員も今では単純計算で48歳になる。つまり初回放送の世代は現在、それなりに偉い地位に立っている頃かもしれない。世代交代をしても未だに『ズンドコベロンチョ』が高評価なのは、「どの世代にも同じような経験がある」からではないだろうか。

わざわざ24年越しのリメイクをしたのは、自分たちが上司になった時、部下の「分からない」を受け入れられるか?という挑戦状なのかもしれない…。

「仕事だから仕方ない」は通用するのか。マスコミがゴミすぎてウンザリした話

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こんにちは、シゲです!

6月23日、市川海老蔵さんはブログで何やら意味深な投稿をした。大雑把な内容は「人生で一番泣いた日です。後ほど説明いたしますので、マスコミの皆様はお引き取り願います。どうかお察しください」といった趣旨の内容であった。

 

 

ツイッターでは「もしや小林麻央さんが亡くなったのでは?」という噂がたちまち広がる。結果的に皆の予想はやはり的中し、小林麻央さんが亡くなったという事が正式に判明するのだが海老蔵さんが2時の会見を行う前から、どこかのメディアによって「小林麻央さんが亡くなった」という情報が流されたのである。

つまり、海老蔵さんが「お察しください。後で説明します」と言っていたのにも関わらず、家に押しかけて半ば強制的に情報を聞き出した輩が居たという事である。

これに対して当然、ツイッターは大荒れである。マスコミに苦言を呈したツイートは何万とリツイートされ、マスコミの悪い側面が一気に話題となった。仕舞いには「マスコミ」がトレンド入りするほど、事は炎上したのである。

 

 

そんな中にも「マスコミはそういう仕事だから仕方ないですよ」という声もちらほらと挙がっていた。確かにマスコミからすれば「スクープをどの局よりも早く提供するのが一番大事」なのだろう。仕事では数字や利益を出すのが求められるので、その為にはある程度「押しの強さ」は必要なのかもしれない。だが今回の場合はあまりにもやり方が下衆すぎると言わざるを得ない。何度も言うが海老蔵さんはブログで「後ほど説明するので、今はお引き取りください」と明言している。にも関わらずマスコミは本人の意志を無視して家に押しかけるのである。モラルの欠片もありゃしない。

 

 

果たしてこんな状況を「仕事だから」の一言で済ませて良いのだろうか。「仕事だから」何なの?「仕事」だったらモラルを欠いた行動をとっても良い理由になるのだろうか?むしろ「仕事だからこそ」丁寧にやれよと思った。マスコミ的にもあまり国民には悪い側面は知られない方が嬉しいんじゃないの?って話。

中には「国民が情報を求めるから、マスコミはその情報を得る為に動いてるに過ぎない」という、国民に責任転嫁するような発言も見受けられた。確かに我々は日々、ニュースによって情報を得ている。ニュースに助けられている側面も否定できないし、国民が情報を求めているのもまた事実である。

 

 

しかし誰が「そんな下衆い方法で」情報を提供することを求めているのだろうか。実際、今回誰よりも早く「小林麻央さんが亡くなった」という情報を流したメディアは叩かれまくっていたし、マスコミの行動に苦言を呈している人もかなり多かった。それに対するリツイートも何万単位であり、マスコミの行動に疑問を抱く人はそれだけ多かったという事は明白である。

 

 

しかも今回の場合、海老蔵さん自ら「後ほど会見できちんと説明します」と発言していたのにも関わらず、である。つまり、国民は誰もそんな下衆い方法で情報を提供してほしいなんて思っていないのである。遅かれ早かれ、「亡くなった」という情報はどうせ会見で分かるのだから、なぜマスコミはそんなにもスピードを求める必要があったのか(それも本人の意志をガン無視して、である)甚だ疑問である。早く情報を得ないと死ぬ病気にでもかかっているのだろうか。

 

 

ダークヒーローなど、誰も求めていない

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マスコミの「どんな手段を使ってでも国民のために情報をゲットしてやる」という姿勢は、いわば「ダークヒーロー」と言えなくもない。我々に情報を提供するには、ある程度無神経さは必要なのかもしれない。だが何度でも言うがそんなものは誰も求めていない。今回の場合は無神経が過ぎていてもはやヒーローですらない。熊本地震の時もそうだったが、「ダーク」の部分があまりにも肥大しすぎな上、「ヒーロー」の部分が全く見えてこない。最早、ただの悪もんである。

『リトルウィッチアカデミア』はなぜドッキドキーのワックワクー!な作品になり得たのか 〜TRIGGERが深夜に遺した異色の王道

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こんにちは、シゲです!

元々は文化庁による若手アニメーター育成プロジェクトアニメミライ」の参加作品だった『リトルウィッチアカデミア』、その後クラウドファウンディングによって資金調達をし、2015年には映画『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』が公開された。今回紹介するのはアニメミライ版、映画版の設定はそのままに時系列をリセットしたTVアニメーション版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『リトアカ』)を語ります。何はともあれ、半年間を描き切ったTRIGGERスタッフの皆さまお疲れ様でした!

 

結論から言うと、本当に「ドッキドキーのワックワクー!」なアニメだった!

私自身TRIGGER系列作品は好きだったので、今回のリトアカも期待を膨らませながら見ていた。と同時に「TRIGGER」と「王道」の二要素が思っていた以上に相性が良かったと感じている。これから、リトアカを形成した王道成分とTRIGGER独特の作風が如何に完璧な着地をしたのかを見ていきたい。

 


てんこ盛りの王道成分


このアニメははTRIGGER関連作品の中でも「異色の王道」だったと感じている。というのも、「熱さ」に全振りしつつも、綿密な設定を活かして壮大なストーリーを編み出したTRIGGERの原点『グレンラガン』、危ない下ネタにメーターを振り切ったギャグアニメ『パンティ&ストッキング』、服をモチーフにして非常に屈折した「姉妹の確執」を描いたなんだかよく分からない(褒めてます)アニメ『キルラキル』、脚本にあの岡田麿里を起用した意欲作『キズナイーバー』など、TRIGGER関連の作品はどれもこれもドがつくほどの変化球だからである。(前2作品はガイナックス制作。後のTRIGGER結成に大きな影響を与えた)

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『リトアカ』を形作る要素として「魔法使い」「学園」「成長もの」「ライバルが優等生」「師弟関係」「ドラゴンボール型作劇」など、これでもか!というほど王道成分を詰め込んできた印象がある。これらの要素は大分使い古されてきた感はあるが、逆にここまで振り切っていると清々しいものである。その中のドラゴンボール型作劇とは私が勝手に考えた言葉である。簡単に説明すると『ドラゴンボール』なら「ドラゴンボール」、『ボンバーマンジェッターズ』なら「ボムスター」、『仮面ライダーオーズ』なら「コアメダル」のように、目的となるモノを求めて話が進んでいくストーリーのことである。(正確にはこの目的となるモノのことを作劇の専門用語で「マクガフィン」と呼ぶみたいだ)『リトアカ』の場合は「7つの言の葉」である。

 

こういったドラゴンボール型作劇は視聴者にストーリーの進捗状況が目に見えてわかるというメリットがある。7つの言の葉の役割は、単にグラントリスケルを蘇らせるという目的というよりも、アッコを成長させる一種のギミックのようなものであった。一つ一つの言葉がいわゆる「教訓」であり、アッコが精神的に大人になる為には不可欠だったのだ。

 

長くなったが『リトアカ』を形成する王道成分はTRIGGER関連作品の中でも異色だったが、深夜アニメとしてもここまで王道に振り切ったのはかなりの異色だったと言えるだろう。欲を言えば思い切って夕方に放送して子供達に言の葉の教訓を知ってもらいたかったなと私は思っている。それでも、ブレずに王道という一本の道を貫いたその"潔さ"はやはり『リトアカ』らしいなと感じるものであった!

 

 

 アッコを取り巻くキャラクター達

 

序盤から中盤にかけてはゆっくりとしたテンポで日常を描きつつ、「シャリオに憧れて躍起になるアッコ」と「アッコに対して強く当たるダイアナ」という対立的な構図がメインで話が進んでいく。こういう書き方をするとダイアナが悪者みたいな感じがするが決してそうではなかった。ダイアナ自身もアッコ熱意や型破りなスタイルを認めてはいる。特に嘆きのバハロワ回ではアッコではなく自分が月光の魔女に選ばれた時には、いわゆる「試合には勝ったけど勝負には負けた」というようなダイアナの描写がなされていた。アッコに敵対心を向けつつも、どこか憎めずにむしろ「こいつ本当はいい奴なんじゃ…」という雰囲気を感じずにはいられない。このようなシーンから後々にアッコとダイアナが手を取り合うような展開がくるのか…?というワクワク感が生まれたのだ!

 

そしてアッコの成長を見守る存在がアーシュラ先生である。序盤からアーシュラ先生=シャリオというフラグが全面的に出ていた。最初は逆にフラグが立ちすぎてミスリードじゃねーのと思ったがそんなことはなかった。むしろこの作品は最初から見る人にアーシュラ先生=シャリオという大前提を提示しておき、その上で「夢を諦めたアーシュラ先生」と「夢を追うアッコ」という切なすぎる師弟関係という構造を魅せたかったのではないだろうか。

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アッコを影で支えたのはアーシュラ先生だけではない。隙あらばアッコにイタズラをするスーシィもなんだかんだアッコの事を大事に思っているし、ロッテもなりふり構わず進むアッコの事を心配していたり、言ってしまえば全てのキャラクターがアッコの保護者だったように感じる。他にもコンスタンツェ、アマンダなどのサブキャラクター関連のエピソードもほんとうに良く掘り下げられていたのも良かったポイントである。(コンスタンツェ回のグレンラガンパロディは「やっぱTRIGGERだなぁ」という妙な安心感を覚えたのは私だけではないはず…)。

つまりアッコを取り巻くキャラクター達は、熱すぎる主人公を全力でラジエーターのように制御し、作品のバランス感を保つ役割を担っていたのだ!

 

 

20話以降のスピーディすぎる展開

 

こうして物語はバランス感を保ちつつ、終盤へと差し掛かる。20話では「ダイアナ、学校辞めるってよ」騒動が起こり、アッコは当然ダイアナに説得を試みる。20話で描かれていたのは「伝統」と「新たな力」の融合。古いしきたりを重んじるダイアナと、革新的な考えを持つアッコ。今まで対立していた2人がついに手と手を取り合って協力プレイをするのだ!これまでも対立しつつ仲間になるかも?という雰囲気を醸し出してきたが、ついにここで手を取り合うのだ!「やっとここまできたか!」という興奮でこれまたドッキドキーのワックワクー!である!

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だが物語のピークはここで終わりではない。まだまだジェットコースターは上へと上がって行くのである!黒幕のクロワの存在が中盤あたりからチラついていたが、本格的に動き出すのはこれからである。クロワは策士だった。アッコは単純な性格なのでクロワにとっていわば「カモ」である。アッコがクロワのSSSに魅せられてホイホイと騙されてついて行ってしまい、それを横で指を噛み締めて見ているアーシュラ先生=シャリオが非常に不憫でならないのだ!

 

さらに23話では「シャリオのショーによってアッコの魔法力が失われた」という超ド級の衝撃的事実が判明してしまう。あまりに衝撃的すぎて口が思わず開いてしまう。そして現実を受け入れることができずに失踪するアッコ。無理もないだろう。なぜなら自分に夢を与えた存在が、同時に「夢を奪った」存在でもあるのだから。そこでダイアナがアッコを見つけ出して話を聞くのだが、ダイアナも元々はシャリオに憧れていたという事が判明する。心の奥で、シャリオ一筋で突っ走っているアッコを羨んでいたことを打ち明けるのだった。ダイアナの株がここでも爆上がりである!対立し合っていた2人だが元を辿れば2人とも「シャリオ」に帰結する、非常に面白い「良きライバル」の関係であった!

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24話でついにアッコは念願のシャリオとの再会を果たす。「ずっとずっとシャリオの事を追いかけてきたアッコがようやく報われた」というだけでも既に涙腺崩壊なのに、まだまだピークは続く。アッコは何とシャリオにシャイニィロッドを渡すのだ!シャリオは「人を楽しませる魔女になる」という願いによってシャイニィロッドに一度選ばれたものの、ショーへのプレッシャーで自分を見失い、言の葉を最後まで見つける事なくロッドに見放された過去がある。その点でシャリオは本当に"不憫な"キャラクターだったと私は感じている。

アッコは7つ目の言の葉を蘇らせることに成功する。この場面はアッコ以上に、シャリオが報われたシーンでもあるのだ!シャリオが成し得なかった事を、アッコが実現したのである!もうこのシーンは涙無しには見られなかった…!そして20話以降、涙涙の連続だった『リトアカ』もついに最終回を迎えるのだ!

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『リトアカ』は如何に完璧なランディングを成し遂げたか

ダイアナとアッコの和解、シャリオとの再会と、やるべき事はほとんど終わらせた『リトアカ』。最後に残るのは一つ前の話で不穏な雰囲気を醸し出していたミサイルである。そしてクロワとシャリオもようやく手を取り合って協力プレイをするのだ!よく見たら2人とも髪の毛が昔の状態に戻っている、昔の関係に戻れたのだという細かな演出がグッとくる…!

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9人の魔法使い「ナインオールドウィッチ」をもじって「ニューナインウィッチ」がミサイルを止めるために立ち向かう!ロケットえんぴつのようにどんどんと後ろの魔女を分離?してミサイルを追うシーンはどこか『グレンラガン』最終回のマトリョーシカ戦法を彷彿する。

ヤスミンカから始まり、コンスタンツェ、アマンダ、そしてスーシィとロッテが次々と分離され、アッコとダイアナに全てを託す…。ミサイルを目前にした途端、ミサイルは急激に凶暴化し始める。と同時にTRIGGERの目まぐるしく動く作画が炸裂する!次々と飛んでくるミサイルをアッコは変身魔法で回避をする。ここの作画がめちゃくちゃカッコよくて興奮を隠せない!それでもミサイルの猛攻は止まる事なく、アッコたちを襲う。アッコが撃墜され、続いてダイアナまでも箒から落下…。と思いきや、アッコがいつかの箒レースのアレに乗ってダイアナの手をガッチリと掴むのだ!!!そしてこのタイミングで流れるShiny Ray!!正直、"完璧"である…!ダイアナが20話でアッコの手を掴んで空を飛んだ対比である!今度はアッコがダイアナの手を掴んで空を飛ぶのである!

ついに最終局面、"2人で"「ノットオーフェ・オーデンフレトール!!!」と叫びながら矢を放つのだ!!!もう駄目だった…!24話の時点でもう涙腺はとっくに崩壊していた…!なのに最終回でそれを超える作劇をしてくれたのだ…!

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「人との繋がり」これは本作品が提示したテーマであった。後期オープニングでは出だしがグラントリスケルの紋章から始まり、それがキャラクターの手と重なっていく、という演出がなされている。サビ前にはアッコとダイアナがガッチリと手を掴むシーンなど度々この作品には「手」が出てくる。先ほど述べた20話でダイアナがアッコの「手」を掴むシーン、最終回でアッコがダイアナの「手」を掴むシーンは「人と手を取り合うこと」の尊さを端的に表していたのではないだろうか。「人との繋がりを大事にする」というのは、言ってしまえば当たり前の事である。しかしその"当たり前のことを大事にする"ことを訴えかけたのがなんとも『リトルウィッチアカデミア』らしいのだ!

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リトルウィッチアカデミア』これはどこまでも王道を走り、我々に「人との繋がりを大切にしなさい」という直球のメッセージを投げかけたアニメだった!TRIGGERは深夜に、いや「深夜だからこそ」王道に挑戦して、私たちに「ドッキドキーのワックワクー!」を遺したのかもしれない。長くなりましたが、楽しい作品をありがとう、リュオーン!