シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『スパイダーマン スパイダーバース』の"日本的ヒーローっぽさ"について。あるいは「孤高のヒーロー像」に対する挑戦

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先日、『スパイダーマン スパイダーバース』を観に行きました。前評判では「ペニー・パーカーちゃんが可愛すぎる」と聞いており、「これならアメコミに慣れてない自分でも見やすいぞ!」と思い、視聴に至りました。『スパイダーマン』シリーズについては金曜ロードショーで第一作を見ただけで、他のシリーズは全く知らない状態だった。一応、「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という格言だけは念頭において見ました。これはシリーズを通して描かれる重要な”テーマ”だと聞いたので。

 

※以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

「漫画演出」とスパイダーマンの相乗効果

本作の概要をザっとおさらいする。ある日、マイルスは毒グモに咬まれてスパイダーマン化。敵・キングピンの装置によって時空が歪められ、平行世界に存在するたくさんのスパイダーマンたちが、主人公マイルスの世界に集結する。キングピンの計画を阻止しようと試みたピーター・パーカー(最も代表的なスパイダーマン)はその過程で死亡。装置を止めるようにピーターから頼まれたマイルスは、当初こそ戸惑いつつも自分の「スパイダーマン」としての運命を受け入れ、他の「先輩スパイダーマン」たちの叱咤激励を受けて、ヒーローとしての成長を見せていく。

 

 前編CGでありながら、「漫画らしさ」を全く損なわないどころか、その「らしさ」こそがビジュアル面での派手さと分かりやすさを演出している。例えばマイルスがクモに咬まれてスパイダーマンに”なってしまう”描写にしても、漫画の「吹き出し」のように心の声が表現される。顔からタラタラと滲み出る汗など、「漫画ならでは」のカリカチュアライズ(面白おかしく大袈裟に表現するさま)に貢献しており、実写のスパイダーマンとはまた違った視聴体験ができる。

 

 そうした漫画的な演出こそが、まさに「日常が漫画のような世界=非日常に変わってしまう」ことを意味していて、これから始まるお話はあくまでもマイルスが主役の「漫画」であると宣言するような演出である。マイルス自身は当初、身体の異変を「思春期」と思いこんでいたけれど、これもあながち間違いとは思えない。というのも、力を得た当初は、それをうまくコントロールできずに様々な”ミス”を犯してしまう。成長するにつれて力の本当の意味を知っていく過程はまさに「思春期から大人への成長」と言い換え可能で、そうした「大人になる前の段階」を意味するワードがまさに「サイズの合わないスーツもいつか着られる日がくる」という服屋さんのセリフとガッチリ符合している。「どんな人でもヒーローになれる」という作品のメッセージへと繋がる”布石”のようにも思えるのだ。

 

何より「別次元に存在する、別のスパイダーマンたち」が集結するのがヒーロー物として面白い切り口だったなと。自分にとってスパイダーマンといえば”あの”スパイダーマンしか存在しない、唯一無二のイメージが強かったので、グウェンが女性のスパイダー”マン”だったり、ペニー・パーカーが二次元の世界からやってきたようなアニメアニメした子だったのはなおさら衝撃的だった。スパイダー・ハムに至っては文字通り、もはや豚である。上記の彼女らとは違って、「manは男性以外にも”人”の意味もある」という言い訳すら通用しないやつにまで「スパイダーマン」の呼称があてられている。「呼称は同じだけど、それぞれが唯一無二のヒーローである」設定が、単純な「ヒーロー集結もの」と違って新鮮に映った。

 さらに、一般的な戦隊ヒーローと違うのは彼らが「期間限定のヒーローチーム」であることだ。マイルスの世界においては、マイルス以外のスパイダーマンはその体を維持できない。なので、次元装置を止めるまでの急場しのぎのチームである。事が終わればすぐに元いた世界へ帰らなくてはいけない。男はそういう「緊急」とか、「条件つき」みたいな設定に弱いんですよね。ロマンがあるというか...。

 

異次元のスパイダーマンたちが「自分がオリジナルのスパイダーマンですよ」といわんばかりの登場の仕方で、その辺りについても『ジオウ』で未来の仮面ライダーたちがあたかもレジェンド面して出てくる展開だったり、『レクリエイターズ』で「一世を風靡した感」をめちゃくちゃ醸し出してくる被造物(キャラクター)を連想させる。こういう「視聴者は知りえないけど、作品内では有名なキャラクター」という設定も、妄想が広がりますね。

 

日本の特撮を思わせるストーリー

 

『スパイダーバース』は、「日本の特撮は好きだけどスパイダーマンは見たことない」人にこそ見てほしいと思う理由の一つが、その「日本的なお話」なんですよね。例えば上で述べた「別次元のヒーローが集合する」という要素が、戦隊モノに親しんできた人からすればとっつきやすいだろうし(もちろんこれは「別次元の同一ヒーロー」なので、単純に雑多なヒーローが大集合して敵と戦う「スーパーヒーロー大戦」系とは厳密には異なるが)、何より同じマーベルの『アベンジャーズ』シリーズと違って、スパイダーマンだけを知っていれば楽しめるので、そこも大きいかと思う。

 

何より「先輩ヒーローが、新米ヒーローにその"極意"を伝えていく」というプロットですよね。近年では平成仮面ライダーシリーズが冬映画などで「過去作主人公たちがひょんなことから一挙に集まり、現行主人公と協力しながら戦う」ような話が恒例になってきているし、そこには「先輩と後輩」の関係性が付与されているようにも思える。

 

『スパイダーバース』では特にそうした先輩後輩の「縦のつながり」が見え隠れすると言うか、突然スパイダーマンになってしまった者=マイルスに対し、先輩スパイダーマンが目の前に立ちはだかる苦難を通じて、まさに「スパイダーマンチュートリアル」とも言えるような"教訓"を伝えていく。この辺りがものすごく「日本的」というか。ともすれば「説教臭い」とも言われかねないような、少し体質の古さがチラつく「日本の古典的成長物語」に思いっきり振り切っていたのが、これまた大胆だなと。

 

そんな中でも「先輩が後輩に教える話」だけに終始しなかったのが大きいかなと。別次元のピーターは立場こそ「マイルスの先輩」であれど、実はまだまだ「スパイダーマン」として割り切れなそうな部分があったり。序盤なんかは特にそうですよね。メタボチックな姿で出てきたり、マイルスが「大いなる力には、大いなる責任が〜」と言おうとしたところをハイハイと怠そうに遮って見せたり。そして終盤にも、かつて自分の至らなさで離れてしまった妻?と違う次元でエンカウントしてしまった瞬間ですよね。もちろん、違う次元での出来事なので、向こうはピーターに関する記憶が無い訳だけども、いざ目の前に現れると、途端に狼狽えてしまう。

 

「孤高のヒーロー像」を分解・再構築

 

そうした「少し未熟さの見える先輩」というキャラ付けも良かったなと。だからこそ目まぐるしく成長するマイルスからも逆に色んな事を学ぶことができたり、他にはペニーパーカーちゃんの使ってたオートマタ的なやつが壊れてしまった時も、ほかのスパイダーマンの助けがあって乗り越えることができたり。

 

そのような「複数のスパイダーマンたちが関わり合う中で、大事なことに気づいていく」プロットが本作で一番の見どころだったなと。

本作は言ってしまえば「スパイダーマンは唯一のヒーローである」というかつての"ルール"を一旦は壊して、「複数ヒーロー」にしてしまう、ある種の変化球のように思える。人知れず、誰にも相談できずに戦うスパイダーマンは敵のみならず、言わば「孤独と戦うヒーロー」でもあって。

 

一般的にアメコミでは「複数ヒーロー」をあえて採用してこなかった。大多数の人が「日常」の中で生きていく中、自分一人だけが「非日常」で過ごしているという"対比"がアメコミのエッセンスだと思う訳だけども、まさにそうした「ヒーローにしか分からない苦悩」にも肉迫しているのが本作だったなと。

だからこそ、ペニーパーカーちゃんが周りに支えられて「私は一人じゃないって分かった!」と発するシーンの深みがあるんですよね。彼女だけでなくほかのスパイダーマンたちも、マイルスたちと同様に「身内を間接的に殺してしまった」という苦悩を共有している。

 

そうした「例え独りでも、どこかで自分と同じように頑張っている人が居る」というテーマ性がすごく響きますよね。もちろん、別次元のスパイダーマンたちは元いた次元へ帰らなくてはならないので、結果的にマイルスは(というかそれぞれのスパイダーマンは)「孤独のヒーロー」に戻ってしまうんですけど、それでも「あいつ今どうしてるかな」と思いを馳せながら、どこか背中を押されるような、前向きな気持ちになってこれからも「ヒーロー」をやっていく。

 

「誰だってヒーローになれる」という超絶ポジティブなメッセージ性を放ってた本作だけど、何より一番伝えたかったのは「自分の知らないところで誰かが戦ってる。君はいつでもその一人になれるぞ!」なんですよね。長々と書いてきたけど、個人的には「スパイダーマンの導入」としてものすごく良かったので、これを機に過去作も抑えておこうかなと。

マリオメーカーはなぜあんなにも面白いのか、あるいは「拡散されるマリオ」について

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先日、ニンテンドーダイレクトによって様々な新規タイトルが発表された。ゼルダの伝説夢をみる島』リメイク決定や『牧場物語』がまさかのドラえもんとコラボなど、さすが任天堂と言うべき、”強い”顔ぶれである。その中でも個人的に一番驚いたのは何を隠そう『スーパーマリオメーカー2』だった。『マリオメーカー』は「作って遊ぶ」がコンセプトの、今までにありそうでなかったマリオシリーズの「禁じ手」に手を出したタイトルだ。自分とって『マリオメーカー』は気になりつつも「手を出しづらい」タイトルだった。というのも、WiiUのソフトなので遊ぼうとするならばハードの購入を余儀なくされるためだ。めっきりゲームしなくなった理由の一つは「ハードの変化に対応しきれなくなった」ことだ。

そんな中、この正月に古本屋で『マリオメーカー』の3ds移植版を発見。すでに3dsを持っているなら、ソフトだけ買えば済むじゃん!と思い、購入。「欲しかったゲームを手にする」経験は久しぶりだなぁとワクワクしながらゲームを起動。率直な感想としては「これ、ずっとやってられるぞ…」だった。クリスマスプレゼントにゲームをもらった日は一日中ゲーム三昧だったけど、『マリオメーカー』も自制しなければ一生やってしまいそうな、ちょっとヤバい類のゲームであった。今回はそんな「任天堂が生んだ狂気」と呼べる『マリオメーカー』がなぜあんなにも「面白い」のかを、個人的な視点から語ってみたい。


「作って遊ぶ」を「マリオ」でやるということ

 

マリオメーカーを語る上で当然、「作る要素」は外せない。しかしこれまで「自分でステージを作るゲーム」が全くなかったわけではない。『RPGツクール』シリーズがその代表例だし、「街を作る」という意味なら『シムシティ』、自分が高校時代の時に流行した『マインクラフト』だって、「作って遊ぶ」がコンセプトのヒットタイトルだ。言ってしまえば「作って遊びたい」はゲーマーたちの根源的な欲求であり、それを簡単に実現できる土壌を用意したのが、それらの「ヒット作」なのだ。しかしマリオメーカーは「それらのヒット作」とは全く違った意味でヒットしているように思える。というのも、そこに「みんなのお馴染みのマリオ」という"属性"が付加されているからだ。


そもそも作る作らない以前に、「マリオ」というゲーム自体が既に"面白い"し、"完成されている"ものである。「マリオ」は「敵を踏んだり避けたりしながらゴールを目指す」という、ものすごく単純なルールでゲームが成立しており、初めてコントローラーに触れるような人でも「頑張ればクリアできる」バランス感である。最初のステージ「1-1」のレベルデザイン(ゲーム制作における、難易度調整)が如何に優れているのかは有名な話である。

 

そんな「単純なルール」を基本フォーマットとしてマリオシリーズは続いてきた。ユーザーたちはそうした面白さをあくまでも「受け手」として楽しんできた。そうなると当然、「自分でも作れる気がする」と、上で述べた「ゲーマーの根源的欲求」が次第に肥大していく。それを非公式的、かつ非合法に実現してきたのが、ニコニコ動画で有名になった改造マリオのプレイ動画」である。鬼畜難度のステージを友人にプレイさせるあの動画はニコニコ史を語る上でも欠かせないものとなっている(ニコニコメドレーシリーズではマリオワールドの地上BGMが採用されている事からも、マリオがニコニコに与えた影響の大きさが伺える)

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同じく「非合法的にマリオを作る」と言えば、自分が中学生の頃に出会った「スーパー正男」を挙げない訳にはいかない。こちらはJavaで作動する、横スクロールのマリオを模したゲームである。敵キャラにマリオどころかポケモンを模したキャラを配置できるなど、今思えば「やりたい放題」なアングラ感があった。パソコン上で誰でも簡単にステージを作ることができ、自分もこのゲームによって「作りたい」という根源的な欲求を満たしてきた(ステージを作るセンスがゼロだったのは内緒)

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マリオメーカーは「改造マリオを合法化した点でヒットした」とよく言われており、その考えも概ね賛同できるのだが、その前段階として『スマブラX』の影響は外せない。こちらは「エディットステージ」という、自分でステージを作る機能が備わっており、スマブラという「誰もが知るタイトル」で、「作って遊べる」点で、マリオメーカーの土台となっているように思えるのだ。これまで非合法的な手段でしか満たせなかった「作る欲求」が一旦、この『スマブラX』によって合法的に満たされるようになった。これが後の『マリオメーカー』の土壌となっている。

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そうした土壌を経てついにマリオメーカーは発売する訳だけども、youtubeニコニコ動画で瞬く間に大ヒットし、ランキングはマリオメーカーに埋め尽くされる事態になった(詳しくは「マリオメーカー問題」で検索)。「マリオ」という、「自分でもステージを作れそう」な単純なゲームシステムと、「作る欲求」が悪魔合体した結果である。エミュレータの知識を要し、作る敷居が高かった「改造マリオ」と異なり、公式が「誰もが簡単に作り手になれる場」を提供したのが、マリオメーカーの大きな功績だった。

 

"SNS"としてのマリオ、あるいは「拡散されるマリオ」について

 

かつては「マスコミ」と「消費者」が、「発信者」と「受信者」の関係性になっていた。現在、新聞やテレビが一方的に「情報」を受信者へ与えるだけでなく、時に本来受信者であるはずの者がが「発信者」になれる時代である。SNSに投稿された動画が、ニュースの材料にもなってしまう時代に我々は生きている。

SNSが社会に与えた影響はそうした「誰もが発信する側になれる事」以外にも、「多くの人から反応が貰える社会」を作ったことも挙げられる。例えばTwitterならば「いいね」一つで承認欲求はいとも簡単に満たされてしまうし、リツイートすれば瞬く間に多くの人の目に「情報」が晒される。その「情報」を見た者が今度は「それに関するツイート」を発信し、さらにそのツイートをいいね、リツイートする者が現れる。そうしたねずみ算的な拡散力によって、「急上昇ワード」として日本を支配してしまう。

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話をマリオに戻すと、マリオメーカー』はそうした「SNSの社会的影響力」と同じ流れを引いているのだ。ゲーム製作者とプレイヤー。これは従来通りの「作り手」と「受け手」の関係性である。マリオメーカーは無論、その一方通行な関係性を壊し、「誰もが作り手=発信者になれる」場を提供した。マリオメーカーは「遊ぶ」「作って投稿する」の大きく分けて二つの要素が挙げられるが、そうしたゲームシステムこそが「マリオメーカーSNS的な側面」である。従来は「遊ぶ」のみの一方通行だったマリオが、今度は自分が作ってそれを全世界に発信できるシステムだ。さらに言えば、誰かが作ったステージに「いいね」を付けることができるし、人気のステージは「いいねランキング」として挙がる。まさにTwitterにおける「いいね」「トレンド」である。


そして「人気ステージ」を参考に新たなステージを作る者、それを「いいね」する者。つまりマリオメーカー」は「受信者あると同時に発信者にもなれる」という、昨今のSNSと同様の「相互作用」を生み出している。そうした爆発的な相互作用によって、マリオは無限に"拡散されて"いく。自分はこの『マリオメーカー』というゲームが冗談抜きに「一生遊ばれるゲーム」になると思っている。なぜならばこのゲームは「作る」という根源的欲求を満たしてくれるだけでなく、「作ったものに対して反応をもらえる」という、承認欲求すらも満たしてしまうからだ。現に私はそうした「任天堂の生んだ狂気」に魅了されているし、こんなにハマるゲームはポケモン以外に初めてだった。もっとも、3ds移植版のマリオメーカーには「投稿する」機能がないので、何とか自制を保てているが。

「自分らしい文章を書くこと」の難しさについて

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自分は普段、twitterでアニメ・特撮の感想を気ままにつぶやくことで「アウトプット」をしている。twitterは「思いついたことを一言だけつぶやく」という性質上、感想や雑感を書く際の”フットワークの軽さ”が利点である。その証拠に、私は(というかほとんどの人は)ブログの更新頻度よりもtwitterの呟き頻度の方が高い。対するブログは、twitterと違って「自分の考えをまとまった形で保存する」側面が強い。気軽に思いを吐露できるtwitterが「情報をまとめる場」としては向かない反面、ブログは「しっかりと自分の意見を残す」点で、「情報としての強度」が強いように思える。

 

自分もブログを開設した一番の理由は「誰かに自分の考えを知ってほしい」ことだった。「一過性の強いtwitter」よりも、「強度のある」ブログの方が”それ”を実現しやすいと考えたからだ。しかし、実際にブログを始めてみると想像以上に「書きづらい感覚」があったのを覚えている。自分はある特撮・映画ブロガーさんに憧れて、半ば真似する形でアニメの感想記事を始めたのだけど、最初はその方のように数千字単位の文章なんて全然書けなかったし、1000字書くのにも2、3時間とかザラでした。

 

先日、フォロイーの方が主立って立ち上げた「アニメ感想クラスタへのインタビュー企画」(アウトライターズ・スタジオ・インタビュー)に参加させていただきました。自分がインタビューに答える前段階として、やはり「先例」を知ることは大事だと思ったので、過去にインタビューに参加していた色々な方の回答をチェックしました。その中でも特に「自分らしい感想・文章を書くことを意識しています」と回答する方が多く、自分はとても驚いたと同時に、すごく尊敬しました。

「自分らしい文章を書くこと」って、メチャクチャ難しいことだと思っている。なぜなら自分はブログを書く際に「他のブロガーさんの文章を真似」しないと、文章が書けないためです。上の話に戻りますけど、実際にブログでアニメ感想を書こうとすると、作品そのものを深く理解する事は当然として、「とっくに語られている事柄」に触れたり、事実を羅列するような文章だと「良い記事」が書けないので、ある程度「自分の見解」を織り交ぜる必要がある。最後にそれを「読みやすさを意識しながら文章に落とし込む」。この多くの段階を経てようやく一つの「感想記事」として成り立つんですよね。

 

こうした「段階を経て文章を”精製”していくプロセス」、ブログを開設したての頃はとてもじゃないけど出来てませんでした。初めて書いたアニメ感想は『ボンバーマンジェッターズ』の記事でしたけど、「他のブログのほうが詳しく載っている」「感嘆符が多くて読みづらい」「文字数を意識しすぎて論点がボヤけてる」など、まさに上記で挙げた”プロセス”にことごとく失敗してるし、今でも読み返すと恥ずかしすぎてなんだかむず痒くなってくる。

 

今でも自分の文章が「読みやすい」と言える自信は全くないけれど、「その分野で凄い人」の方法論を自分なりに理解していくことで、”マシな文章”を書けるようになってきたかなと。具体的には沢山のブロガーさんの記事に触れて、そこから「使えそうな表現」を随時メモ帳に保存。さらに、記事を書くときは隣のタブで「憧れのブロガーさんの記事」を何度も読み返して、論理展開を徹底的にマネる。

例えばブロガーさんが「キテレツ大百科を踏まえた上で、ドラえもんを批評している」ならば、自分も同じように「○○という作品ではここが惜しかった、その部分を『△△』ではこういう形で描いていて良かった」という論理展開で書く。書く内容が複数のトピックになりそうな場合は、見出しをつけて読みやすくする。時には太字を使って、文章の”メリハリ”をつける。その試み全てがうまくいったかと問われればまだ自信は持てないけど、そうした「文章を書く型」を自分なりに設定できたので、「憧れのブロガーさん」に少しは近づけた(と思いたい)。

 

つまり、私は何かを書く際には基本「他のすごい人を真似て」いる。なので今でも自分の記事は「自分らしい文章」かと問われればハテナマークが付く。しかし自分はそうした「真似事」が悪い事だとは思わない。というのも、人は言語を学ぶ際には「誰かが使っていたフレーズ」を覚える必要があるからだ。大学受験の「英作文」を想像してもらいたい。英作文をマスターする第一歩は「例文暗記」から始まる。「与えられた日本語を、簡単な英語に直す」段階だ。

受験でよくある「自由英作文」は、そうした「例文暗記」をある程度終えてようやく手を出すことのできる分野だ。さらに言えば自由英作文ですら、ある程度の「型」がある。トピックセンテンスを述べ、それに対する理由と肉付け、そして結論という構成だ。そのため”自由”英作文と言えど、大部分は「定型表現」で字数を埋めることになる。もうお分かりだと思うけれど、ブログで文章を書く際も英作文の”それ”と同じプロセスなんですよね。

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もちろんこれは単純に「真似て書く人の方が、そうでない人よりも優れている」とか、そういった話ではない。むしろ中には「あえて型を決めずに書くほうが楽しい」という方や、「型は書いてるうちに自分で身につけた」という方も多いだろう(むしろこっちの方が主流かもしれない)。しかし自分にとって「何もない白紙から文章を書く」ことのハードルが非常に高く、長文記事を書くならばなおさら難しい。そこで、「模範となる記事」と自分の記事とを読み比べながら”足りない部分”を補っていく。もちろん、あくまでも”解答例”に即した文章を書いたまでなので、解答を超える文章力にはなり得ないけれど、100点満点の60点くらいの出来にはなる。

 

上でアウトライターズ・インタビューでは「先例」を読んだと述べたが、やはりそれも「型」がある程度自分の中で思い描けたほうが”書きやすい”と思ったからだ。このようにして「真似て」きた結果なのか、開設当初よりも1日のPV数は増えたし(それでも1日150PV程度だが)、文章に書き慣れていなかった頃よりも、大学のレポートを書くスピードも上がり、苦手だったレポートもある程度「好き」な部類にすらなった。何より「自分の思いを言語化しやすくなった」のが個人的に良かったと思うポイントである。

 

「使いやすい表現・論理展開」を覚えれば覚えるほど、伝えたい内容の「確度」がうんと上がる。それが結果的に「自分の意見を明確にすること」へ繋がるのではないかと思う。「表現を真似ること」は何も「思考停止」を意味するわけではないと思っていて、むしろ真似を通じて自分の理解が深まることも往々にしてある。究極を言えば私は「自分らしい文章」には全くこだわってない。しかし「意見を明確にすること」は、1つのブログ運営の方針として最もこだわっているポイントだ。その1プロセスとして「できる人の真似」をしている。

 

長々と色んな言い訳(?)をしてきたけれど、twitterでフォローしている多くのアニメ感想クラスタさんは、それぞれ個性のある文章を書かれていて、まだまだ自分は「守・破・離」の「守」から出られていないなと。逆説的ではあるけれど「” ”こそが自分のスタイルだ!」と当分の間は言い張っておく。

仮面ライダーという「救い」『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』感想

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平成最後の冬映画『平成ジェネレーションズFOREVER』をようやく観に行けました。

結論を言うと、「エモさ全振りのお祭り」と呼ぶのが相応しい作品だった。自分は『アギト』で平成仮面ライダーに出会い、それ以降はライダー熱が下がっていたところ、『ディケイド』という、1度目のアニバーサリーで仮面ライダーに再び火がつき、その後は毎年平成ライダーを見るのが習慣となった。「歯抜け」の作品は後から追う形で見ていた。

 

実を言うと、自分は「気に入ったライダーシリーズの映画」しか見たことが無く、全てのライダー映画を網羅しているわけではない。しかし、『ジオウ』は平成ライダー20作目のアニバーサリーで、その冬映画なのだから、やはり「平成ライダーの総決算」として位置する今回の映画を見ないわけにはいかなかった。

 

(以下、ネタバレ含みます)

 

 

 

 

 

 

 

「作られた存在」としての仮面ライダー

 

初っ端から「普通に高校生やってるソウゴ」「登場人物の記憶の一部が欠ける」「なぜかライダーの戦闘を、まるで観戦するかのように楽しむモブ」など、『ジオウ』本編を見ていても不可解な現象が描かれた。この感覚は事前予告を全く見ずに挑んだ『君の名は。』を鑑賞した時を思い出す。自分自身、『ジオウ』本編についてはややこしい設定を無視しながら、半ば「お祭り」と割り切って見ている。

 

この映画も「そういう類か」と思いきや、「自称仮面ライダーオタク」のアタルが出てきて状況は一変。本来、「仮面ライダーシリーズ」は、仮面ライダーが「実在する」世界観という大前提がある。この映画ではいきなり「フィクションとして仮面ライダーが存在する」を強調してくる。つまり我々のように「コンテンツとして仮面ライダーが消費される世界」である。

 

 ざっくりした経緯ではフータロスがアタルの「虚構の存在であるライダーに会いたい」という願いを叶えた訳だが、あくまでも「フータロスの力によって再現されたライダー」なので不完全だし、記憶も欠落している。そもそも何でフィクションの存在に成り下がったのかは、タイムジャッカーのティードが2000年に飛び、アナザークウガと化すことで平成1作目のクウガをこの世から消し去ったためだ(同時にその後続く『アギト』~『ジオウ』も消滅)。

 

つまり、ディードによって実在を消された仮面ライダーたちは、ここでは「フータロスのつくりもの」=虚構として描かれている。分かりやすく例を挙げると「スマブラ」である。スマブラのファイターたちは、各作品のキャラクターを模した「人形」であり、決して本物ではないという設定だ。

 

この「限りなくオリジナルに近いつくりもの」が、レジェンドライダーたちを復活させる上での、一つの「言い訳」として上手く機能していたのかなと。アナザークウガが居る時点で、本来「ホンモノ」のクウガとは両立し得ないが、「つくりもの」のライダーであれば両立ができる。本編ではあり得ない「アナザーライダーを正当ライダーが倒す」という構図を可能にしている。正直、この辺のロジックについても理解がガバガバなので合ってるかわからないが、最後はきっちりノリノリのバイクアクションかましてたので、そういうコトなんでしょう。

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そうした、自身が「虚構」であることに動揺するソウゴに対して、同じく『ビルド』本編でも「偽りのヒーロー」だった戦兎が先輩ライダーとして語るシーンは、これ以上ない説得力を生み出していたなと。戦兎自身も『ビルド』において、空っぽのアイデンティティで始まり、万丈を始めとする仲間との交流を通じて、「自分」という存在を「創って」きた。

「出生に囚われないアイデンティティの形成」は『ビルド』のテーマであった。かつて戦兎自身が直面した問題に対し、今度はそれを「先輩としての余裕」を見せながら語る。以前なら同様に悩んでいた場面でも、今回はそうじゃない。また一つ「強くなった」戦兎を見られた気がする。この手の「前作主人公が登場する作品」は、キャラクターそのものの成長を感じられるのがミソですね。

 

とはいえ、アナザーダブルが物語的にそこまで重要じゃなかった上に、普通の怪人と同じく爆発して終わったのがモヤついたポイントでもある。(そもそもアナザーライダーは「元となる人間」がいて、初めて成立する存在なので、元の人間が居なかったのは設定上の欠陥でもある)

 

「実在しないけど、存在する」ものとしての仮面ライダー

 

私はつい先日、大学の哲学の授業で「サンタクロースが存在するかどうか」をテーマにディスカッションをした。あくまでも「証明」ではなく、どういった根拠で結論を出したのかを相手に説明しなさいというもの。

私の立場は以下の通りである。

 

・現実のフィンランドの「サンタクロース村」には、確かにサンタクロースとして認められた人が居るけれど、それは「サンタクロース」という架空の存在を模した人間にすぎず、「モノマネ」をもって「存在する」と結論づけることは出来ない。それは「仮面ライダーショーがあるから、仮面ライダーが存在する」と言っているようなものだ。

 

それに対し、サンタクロース肯定派の立場からこのような反論を受けた。

 

・そもそもサンタクロースが存在しなければ、この世に「サンタクロース」という概念すら無いのでは?同時に「クリスマスプレゼント」の概念も消えるはずだ。

 

この反論からも分かる通り、私は「実在」と「存在」を混同してしまっていた。

改めて「実在」を言葉で説明するのは難しいが、現実に・客観的にモノとして存在している状態を示すのに対して、「存在」とは「概念」のような目に見えないものも含んだ存在(例:時間・日付など)である。その授業の教授によれば「存在」とは「言葉がある以上、存在する」という状態、らしい。

 

つまり『平ジェネ』におけるティードの行動は「仮面ライダー」という言葉、ひいては概念を消すという意味で、仮面ライダーの「存在」を消そうとしたんですよね。だから「存在」が消えれば、皆の記憶からもライダーが消えて、ライダーのいない世界ができる。

 

サンタクロースの例を挙げたが、これは同様に「神」にも当てはめることができる。宗教によって「神」の表象は異なるが、「目に見えない存在」であることはどの宗教にも共通している事であろう。自分は無宗教なので特定の神を信じている訳ではないが、例え信者であったとしても「神が実在する」と思う人は稀なんですよね。それこそ私のような仮面ライダーファンでも「仮面ライダーは実在しない」と頭で理解しているように。

 

もうお気づきかとは思うけれど「神」や「サンタクロース」の部分をそのまま「仮面ライダー」に変えることが可能なのだ。

つまり「仮面ライダー」は神と同様、実在しない。アタルが、歳を重ねるにつれて「仮面ライダーの虚構性」に気づいてしまったように、我々も歳をとると「サンタクロースは居ない」と気づく時が来る。

 

仮面ライダーという「救い」

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そしてそこからの「実在はしなくとも、存在そのものが救いになる」という、『平ジェネ』の作品テーマである。

信者にとって「神を信じる」とは、決して「神が実在すると思っている」ことを意味する訳じゃないんですよね、正確には神という「存在」を信じて、教えに従うことだと思っている。

ライダーファンも同様に、「仮面ライダーは居ない」と分かった上で、日曜の朝にテレビの前で視聴=礼拝する。いわば「フィクション」とは一つの宗教であり、そのフィクションから私たちはメッセージを受け取り、リアルの生活を充実させているのだ。
例えば『龍騎』を見たならば「自分の正義観が時に人を傷つける」こと、『オーズ』ならば「必要な時はもっと欲しがっても良い」を一つの教訓として心に刻むだろう。かなり乱暴な言い方をすれば「宗教とフィクションは似ている」

 

哲学の最初の授業では「言葉は現実を変える力を持つ」という内容を扱った。言葉も目に見えない概念なので「実在」はしない。しかし極端な例を挙げると、私たちは「立て」と言われれば「立とう」とする。これは言うまでもなく「座っていた事実」が「立て」という言葉によって変えられようとしている。

これを上の例に当てはめると、サンタクロースの概念が「ある」からこそ、私たちはクリスマスにプレゼントを貰うことができるし、神の概念が「ある」から、初詣に行っておみくじを引き、一喜一憂できる。例え虚構の存在だったとしても、現実を変える力になるし、「神はいる」という思い込みのおかげで苦難を乗り越えてきた人が多いことは、さまざまな歴史を振り返れば容易に理解できるだろう。

 

「信じる者が救われる」とはどの宗教にも共通している"教え"だが、本作においてもその考えは横たわっている。信じるためにはまず「存在」を知ることから始めなければならない。私が無宗教なのは、仏教の家系だったり、親が何らかの宗教を信じているとか、そうした「知るきっかけ」がゼロだったからなんですよね。(それが良いか悪いかはあえて触れない)

なのでライダーという「存在」を知らなかったシンゴが、ラストで歴代ライダーたちを初めて目にして「仮面ライダーを知る」場面は、「フィクションの肯定」をテーマに掲げた作品として、とても納得のいくオチなのだ。

 

そしてそういった理屈抜きにしても、やはり仮面ライダーを見て育ったものたち、ひいては「フィクション」そのものを楽しんできた者に対して「救い」を見せてくれたので、いろいろと語ってきたけれど、最後は「仮面ライダーが好きで良かった」になるんですよね。作品として「隙」が無いわけではないし、設定として矛盾しているような場面も確かにチラホラ見受けられる(アナザーダブル)けれど、それも全て「あえて触れなかった部分」なので、理屈は最低限にしといて、エモーショナルな体験に全振りできたのが何とも「仮面ライダーらしい」つくりだったなと。

『ゾンビランドサガ』における、「生き続ける」の意味について (7話までの所感を含めて)

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私はこれまでアイドル系のアニメに手をつけたことが無かった(というか「食わず嫌い」していた)。というのも、近年ではアイドルや音楽を軸としたアニメはかなり増えていて、一見(こう言えば誤解を招きそうだが)どれも同じに見えてしまう。また、アイドルアニメの最大手とも言える『ラブライブ』や『アイマス』はシリーズの多さから「今さら手をつけるのはなぁ...。」と感じてしまい、どうしても手を出しにくいジャンルだった。そんな中、2018年の秋に「これまでとは一線を画したアイドルアニメ」が爆誕したと聞いた。さらに評判も良いようだった。聞くところによれば「ゾンビがアイドルやるアニメ」らしく、「それならアイドルアニメを敬遠していた自分にも見れそうだ(謎理論)」と思い視聴に至ったのが『ゾンビランドサガ』との邂逅である。

 

そんなこんなでようやく7話まで追いついた本作だが、いや~見事に「やられ」ましたね。というのも、「五感を喚起させる画」が本作の魅力として映えるんですよね。例えば1話、開始1分ほどで主人公のさくらが轢かれて、デスメタル調の曲をバックに死ぬシーンは視覚的や聴覚に処理できないほどの情報を与え、「否が応にも視聴者の記憶に残してやろう」という気概を感じさせる。恐ろしいのはそれがまだ序章である事だ。その後なぜか場所がワープし、シーンは館の中に移る。

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さくらはゾンビに追い回されて逃げる後、「自分自身もまたゾンビである」ことが分かるシーンはある意味で「これまでのゾンビ作品」の固定観念を捨てさせるものである(例えば多くの作品は「ゾンビから逃げる」が基本プロットであり、本作においても放送前までは「私たち、生きたい」のキャッチコピーを巧みに用いて、そのような基本プロットに則った作品であるかのようにミスリードを誘っていた。)

 

ゾンビもので叙述トリックを用いた作品では『がっこうぐらし!』が記憶に新しいだろう。しかし、実際には「ゾンビから逃れる」基本プロットが変わる事は無く、舞台装置である「学校」を用い、「逃走」に「卒業」の意味を持たせたのが『がっこうぐらし!』だった。つまり「日常系っぽく見えて実はゾンビもの」の『がっこうぐらし!』がサバイバル描写を中心に添えつつも、時折「普通の日常生活」を挿入することで日常の有り難みを強調して「ゾンビ×学校生活」のベストマッチを図ったのに対し、「ゾンビサバイバルものだと思ったら、実はアイドル系だった」という、今度は別パターンの叙述トリックだったのがシンプルに面白い試みだなと。ゾンビを扱う作品にミスリードが多いのは何故だろう...。

 

さらに言えば「ゾンビ要素」ひいては「死」を活かした設定がまた”巧く活きている”なと。というのも「キャラクターが既に死んでいる」設定は、ある意味「ズルい」(褒めてます)ようにも思えるのだ。例えば山田たえが頻繁に四肢がバラバラになって他のメンバーを驚かせたり、脱走を試みる愛の腕がスッポリ抜け、さらには6話で自分を置いて進む車を止めようと前に出た純子を幸太郎がうっかり轢いてしまう、それらのギャグは「彼女たちはもう死んでいるから大丈夫」という強烈な説得力のもとに描かれている。死んでいるからこそ、視覚的にもインパクトのある演出が可能になっている。

 

そうした「死」ならではの演出・設定を考える上で、(かつて色々な意味で反響を呼んだ)『エンジェルビーツ』を挙げないわけにはいかない。こちらは「青春時代に夢半ばで命を落とした少年少女たちが、死後の世界で未練を解消していく」話になっており、現に『ゾンビランドサガ』でも6.7話で描かれたような展開を共通項として持っている。生前の記憶を欠いた音無が、自身の過去と世界の秘密を探って行く中で、仲間と出会い様々な人生観に触れる(個人的には)名作であった。偶然にも記憶喪失設定が源さくらと共通しているのも面白いポイントだ。

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ガルデモが初っ端からゲリラライブをかまして”天使”を撹乱しようと試みたり、5話で授業中に椅子が吹っ飛ぶシーンなど、「死後の世界」ならではの過激なギャグシーンは間違いなく視聴者の記憶にこびりついたことだろう。そうした中でも、「青春のやり直し」「神が居ない世界における救いの手段」といったテーマは外さずに描いており、特に12話におけるゆりっぺの「生前に死んだ兄弟と同じくらい、死後の戦線メンバーを愛するようになってしまった葛藤」や、「音無は奏に心臓を渡したドナーだった」ネタばらしと「エンジェルビーツ=天使(奏)の鼓動」という秀逸なタイトル回収は、自分的に本作で一番褒めたいポイントだったりする。しかし、『エンジェルビーツ』には同時に相当な”惜しさ”も覚えている。

 

というのは、やはり随所で言われている通り「キャラクター数に対する話数の少なさが起因して、キャラ捌きの困難さが浮き彫りになったこと」を根幹とし、「個別エピソードに傾注させるあまり、世界観に関する説明がおざなりになった」ことが挙げられる。

さらに言えば、せっかく椎名という「明らかに現代よりも古い時代を生きていたであろう人物」まで存在していたのに、「死んだタイミングの違いによる時代感覚のズレ」まで描かれなかったのは実に惜しい点だった...。そこを描いていれば、「死後の世界」設定ももう少し深みのあるものになっていたかもと、無いモノねだりをしてみたり...。

 

そしてそれらを踏まえた上での『ゾンビランドサガ』だ。上記で述べた「死んでいるからこそ説得力のあるギャグ描写」をはじめとし、6,7話で『エンジェルビーツ』では叶わなかった「時代感覚のズレによるアイドル観の衝突」にクローズアップしたほか、雷が帯電してテクノボイスのパフォーマンスを見せるなど「ゾンビだから出来る」という最強の言い訳?で視聴者を”納得させて”いるのだ(褒めてます)。

また、同じ「既にキャラクターが死んでいる設定」と言っても、「”死後の世界で”青春を謳歌する事」と「ゾンビ化して”現世で”もう一度やり直す事」とでは根本的に違う。

あくまでも彼女らは”現世で活躍している”という事だ。エンジェルビーツ』におけるNPCとは違い、生前に彼女らを知る人間も当然ながら存在する中でのストーリーだ。

 

「環境が生前と地続きである」ことは、幸太郎の言う「ゾンビィバレ(自分たちの正体がゾンビだと知られること)」しかり、新聞記者が純子の正体に気付いた事を思わせる描写しかり、本作における重要な(ストーリー上の)”足枷”として活きているのだ。

個人的にそうした”足枷”が有効にはたらいたのが6,7話だったと思う。愛が落雷で死んだ後も、元々所属していたアイドルユニットのアイアンフリルは今なおきっちり存在していることで、愛に生前の輝かしい日々を思い出させて苦悩を生む発端となったし、愛や純子が死んでいる間にも時間が進んでいる事実、それ故に”空白の時間”と向き合う必要性、時代の変化への対応を強いられる要因となっているのだ。

 

肉体の死と、”コンテンツ”の死

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本作において「死」とは2つの意味を持っていると考える1つはお分かりの通り「肉体の死」だ。そしてもう一つが「コンテンツとしての死」だ。6話にて、愛がパソコンでアイドルの現在を調べるシーンで、かつて一世を風靡したであろうアイドルたちが立て続けに解散している事実を知る。アイドル業界をはじめとする「エンターテインメント業界」は、往々にして”寿命が短い”ものである。アイドルに限らず、10年前にヒットしたゲームや漫画が今もなお続いていることはまず無いし、終わったとしても、その作品の人気がずっと続くことも稀な世界が、エンタメの特性であろう。

 

そんな中でも確実に”今なお生き続けている”ものも少数だが存在する。仮面ライダー戦隊シリーズウルトラマンがその代表例だ。ライダーと戦隊の生みの親・石ノ森章太郎は亡くなった後でもシリーズが続いており、今年で47周年・平成シリーズだけでも20年目に突入しようとしているし、円谷英二も同様だ。仮面ライダーでは現在でも、オープニングのクレジットには「原案 石ノ森章太郎」と一番最初に表示される。つまり、彼らは肉体の死を経験しながらも、”コンテンツとして生き続けている”好例である。

 

ゾンビランドサガ』本編においても、昭和と平成を代表するアイドル2人・天才子役・伝説の花魁といった、生前に「エンターテインメントの世界」で生きたものが主要キャラに添えられ、死してなお「この世に生き続けようと」する彼女たちを描いている。一見すると「自身の存在を永遠のものにする手段」として、上でも述べたとおり”寿命の短いエンタメコンテンツ”を用いるのはある意味で「矛盾」とも思える。

しかしオープニングの「徒花ネクロマンシー」が、アイドルとは似つかない古い特撮を模したような映像なのは、それこそ石ノ森章太郎がかつて生み出し、今も生き続けている「戦隊もの」のような「死んだ後も生き続けるコンテンツになりたい=私たち、生きたい」のテーマを宣言しているように思えてならないのだ。つまり、「戦隊もの」はフランシュシュにとっての最終目標であると私は解釈している。

 

7話時点でリリィの過去・新聞記者による身バレ・山田たえの謎・幸太郎の真の目的・さくらの記憶と、まだまだ謎を残している『ゾンビランドサガ』。私は最後まで彼女たちの性(サガ)を見届けたい。 

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「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術 『プーと大人になった僕』を視聴して。

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先日、話題の映画『プーと大人になった僕』を観に行った。自分は当然、キャラクターとしての「プーさん」は知っていたのだが、原作ストーリーについての知識は無かった。

「豚なのに細いキャラ、尻尾でジャンプというド◯キーコングの敵さながらの動きを見せる虎、よくわからないカバみたいな動物、そしてプーさんがいる」くらいの事前知識で観に行ったのだが、巷で言われているほど「予習が必要」な作品ではなかった。

むしろ事前知識がなかったからこそ、新鮮な目でプーさんの言動を見ることができた。そしてヒイタチとズオウの話も、その存在について知らずとも一応は「あぁ、見えない敵を表現してるんだな」と考えれば話の辻褄が合うようにできている。(もちろん、知識があれば話にとっつきやすいとは思う)

後述するが、この「ズオウとヒイタチ」の本作における役割も見事であった。

 

以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変化する現実」と「変わらない100エーカーの森」

 

そんな『プーと大人になった僕(以下『プーさん』)』だが、物語の主人公・クリストファーロビンが大人になった後のストーリーが描かれた。プーさんとの別れの後、徴兵されて戦争を経験、その後はレジャー鞄のメーカーに就職して休日返上で働きまくり、そうした仕事の多忙さ加減が災いし、ついには家族との仲も険悪になるという「リアルさ」加減が見事だった。仕事は往々にして「時間を金に換える」ように形容されるが、まさに本作でも「何も無いところからは何も生まれない」がキーワードとなっていた。

 

そんなある日、ひょんな事から旧友であるプーと再会する。しかし会社の存亡の危機が懸かっているロビンにとって、プーは邪魔者でしかなかった。ここの「お互いに住んでる世界が違う」演出も見事である。100エーカーの森の仲間たちは、まるで絵本から出てきたかのような文学的なセリフ回しをする。度々挟まれるプーやイーヨーの含蓄のある一言が「あぁ、忘れてたけど今自分はプーさんの映画を見てるんだ」と思い出させてくれる。ロビンの住む「現実の目まぐるしい変化」と、100エーカーの森の「いつ来ても変わらない仲間と景色」の対比がまた、我々の幼少期のような「忘れてたあの日」を想起させるのだ。

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我々が幼少期だった頃、友人たちと「秘密基地」を作ったはずだ。秘密基地とは、厳密に言えばただの公園の1区間だったり、例えば『20世紀少年』に登場したそれは、単なる舗装されていない草むらに過ぎないはずだが、我々の心にはたしかにそれが「秘密基地」に見えていただろう。

そしてそこからの「100エーカーの森」だ。本編ではそれが妄想の産物として描かれている訳ではないが、少しでも現実世界でそれに関する事をチラつかせると、「ぬいぐるみが喋る」「頭がおかしくなった」等々、やはり「浮世離れしたもの」として扱われている。つまり、100エーカーの森とその仲間たちは「現実と妄想の境目に位置するもの」として、それこそ我々で言う「秘密基地」と同じ文脈で語られているのだ。そんな「存在するけど、存在しない」矛盾を持ちながら、目まぐるしいロンドンを駆け巡るのだが、そこには「忙しいからこそ、妄想しても良い」という主張がなされているのだ。

 

言ってしまえば、『プーさん』では小さい頃にしていた妄想・そしてそれをさらに発展させたのが「中二病」であり、それらの圧倒的肯定がテーマとして添えられている。時としてその「中二病」が現状打破の決め手となる、という「今の若者はもちろん、大人になっても大事なテーマ」を狙い撃ちしている作品なのだ。

続いて、この作品が持つ新たな形の「錬金術」について触れたい。

 

「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術

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本作では言うまでもなく「何もないからこそ、何かを生み出せる」というメッセージを放っている。ここにもやはり、上述した「打開策としての中二病」を内包しているのだ。「何かを得るためには、何かを失わなければならない」とは、かつて『鋼の錬金術士』で克明に描かれてきたテーマだが、『ハガレン』において「錬金術」とは決して万能の魔法として表現されていない。例えば第1話で死んだ母を錬成しようとしたエドワードは片足を、さらにアルフォンスは全身を"持っていかれた"。そしてその弟の「魂だけは持っていかせん!」として、エドワードは自分の片腕を捧げた。ハッキリ言えば費用対効果がめちゃくちゃに悪い。ついでに言えば、人体練成という禁忌を犯してまで行ったものの、母の練成には失敗している。

 

ハガレン』の物語は上記のような「悲劇」から始まり、錬金術師が錬金術師としてではなく、あくまで「ひとりの人間」として成長するまでを描いた名作だ。最終的にエドワードは錬金術のスキルを代償に捧げることで、今まで通りの「普通の人間」として生きるエンディングとなっている。前にも個別記事で書いたように、ハガレン』はあくまで「錬金術は万能ではない」「錬金術師が人間に戻る話」であり、そこに妄想の世界・ひいては中二病要素は入る余地がない、極めて「現実的」なテーマだ。

 対する『プーさん』ではどうだろう。『ハガレン』とは180度も異なるテーマを掲げているのだ。100エーカーの森という、半ば妄想のような世界観から始まり、そして100エーカーの森で話が終わる。

 

つまり、始まりから終わりまでが綺麗に「幼少期の妄想賛歌」で一貫しているのだ。そして「ズオウとヒイタチ」の役割もまた「妄想賛歌」を強調している。原作ではズオウもヒイタチもれっきとしたキャラクターとして存在するらしく、プーさんたちをいじめる『ドラえもん』で言うところのジャイアンのような存在だと思われる。しかし本作でその姿を拝む事はできない。なぜならば、ズオウもヒイタチも「ロビンの頭の中に存在する、妄想の敵」として描かれているためだ。

 

 そしてその「見えない敵」であるズオウとヒイタチが、本作では解決の決め手になるのだ。物語中盤、100エーカーの森に迷い込んだロビンは、ズオウとヒイタチと頭の中で交戦を繰り広げることで、森の仲間達と打ち解けるシーンがある。これは言うまでもなく「何もないところから(存在しない敵を通じて)、何かを生み出す(仲間たちとの絆を強める)」というテーマとピッタリ重なっている。

 

「等価交換の原則」の必須条件について

 

何もないところから何かを生み出す力を「等価交換の逆原則」と呼ぶことにする。本作ではこの原則を適用できる錬金術師はごく限られている。それは「妄想力が優れた者」だ。100エーカーの仲間達は存在そのものが「浮世離れ」しており、妄想の具現化として見ることができる。その証拠に、われわれ視聴者=神の視点ではプーさんたちは「存在する」ように見える一方で、物語の他のキャラから見れば極めて非現実的な存在として描かれている。

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総じて、彼らの「妄想力」は(当然、存在そのものが妄想に近いので)作中屈指である。続いて、クリストファーロビンとその家族だ。仕事ばかりで現実しか見えていなかったかつてのロビンは妄想力はゼロに近かった。しかしプーさんとの再会、見えない敵との交戦を通じて妄想力を高めてきた。そして娘のマデリンも子供ということもあり、生来的な妄想力はかなり強い。彼女はプーたちを見て最初は驚いたものの、すぐに彼らと打ち解けたのは、妄想力の強さを裏付ける演出だ。

 

では作中、最も妄想力を欠いた人物は誰だろう?そう、全ての元凶であるジャイルズ(ロビンと共同で仕事をしていた(大嘘))だ。彼は「何もないところからは何も生まれない」現実主義の人間で、度々ロビンを社畜化させようと仕向けてきたやべーやつだ。そんな彼は、ロビンと共同でプレゼン資料を作る素振りを見せながら、休日返上して働いたロビンと対称に、のんびりとゴルフを楽しんでいたことが示唆される。その上、手柄を自分のものにしようとする、どこまでもゲスいキャラだった。

そんな彼が最後には、仕事をせずに遊んでいたことが皆にバレて大目玉を食らい、ロビンは家族旅行に出かけてリフレッシュという、スカッとジャパンもびっくりな因果応報物語で幕を閉じる。

 

 ところで皆さん、このシーンで「何もしなかったら怒られた」ジャイルズに疑問を感じなかっただろうか。「何もしない」をあれだけ賛美してたのに、何で彼だけは別みたいに扱われてるのか、と。

実は観終わった後、私もそのような「作品テーマとの食い合わせの悪さ」を感じてしまった。しかし、上で述べた「等価交換の逆法則を適用するためには、妄想力が必要」という仮説を当てはめると、これは納得のいくオチになるのだ。つまり、ジャイルズは「何もないところからは何も生み出せない」という、一般的な「等価交換の原則」に生きており、彼はその法則にただ従っているだけなのである。言い換えると、「何もせずに何かを得ようとした彼は、当然後でツケを払わなければいけない」原則が彼には適用され、そのツケというのがあの「遊んでたことがバレて大目玉を食らう」というオチなのだ。

 

総括 『プーと大人になった僕』とは何だったのか

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総じて、映画『プーさん』はどこまでも妄想に重きを置いた作品だったと言える。皆さんの中には、小・中学生時代に「学校にテロリストが現れる」とか、「もしこのゲームの登場人物に俺がいたら」みたいな妄想を繰り広げてきた人もいるのではないだろうか。時間が経てばそんな「妄想」も、なぜか「黒歴史」として、記憶の奥底に封印してしまう、そんな人がほとんどであろう。しかし、本作はそんな「妄想」を打開策の一つとして提示してくれる。つまり、「私たちは妄想してもいいんだ!!」という、ある種タブーのように見えるメッセージを堂々と肯定している。

 大人になるにつれて妄想する機会はうんと減り、現実的な選択を迫られる。ロビンだって、会社の存続の為に経理をリストラしようとした。そんな時こそ、何かを犠牲にするのではなく、「妄想力」という無限のリソースを用いて問題解決できるのだ!しかも「賢者の石」と違って、素材に国一つ滅びるほどの人口を要求されることもないのだ。

 観に行けば、あなたもいつの間にか「あの頃の森」に迷い込むはずだ。

 

『劇場版仮面ライダービルド』において「Be The One」は何を表したのか。次の10年に向けた究極のオマージュ

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今年もこの時期がやって来た。仮面ライダーの夏映画は劇場版ポケモンシリーズと肩を並べて映画業界を賑わせる、まさに「キッズコンテンツ夏の陣」である。映画の感想の前に『ビルド』TV本編をざっと振り替えるとこんな感じである。

 

・記憶喪失の天っ才物理学者・桐生戦兎の正体は、実は悪魔の科学者と呼ばれる「葛城巧」だった。

→葛城は「エボルト(地球を襲う火星人)」を倒すための兵器として「仮面ライダー」を作り、戦兎はそれを知らずにただ「人を守るヒーロー」として、ラブアンドピースをスローガンに掲げて(ここ重要)戦ってきた。TV本編ではそうした「自身の存在意義」「兵器としての生まれを持つ者は、果たしてヒーローなのか」という問題提起がなされる

 

・本編での「主な死者」

スマッシュ化した後に消滅した万丈の彼女

 戦争に巻き込まれた(ハザードフォームの暴走が代表的である)三羽ガラス

エボルトの攻撃から幻徳を庇った氷室泰山(幻徳の父)

焼肉を食う前に運悪く死んだ佐藤太郎(ある意味、本編で一番の被害者)

 

それらを踏まえた上で、劇場版『ビルド』の雑感を残そうと思う。

 

※以下、映画本編のネタバレを多く含みます。未視聴の方はブラウザバック推奨

 

 

 

 

 

『ビルド』とはこんな作品だ!を40分間主張し続けた劇場版

 

結論から言えば『ビルド』という作品全体、ひいては「桐生戦兎を構成するものは何か」を端的に、40分程度のコンパクトな仕上がりで描いたのが今回の『Be The One』だった。言ってしまえば「万丈の闇落ち」「エボルトの、意図が読めない”気まぐれさ”」「ネガティブな意味で使われる”仮面ライダー”の単語」は全て上述したように、本編で多く見受けられる要素だった。なのでそこに特別「目新しさ」は感じなかった。

 

参考までに前作『エグゼイド』劇場版の感想を言っておくと「本編で取りこぼした要素の昇華」だったように思える。医療とゲームを通じて「死んだ人間を生き返らせることの是非」というテーマを描いたのがTV版『エグゼイド』だった。しかし、SAO的な要素を期待していた身としては若干の物足りなさを感じた。

 

『トゥルーエンディング』では本編で扱えなかったVR要素、ひいては「仮想世界は現実の代替になり得るのか」といったSAOマザーズロザリオ編のようなテーマを大々的に扱っていた。時系列も本編最終回の後となっており、全ての問題が解決した後の物語だったのが大きいかもしれない。そのため、「本編との差別化」の意味で『トゥルーエンディング』は良い出来だったと思う。

 

対する劇場版『ビルド』では、「かなりの部分を本編に準拠させつつも、桐生戦兎の原点を補完する」物語だった。しかしその「補完」の部分がやや後付け感が否めなかったのが、今回の賛否を分けたポイントだったなと。ブラッド族の「万丈と戦兎を出会うように仕向けたのは俺だ」だったり、その他もろもろ…。さらには劇場版のスペシャルボス枠のはずのブラッド族が、本編で偉大なる存在感を放っているエボルトも相まって、全体的に「小物感」が出てしまった。

 

語られたラブアンドピースの原点

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上で「後付け感が否めない」と言ったものの、一つの例外がある。それは戦兎がスローガンに掲げている「ラブアンドピース」の原点だ。本編では割と唐突にその言葉が使われ、しかもそれがいつの間にか定着してしまったので戸惑った記憶がある。なので、そこをきちんと補完してくれたのは有り難い。

 

序盤、「仮面ライダーは兵器だ」と演説する、何ともきな臭いシーンから始まり、ゾンビ映画さながらの逃走劇が始まる。緊迫感を伴いつつもコミカルに描かれたこのシーンだが、「科学は恵みにも、武器にもなり得る」という当たり前の事実、そして例え自分に悪意がなくとも、守るための力であったとしても「力を持っている」という事実だけで、悪者扱いされてしまう。悲劇のヒーローとしての「仮面ライダー」を前面に出したのが今回の劇場版だった。

だからこそ、特別なことは必要最小限に"抑えて"「例え世界中の全員から敵とみなされても、愛と平和の為に戦うのが仮面ライダーである」という、大事な「ビルドのエッセンス」を詰め込んだ本作は賛否はありつつも、自分的には「良作」としてカウントしたい。

 

また、ビルドでは葛城巧・桐生戦兎の2人が「息子」としての位置付けで描かれており、両者の見る「父」の違いを見比べるのも醍醐味だと思う。記憶のない戦兎が、むしろ記憶が無いからこそ父を父として見ることができる点も、劇場版でも余すことなく見られる。

それと対比するかのように、これまで戦兎を裏切ってきたエボルトまでも、まるで自分が「育ての父」のような面をする。無論、「戦兎を偽りのヒーロー」として育て上げたという点では、「美味そうに育ってくれた家畜」くらいの認識だろう。つまり桐生戦兎は他人の手によって翻弄される中で、本当に信頼できる仲間を見つけて、それが「自身の出生に囚われない自己肯定」という幾度と描かれてきた戦兎のメンタリティへと繋がることを、今回の劇場版で改めて認識させられた。

 

『Be The One』が表す原点回帰のメッセージと、仮面ライダーダブルのオマージュについて

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ところでタイトルの「Be The One」は何を表すのだろうか。無論、中身のないゼロからのスタートだった戦兎が仲間との出会いを受けて「1になる」意味で使われている。しかし私はそれだけでなく「原点に戻る」というメッセージを放っているように思えてならないのだ。

 

そもそも『ビルド』自体、改造人間であったり元々は人を脅かす存在だった設定しかり、平成二期に見受けられるような「何かと何かの組み合わせ」を体現した「ベストマッチの概念」など、ライダーにおける必須事項を綺麗に満たした存在である。そして過去にも原点回帰を思わせるライダーがいた。それがゼロ年代最後の仮面ライダー「ダブル」である。

 

デザインは緑と黒を基調にし、マントをたなびかせる、かつ「敵の力を用いて戦う」プロットは、ライダーファンであれば周知の事実であろう。なので今更そうした要素を語る必要はなさそうだ。しかし私は「ダブル」という作品にはセカイ系の要素が含まれると考える。地球に存在する全ての記憶を持つフィリップは、存在そのものが言うならば「世界」であり、翔太郎との邂逅を通じて(世界と言うにはスケールは小さいが)街を守るプロットは、まさにゼロ年代アニメに見られたものだ。

 

そしてそこからの万丈だ。ビルドでも万丈と戦兎のバディが度々描かれるが、万丈の存在は単なる相棒とは違っている。何故なら存在そのものが「世界を脅かす」ものであり、それを受けて葛城巧は、何としてでも万丈を排除しようと試みた。そして今回の劇場版ではその万丈が「世界を変える」キーとなった。しかもクローズビルドフォームは戦兎との合体フォームだ!

ダブルファンの私としては興奮を抑えきれない。しかも変身後の「ひゅぉぉおお〜」という風の音がまさにダブルを思わせる演出だ!

 

私はそこで思わず泣きそうになった。と同時にガッツポーズをしたくなる衝動に駆られたのだ。何故なら「万丈との出会いがきっかけで世界が救われた」こと、そして「2人で一つの仮面ライダー」を再現したからだ。1人では成し遂げられなかった「ラブアンドピース」を、戦兎と万丈の2人で成し遂げたのだ!まさにこれは「ダブル」で描かれたゼロ年代セカイ系の再現だ。そして「Be The One=原点に戻る」秀逸なタイトル回収でもあるのだ。

 

平成最後の仮面ライダージオウへとバトンを渡す『ビルド』はまさに、仮面ライダーの本質を「原点回帰」の手段を用いて再認識させる作品だったと言える。正直に言えば若干詰めの甘い部分も無いわけではない。それでも『Be The One』は多くのライダーファンをニヤつかせる良作映画だった!