ロリポップ・アンド・バレット

アニメ・映画・特撮・読書の感想や考察を書いたり書かなかったりする

なぜ「3値を知る前には戻れない」のか あるいは「しゅくふくポケモン」が自分にもたらした"呪い"について

ゲーム『ポケットモンスター』シリーズ、単純計算してみたら23年も続いてるシリーズと知り、めちゃくちゃ息の長いコンテンツに進化してきたなと。自分が小学4年生だったか5年生だった頃、木曜日の塾帰り、家に変えればまずチャンネルをポケモンに変えるのが毎週のルーチンワークだった訳だけども(その頃はダイヤモンドパールだった)、その時のアニメ『ポケモン』の触れ込みは「ポケモンアニメは10周年!(ここでピカ様による「ピッカ〜!」が入る)」だったと記憶している。

 

そんな頃から、更に10年をゆうに超える月日が経ってしまった事実から目を背けたくなるけれどもそれはさておき、世間でよく言われているポケモンは3値を知る前の頃の方が楽しかった」というフレーズについて、個人的に思うことを語っていこうかなと。

 

(3値って何?って人のために。ポケモンにはRPGで言うところのスキルの振り分けにあたる「努力値」、ポケモンの種族ごとに定められた能力値の「種族値」、そしてさらに同じレベルの同じポケモンでも、個体による能力の差異がある「個体値」。特に対人戦やそれに伴う対戦用ポケモンの育成において、そうした3つの「隠しパラメータ」を常に意識しておく必要がある。)

 

 

「旅パ=スタメン」だったあの頃

 

自分が最後に「3値を知る前の楽しみ方」をしていたのは、今から実に10年前の『ハートゴールドソウルシルバー』だった。兄から借りた「クリスタル」をきっかけに「ポケモン」というゲームに触れた身としては、金銀リメイクはまさに外せないタイトルだった訳だけども、それはさておいて。巷で言われている「純粋にポケモンを楽しむ」というのは、努力値なんて気にしないし、性格補正も何それ?ってレベルで、とにかく「レベルが高い=強いポケモン」みたいな、そういう楽しみ方が多いはずなんですよね。四天王を周回してレベルを上げる行為こそが一般人の想像する「育成」であって。

 

そして中でも初期から手持ちに入れている、いわゆる「旅パ」というやつが「最強のスタメン」だったり、書いてて思ったけども何と懐かしいこの感覚…。だからライトユーザー同士の会話だと「手持ち見せて〜!」なんて会話がよく起こるんですよね、廃人になった今では「手持ち=秘伝要因と特性ほのおのからだ、残り全部卵」がデフォになってしまうんですけどね…。しかし自分の場合、「ある人物」と出会うことで、ライトユーザーでは居られなくなる訳です。そう、中学の時に出会ったポケモンに詳しいクラスメイト」の登場によって。

 

 

種族値」を知ってから

 

ポケモンに詳しい友人」は、これまでの自分が知らなかった事をたくさん教えてくれた。いや、その友人もまだ「詳しくなってから」日が浅かったのかもしれない。まだまだ最初の頃は技名を言えば「その技のPPと効果」を詳しく教えてくれるに留まっていたし、「種族値」を知り始めたくらいの頃だったのかもしれない。それでも自分が最初に「種族値」について教えてもらった時は、「ポケモンには種類ごとに隠しパラメータが設定されている」という事実にえらく感動したものだ。

ポケモン徹底攻略」という今や対人戦をする人なら知らぬ者はいないサイトを発見した時は、手持ちのポケモン全員の種族値を調べて、意外なヤツが強かったり、ニドキングドラピオンがあんな攻撃的な見た目なのに割と控えめな能力だった事実に驚いたり。

 

 「種族値」を知った後、攻撃の低いゲンガーに技マシンでシャドークローを覚えさせなくて良かったと心底安心したし(この頃の技マシンは消耗品だった)、カイオーガは特防が高いので物理攻撃をした方がダメージが通りやすいとか、パルシェンが硬いのはあくまでも「防御」であって、むしろ特防は最終進化系の中ではワーストクラスという事を知ったり。単なる「ドラゴンタイプは氷タイプに弱い」といった相性だけに留まらない、「ポケモンによって戦略の余地は様々」であることを知って、むしろそうした公表されていない隠し要素が余計に「対戦ゲーム」としてのゲーム性に貢献してて、ますますポケモンの「沼」にハマることになった訳です。

 

 

 しゅくふくポケモンがもたらした「呪い」

 

そんなこんなで「種族値」を意識しながらリア友と対戦する日々が続いたけども、今にして思えば「ここで終わっておけば、ライトユーザーで居られたかもしれなかった」のだ。

 

ある日「ポケモンに詳しい友人」は、トゲキッスを育成したのだ。得意気にステータスを見せてきたのだけど、自分はそのステータスを見てこれまでに感じた事のない「衝撃」と「焦り」を抱いた。レベル50の段階で特攻の実数値は「189」だったのだ。今にして考えれば特攻に上昇補正のかかる「ひかえめ」な性格で、さらに個体値がMAX、努力値もMAXまで振ればその数値は至極当然なのだけども、「個体値と性格を厳選して、努力値を振る」という育成方法をしてこなかった自分は、友人のトゲキッスを見て強烈な焦燥感を覚えたのです。

 

f:id:Skarugo0094:20200201000622g:image

 

トゲキッスの特攻種族値は120、自分の持つゲンガーは特攻130なのに、確かに「種族値」はゲンガーの方が高いはずなのに、「実数値は友人のトゲキッスのほうが高い」なんて、「種族値までしか知らなかった自分」には衝撃が強すぎましたね。 自分は居ても経ってもいられなくなって、その日から「個体値・性格厳選」を行うようにしたのです。完全にライトユーザーに引き返すチャンスを逃しましたね…。

最初の頃は「とりあえず性格だけ厳選」という方向性でアブソルとフーディンを育成するも、レベル50になって気づく低個体値という事実。そうした紆余曲折を経てようやく育成したのが「性格いじっぱり・攻撃個体値MAX・努力値MAXのカビゴン」だった。攻撃種族値が110のカビゴンに補正をかけて努力値を振れば実数値は178。自分の持つカビゴンの攻撃も178。この数字を見た瞬間、自分にとっての「ライトユーザーとしてポケモンを楽しむ」という概念は消え去ってしまったのかも知れない。このカビゴンは自分にとって一番思い入れのある「厳選したポケモン」なので、XYまで連れていき、旅パにも使うほどの愛着だった。

 

それ以降、3値を意識して育成をするようになって、来る「ブラック・ホワイト」ではインターネット対戦がDS本体とwifi環境があればで手軽にできる「ランダムマッチ」が実装され、いつしか学校の「ガチ勢」がマクドナルドで集まってマルチバトルをするようになったり、「四天王」と称して集まって対戦してみたり、貴重な中学生活の大半をポケモンに注ぐことになった訳だけども、そのきっかけである"しゅくふくポケモン"のトゲキッスは「ヘビーユーザーとしての楽しみ方」という"祝福"をもたらしてくれた一方で、皮肉にも自分から「一生ライトユーザーとしてポケモンを遊べない"呪い"」をもたらしたんですよね。

 

 なぜ自分は「3値を知る前」にはもう戻れないのか

 

上述の通り、自分はポケモンというゲームの「ライトユーザー」から始まり、どんどんと「ヘビーユーザー側」にシフトしていった訳だけども、必ずしも「3値を知る前の方が楽しかった」とは言い切れない。努力値だって振り方は千差万別で、同じポケモンでも型が違えば対策も異なる。そうした「対戦の奥深さ」は3値を知ったおかげで分かるようになったと思っていて。ただ、一方でどこまでいっても「3値ありき」のプレイに因われてしまう、それがトゲキッスが自分にかけた、対人戦をしなくなった今でも解けない”呪い”なんですよね。

(大事なことを言ってませんでしたが、中学卒業後はリアルの生活で色々と大変なことがあってポケモンから離れ、そのまま今では対人戦から完全に足を洗っております。)

 

例えば御三家を選ぶ時だって、その性格が使う能力にマイナス補正だった場合はどうしたって気になってしまうし、伝説ポケモンは基本ストーリー上は一度しか手に入らないから、「下手に捕まえてしまうと後悔しそう」といつまで経っても捕まえずじまいだったり。今では努力値の振り直し・個体値や性格補正ならアイテムで修正が効く便利な育成環境になっているそうだが、だからと言って適当に捕まえて育てる気にもならないし、結局のところ自分のように「中途半端にヘビーユーザーの領域に足を踏み入れながらも、対人戦をやらなくなった者」にとって、今のポケモンを楽しむ術が無いんですよね。

 

「3値を知る前の方が楽しかったか」と問われると必ずしもそうは言い切れないが、自分は「3値を知る前の、あの頃のポケモンに戻れない事」、これが一番寂しいと感じています。自分と同じように「ライトからヘビー」の方にシフトした友人たちは、未だにガチ勢としてポケモンを続けていて、周りの「ガチ勢」に合わせてポケモンを楽しむなら、自分も「ガチ勢」にならざるを得ない。単純に周りにガチ勢が増えたことで「彼らと一緒にポケモンを楽しむ」のハードルがめちゃくちゃ高くなってしまった。それが自分が「対人戦」をしなくなった理由の一つでもあって…。

 

  「四天王」と呼び合っていた友人たちが「乱数調整」を始める中、自分だけはそれについていけずにドロップアウトしてしまった。もうそこには「100レベ=最強」「手持ち=スタメン」と言っていた頃の面影はなかった。かといって中途半端に知識をつけてしまった自分はもう、ライトユーザーには戻れない。あの時”しゅくふくポケモン”がもたらした呪いはもう、解けることは無いのかも知れない。

 

だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』第九章