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ボンドルドは如何に魅力的なヴィランだったか 『劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明』感想

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メイドインアビス』はその可愛らしい風貌のキャラクターに反し、熾烈な世界観だったり、目を覆いたくなるような惨状が描かれる事から、すっかり「ハートフルボッコアニメ」の代表として見なされつつある作品だ。原作者・つくしあきひとと言えば、私個人としては『おとぎ銃士赤ずきん』のキャラクター原案のイメージが強い。

リアルタイムで見ていたのは随分と前の話だけども、あれもなかなか朝枠アニメにしてはシリアスで、「可愛いキャラクターに重いストーリーが付随する作風」が一種の”スタンダード”となりつつある今、『おとぎ銃士赤ずきん』はある意味「時代を先取り」していた作品かもしれませんね。

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そんなつくしあきひとが創る『メイドインアビス』ですけど、ファンタジー要素である「奈落の探検」を主軸に添え、リコに託された「奈落の底で待つ」のメッセージが持つ意味・レグの謎多き出自について追っていく本筋になっている。道中ではリコの母をよく知る、同じく白笛のオーゼンと出会い、リコの衝撃的な過去を知ってしまったり、ナナチとの出会いをきっかけに「アビスの呪いの正体」「黎明卿・ボンドルドが過去に行った非人道的な”実験”」など、アビスの底に近づけば近づくほどその「残酷な世界観」の解像度が上がっていく。

 

一方、『メイドインアビス』にはどこか「SFチック」なアプローチが試みられていると感じることが多い。というのも、度々キーワードとして出てくるのが「好奇心」なんですよね。上昇負荷が掛かるアビスは一度入ったら最後、もう二度とは戻れない。誰かが謎を解明しても、”それ”を外の人間に伝える術は基本的に無くて、だからこそ「自分の目で確かめる」他無いという、「片道切符の冒険」というプロットならではの強烈な説得力を感じますよね。

 

本作『深き魂の黎明』でも序盤、ナナチがレグとリコに再三「情報は力だ(だから不用意に情報を漏らすな)」と警告する場面だったり、「アビスの地図は情報を守る為にあえて曖昧な形で描いている」事からも、アビスの”真実”が如何に重要性を帯びているのかが伺える。そう考えると、地上へ伝えられる過程で多くのものが削ぎ落とされて、最後に残るのはほんの一握りの、原型を留めないものになってしまう「情報」もまた、「上昇負荷」を受けてしまうシロモノなのだなあとも思う訳で。

 どんな”負荷”もかかっていない、生の「情報」はそれこそアビスにおける「遺物」にも匹敵するようなモノであって、”それ”は探掘家にとっての原動力なんですよね。本作『深き魂の黎明』では、そうしたアビスの深淵に”魅せられた”リコ達、もといナナチとボンドルド卿の決着・ラストダイブまでを描いている。

 

 

※以下、劇場版本編のネタバレを含みます

 

 

 

 

「情報は力だ」

 

上で述べたように、「情報」が一つのキーワードとして挙がっているのが本作であり、最大の見どころである対決シーンでも”それ”はある種のタクティクスとして表れている。「深界五層に住む生物の巣を利用した奇襲」「上昇負荷を用いた攻撃」等、多くの情報をもとに3人が作戦を練って脅威に立ち向かう構図は見てて気持ちが良い。ナナチが指示し、それをレグが実行しリコは後方で援護。3人の作戦がボンドルドのそれを上回り、さらにそれをボンドルドが乗り越えてくる、そうしたロジカルな応酬がむしろ「カードゲーム」のような面白さを演出していたり。

 

本作のキーパーソンであるボンドルドの娘・プルシュカはアビス生まれのアビス育ちである。「地上からアビスに降りてきたリコ」とは違い、これまでも、そしてこれからも「五層より上の知識、もとい情報」について得ることができない訳で。そういう意味では、アビス生まれの者と地上から降りてきた者との間では絶対的な「情報格差があるとも言えるんですよね。リコにはこれまで道中で得た五層までの体験に加えて、地上での記憶も当然に持っていて、対する「夜明けが見たい」プルシュカはアビスの原理上どうやっても「地上」を知ることはできない訳です。

 

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「ここは上昇負荷がかかるから上っちゃだめ」、その階段を幾度と上ろうと試みるプルシュカの原動力は、探掘家にとって「下への好奇心が止められない」のと同じように、「上」への憧れから来ていて。プルシュカにとっての「夜明け」は、リコの目指す「アビスの底」と同じものなのだ。何度もトライ&エラーを繰り返すことで上昇負荷がかからない方法を見つけたり。後半、「白笛の材料は人間だった」事実が明かされ、ボンドルドの持つ”それ”は人間だった頃の自分を原料にしていた事が判明する訳だけども、「アビスの探求の為なら自分自身を犠牲にすることも厭わない」あたり、やはりプルシュカはボンドルドの子なんだなと感じたり。

 

とりわけ、『深き魂の黎明』では「ボンドルドとの決着」が大きな筋だった訳だけど、結果的に大満足な着地だったと感じている。言うまでもなくボンドルドはミーティの仇であるし、その「非人道的」な行いは一切の同情の余地がないキャラクターであり、言ってしまえば作中屈指の「外道」なのだけど、それすらも彼の「カリスマ性」を引き立ててしまっており、魅力的なキャラクターに仕上がっている。上昇負荷から身を守る使い捨ての「カートリッジ」は子供を材料にしており、実験で多くの子供を「成れ果て」にしてきた彼だけども、そんな「実験材料」に使われた子供の名前を一人一人覚えているあたり、それなりの「愛着」があったことを伺わせる。無論、美味しく育ってくれた家畜を愛でるくらいの感覚だろう。

 

そして我々の嫌な予感が見事に的中してしまう。愛娘のプルシュカもまた、カートリッジとして「使われて」しまったのだ。ボンドルドはプルシュカが自分を「愛してくれる」ように仕向けて、入念に育ててきたのだ。全ては自身が”愛の力”によって「アビスの祝福」を得る為に。 「自分の娘すら実験材料にするなんてあんまりだ」と言いたくなるでしょう。しかし、いくらその「愛」がボンドルドの計算によってでっち上げられたモノだとしても、それはプルシュカにとって紛れもない「本物の愛」なんですよね。だから実験に伴う苦痛すらも、「愛の力」に変えてしまう。なんと業の深い展開だろうか。

 

ご存知のようにナナチもまた、かつてボンドルドの実験によって”祝福”を得ている。「望まぬ形でミーティから”本物の愛”を授かってしまったナナチ」の目の前に、「”仕組まれた愛”によって力を得たボンドルド」が脅威として立ちはだかるなんて、これ以上無いくらいに胸熱な展開になっている。「自分たちにとっての仇」が、激化する戦いの中で次第に「ライバル関係」へと発展していく様相が本当に素晴らしい。

 

ボンドルドは如何に魅力的なヴィランだったか

 

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何より、「リコの本質はむしろ”ボンドルド側”に近い」という言及にゾッとせざるを得ない。改めて一話を見てみると、リコはレグが目覚めない間に火に炙ったり、刃物を使って解剖を試みたり、レグを完全に「アビスの遺物」として”観察”している節があって、なかなかヒヤリと来る。「好奇心が倫理観を上回る」という点では、ボンドルドもリコも変わらないのではないか、好奇心を満たす術が違うだけで、本質的な「違い」は無いのではないか。そういった意味ではボンドルドは「あり得たかもしれないリコの姿」ひいては「アナザーリコ」とも表現できる訳です。

 

 ボンドルドはそうした「ナナチにとってミーティの仇」「リコにとって、あり得たかもしれない自分」として、様々な”属性”を帯びた「好敵手」として三人と対峙する。この戦闘描写がまた、劇場ならではのフルスクリーンの臨場感・息を呑むほどの素晴らしい作画も相まって、熱さに拍車がかかっており、時間すらも忘れてしまう鑑賞体験である。リコが切り落とされたレグの左手から火葬砲で奇襲する展開なんてもう熱すぎですよね。

 

「誰にとっても憎い存在」のはずが「好敵手」として映ってしまう例で言えば『ひぐらし』における鷹野三四や『僕だけがいない街』の「悟と八代学」を思い起こさせる。はたまた、「全ての元凶こそが、実は自分に最も”近い側”の人間だった」例で言えば『ソード・アート・オンライン』アインクラッド編の「茅場とキリトの関係性」もそうで。

つまり何が言いたいかと言えば、ボンドルドがあれだけヘイトを溜めそうなキャラクター像なのに、あんなにも魅力的に映ってしまう理由は上で挙げた作品のようなヴィランとしての”美味しいところ”が詰まったキャラ付け」なのではないだろうか。茅場にしろ、八代学にしろ、純粋な好奇心によって「人の道を外れた者」だけども、劇中でこれといってスカッとするような処置はされていないし、「あれだけのことをしておいて、罪が軽すぎでは」なんて思う人も多いはず。

 

『深き魂の黎明』におけるボンドルドだってその例に漏れない。「実験が好きなら、お前が実験材料になればいい!」一度はそんなセリフと共にボンドルドを破ったレグだったが、それではボンドルドを完全には倒せなかった。プルシュカにとっては紛れもなく「愛する父」を、どうやって殺すことができようか。本作は「仇を殺すことそのものに意味は無い」を明確に描いてきたのだ。何よりプルシュカは「お父さんと仲直りして欲しい」という願いがあった。「憎き仇が、一方ではある者にとって愛すべき存在」というジレンマをどう解消するのか、その解答として「自分たちの”冒険”を取り戻す」。そのためにボンドルドを「倒す」のではなく「越えていく」を提示するという納得の着地。

そもそも『メイドインアビス』は「冒険」の物語であって、「戦い」ではない。リコたちを動かすのは復讐心なんかでは決して無く、ただ純粋な好奇心である訳で。

 

改めて考えると『深き魂の黎明』は、「復讐劇に終止符を打つ」作品だった。「復讐は何も産まない」、セリフにすると陳腐にすら思えてしまうこの言葉でも、作品の中でそれとなくそうした”メッセージ”を表現していくバランス感が見事だった。

本作は公開直前にR15指定され、内容もそれ相応に非常にダークな仕上がりとなっていたが、観終わった後にはむしろ気持ちの良い余韻すら与えてくれる、まさに観ている自分が「奈落に”魅せ”られていた」。これも「仇を討つ」ではなく「仇を越える」という、「復讐劇のもう一つの形」を、最高に魅力的なボンドルドとの関係において描くことで成せる業と言えるだろう。

 

今回は以上です。