ロリポップ・アンド・バレット

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『劇場版仮面ライダービルド』において「Be The One」は何を表したのか。次の10年に向けた究極のオマージュ

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今年もこの時期がやって来た。仮面ライダーの夏映画は劇場版ポケモンシリーズと肩を並べて映画業界を賑わせる、まさに「キッズコンテンツ夏の陣」である。映画の感想の前に『ビルド』TV本編をざっと振り替えるとこんな感じである。

 

・記憶喪失の天っ才物理学者・桐生戦兎の正体は、実は悪魔の科学者と呼ばれる「葛城巧」だった。

→葛城は「エボルト(地球を襲う火星人)」を倒すための兵器として「仮面ライダー」を作り、戦兎はそれを知らずにただ「人を守るヒーロー」として、ラブアンドピースをスローガンに掲げて(ここ重要)戦ってきた。TV本編ではそうした「自身の存在意義」「兵器としての生まれを持つ者は、果たしてヒーローなのか」という問題提起がなされる

 

・本編での「主な死者」

スマッシュ化した後に消滅した万丈の彼女

 戦争に巻き込まれた(ハザードフォームの暴走が代表的である)三羽ガラス

エボルトの攻撃から幻徳を庇った氷室泰山(幻徳の父)

焼肉を食う前に運悪く死んだ佐藤太郎(ある意味、本編で一番の被害者)

 

それらを踏まえた上で、劇場版『ビルド』の雑感を残そうと思う。

 

※以下、映画本編のネタバレを多く含みます。未視聴の方はブラウザバック推奨

 

 

 

 

 

『ビルド』とはこんな作品だ!を40分間主張し続けた劇場版

 

結論から言えば『ビルド』という作品全体、ひいては「桐生戦兎を構成するものは何か」を端的に、40分程度のコンパクトな仕上がりで描いたのが今回の『Be The One』だった。言ってしまえば「万丈の闇落ち」「エボルトの、意図が読めない”気まぐれさ”」「ネガティブな意味で使われる”仮面ライダー”の単語」は全て上述したように、本編で多く見受けられる要素だった。なのでそこに特別「目新しさ」は感じなかった。

 

参考までに前作『エグゼイド』劇場版の感想を言っておくと「本編で取りこぼした要素の昇華」だったように思える。医療とゲームを通じて「死んだ人間を生き返らせることの是非」というテーマを描いたのがTV版『エグゼイド』だった。しかし、SAO的な要素を期待していた身としては若干の物足りなさを感じた。

 

『トゥルーエンディング』では本編で扱えなかったVR要素、ひいては「仮想世界は現実の代替になり得るのか」といったSAOマザーズロザリオ編のようなテーマを大々的に扱っていた。時系列も本編最終回の後となっており、全ての問題が解決した後の物語だったのが大きいかもしれない。そのため、「本編との差別化」の意味で『トゥルーエンディング』は良い出来だったと思う。

 

対する劇場版『ビルド』では、「かなりの部分を本編に準拠させつつも、桐生戦兎の原点を補完する」物語だった。しかしその「補完」の部分がやや後付け感が否めなかったのが、今回の賛否を分けたポイントだったなと。ブラッド族の「万丈と戦兎を出会うように仕向けたのは俺だ」だったり、その他もろもろ…。さらには劇場版のスペシャルボス枠のはずのブラッド族が、本編で偉大なる存在感を放っているエボルトも相まって、全体的に「小物感」が出てしまった。

 

語られたラブアンドピースの原点

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上で「後付け感が否めない」と言ったものの、一つの例外がある。それは戦兎がスローガンに掲げている「ラブアンドピース」の原点だ。本編では割と唐突にその言葉が使われ、しかもそれがいつの間にか定着してしまったので戸惑った記憶がある。なので、そこをきちんと補完してくれたのは有り難い。

 

序盤、「仮面ライダーは兵器だ」と演説する、何ともきな臭いシーンから始まり、ゾンビ映画さながらの逃走劇が始まる。緊迫感を伴いつつもコミカルに描かれたこのシーンだが、「科学は恵みにも、武器にもなり得る」という当たり前の事実、そして例え自分に悪意がなくとも、守るための力であったとしても「力を持っている」という事実だけで、悪者扱いされてしまう。悲劇のヒーローとしての「仮面ライダー」を前面に出したのが今回の劇場版だった。

だからこそ、特別なことは必要最小限に"抑えて"「例え世界中の全員から敵とみなされても、愛と平和の為に戦うのが仮面ライダーである」という、大事な「ビルドのエッセンス」を詰め込んだ本作は賛否はありつつも、自分的には「良作」としてカウントしたい。

 

また、ビルドでは葛城巧・桐生戦兎の2人が「息子」としての位置付けで描かれており、両者の見る「父」の違いを見比べるのも醍醐味だと思う。記憶のない戦兎が、むしろ記憶が無いからこそ父を父として見ることができる点も、劇場版でも余すことなく見られる。

それと対比するかのように、これまで戦兎を裏切ってきたエボルトまでも、まるで自分が「育ての父」のような面をする。無論、「戦兎を偽りのヒーロー」として育て上げたという点では、「美味そうに育ってくれた家畜」くらいの認識だろう。つまり桐生戦兎は他人の手によって翻弄される中で、本当に信頼できる仲間を見つけて、それが「自身の出生に囚われない自己肯定」という幾度と描かれてきた戦兎のメンタリティへと繋がることを、今回の劇場版で改めて認識させられた。

 

『Be The One』が表す原点回帰のメッセージと、仮面ライダーダブルのオマージュについて

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ところでタイトルの「Be The One」は何を表すのだろうか。無論、中身のないゼロからのスタートだった戦兎が仲間との出会いを受けて「1になる」意味で使われている。しかし私はそれだけでなく「原点に戻る」というメッセージを放っているように思えてならないのだ。

 

そもそも『ビルド』自体、改造人間であったり元々は人を脅かす存在だった設定しかり、平成二期に見受けられるような「何かと何かの組み合わせ」を体現した「ベストマッチの概念」など、ライダーにおける必須事項を綺麗に満たした存在である。そして過去にも原点回帰を思わせるライダーがいた。それがゼロ年代最後の仮面ライダー「ダブル」である。

 

デザインは緑と黒を基調にし、マントをたなびかせる、かつ「敵の力を用いて戦う」プロットは、ライダーファンであれば周知の事実であろう。なので今更そうした要素を語る必要はなさそうだ。しかし私は「ダブル」という作品にはセカイ系の要素が含まれると考える。地球に存在する全ての記憶を持つフィリップは、存在そのものが言うならば「世界」であり、翔太郎との邂逅を通じて(世界と言うにはスケールは小さいが)街を守るプロットは、まさにゼロ年代アニメに見られたものだ。

 

そしてそこからの万丈だ。ビルドでも万丈と戦兎のバディが度々描かれるが、万丈の存在は単なる相棒とは違っている。何故なら存在そのものが「世界を脅かす」ものであり、それを受けて葛城巧は、何としてでも万丈を排除しようと試みた。そして今回の劇場版ではその万丈が「世界を変える」キーとなった。しかもクローズビルドフォームは戦兎との合体フォームだ!

ダブルファンの私としては興奮を抑えきれない。しかも変身後の「ひゅぉぉおお〜」という風の音がまさにダブルを思わせる演出だ!

 

私はそこで思わず泣きそうになった。と同時にガッツポーズをしたくなる衝動に駆られたのだ。何故なら「万丈との出会いがきっかけで世界が救われた」こと、そして「2人で一つの仮面ライダー」を再現したからだ。1人では成し遂げられなかった「ラブアンドピース」を、戦兎と万丈の2人で成し遂げたのだ!まさにこれは「ダブル」で描かれたゼロ年代セカイ系の再現だ。そして「Be The One=原点に戻る」秀逸なタイトル回収でもあるのだ。

 

平成最後の仮面ライダージオウへとバトンを渡す『ビルド』はまさに、仮面ライダーの本質を「原点回帰」の手段を用いて再認識させる作品だったと言える。正直に言えば若干詰めの甘い部分も無いわけではない。それでも『Be The One』は多くのライダーファンをニヤつかせる良作映画だった!