ロリポップ・アンド・バレット

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優れた文学としてのポプテピピック あるいは『君の名は。』の再来

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もうポプテピピックに関する考察は死ぬほど語られてもう何も語る事など残されていないとは思うし、この記事もn番煎じなのだろうけどとりあえず「何故こんなにも流行っているのか」を自分なりに考えてみました。

 

元々ポプテピピックが流行り出したのはアニメより前なんですよね。私の記憶では2016年の上半期くらいだっただろうか、主にツイッターでの煽り画像として使われていたイメージがある。つまり、元々SNS上で使いやすいネタが多かった訳ですよ。「さてはアンチだな?オメー?」「なるほどそういう事ね(分かってない)」など非常に汎用性が高く、一種のネットスラングとして、SNS上に浸透していった。キャラデザも簡易ながらとても特徴的で、煽り性能がバツグンに高く、そうした「使いやすいセリフ」と「ストレートさ」がウリだった。

なのでぶっちゃけパロディネタ知らなくても雰囲気で「やべぇ!ww」といった具合に楽しめるタイプの漫画だ。原作で扱われてるパロディも細かすぎて、むしろ元ネタを知らない回の方が多い。それでも、何となく面白いと思える空気がある。

 

そしてこの冬ついにアニメが放映され、瞬く間に社会現象となる。元々人気のあった漫画なのでこのようにヒットするのも不思議ではないのだが、ある時「パロディネタはこれまでになかったからここまでヒットした」との噂が流れてきた。私は正直、その意見には賛同できないと感じた。なぜならば皆さんもお察しの通りパロディをウリにした作品は腐るほどこの世に存在しているからだ。私の世代だと『星のカービィ』は子供には伝わりづらい洋画パロや、アニメーション制作の裏側を面白おかしく書いたあのカオス回など、子供向けの皮を被った化け物であった。私は見た事ないのだが『銀魂』『ケロロ軍曹』もパロディの代表例らしい。

 

そして、最近の作品では『ニャル子』がかなりポプテピピックのそれに近い「パロディ全振りアニメ」だ。まずは単行本の表紙が仮面ライダーの変身ポーズを真似たものだし、セリフの随所に仮面ライダーシリーズの挿入歌のワンフレーズを用いており、まさに「わかる人にしか分からないパロネタ」の宝庫となっている。サイクロン掃除機のカラーリングがまんまダブルのサイクロンジョーカーだったのは流石に笑った。

 

もうお分かりだと思うけれど、つまり「パロディ」という属性は何も今に始まったものではないのだ。銀魂ケロロならば皆が子供の頃に触れてきたハズだし(私はそうじゃなかったが)、「パロディなんて見たことがなかった」なんて事は決して無いんですよね。

では何故、ずーっと続いてきたパロディの系譜「ポプテピピック」がこれほどまでに流行ったのか、という本題について考える必要がありますね。結論から先に言えば「パロディが新しく見える」からだ。

「新しいもの」は往々にしてウケる。古き良きものを受け継いでいくのもいいが、それが過ぎるとマンネリズムが生じる。つまり、既存のものをずっとやっていても飽きられるって事ですね。文学者の桑原武夫氏は著書『文学入門』にて、優れた文学の一例として「題材が新しいもの」を挙げておられます。私も文学については本当に触りしか知らないので深い知識は無いのだが、割とこの話は現在のアニメにも当てはめる事が可能だと思う。

 

これは俗に言う「ポストモダン」ってやつだと思います。近代文学では秩序だった、当たり障りのない普遍的な文学が流行っており、対する近代文学が流行った後=ポストモダンにおいては、あえて混沌とした作風・時系列をバラバラにしていたり、そうした真逆の性質が流行になった、らしい。ざっくりこんな感じ。

めっちゃ噛み砕いて言えば「前の時代に流行ったモノとは逆のモノが次の時代では流行りますよ」という事ですね。何度も「触りしかしらない」と保険をかけておきますけれどガチ文学勢さん、間違ってたらごめんなさい。

つまり、「新しいモノ」はその時代によって変わるんですよね。逆にカオスな作風が受けた後は秩序だった無難なモノが流行るだろうし、文学はおそらくそれの繰り返しである。桑原氏の「新しい題材を扱ったものが優れている」とはこの事だ。

 

何故ポプテピピックは「新しいもの」とされるのか

 

ツイッターでの反応を見ている限り、ポプテピピックは「今までにない新しいモノ」として楽しまれている。しかし上述の通りパロディなど今に始まった属性ではなく、むしろ使い古されたものだ。映画に音声がなかった時代ですら、チャップリンナチスをパロっている。

ポプテピピックが新しいモノ扱いされている理由は「非オタの視聴者層」の存在だ。SNS上で前から話題になっていた漫画のアニメ化だ。流行について行こうとする者だって、非オタの中には存在するはずだ。

これまでアニメに触れてこなかった人間が、パロディ成分100%の濃厚なアニメを口にすればどうなるか。答えは簡単。「こんなの初めて!!」である。当然だ。野球を知らない私が、たまたまホームランの場面を見たら「こんな凄いホームランは彼が初めてに違いない!」と、つい頓珍漢なことを言ってしまうのと同じだ。

 

そして近年でも、今回のポプテピピックムーブメントと同じ動きがあったのを皆は覚えているハズだ。『君の名は。』である。元々の新海誠ファンはもちろん、新海誠は知らないけどアニメは好きなオタク、そして恋愛ものにキュンキュンしたい非オタリア充まで、幅広い層を映画館へ運ばせた名作だ。

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ここで私の『君の名は。』に対する感想を書いておく。評判通りとても面白く、コンパクトにまとまった作品で映画館で見に行った価値は間違いなくあったと思う。だけどその面白さは「こんなアニメは初めてだった」からではない。言ってしまえば「過去改変」の要素はひぐらし・シュタゲ・まどマギといった過去の人気作でよく見られる展開だし、子供向け作品ならば『仮面ライダー龍騎』『レジェンズ』でも採用された程だ。

なので「過去改変」そのものに惹かれる事はなかった。「おお、これは俺の"好きなやつ"だ」と、あくまで"過去作を踏まえた上で"面白いという感想を抱いた。

考えてみれば非オタが君の名はを楽しめるのは当然だ。彼らにとって間違いなく「過去改変」は新しいものだったからだ。新しいものにインタレストを感じるのは誰だってそうだし、彼らが君の名はを絶賛したからと言って「にわかめ!!」と切り捨ててしまうのは少し違うと思う。

 

やや話が逸れたが、要するにポプテピピックは君の名はの再来なのだ。オタクはこれまでのパロディ作品と同じように「パロディ作品の1つとしての面白さ」を見出せるし、非オタならば「初めて触れるパロディ作品」として強いインタレストを感じる。

つまり、ポプテピピックはパロディという使い古された系譜にも関わらず、非オタによって「新しいモノ」として認識されてしまう、文学におけるチートなのだ。桑原氏『文学入門』の「優れた文学」の定義からすればポプテピピックは決して新しくはなく、むしろ「マンネリズム」を生みかねない作品だ。にも関わらず、周りの人によって「新しいモノ」にされてしまう。周りの人の力で無理やり「優れた文学」と化してしまったのがポプテピピックに他ならない。