ロリポップ・アンド・バレット

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話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選

毎年恒例でaninado様が集計されている「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」企画に、今回初めて参加させて頂きます。

aninado.com

 

■「話数単位で選ぶ、2023年TVアニメ10選」ルール
・2023年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。
・集計対象は2023年中に公開されたものと致しますので、集計を希望される方は年内での公開をお願いします。

 

目次

①『ひろがるスカイ!プリキュア』1話 「わたしがヒーローガール!?
キュアスカイ参上!!」

②『転生王女と天才令嬢の魔法革命』12話(最終回) 「彼女と彼女の魔法革命」

③『ポケットモンスター めざせポケモンマスター』11話(最終回) 「虹とポケモンマスター」

④『【推しの子】』7話 「バズ」

⑤『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』11話 「大人と子供の違いって、なに?」

⑥『機動戦士ガンダム 水星の魔女』24話(最終回) 「目一杯の祝福を君に」

⑦『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』10話 「ずっと迷子」

⑧『葬送のフリーレン』10話 「強い魔法使い」

⑨『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』8話 「エコー」

⑩『星屑テレパス』11話 「再戦シーサイド」

番外編『星屑テレパス』10話 「泣虫リスタート」

雑感

①『ひろがるスカイ!プリキュア』1話 「わたしがヒーローガール!?
キュアスカイ参上!!」


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ランボーグとの初戦闘シーン。街中のロケーションそのものは別段珍しいものではありませんが、摩天楼を駆ける”ヒーロー”ガールを描くにあたって、これ以上ないほど相応しい場所と言えます。カバトンとランボーグは車道(危険地帯)に、ましろは歩道(安全地帯)に立っている一方で、ソラはその中間である「横断歩道」上に居ることで、「ヒーローとしての使命」と「自身にその使命を全うできる力がない無力さ」との葛藤を演出する位置関係も見事でした。街中のビルに隠されてきた「空」が、変身して飛び立つソラの縦の運動によって何も覆い隠すものがなくなり、画面が清澄な青へと転じる映像の妙。その一つ一つに魅せられた初回でした。

 

②『転生王女と天才令嬢の魔法革命』12話(最終回) 「彼女と彼女の魔法革命」

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一貫して描かれてきた「接触する」行為に込められたテーマの極値点とも言える回です。「精霊一神教の封建国家」という巨大な暴力装置を前に、虚しくも無力なアニス・アルガルド・ユフィの人間性が次々と否定されていく作劇がとりわけシリアスに映る本作でしたが、同時に与えられた記号を媒介するだけの間接的「メディウム」へ陥った各々のキャラクター達が、直接的に「触れる」行為を通じて一度奪われたヒューマニズムを奪還する物語構造が、身体を重ね合わせる「百合描写」への強烈なエクスキューズとして効いており、本作のそういった部分こそが「ロジカルな百合作品」たる所以なのかも知れません。

 

③『ポケットモンスター めざせポケモンマスター』11話(最終回) 「虹とポケモンマスター」

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1997年から実に26年間に渡って描かれてきた、サトシとピカチュウの冒険に明確な終止符が打たれた回です。26年。私の生きてきた人生の長さとほぼ同じ歳月を、サトシ達の冒険と共にしてきたと考えると、一つの大きな時代が終わったような寂寥感と共に、ある種の感慨が生まれます。

サトシが目指す”ポケモンマスター”とは何か。この対する”答え”をついに出すサトシ。

それは「全てのポケモンと友達になる」というものでした。思い返せば、アニポケという作品は常に「新天地での出会いと別れ」がテーマにありました。私自身も全てのシリーズを見ていたわけではないのですが、そうした会者定離を経験してきたサトシとピカチュウの姿をリアルタイムで目の当たりにしていたからこそ、「アニポケからサトシが卒業する」事に対してもポジティブに受け止めることができたのでしょう。


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カスミ・タケシとの分かれ道のシーン。各々が長い旅から戻ってきた”帰路”であると同時に、新たな旅のスタートを象徴する”岐路”でもある、両義的な結節点として描出されています。行き先は下手(未来)を指し示している方向性の正しさ、そして”最高のボロボロ靴”を履き替えて旅のスタートを切る姿は、エンディング曲『タイプ:ワイルド』で下手(未来)方向に走る映像へとシームレスに繋がれます。これからも続いていく二人の旅を見送る真摯なフィルム作りだったと感じます。

 

④『【推しの子】』7話 「バズ」

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リアリティーショーにおける〈嘘/真実〉の曖昧さ、SNS――巨大な情報の波に翻弄されてきた舞台役者・黒川あかねの復活を描く回。「受動的に観客から”見られる”リアル」というリアリティーショーの構造に対し、炎上騒動の主戦場となったSNSを逆手に取った戦略で「能動的に”見せる”リアル」の側面をオーディエンスに見せることでバイアスの上書きを試みるロジックに多少の疑問はありますが、そうした前フリを経たからこそ「能動的に見せる”嘘”」、即ち「役者」としての黒川あかねの原点に立ち返る、という構造が一層鮮やかに映りました。オーディエンスから一方的な視線を向けられる「視線の非対象性」については以前にOP映像の考察で触れましたが、その対抗策として「見られる」から「見せる」への転換を描く事に説得力を感じました。

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また、データベースとして見たときの「SNS(オンライン)と図書館(オフライン)の対比」も肝要だったように思えます。前者はこちらが求めていなくても否応なしに流れてくる情報であり、後者は能動的な探求によって初めて得られるもの。サーチではなく「リサーチ」によって、誰よりも真実に近づくことができる、という描きは示唆に富んでいます。

 

⑤『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』11話 「大人と子供の違いって、なに?」

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「なぞなぞ形式」のサブタイトルの法則性は守りつつも、なぞなぞのそれとは異なり、明確な「答え」が存在しない問いかけが提示されます。〈子供/大人〉を〈泣く(弱い)/泣かない(強い)〉の二項対立の定義として予め提示しておき、「”大人”になりきれないプロデューサー」の在り方を通じてその境界を融解させていく過程に情緒があります。

とりわけ、遮蔽物の無慈悲さ・静けさと、流水による動的な運動が衝突するMV的映像は「抑え込んでいた思いが溢れ出る」表現としてこれ以上なくありすの深層心理とマッチしており、無彩色の中に唐突に表れる有彩色=金魚も、おそらく同様のニュアンスを含んでいたのでしょう。成長途上にいるアイドルを〈子供〉のレッテルに追いやる装置として打ち出された「U149」のネーミングが、「子供と大人の境界が取り払われる」過程を経て、第3芸能課にとってこれ以上なく相応しい屋号に転じる”強かさ”から「レジリエンス」を感じる回です。

 

⑥『機動戦士ガンダム 水星の魔女』24話(最終回) 「目一杯の祝福を君に」


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ガンダムシリーズには疎く、私にとってこの作品が実質的に初めて触れる『ガンダム

でした。学園ドラマ・決闘(競技)としての戦い・百合要素など、素人目で見てもかなり挑戦的なシリーズだったと思いますが、それらの要素が「戦争」へと転じたときに、物語当初とは全く異なった様相を帯びるようになる、ある意味では叙述トリック的な「要素の見せ方」に旨味があった作品でした。

とりわけ私が注目したのは最終回における「麦畑」のロケーション選定についてです。本作ではトマトが「血縁」「人間性」「温室」など特徴的なマクガフィンとして描かれてきたからこそ、唐突な「麦」に違和感を覚える人も多かったように思えます。しかし戦禍で失われた(消費された)無数の者達に思いを馳せるとき、その場所は”大量生産”の源泉たる「麦畑」が、やはり相応しいのだと思います。また麦の栽培過程には茎葉を強くする目的で「麦踏み」と呼ばれる工程があり、何度尊厳を踏み躙られても再起してきたスレッタ達の柔軟な強さ=レジリエンスと重なる意味でも的確なモチーフでした。余談ですがこの旨をツイートしたところ、人生初バズ(9000いいね)を経験しました。麦と戦争の関係性から漫画『はだしのゲン』を連想した方が多かったようです。

 

⑦『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』10話 「ずっと迷子」

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10選企画の選出を考える時に真っ先に思い浮かんだのが、この回でした。バラバラになってしまった”迷子”の5人が、「居場所を再発見する」回としても読めますが、私個人の見解としてはコード化された人間社会の中に居場所がない者たちが、”非人間”である燈とRiNGの野良猫の異名を持つ”動物的”存在の楽奈、即ち「人間としてのコードを持たない者達」を経由する事で脱コード化され、真に解放される物語として秀逸な回だったと感じます。

あくまでも即興で披露される『詩超絆』の”ポエトリーリーディング”という「語り」の形式が、アドホック(その場限り)な空間を創出しており、そうした「何もない空間こそが”居場所”以上に尊い」、という図地反転的な描きが鮮やかでした。もとより「ロック・ミュージック」のルーツを振り返ったとき、歴史的に反社会的・反体制的なもの、即ち「脱コード的」な芸術様式であった事を思い返せば、そうした描きはむしろロックの本質に迫るものだったとすら言えるかも知れません。

 

⑧『葬送のフリーレン』10話 「強い魔法使い」

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清澄な青空が象徴的なアイコンとして映し出された本作において、異質にも鬱屈とした湿度感・因縁の血生臭さを感じさせるエピソード郡として進行した「断頭台のアウラ編」に終止符が打たれた回です。日常的な魔力のセーブによる”過小評価”からアウラの不意を突く戦法は、あくまでも「手の内を隠した奇襲」と極めてシンプルに言い表すことができますが、「魔力の大きさがそのまま魔族としての地位を表す」魔族特有のヒエラルキーを逆手に取ったロジカルさがあり、そこに一層の説得力がありました。魔力の大小で相手を値踏みするアウラを欺くことができても、魔力を抑えてもなお隠し切ることのできないフリーレンの資質をヒンメルには見抜かれていた、という対比的な描きも良いです。

 

⑨『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』8話 「エコー」

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これまで描かれてきたコノハのタイムリープとは明らかにカラーが異なる事も相まって、一際印象に残る回です。経験に基づいた「推論」と〈想像力〉の違いは何か。一見すると衒学的な思考実験を思わせる抽象性を帯びた問いですが、時代の潮流で移り変わる秋葉原という現実空間と、仮想空間としての美少女ゲーム、2つの意味空間を並置する本作において、最も本質に迫るテーマを問い直す回でした。

「想像力が現実を定義する」というエコーの台詞に表れているように、「現実のエンパワーメントとしての想像=創造のあり方」のテーマは、「ゲーム制作」に主眼を置いたメタフィクションの本作において真に迫るものだったと思います。「偶然性を廃して必然的な結果を選び取る」というタイムリープ作品のクリシェから敢えて離れ、偶然を偶然のままとして受容する本作の描きには、かえって予測できないスペクタクルがあり、本作で言う「美少女ゲームの”エネルギー”」は、そういった部分にこそ生まれるのでしょう。

⑩『星屑テレパス』11話 「再戦シーサイド」

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瞬にとって「モデルロケット技術者」としての矜持を折られる結果となった選手権。

「自分が居ながらあっけなく敗退してしまった」という責任感とプライドから全てを投げ捨ててしまいたくなる心情と、それとは裏腹に「本当はみんなと作りたい」という二律背反の感情のせめぎ合いに、つい感情移入させられます。そんな瞬を”外”に引っ張り出す役割を、「技術も、人を上手く動かすようなコミュ力も欠けていながらも、ただ夢だけは持っている」海果が担っており、エンパワーメントを得られる回でした。

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とりわけ、瞬の本心を看破したユウの発する「嘘」の言い方に思わずゾクッとなりました。オフ台詞で力強く響いた声とは裏腹に、次点のカットでは優しさと寂寥感の同居する眼差しを瞬に対して向けている”ギャップ”から、ユウという人物のミステリアスさが際立っていました。

 

番外編『星屑テレパス』10話 「泣虫リスタート」


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元々はこの10話を(9話と迷った末に)10選に選出する予定でしたが、上記11話を視聴後に急遽選出を変更する事となりました。本作の持つ優しさと、しかしどこか直視し難い厳しさを感じるような、一筋縄でいかない作風が極地を迎える回だったと思います。幼少期、かつてピアノコンクールで計らずも友人の夢を奪ってしまった事で、主体的に夢を持つのではなく「夢を応援する側」に立つようになった宝木遥乃に焦点が当たる回ですが、選手権に惨敗し夢破れた瞬に、その夢の「当事者」として対峙する姿勢に強かさを感じます。瞬のアイコンであった「ゴーグル」が外されることで強調される彼女の諦念、一方で遥乃のトレードマークである「チョーカー」が外れることで「胸襟を開いて話す」ことを視覚的に描いており、小道具の着脱によって両者の相反する心理を対比的に映し出すのが見事です。

上述のような遥乃と瞬の対峙、並行して描かれる海果の「自分自身との対峙」のように、本作は徹底的に「真正面からぶつかる」事を描いており、そこにある種の容赦無さすらも感じますが、それを鑑みれば本作のアイコンであるところの「おでこぱしー」とは本質的に「分かり合えない者同士による、最も優しい”衝突”の形」なのかもしれません。

 

雑感

以前より話数単位10選企画の存在は認知していましたが、アニメ感想ブログ歴7年目にして、参加させて頂くのは実は今回が初めてです。この中でも特に頭を悩ませた作品は、急遽選出を変更した『星屑テレパス』です。どの回も素晴らしいですが、特に9話・10話・11話は甲乙付け難く、僅差で11話を選出した決め手になったのが「感情移入」という部分です。作品に対する感動は「作劇としての出来の良さ」と「個人的に刺さるか否か」の主に2種類があると思いますが、後者ほどより心が動かされ、しかし個人的故に言語化し辛い、というジレンマがあると改めて感じました。

 

末筆ではございますが、来年も引き続き宜しくお願いいたします。

「SDGs要素」は如何にしてフィルムを支配したか。あるいはメディウムとしての”天使”『キボウノチカラ~オトナプリキュア'23~』総括

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『Yes!プリキュア5』『Yes!プリキュア5GoGo!』の夢原のぞみ達が大人になった後日譚を描く『キボウノチカラ〜オトナプリキュア’23〜』がついに最終回を迎えました。

幼い頃は想像もしなかった「大人としての葛藤」を抱えるかつての”プリキュア”達は、突如として街に現れたシャドウ騒動を巡って様々な壁に直面します。最初は「両親の離婚をきっかけに転校を余儀なくされ、邁進していたダンスを断念せざるを得なくなった、のぞみの教え子」など個人単位で始まった問題のスケールが、環境問題などマクロな世界の問題まで敷衍されるストーリーの収拾の仕方に賛否はありますが、とりわけ本作の制作にあたってSDGsをテーマに据える」NHKの意向がかなり色濃く反映されていたのは言うまでもなく事実でしょう。

 

大人になってそれぞれの道を進む中、正に紆余曲折の真っ只中であるのぞみ達が、社会の喧騒に揉まれるうちに見失いそうになる「希望」を、かつてプリキュアだった頃に思いを馳せながら各々が活路を見出していく、というストーリー仕立てそのものはアニバーサリー作品らしいところではありますが、「大人になった後のドラマ」の本質的な部分とは「別々の道を進んだが故に、同じ悩みを仲間内に共有できない辛さ」の部分にあり、だからこそ、それぞれが自分なりに悩みと向き合い、選んだ答えを肯定的に見守っていく部分にこそ、感慨が生まれるものですが、殊、本作においてはそれぞれの夢・別々の葛藤を持つ者達が向けている未来への眼差しその全てが、まるで「SDGs」という巨大な思想装置に均質化・一本化されてしまうような、ある種の”虚しさ”を覚えてしまったと同時に、むしろそうした「思想パッケージによる個性の剥奪」こそが本作のメタ的なフィルムコンセプトとして読み解けるのではないか、と考えます。

 

こうした「SDGs要素」は、分かりやすい部分を例に取ると、教師となったのぞみが学校で「地球温暖化」についての授業を行う場面が発端となります。社会科などの授業でそうした問題を取り扱うのはごく自然な事であり、この段階ではまだSDGs要素があくまでも「要素」に留まっているに過ぎませんでした。しかしその後、ジュエリーデザイナーとして活躍する夏木りんが「フェアトレード」をスローガンに掲げた企画書を作る・建設計画によって、咲と舞にとって思い出のランドマークである筈の「大空の樹」が切られそうになる等、その要素は、もはや”要素”とは言い難いほど積極的に物語に介入し始め、無視できないものとしてフィルムに刻印され続けます。

 

勿論、そうした「社会派的なテーマ」を物語に組み込むこと自体はごく普通の事であり、それ自体が殊更変わった手法とは言えませんが、多くの作品において本当に伝えたいメッセージはむしろ台詞などの露骨な表現によって描かれる事を「避ける」か、あるいは純然とありのまま起こっている情景を描き出すなど、その”思想”に関わる部分は「隠される」のが主流なのだと思います。しかし本作においては環境問題・フェアトレードSNSでの誹謗中傷のありのままの姿がフィルムに映し出されるのだけでは飽き足りず、登場人物に思想を語らせる、という古典的で露骨な手法によって、むしろメッセージは「前景化」されているのです。

俗に言う「ラスボス」に当たる、街の時計塔を司る天使・ベルは「人間が自然を搾取し、制御する」という近代合理主義・人間中心主義に異を唱える典型的な性悪説理論の持ち主であり、正しく古今東西で語り尽くされてきたようなキャラクター造形です。つまり、「自分さえ良ければそれで良い」というミクロ単位の快楽に反比例して起こるマクロ環境の崩壊――合成の誤謬――に警鐘を鳴らす”ベル”としての装置を、担っているのです。

 

このようにメタ的に「メッセージを発する装置」と化しているのは、ベルだけではありません。のぞみ達もまた、街の人々のネガティブな思考の集合体であるシャドウ騒動と、人間中心主義社会の未来を悲観するベルとの戦いの中で、「未来」「希望」「夢」といった、聞き触りの良い言葉を表面的に”喋らされ”ながら、説得という名の「禅問答バトル」を繰り広げ”させられる”です。各々のキャラクターが抱えてきた葛藤の終着点として描出されるのは、紋切り型の性悪説を唱えるヴィランに対して、ただ定型文のようなポジティブなキーワードを投げかけるだけの、まるで生気を感じさせない「人形劇」に映ってしまいます。この時既に、敵味方問わず登場人物は物語を牽引する役割を剥奪され、フィルムはSDGsという巨大な思想装置の支配下に置かれているのです。

その極地とも言えるのが、ピンチに駆けつけたなぎさ・ほのかがそれぞれ地球の環境を守るべくアマゾンと北極をパトロールしている事が語られる瞬間です。原作においてその二人が環境活動に邁進していた描写は無かったと思いますが、フィルムがメッセージの支配下に置かれた現状ではSDGsが物語の主体と化して、対するプリキュアの方は非主体化し、その個性は無効化されている、という事が端的に伝わります。

 

何より注目すべきは、のぞみは”教師”――大文字の支配者――として優越的立場を行使し、生徒に「教科書を閉じさせて、自分の頭で考えさせる」振る舞いについてです。過去の集積であり、普遍の真理を記す書であるところの「教科書」から目を離させて、「今、現実で起こっている”答えのない問い”について、自分の頭で考えさせる」というのぞみのこうした要請は、教育現場における生徒への問いかけであると同時に、テレビを見る視聴者にも投げかけられた、二重化されたメッセージです。

 

これを図式化すると、SDGs→のぞみ→生徒(視聴者)」という形で、のぞみが問題提起を媒介するメディア的役割を担っている事が分かります。そしてこの矢印の向きの上流にあるものが、より大きな支配力を持っており、かつては黒い天使・ベルが担っていた「思想のメディウム」としての役割を、のぞみは引き継いでいるのです。

天使。それは天界に君臨する神の"声"を、下界の人間に伝達するメディウムです。時計塔を司るベルが”天使”と呼ばれるのも、上位存在であり認知できないメタ存在であるところの神――SDGsという思想装置――の”声”を、下界の人間に届ける役割である事を鑑みれば、理解できます。

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そして繰り返しになりますが、のぞみ達をはじめとするかつてのプリキュアは、その”天使”の役割をベルに代わって引き継いでいます。その象徴とも言える出来事こそが、「春日野うららが舞台で”天使”を演じる」というものです。作品の外(天界)にあるメッセージを、舞台演劇というメタフィクション空間(下界)の中にある「セリフ」に翻訳し伝達する構図は、正しく本作における「メッセージによる支配/被支配」のフィルムコンセプトともぴったりと符合していることが分かります。

 

「教科書を閉じて、自分の頭で考える」事を生徒に要請するのぞみ当の本人が、まっさらな状態から巨大装置の思想に染まり、ただ上位存在のメッセージを投げかけるだけの思考停止的なメディウムと化している本作の描き、そして誰もが同じように口を揃えてSDGs的問題提起を”言わされる”事態。「他者に共有できない大人の悩みと、その先にある各々の選択を肯定する」ような、もはや「各々が悩んだ末に選び取った未来を讃歌する物語」とは言い難い”凶行”をもって本作は閉じられているのです。本来であれば不可視である作品外メッセージが可視化され、フィルムを支配する作品という意味では稀有な視聴体験でした。

16bitセンセーション 8話感想 偶然が生み出す想像力のスペクタクル

マモルがタイムリープした1985年。ファーストカットで映し出され、その後何度もリフレインされる振り子時計と、同じく「等間隔に動きを刻む」水飲み鳥。これまでコノハが体験してきたようなタイムリープと比べても明らかに異質な空間として、それらのアイテムがフィルムを印象付けます。


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その舞台となるのは、マモルの父がアルコールソフトを設立する以前に、同じ場所にあったというエコーソフトです。障子と畳から成る和室には、無数のテレビが綺麗に積み重なっています。本棚・壁に貼られた絵・インサートされる絵画など、四角形のモチーフが病的なまでに反復されている事に気づくはずです。


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エコーソフトの代表であるエコー1は美少女ゲームのプログラミング・イラスト・サウンド諸々すべてを手掛け、1日に1本ペースで完成品を仕上げる異様なハイペースで日々ゲーム制作に邁進しているものの、自身の作る美少女ゲームには「エネルギーが備わっていない」とし、正確な計算の上で何をどう制作しても「面白いゲーム」にならない悩みを、マモルに漏らします。

 

マモルに〈想像力〉の有無を指摘されても、そもそも〈想像力〉の意味すら知らない様子のエコー1は、自身は”想像力と呼ばれるもの”が生来備わっていない、明らかに異質な存在として描かれています。3つあるドーナツのうち2つの味を知っていれば、残り1つの味は食べたことがなくても大体の”想像”がつくだろう、というマモルの問いに対しても、それはあくまでも経験に基づく「推論」に過ぎず、〈想像力〉とは似て非なるものだと言います。

 

〈想像力〉と「推論」。その2つには一体、どこに差があるのか。一見すると禅問答じみた、そして衒学的な思考実験さながらの様相を呈するこの問いですが、本作が限定された現実空間であるところの「秋葉原」を舞台にしながらも、現実のどこにも存在しないサイバースペースとしての「美少女ゲーム」という、現実と仮想の2つの空間軸をメタ視点から観測する作品である事を鑑みれば、極めて本質的な「意味空間に纏わる問い」と言えるのかも知れません。

 

例えば現実の場において「雨が降っている」という表現を目にしたとき、その一文によって”意味”が生まれるのと同時に、その出来事が「どこかの時間」「どこかの場所」で起こっている、というように、その一文が時間・空間の座標を成立させています。つまり、”文”による記号の実現によって、「意味の場=トポス」が、受け手の”想像”によって作り出される事になります。メッセージの受信者が現実を参照する「想像力」が、ここでは働いていると言えます。

 

他方、サイバースペースにおいては現実空間とは異なり、ルールによってサイバー空間を作り上げる以前には何も存在しません。例えば現実空間で「遊ぶ」とき、遊びを成立させる”ルールに先行する”現実の場所(砂遊びであれば、砂場。50m走であれば、グラウンド)が当然存在しますが、その存在自体がルールによって設計される事で成立するサイバースペースでは、「ルールそのものが空間」という自己言及的な性格を持っていることから、その性質は現実空間とは異にします。

 

現実においては、ある場所を調査するときに「経験」から参照したり、起こっている様々な事象から「帰納的」に結論を出すこと、あるいは場所に纏わる一般則から「演繹的」に事象を検討する方法は、しかし”実体”を持たない仮想空間=サイバースペースにおいては有効な手立てとは言い難く、専ら仮説に基づいた「推論」によってのみ、説明できるものといいます。

 

前提説明が長くなってしまいましたが、このようにルールに先立って参照できる空間を持たないサイバースペースにおける、専ら「推論」によってしか事象を捉えることができない、という仮想空間のサイトスペシフィックな性質は、「想像力を持たない代わりに、推論を行う」エコー達の姿勢にも重なるのです。冒頭で等間隔の物理運動を刻む振り子時計と水飲み鳥・テレビをはじめとする四角形のモチーフ群を引き合いに出しましたが、それらは反復性・均質性を帯びた、エコーソフトの無機質な性格を表す視覚的な装置です。

 

このようにエコー達は、一見するとこの時代にタイムリープしてきたマモルをメタ的に「観測する」高次の存在、即ち「ゲーム」を外側から眺める「プレイヤー」の立場に思えますが、ランダム性が一切廃された均質的・禁欲的な空間を活動拠点とし、上述したように想像力ではなく専ら「推論」によって現象の記述を試みる、という点においては、「観測者としてのプレイヤー=高次存在」と言うよりはむしろ、プログラミング言語という統一されたルールによって設計された「ゲーム=サイバースペース内の住人」にこそ、似た存在と言えるでしょう。

 

そうした均質空間=サイバースペース的空間における”ゲームチェンジャー”として、マモルが現実/仮想の境界が曖昧な物語に介入するのが、今回の挿話におけるフィルムコンセプトに他なりません。〈観測者としてのエコー/観測される側のマモル〉の二項対立の逆転現象は、マモルがこの「1985年」という”象徴ゲーム的空間”において「予想できない運命を司る存在」として描かれていることからも読み取れます。

具体的には、マモルはこの”空間”において「エコー2号の着る衣装の”可愛さ”を、100点満点で評価する」役割を担っています。つまり、ゲーム内のキャラクターがあずかり知らぬ「結果」を一方的に提示する権限を、マモルは有しているのです。

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”ゲーム”には常に「結果」という評価システムが組み込まれています。例えばコイントスで「コインを投げて、それが表か裏かを宣言する行為」は「遊ぶ主体」による活動ですが、「投げたコインが表と裏のどちらを示すか」については、あくまでも投げた者は関与できない「偶然」の要素です。ゲームではしばしば「乱数」と呼ばれるものです。このように、ゲームには一人遊び・複数人での遊びそのどちらにおいても〈遊ぶ主体〉だけで成立しているのではなく、それを評価する見えない存在、即ち〈大文字の他者〉が常に介在しています。1985年にタイムリープしてきたマモルは、まさしくエコー達にとっての大文字の他者として立ち表れていることが、「100点満点の評価システムの担い手」という役割からも理解できます。

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エコー2号の衣装を評価するシーンは後半でも反復されます。マモルに対し何かしらの感情を抱き始めた彼女は浮ついた表情と動きで、かつて好成績=90点を獲得できたあの衣装をもう一度身に纏います。しかし今度は無慈悲にも0点を突きつけられます。

ここで重要なのは「この衣装を着れば、必ず90点が取れる」という再現性・反復性が損なわれている、という部分です。ゲームの本質とは「偶然をコントロールし、必然的な結果を得る」部分にありますが、過去の経験則から必ず90点が取れるというエコー2号の「推論」は虚しく、マモルの気まぐれ即ち〈偶然〉の前にあてが外れてしまった、という事です。


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もうお分かりかと思いますが「偶然性を廃して、必然的に同じ結果を生み出す」ゲームのロジックは、エコー達の作るゲーム、もとい現実の捉え方にもそのまま当てはまる姿勢に他ならないのです。しかしそこにマモルというコントロールし難い運命の担い手=〈大文字の他者〉の次元が介入することで、必然性は損なわれ、偶然による”ドラマ”が生じるのです。エコー2号が0点を突きつけられた事を契機として〈想像力〉が発生するシーンにおいて、「何が出てくるのか分からない、ランダム性の象徴」であるガチャガチャが置かれているのも、相応の意図があるのでしょう。(その後も反復して映し出されます)

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偶然による”ドラマ”。スポーツやゲームをはじめとする「象徴ゲーム」おいて古今東西、見る者を熱狂させるのは、しばしば「勝利の女神が微笑んだ」と呼ばれるような、偶然と必然とのせめぎあいの果てに表れる、”運命”的な何かです。どれだけ技術を磨いても完全なる偶然のコントロールは不可能であるからこそ、そこに大きな”ドラマ”があるのです。そしてそれは”偶発的”なタイムリープを繰り返す本作の物語構造にも同様のことが言えます。

 

この作品は「タイムリープもの」という”反復”の物語でありながら、飛ぶことができる時代が手持ちの美少女ゲームの発売年に依存しており、同じ地点からのリセットが不可能であること・現代に戻るタイミングが完全にランダムであること・タイムリープによって未来に何がどう影響しているのかが登場人物視点でも不明瞭なまま描かれており、「偶然を後付けでコントロールして(俗に言う、”乱数調整”によって)望んだ未来を得る」というタイムリープ作品で王道の物語構造からは程遠い点で特異な作品と言えます。

 

ともすれば「神社を転々としながら、大吉が出るまでおみくじを引き続ける」ような”行きあたりばったり感”すらも抱きますが、本作は先行するタイムリープ作品のように「偶然を必然化する」動きをとるのではなく、むしろ「偶然を偶然として受容する」事にこそ、予測できないスペクタクルがあるのだと思います。そしてそれこそが、古今東西美少女ゲームのプレイヤーが経験する共苦のカタルシス――〈想像力〉の持つ”エネルギー”の賜物なのでしょう。

『星屑テレパス』1話における、言語コミュニケーションの限界

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これから始まる高校生活への期待と不安。鏡のフレームに吊るされた制服が取り除かれ、海果の姿がここで初めて映されます。しかしその姿は海果の”鏡像”であり、まるで「鏡の向こう側の存在」のように描かれたファーストカットです。

「私の言葉は誰にも届かない。この”地球”の誰にも届かない。」のセリフが示すように、周囲との隔絶から自身を「宇宙人」に見立てる、夢想家的なパーソナリティが際立っている海果ですが、「自分の言葉が伝わる、ここではないどこか」に思い焦がれる精神の一端として、このアバンにおいてはそのような「別の空間への転移」を表すようなカットが多用されています。


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例えば、下手側に居た海果が窓のフレームを越境し、上手に位置するシーン。

手を窓に当てる瞬間にカットが切り替わり、窓の鏡面に映る海果。その時、一筋の流れ星が落ちます。今いる空間から別の空間への移動、海果が抱くまだ見ぬ”宇宙人”への期待と、出会いの予感が込められた一連のシークエンスですが、その極地とも言えるのが”窓を開けて星空を見る”行為に他なりません。


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そこには、一見するとモノローグが多く内側の世界に閉じこもる内向的な性格でありながらも「外」への方向性を強く抱いているという、彼女の二面性が表れており、その後の浮ついた足の芝居、煽りショットによる広大な夜空を感じさる画も相まって、彼女の内に秘める世界と現実とがまるで符号していくような錯覚を覚えます。

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クラスでの自己紹介を終えて、言葉が思うように出ないもどかしさを実感しながら廊下を渡る海果が空を見上げるシーンも、アバンのリフレインとして描かれます。

今自分が居る場所に違和感を抱き、「外」へ踏み出したい気持ちが「空を横切る飛行機雲」によって代弁されています。これは言うまでもなく昨夜見た「流れ星」を代理表象しており、やはりここにも「越境による外界との接触という、この挿話に共通するテーマが描出されているのです。

思い返せば、「この星で言葉が通じないならば、言葉が通じる星を探せばいい」など、海果はむしろ外交的なパーソナリティを有しており、だからこそ過去のトラウマから外界と接触する手段が断たれているという葛藤に悩んでいる、と言えるでしょう。


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宇宙人であるというユウと初めて会話するシーンにおいても、「窓」のモチーフが再度リフレインされています。画面の対角線上に位置していた二人ですが、ユウの越境により両者は接近します。そこで肝要なのは、この二人を結ぶコネクターが「宇宙語」という、ある種の”共通言語”である点です。言葉による意思疎通を諦めていた海果が、宇宙語を介して外界への接触を達成しているのです。

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とりわけ、半ばギャグ的な描写ではあるものの、ここでは「発音」が強調されていることに気づきます。言語を学ぶ上で「音」を覚えるのが一番最初の登竜門ではありますが、「発話する」行為にこそ言語コミュニケーションの本質が表れているのかもしれません。声に出して伝える行為は、その後の展開にも繋がります。


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宇宙人・ユウの特殊能力「おでこぱしー」が披露された後のシーンでは、ダッチアングルによってユウが映された後、海果を真正面から捉える切り返しショットが対比的に描き出されます。自身が宇宙人であることと、その超常的な能力について、「みんなは信じてくれていない」というユウ。周囲からの懐疑的な目線を彼女に向けるかのような、不安定さを強調するショットです。しかしその事を微塵も疑う気のない海果だからこそ、真正面からユウに”向き合う”心理が、真正面からの切り返しショットによって補完されているのです。

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また、ここの一連のシークエンスでは「おでこぱしー」を契機としてイマジナリーラインを越えていることが分かります。両者を分断していた窓のフレームは消え去り、開放的な青空を背景に向き合う二人。

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二人の間に引かれていた窓のフレームは、一転して二人を囲うように描かれます。外にいるユウ・海果を「窓」による二重フレームによって、教室の内部から映すカットから映し出すのは、超常側の存在である両者を、”教室”という相容れない日常空間と対比させると同時に、理解されない者同士の不思議な絆を感じさせる画になっています。

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上で挙げた「懐疑心を裏付けるダッチアングル」と「真正面のカット」の対比は、海果とユウが宝探しのオリエンテーション開始時にも反復されています。ユウと仲を深めたい一心で「自己紹介」するタイミングを伺いながらも、なかなか踏み出せない海果。


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「自分のことを知ったらきっと、笑われるかもしれない」不安感と、「もしかしたらユウが宇宙人だというのも嘘かもしれない」懐疑心。それら負の感情を煽るようなダッチアングルで海果は映されます。対比的に描かれるのは、そんな海果と真剣に向き合おうとするユウの、真正面からの切り返しショット。海果がユウにそうしてくれたように、今度はユウが海果と対峙するということを、自分が宇宙人でテレパシー能力を持っていると打ち明けた際のシーンと同様でありながら、しかし人物を入れ替えたカメラワークを用いる事によって強調させています。


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そして遂に達成される海果自身の言葉による自己紹介。上で挙げたように、「向き合う」行為が切り返しショットよって描かれてきたのとは対照的に、ロングショット+俯瞰ショット→ナメ構図→横構図でユウのフレームインなど、両者を同一フレームに収めるショットによって、対峙する行為の切実さが伝わります。何より、二人が画角に収まることで「同じスペース=宇宙(!)を共有する」ようなレイアウトは、いつか宇宙に行くという二人の「同じ夢を語る」行為――物語的に転機とも言える瞬間を、これ以上ないほどに適切に描出しているのです。

上で軽く触れたように、この一連のシークエンスは言葉、ひいては「”発話”によるコミュニケーション」の極地とも言えるワンシーンでもありますが、言語を介在ぜず”テレパシー”によって達成される間接的・受動的な意思疎通とは対照的な、能動性を帯びたコミュニケーションツールとして、〈言葉〉が用いられているようにも見えます。

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しかし、言語による伝達のテーマはその後”反転”します。それは後のユウの隠れ家=灯台におけるワンシーンです。記憶喪失で自身の出自も目的も分からないまま地球へ漂着したユウが、これまでどれだけ大変な思いをしながらこの地球で過ごしてきたのか、それに気付かないでいた事、そしていつか「ユウが宇宙へ帰る」夢を一緒に叶えたい、という海果の思いを、敢えて言葉にはせず、「おでこぱしー」によって伝えるのです。その後、海果は「直接言えなくて(言葉にできなくて)ごめんなさい」と言います。つまり、先のシーンでは肯定的に描かれていた筈の「言葉(発話)によるコミュニケーション」が、この灯台のシーンにおいては明確に否定されているのです。

 

勿論、メタ的には「おでこぱしー」が本作を象徴するアイコンだからこそ、物語の最後はテレパシーによって締めるようにした、というのは不思議な話ではありません。

しかしそれ以上に、”テレパシー”の定義を問い直して異化させる役割を、このシーン、ひいては本作は担っているのでしょう。そもそもテレパシーとは、本作もその例に漏れないように「言葉を介在させずに成立するコミュニケーションの形態」であり、能動的な「発話」行為を必要としない意味では「間接性を帯びたコミュニケーション」と言えるのかもしれません。

 

その一方でテレパシーは、本来の言語コミュニケーションにおいて、思考を言葉にする過程で捨象される筈の「言葉未満の思考や感情」すらも余す事なく伝わってしまう、という点において、”直接性”を帯びたコミュニケーション形態でもあり、むしろその直接性こそをテレパシーの本質として本作は描いているのです。(余談ですが巷でよく言われている「脳内に”直接”語りかけてくる」というのも、テレパシーの直接性を表した言葉と言えます。)

 

だからこそ、海果がユウへ伝えたい思いは言葉による発話ではなく、専ら”テレパシー”によって伝達されなければならなかったのです。言葉にする過程で削ぎ落とされてしまう「言葉未満の思い」までも、その一切を取りこぼすことなくユウへ直接伝えたいからこその「おでこぱしー」なのです。それは「言葉にしてしまうと失われるニュアンスや、言葉にならない感情があるから、それも全部伝えたい」というこの上なく自己開示性を帯びている、そして直接的な、発話以上の「対話」に他なりません。

葬送のフリーレン『勇者』MVから見る「過去の虚構性」について

”まるで御伽の話”の歌い出しから始まるように、フリーレンにとっての10年間の旅路は、刹那の儚い物語にすぎなかったのかもしれません。


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それを裏付けるのが「影絵」による童話的なシークエンス群です。淡い色彩で描かれた情景が次第にモノトーン基調の映像へと転じるのは、他でもなくフリーレン自身が経験してきた旅の思い出が、経年と共に歴史という名の一つの”客観的な記録”へと変容してしまう、忘却のイメージが付与されています。

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次点のカット。無数の流れ星が軌道を描き降り注ぐ様子を、フリーレンは下手から上手側へと見上げます。過去(上手)への追想を思わせるカットですが、私自身とりわけ面白いと感じたのは「流れ星」の描かれ方です。それはまるで「シャッタースピードを極端に遅くして撮影した星」のような画になっているのです。

カメラに詳しい方はピンと来るかと思いますが、静止している星の軌道を撮影する際には、カメラがシャッターを切るスピードを遅くすることで、そのままでは「点」にすぎない星を、その間に動いた分だけの軌道を「線」として一枚の写真に映し出すことができます。

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参考画像:ソニー公式ホームページより

つまり、シャッタースピードを遅く撮影することは、「過ぎ去ってしまった時間を、まるで”一瞬”のように切り取る」という事になります。今その場で輝いている星を「点」として捉えるのではなく、経過した星の軌道を「線」としてフレームに収めるようなショットは、フリーレンにとっての「エルフと人の時間感覚の隔絶」とパラレルに描き出されているのです。

それは通時的に経過してしまった時間を、共時的な一瞬に収めるという事に他なりません。勿論、これは「流れ星」を「スロー撮影した星」に見立てた仮説に基づいた見解に過ぎませんが、時間を超越するフリーレンの特異性が1カットに凝縮された秀逸な画作りと言えるでしょう。


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静謐さ、寂寥感の溢れるそれらの映像とは対照的に挿入される「街で騒がしく躍動するモブ」と「夕焼けの中歩く親子」のカット群。まるで、勇者によって平和を取り戻した街と人々の安寧を祝福するような画ですが、それがかえって「勇者の不在」「平和による歴史の忘却」を煽るような、筆舌に尽くしがたい哀愁を生み出します。


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燃え上がる青い炎は恐らく、亡きヒンメルの魂を表しているのでしょう。この瞬間、スピード感のあるTUによって一気にフリーレンへと接近し、回り込む動的なカメラワーク。その後、カメラはフリーレンによる主観ショットへとシームレスに切り替わり、その後手を伸ばし見つめるフリーレンをクローズアップで捉えます。

上述した星を眺めるショットにも共通する「見つめる」という行為の切実さが、ここには表れています。存在とは、別の誰かが視覚を通じて「見る」ことで初めてその存在を認めることができます。ヒンメル亡き今、その存在をいつまでも「忘れない」という篤実な思いが、フリーレンの主観ショットとクローズアップによる「目」の強調によって描出されているのです。


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森の中。空から降り注ぐ日光を見上げるようなショットに次いで、地面に雨が降り注ぐ様子が映し出されます。日差しの温かみを感じる風景と、冷たいモノトーン気味で描写される映像。対照的な2つのショットの衝突が、フリーレンの心根にある平穏と悲哀という二律背反の感情の同居を表しているのかもしれません。

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その直後。ロングショット+バックショットによって、広大な風景を真っ直ぐに進むフリーレンを捉えます。「曇り空から微かに差し込む陽の光」は、直前の「森の太陽光」と「降り注ぐ雨」という、二律背反の映像がまるで融合されたように、ある種の”リフレイン”がなされている、と言えそうです。穏やかさと哀愁の両立。フリーレンの感情の機微が、まるで小説のような情景描写として描出されているのです。

 

赤い鳥について


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上述のシークエンスの直後、映像冒頭に現れた「赤い鳥」が再度リフレインされます。

影絵さながらのモノトーンの物語に、突如として介入する有彩色――赤い鳥――は、まるで静謐なフィルムに脈拍を刻印する「心臓」のように、映像に血を通わせる存在として、その後も幾度と繰り返し描かれます。


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遊泳するクラゲ・成長して傘を広げるキノコ・ミツバチ・鳥の雛・魚など、これまでの映像には登場しなかった「動植物」がそれぞれ1秒にも満たない短さで挿入されます。

大自然への畏怖というものは、森林や広大な平野、大空・大海原などのマクロな自然環境を目の当たりにした時よりもむしろ、そこに棲む動植物たちが躍動する、一挙一動の”生命の営為”をミクロに捉えた瞬間にこそ表れるものかもしれません。

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それらの微視的・動的なカット群の果てにもう一度映されるのは、あの赤い鳥です。

この事からも、小さいながらも確実に〈生〉を刻む動植物と、フィルムに有彩色を刻印する赤い鳥はパラレルに語られていると言えるでしょう。

他でもなく、エルフという異種族に芽生え始めた〈人間性〉の象徴として赤い鳥は表象されており、そうした心情の機微が「微細な生物による映像のダイナミズム」によって補完されているのです。

 

物語の語り手・当事者としてのフリーレン

冒頭で引用したように、「まるで御伽の話」と形容される旅の記憶は、ともすれば”虚構性”を帯びた儚い存在なのかも知れません。そしてこのMVもまた、思い出のフィクション性を喚起するような「影絵」の絵柄、そしてシネスコ演出――映画もまた一つの”虚構”です――を基調につくられていました。

フリーレンにとってヒンメル一行との旅の10年間は、どこか周囲の「青臭さ」に乗り切れないまま達観し、傍観する以外の術を知らないまま、一瞬のうちに経過してしまった「人生の1%」に過ぎませんでした。

それは青春時代の「当事者」に成り切れないまま、「誰かの物語」を傍で眺めているだけの受動的な態度であり、共に仲間と過ごした時間はフリーレンにとって、あくまで”物語外部”の「読者」視点で見る「創作物」のような、虚構性を帯びた何かだったのかも知れません。


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フリーレンの「目を閉じる」動作がクローズアップされます。しかしその行為は必ずしも「直視することを避けている」事を意味しません。むしろ、自分が旅の中で見てきたことを、未来永劫その記憶に刻み込むような誠実さすら感じます。それを裏付けるのが、次点でインサートされる「写真」的なショット群です。


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本作における異世界的な世界観においてカメラ・写真のような記録媒体は恐らく存在しませんが、これらのショットは、「10年間の物語の当事者」として、過去の記憶を永遠のものとして大事に胸の奥にしまう彼女の心情に寄せた描きです。

加えて、これらのショットが全てフリーレンによる”主観視点”であることが肝要で、あの10年間は、――旅をしていた当時こそ無自覚であったにせよ――紛れもなく「青春の当事者」として、自分自身がその〈物語〉の中に確かに存在していたのです。

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シネスコ演出で映し出された映像が、ヒンメルの手を取るその瞬間に画面上下の黒帯が取り除かれてフルスクリーン映像へと転換するのは、フリーレンが”傍観的な読者”としてではなく、むしろ”主観的な当事者”であった事を自覚し、10年間の旅という過去の〈物語〉内部へと介入する心的転換を裏付けているのです。

〈過去〉とは、「記憶によって再現される現実」として見る限りにおいては、限りなく〈虚構〉に近い存在です。しかし「自分は確かにそこに居た」という主観的な経験により、過去に〈実在性〉が与えられ、それは永遠のものとして人の心に刻まれるのです。ヒンメルが各地に銅像――人や出来事の存在の証――を建てたのも、過去の虚構性に自覚的であったから、なのかも知れません。

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ラストカット。空を真っ直ぐに飛ぶ赤い鳥が消失点に向かい、その姿はもう見えなくなります。一点透視図法によって描かれるロングショットとバックショットの構図は本編においても幾度とリフレインされていますが、人間の時間感覚を超越したフリーレンがこれから経験するであろう途方もない悠久の時間と、その先にある”まだ見ぬ未来”へのベクトルが、そこに表れているのです。

「自由」としての迷子 あるいは"コード"からの解放『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』10話 考察

冒頭。プラネタリウムを見る燈が、劇中アイドルユニット「sumimi」の初華と居合わせるシーン。その後、プラネタリウムの上映終了後に、屋外で夜空を見上げる二人。

振り返ってみれば、この時に燈と初華の両者を媒介していた「星」は、この挿話においてキーとなる要素だったのかもしれません。”星”を広大の宇宙の中で、それぞれが別個に存在する恒星として見れば、それはただ雑多に空に散らばっているにすぎないものですが、各々の天体を線で結んで見た時には、「星座」という新たな”形”がそこに顕現し始めます。

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前回の記事においては、記号論における「範列(構成要素)」と「連辞(要素の配列規則)」を援用しつつ考察しましたが、この10話冒頭においても同様です。

「範列となる構成要素(星)」と「構成要素を統率する規則(線)」によって、バラバラにある天体たちははじめて「星座」という”意味”を実現できるのです。

我々が普通、夜空に無数に存在する星から「星座」を発見するためには、「無尽蔵に存在する他の星」と「星座を構成する星」とを”弁別”するプロセスを経る必要があります。これを記号論では「分節化」と呼びます。分類の「コード」に基づいて事物を認知する、という事です。

ここで重要なのは、人類が星座を分類する為の「コード」を持ち合わせていなかった頃は、星座というものは存在していなかった、と言うことができる点です。このように、言葉や規則に基づいた「分節」によって、対象は初めて存在する事ができるのです。

詩って伝わる気がするよね。言葉以上に、気持ちが。

初華との対話において「星」の次に引き合いに出される話題は「詩」についてです。

上で引用した台詞から察することができるように、「詩」と「言葉」はそれぞれ別々のものとして”弁別”されています。同時に「詩」は、メロディー・リズムなどが刻印された表現形態である「曲」になる以前、即ち「分節化される前の”散文”」でもあります。

そして分節される以前の、まだ「曲」としては存在していない「詩」こそが、迷える者達を導く一つの”燈火”となり、「詩」が次第に「曲」に変化していくライブにおいて、一度バラバラになった愛音・そよ・立希が再び”星座”の如く繋がりを再生する。

燈という媒介項=コードを通じた分節化のプロセスにおいて「一番近くにあったにも関わらず気づかずにいた”居場所”を再発見する」。一義的には、そういう回だったのかもしれません。

 

しかしながら、私はこの回のテーマを「居場所の再発見」とする解釈から、もっと一歩踏み込む余地があると考えます。何故なら、元々この作品は「迷子でも進む」「迷うことに迷わない」というキャッチコピーからも察せられるように、どこに進むべきかという”方向性”や、自分のアイデンティティを画定する”居場所”が「無い」という事そのものを肯定するテーマが内包されており、本当の意味で5人が一つになるターニングポイントとして描かれたこの10話こそ、再発見という「有」のテーマよりもむしろ、失われた「」の要素に着目したいと思います。

 

「コード化された世界」からの脱却

誰も居なくなっても尚、歩みを止めずにRiNGでライブ=「詩」の朗読を続ける燈は、愛音にギターを引いてほしいと懇願し、逃げる彼女を屋上まで追いかけた後のシーン。

「一緒に迷子になろう」と進言する燈の熱量に押し負けるタイミングでチャイムが鳴り響き、「燈ちゃんのせいだよ」と愛音は根負けした様子で吐露する。ここで注目したいのは、「チャイム」という時刻を知らせる装置の象徴性についてです。

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チャイムとは、等間隔に「音」を鳴らすことによって時間を区切り、学校・会社などの始業・終業を知らせるためのものです。即ち、そのままでは存在し得ない「時間」という概念を、インターバルごとに繰り返し鳴らされる「音」によって分節化し、生徒を学校の時間割通りに行動するように画定する「社会的なコード」としての役割を、チャイムは担っているのです。

 

チャイムが鳴った今、燈と愛音はその時点で恐らく授業に遅刻してしまったのでしょう。校則という”コード”を破り、燈との「共犯関係」が成立した瞬間です。

燈の言う「一緒に迷子になる」とは、「コード化された世界」の中で居場所を失った者達を、個々人の行動やアイデンティティを画定する社会的コードから解放し、”自由”になろう、というコノテーションがそこにはあります。

このように、私はこの10話を「迷える者たちが燈という共通項を経由して、失われた居場所を見つける物語」というよりはむしろ、「各々が社会のコードから敢えて”目を逸らす”ことで、自由になる=迷子である事を肯定する」回である、という立場を取りたいと思います。

 

「人間」である愛音・そよと、「非人間」としての燈

「見栄で始めたくせに」

上で触れた屋上のシーンにおいて、燈は愛音がバンドを始めた理由が「ただの見栄」であることに気付いていなかった様子だった一方で、そよと愛音がテーブルを挟んでマンツーマンで対話するシーンでは、愛音が見栄でバンドを始めた事がそよには看破されている事が判明します。

一番近くにいたはずの燈には、愛音の下心は伝わっていなかったのに、この回が訪れるまではお互いに表面的な応酬を交わすにすぎなかったそよには、愛音の企みがしっかり”伝わってしまって”いるのです。

 

どういうことでしょうか?

 

親に勧められるがまま月ノ森学園に入学・クラスメイトに誘われて吹奏楽に入部し、他者から与えられた役割を演じようとするそよ。他方、クラスメイトや友達から良く思われたいがためにイギリスへの弾丸留学やバンドを始めた愛音。

両者に共通しているのは、方向性は違えどお互いに「周囲から求められる自分でありたい」、あるいは「自分の立ち位置を確立したい」という「社会的なコード」に即して生きている、という部分です。

つまり、社会の中で同じ”記号体系”を共有している者同士であれば、心の内を明かさずとも、両者のコミュニケーションは難なく”成立してしまう”という事に他なりません。

 

他方、自分自身を「人間未満」であると卑下し、世間と自己との形容し難い「ズレ」に思い悩んでいた燈は、しきりに「人間になりたい」と心の内で叫び、それが詩となって表出するポエマー気質の人物として終始描かれます。それは「社交的で誰とでも仲良くなれる普通の人」という社会で求められる”コード”が、自分の中には共有されていない事から生じる悩みです。つまり、愛音と燈との間では同じコードが共有されておらず、だからこそ両者は一番近くに居るにも関わらず、コミュニケーションは成立し難いのです。

社会における「コード」の体系が、否応なくコミュニケーションを成立させてしまう一方、コードを持たない者に対してはコミュニケーションの機会を奪う方向に働いてしまう暴力性と冷酷さが、そこには表れているのです。

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そよさんも人間なんだなって

裏表すごいし、ウソつきまくりだし、意地悪いとことかあるでしょ?

 

ここで「人間」というワードが出てきます。しかしこの”人間”は、”人間未満”である燈が「そうなりたい」と羨望して止まない”人間”とは、意味が全く異なっています。

燈の定義する「人間」とは、社会から求められるコードに従って、社交的に振る舞う、いわゆる「普通の人たち」の事を指しています。

一方でそよと愛音をカテゴリ化する「人間」とはむしろその逆であり、社会的なコードの裏にある、「嘘と打算に満ちたエゴイスト」の方を指しており、燈の想像する「人間」とは表裏の関係にあると言えるのです。

 

愛音とそよは、むしろ表面的な”コード”を剥ぎ取ったからこそ「人間」らしく振る舞えるようになりました。その二人を引き合わせ、ステージの上に立たせた人物が、”人間に成り損なった”燈と、”動物”的本能のままに生きるギタリストの楽奈、即ち「”人間”というコードから外れた2人」であった事は示唆的です。

 

ゲームチェンジャーとしての燈

燈の性格は「繊細で、内に独特な世界観を秘めるミステリアスなキャラクター」でありながらも、冒頭で描かれたような「屋上で授業をサボる上に、愛音をサボりの共犯者に仕立て上げる」だけでなく、6話において不在の立希を追って他校へ勝手に侵入するなど、ところどころで”アウトロー”な行動が目立ちます。

行動はむしろ大胆でありながらも、そこに世間との「ズレ」を感じて、言い知れぬしんどさを感じてしまう繊細さのミスマッチが、彼女の「生きづらさ」の正体なのでしょう。

しかしながら、平素における「”模範的な人間”らしく振る舞えない」という燈の人間的な欠陥は、音楽においては「ステージを制圧する主導権」に反転します。

思い返せば、3話(CRYCHIC時代)と7話において『春日影』が披露された時、メンバー・観客問わず明らかに燈がバンドの中心的存在として描かれていました。

また7話においては声がうまく出ずに本領を発揮できなかった『碧天伴走』では観客がそう多くなかった一方、祥子バフがかかって覚醒した後に披露した『春日影』は、燈の歌声によってライブハウスは満たされていることからも、他のバンドメンバーとは明確に異なる「カリスマ性」を有した存在として描かれています。


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そんな燈のポテンシャルが存分に発揮されたのが、この10話でした。

上で”アウトロー”な燈のパーソナリティに触れましたが、メンバーが散り散りになった後でも、ライブハウスでたった一人ポエムの朗読を行うなど、周りに誰がいても居なくてもお構いなしに独走し、一人でライブハウスを制圧してみせます。

それが切っ掛けに、一度は離れてしまった楽奈・立希を再びステージに引き寄せる事となりました。コード化された世界においては「人間未満」として肩身狭く生きるしかない燈は、ステージの上ではスタンドプレーによって場を掌握し、全ての流れを変える「ゲームチェンジャー」へと転じるのです。

 

コードからの解放、あるいは”自由”としての「迷子」

もう一つ、今回披露された『詩超絆』は、曲の大部分が「語り」によって構成される、所謂ポエトリーリーディングであることが、テーマ的に大きな意味を占めています。通常、「曲」とは歌詞だけでなく楽譜やコード進行といった「設計図」に基づいて作られ、基本的にはそれらに則って演奏されるものです。どんな楽曲でも、最初から事細かく筋道が規定されていて、予めゴールが決まっている筈です。

しかし、燈は「曲」になる前の「詩」によって「語る」ことを選びます。

つまり、音楽を規定するコードとは無関係に「自由な語り」をここで行うことで、コード化された社会の中で居場所を失った者達=迷子の愛音・そよ・立希をコードから解き放ち、迷子であることそのものを肯定する表現形態として、ポエトリーリーディングが採択されいるのです。

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そしてもう一つ重要なのが、『詩超絆』の劇中における「即興性」についてです。

”練習には良い”し、劇中で2回演奏された『春日影』や、愛音が”練習では弾けてた”という『碧天伴走』とは異なり、『詩超絆』を練習本番含めて全員でセッションをするのは、あのステージが初めてであると判断できます。即ち、燈以外のメンバーは「その場で曲を合わせて」あの曲を演奏していました。譜面通りに音を弾くのではなく、即興で「”作曲”しながら”演奏”する」という事。

「道があるから歩くのではなく、歩いた痕跡が結果的に道になる」という有名な言葉がありますが、予め決められたゴールや居場所が存在せず、「迷子になりながらも歩み続ける」というテーマが、「音楽の即興性」によって語られているのです。

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「コード化された世界からの解放」というテーマでこの10話を読み解いてきましたが、この境地とも言えるのが「観客に背を向けて歌う」一連のシークエンスです。

観客席が「コードによって規定された世界」であるとすれば、ステージは「世界のコードから解放された空間」と言えます。燈が観客に背を向けて、ステージにいる仲間達の方を向いて歌うということは、即ち”コード化世界”から目を逸すことで、コードの存在しない「迷子でありながらも、自由な空間」を創出しているのです。そこは、冒頭とは異なり「人間」と「非人間」を弁別し、コミュニケーションを妨げる無慈悲なコードはもはや存在せず、真の意味で「対話」が成立する、「何もない空間」です。

 

観客側にいる(未だコードに囚われる)そよをステージへ引っ張る燈。「バンドを終わらせに来た」筈のそよは、もはや演奏を与儀なくされます。不本意な演奏は『春日影』に次いで2回目でありながら、次第に涙を浮かべるそよ。コード化社会の中で「迷子」である事に無自覚であったそよは、ここで初めて解放され、感情が決壊します。

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「居場所が無い」事は、裏を返せば自分を縛るコミュニティがやコードが存在しないという事でもあり、それを反転すれば「自由」になり、それがかえって居場所以上の空間へと転化する、という逆説が描かれたのが今回でした。

これは「ルビンの壺」と呼ばれる有名なトリックアートの類です。今更説明するまでもないかと思いますが、壺の背景が向き合った人の顔になっているというものです。

心理学的には「図(絵として知覚する部分)」と「地(背景として知覚する部分)」が入れ替わって見えるため、「図地反転図形」と呼ばれます。

つまり、「絵が描かれていない方こそが絵である」という逆説がそこには内包されています。

何も無い所こそが、居場所以上の空間へと転じる『MyGO』10話の逆説的なテーマは、何となくそれに近いのかな、という印象を抱きました。

”接近”と”すれ違い” あるいは範列の置換可能性について 『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』 9話 考察

解散したかつてのバンドであり、「運命共同体」という精神的支柱でもあったCRYCHICへの未練が拭い切れぬ長崎そよ。CRYCHICの復活に向けて暗躍していた彼女の目論見も虚しく、元バンドメンバーにしてCRYCHICの創始者・豊川祥子から一方的な最後通告を叩きつけられ、もはや自分の居場所を失う。

ある意味では、誰よりも目標を明確に歩んできたとも言えるそよが初めて”迷子”になる様子が描かれたのが8話でした。

 

この9話は、サブタイトル「解散」が明示するように、精神的支柱を失って自暴自棄になりバンド活動から撤退するそよを起点として、愛音・立希・燈、各々のキャラクターが”迷子”になる回と言えるでしょう。

 

意味空間としての「家族」の崩壊

祥子は「バンドは運命共同体」をスローガンに掲げて、かつてCRYCHICを結成しました。そよにとっての主たる共同体とは、「バンド」は勿論のこと「家族」そして「吹奏楽部(月ノ森学園そのもの、とも換言できるかもしれません。)」も含まれます。

彼女を取り巻く”共同体”のうち、今回描かれたそよの一家、即ち「家族」について。

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そよの旧姓が「一ノ瀬」である事が判明し、今はシングルマザーの元で暮らしている家族事情が明かされます。女手一つでそよを名門校に通わせ、吹奏楽部のみならず学外のバンド活動にまで専念できる場を提供する愛情深さが垣間見えますが、同時にそれは、そよにとっての2つの共同体(学校生活・バンド)を守るために、「家庭」を犠牲にせざるを得ない事を意味します。

実際に、家族構成としては「母・娘」であっても、多忙な母は常に家のことをカバーできる訳ではなく、料理をはじめとする家事――役割としての母――は娘であるそよが実質的に担っている、という状況です。

家族というコミュニティは、最低限「母・娘」でも成り立ちます。これは英語において”I walk"など、SVだけで文章が成立する第1文型と同じ理屈です。

このように、物事を成立させる構成要素の配列規則のことを記号論では「連辞(サンタグム)」と言います。上で英語におけるSVOCなどの「文型」を例に挙げましたが、いわゆる「文法」に近い概念です。料理なら「主菜・副菜・前菜」の規則に近いイメージです。

この長崎家においては、母親として十分に役割を全うできずにいる母に代わって、そよが母親に成り代わる事で、辛うじて連辞の法則が保たれていると言えます。逆に言えば、そうしなければ家族という共同体は保たれないという極めて脆弱な状態で成立しているに過ぎません。

それを裏付けるのが、忙しい母を横目に一人部屋に取り残されるそよのカット。

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窓から差し込む光が3等分のスペースを照らし出し、分割された空間がそれぞれ「父・母・娘」を示す家族という共同体を表す痕跡、即ち「指標記号」として機能していますが、その空間に立つのは今や、そよ一人しか存在しません。「母・娘」という最小単位で成立していた家族の意味空間は、もはや連辞規則が保たれず、実質的には既にその機能を停止している、とすら言えるかもしれません。

 

バンドにおける範列(パラディグム)の置換可能性

上で「家族」を例に連辞(サンタグム)――物事を成立させる構成要素の配置規則について触れましたが、連辞の規則に基づいて配置・置換される構成要素そのもののことを記号論では「範列(パラディグム)」と言います。

”I walk"は第1文型(SV型)という連辞に基づいて成立している文ですが、このSVにあたる箇所はそれぞれ”He”, "runs"に置換可能です。この置換可能な構成要素(この例なら「単語」)こそが範列に他なりません。

 

バンドにおいては「ボーカル・ギター・ベース・ドラム」という”連辞”に則って、「それぞれの楽器を担当する者」が”範列”として配置されます。今回、『MyGO』において問題となっているのは、範列の置換可能性についてです。即ち、形式としての「バンド」の成立が、必ずしも意味空間の成立にはならない(本作の言葉を借りるなら「迷子になる」)、という部分です。

CRYCHICにおいて、いちキーボード担当の祥子の脱退が、そのままCRYCHICの解散という意味空間の喪失に繋がったように、単なる「構成要素の一つ」では説明ができない「置換の不可能性」が、本作では示されているのです。

 

それは今回の挿話において、ライブでの「春日影騒動」の後、バンド活動に顔を出さなくなったそよの代わりとして、立希が同じクラスの海鈴をベースとして迎え入れようとして失敗している事からも読み取れます。立希は「ベースなしではバンドはできない」と言いましたが、これはあくまでも”バンド”という「記号の実現」のためには連辞の成立が不可欠であり、その構成要素となる範列は問わない、という姿勢です。換言すれば、立希にとってそよは置換可能なバンドの構成要素に過ぎない、という事です。

一方で燈にとってのそよは置換不可能な存在だったからこそ、この海鈴とのセッションにおいては歌を歌うことができず、「意味空間」は成立しませんでした。

「一生バンドをやる」という燈の言葉が意味する事は、単に連辞の規則に基づいて範列を配置し、「バンド=記号が実現している状態」を保ちたい、という事では決してないのです。ここにこそ、「意味空間を守りたい燈」と、「記号の実現に固執する立希」のすれ違いが描き出されているのです。

 

「接近」と「すれ違い」のニアミス

両者のすれ違いは、歩道橋におけるワンシーンにおいて饒舌に描き出されています。

「歩道橋」は対岸への越境を表すモチーフとして、本作において幾度もリフレインされた舞台装置です。立希を置き去りに対岸(光で照らされる場所)へ向かって歩く燈。


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時点のカットではフレームから燈は消え去り、影に取り残される立希。すぐ下の道路の白線によってフレームは更に「分断」されることで、両者の断絶は極地を迎えます。

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燈を追いかけて、辛うじて対岸へたどり着く立希。しかし燈は既に階段の下に降りており、それぞれの立ち位置はこの時点で階段の上と下。即ちに”対角線上”にいる燈と立希の距離感は、歩道橋の延長線上にいた直前のカットよりも、かえって増長されているようにすら映ります。「心配しなくていいから」と発する立希の言葉は、これ以上ないほどに空虚に響き渡ります。

 

このような「接近」と「すれ違い」のニアミスはこの挿話において幾度とリフレインされています。

踏切でのワンシーンも同様です。対岸で歩くそよを発見する燈。愛音の声を無視し、電車へ入るそよ。燈はすかさず踏切を越境し、そよ追いかけるも虚しく、あともう少しのところでそよを乗せた電車は無慈悲にも発進し、燈を置き去りにしてしまいます。


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対岸を結ぶ「踏切」は、歩道橋と同じく越境による”接近”のクリシェとして描き出されています。しかし同時に、対岸のホームでそれぞれ別方向に”平行線上”を走る「電車」は、その越境を無効化し、嘲笑するように「すれ違い」を前景化させる無慈悲な装置として映し出されているのです。

 

上で「連辞」と「範列」について触れましたが、越境行為によって辛うじて連辞関係(ここでは、バンド)が保たれつつあったものが、範列となる構成要素(ここでは、そよ)が喪失または他の誰かに置換されてしまう事で、意味空間が喪失してしまう、脆弱な連合関係が、ここでは「踏切」と「電車」というモチーフから読み取ることができるかもしれません。そよを乗せた電車が過ぎ去った後のホームは空っぽの空間と化すか、別の電車がやってくるのを待つか、その2択を否応なしに迫られるのです。

 

「今のバンドはCRYCHIC復活のための前身に過ぎなかった」こと、「愛音をCRYCHIC復活のための人身御供として利用していた」というそよが用意した結末を、視聴者視点では明らかなものとして描いていながら劇中人物には伏せておく、所謂「劇的アイロニー」を採択している本作ですが、そよと立希の対話シーンにおいて、遂にその「種明かし」が成されます。

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階段の上と下・対角線上に立つそよと立希。ここでもやはり、歩道橋における燈と立希のカットと同様に、両者の距離感を示す装置として「階段」が映し出されています。

新しいバンドなんて最初からやる気がなく、燈との約束もCRYCHICを再現するための「嘘」にすぎないと一蹴するそよと、燈との「誓い」を守りたい立希の”すれ違い”が前景化するシーンですが、ここで両者を”接近”させる唯一の共通項は、皮肉にも「自分のエゴを満たすためだけに居場所を守ろうとしている」という部分です。

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愛音を「元CRYCHICメンバーとの置換を前提とした範列(構成要素)」に過ぎないと見ていたそよを批難する立希もまた、「一生バンドやる」という燈との”誓い”を守るために、「そよを海鈴に置換しようとしていた」こと、即ち「燈さえ居れば、他は置換可能」とする点では、そよと同質の存在に他ならないのです。

 

このように「連辞に則ってさえいれば、範列は他のもので代替が可能なのか」という本質的な問いを表したものが、愛音の台詞「私、いらないんでしょ?」に他なりません。

範列の置換と喪失によって意味空間を失った=”迷子”になった彼女たちによって、今はまだ名前のない、単に”記号の実現”に過ぎない新しいバンドが「MyGO!!!!!」という”意味空間”として描かれるまでの、記号論的なテーマに着目したいです。