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『異世界誕生2006』感想 「アンチテーゼ」に留まらない"ドラマ"に泣く

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数ヶ月前にツイッターで、その惹き込まれるあらすじが話題になっていた『異世界誕生2006』。この正月休みの楽しみにとっておいた作品を読み終えての感想を残しておきたい。

 

2006年、春。小学六年の嶋田チカは、昨年トラックにはねられて死んだ兄・タカシの分まで夕飯を用意する母のフミエにうんざりしていた。たいていのことは我慢できたチカだが、最近始まった母の趣味には心底困っている。
フミエはPCをたどたどしく操作し、タカシの遺したプロットを元に小説を書いていた。タカシが異世界に転生し、現世での知識を武器に魔王に立ち向かうファンタジー小説だ。
執筆をやめさせたいチカは、兄をはねた元運転手の片山に相談する。しかし片山はフミエの小説に魅了され、チカにある提案をする――。

どことなく空虚な時代、しかし、熱い時代。混沌極めるネットの海に、愛が、罪が、想いが寄り集まって、“異世界”が産声を上げる。 

 

まず特記すべきは、所謂「異世界転生系ラノベ」ではなく、あくまで”創作における一要素”としてメタ的に「異世界」を扱うことである。私は普段ラノベを読まず、ラノベを原作としたアニメでも少しかいつまむ程度なのだけども、異世界転生」というジャンルが「最近のラノベ異世界転生ばかり」と言われる程には”最近のラノベ”の代名詞となりつつある印象を抱いている。

 

実際、私もそうした作品群について多少なりとも「(読んでみればまた違うのだろうけど)どこか似たり寄ったり」という第一印象はあり、供給過多なのではないかと思うところはある。当初、そんな供給過多とも取れる「異世界転生」というジャンルに対して「流行りものに一言申す」アンチテーゼとして書きはじめたのが『異世界誕生2006』だった(本書あとがきより)。

 

そして第二に、時代設定である。2006年という、丁度今から10年ちょっと前くらいのインターネットのアンダーグラウンド感が仄かに漂う時代であり、実際に”その時代のインターネット”を生きてきた者にはどこか懐かしさを覚える。リアルでは、その前年に2ちゃんねるで実際に起こった奇跡的なエピソードをモチーフにした『電車男』のドラマが放映される等、まだまだインターネット掲示板の熱が残る時期だったはずだ。

 

そうした「創作ジャンルとしての異世界」を「インターネット」というツールを用いてパッケージしたのが本作の最大の見所と言えよう。

 

※以下、本作のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

存在しない人物こそが、物語を動かす「不在の中心」について

 

作劇において「不在の中心」という概念がある。簡単に言えば「物語上、存在しない者が物語の主導権を握ってしまう」事である。この手の作品で言えば朝井リョウ『桐島、部活辞めるってよ』が有名であろう。

 

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話が逸れるが少し前に「推しのキャラクターが死ぬと悲しいか否か」がツイッター上で話題になっていた。私個人としては、「キャラ派・作劇派」で言うところの「作劇派」だと思っていて、「キャラクターの死は物語を動かすギミックであって欲しくて、死そのものをオチに持ってきて欲しくない」という持論がありまして・・・。

 

「親しい者の死」を受けて、他のキャラクターが、物語がどう”変わっていく”のか、私はそれを見たいんですよね。「キャラクターの退場、あるいは不在」が他に与える大きな余波・「死人に口無し」の影響をモロに受ける故に起こる大きな誤解等、物語において「死」がもたらすギミックの影響力は本当に大きいと思っていて、そうした「死」が計算されて物語に組み込まれている作品を見ると、キャラクターが死んでいるにも関わらずガッツポーズをしたくなりますね。

 

 閑話休題本作品においては言うまでもなくタカシがその「不在の中心」を担っている。序盤、読み手に与えられるタカシの情報は「トラックに轢かれて死んだ」「県内21位の学力の持ち主」「小説のプロットを遺していた」程度のものであり、彼の人格に関わる部分だったり、生前の言動等はほとんど描かれないといっても差し支えはない程。

つまり、読み手に提示されるタカシにまつわる情報はごく限られているのだ。読み進めていくうちにタカシの情報が小出しされていくにつれ、「生きていた頃のタカシ」を、読み手側が補完しながら読み進めていく事になる。

そうして母・フミエの小説が書き進められていく中で、「タカシ」の情報がどんどん付加されていく訳だけども、それはフミエにとっての「理想の息子像」であった事が後々に判明していく訳で・・・。

 

実はタカシがトラックに轢かれたのは「事故」ではなく「自殺」だった事、そして他でもない、その自殺の引き金となったのは母・フミエの言葉だったと判明する。生前のタカシとフミエの関係性は決して”良かった”訳じゃなかった。名門校に入れようとタカシを毎日勉強させ、一切の娯楽も与えず、彼が受験に失敗したあたりから愛情を既に失っていた事、そして生前彼が書いていた異世界転生小説のプロットすらも、内心嘲笑っていたどころか「あなたも死んで異世界に行ってしまえばいいのに」と思っていた事。それらのどす黒い感情がタカシに伝わってしまい、結果的に彼を追い詰めて自殺に追いやってしまったという事実。

 

そうした「存在しない人物」を小説ならではの技法・叙述トリックのギミックとして巧みに用いており、思わず感嘆の声を漏らす。「存在しない」故に、当事者に対する行動も、思い出も、全てフミエというフィルター越しに捏造されていた事が読者に明かされるのだ。そして、何よりもその”ミスリード”こそが作品の一要素・ひいてはテーマである「異世界」ともリンクしているのが本作の妙である。

 

 

異世界」の再定義と、「現実に帰れ」のメッセージ

 

本作における最大の特徴はキーワードである「異世界」に、言葉遊びさながら様々な意味を与えている事にある。タカシは死んだのではなくて「異世界に行った」と思い込むこともそうだが、小説が炎上沙汰になったインターネットという場はフミエにとって「自分とタカシ以外の全てが敵の異世界」であったし、そんな状況が余計に「自分はタカシと二人きりで異世界に居る」という歪な充足感を加速させていた。

 

「信じたいものを信じるといい。視点によって見えるものは全て違う。・・・異世界、というんだったか?人間というのは同じ場所にいるように見えて、本当は皆、それぞれの異世界で生きている。まったく別の真実を見ているんだ」

伊藤ヒロ異世界誕生2006』(講談社ラノベ文庫)第十五話「母フミエと、罪の告白」

 

 これはチカの父から、「タカシが自殺した原因の一つは自分が厳しく接していたからで、フミエがその罪を一人で背負い込もうとしているだけだった」事実が述べられるシーン。それを聞いたチカはフミエのこれまで言ってきた事との矛盾に戸惑い、何を信じれば良いのか分からなくなった時に父が発した台詞だ。

つまり、ここで上で述べた「タカシを死に追いやったフミエの罪」すらも事実ではななかった事が判明するのだが、フミエにとっては「全部自分のせい」と思い込むことそのものが「救い」であり、また彼女にとって「居心地の良い異世界」でもあったわけです。

 

また、自殺であることが判明した以上、タカシを殺した張本人・片山に罪は無いはずだが、彼もまたフミエと同じで「自分が不注意だった」と罪を一人で背負い、真実から目を逸らして「殺人犯」の役を演じることが、ある意味で彼にとっての「異世界」として描かれている。そんな「都合の良いフィルター越しの異世界」を生きてきたのは、本作の"語り手"であるチカも例外では無い。今でこそ死んだ兄を心底軽蔑していたチカですら、「オタク」という言葉を意識し始める前まではタカシとの仲が良かったのだ。

 

そしてそこから「現実に帰る」というテーマが提示される。小説をやめさせたかったチカは、そんな”異世界”に居る母を、小説を完結させることで”現実に帰ってこれる”ように応援する。物語とは往々にして「行って帰ってくる物語」と呼ばれるが、現実に戻るために冒険する異世界転生のプロット」と、「作家としての創作活動」を符合させていく。これがもう見事な流れなんですよね。

 

総括『異世界誕生2006』は如何にして「異世界転生のアンチテーゼ」を離れたか

 

終盤、フミエの小説は掲示板の荒らしコメントをきっかけに「パクリ疑惑」が浮上する。そしてひょんな事から、実はタカシが生前にネット上でも「HAWK.C」名義で小説のプロットを遺していたことが判明する。フミエの掲示板を荒らしていた、ごく少数のコテハンは、HAWK.C=タカシのごく少数のファンだったのだ。それを知ったフミエは「タカシが本当は何もできない息子どころか、ネット上で何かしら生きた証を遺していて、ささやかながら評価もされていた」事を理解する。フミエの知らないところで、既にネットの中では「勇者」だった事、自分の息子を信じてやれなかった後悔、全ての真実を知ったフミエは亡きタカシではなく「自分を救う為に小説を書く」決心をする。

 

この、まさに「インターネットならではの舞台装置」が非常に巧く機能しているなと。本作では「自分にとって都合の良い解釈」を”異世界”と再定義してきた。相手の顔が見えないインターネットだからこそ、安直に人物像を思い描いてしまう。例えば、当初チカは掲示板に現れたファン・YOSIの正体を片山”ヨシ”タカだと予想していたし、粘着質だったコテハンが実は”敵”どころか、タカシの熱烈なファンだった事実もそうである。

 

そしてそこからのタカシである。現実で友達が居ないとされていたタカシも、ネット上では友達のような存在を有していた。「インターネット」は、むしろインターネットそのものが”異世界”というよりも、「視界のフィルター」を浮き彫りにしてしまう”舞台装置”だったのではないだろうか。

 

当初、この作品は「異世界転生ものへのアンチテーゼ」をコンセプトに書かれたものだった。しかし、最後まで読んでみると「死者との決別」「親と子」「創作するという行為の持つ意味」等、単純に「アンチテーゼ」の一言で表しきれないようなテーマ性を内包していたなと。

 

ところどころ、フミエの小説が劇中劇として挿入される。拙い文章も相まって、文字通り「クソ・オブ・ザ・クソ」としか言いようのない物語である。そんな劇中劇でも、最後まで読むと「フミエの苦悩と試行錯誤」の積み重ねが一気に爆発するような、不思議な充足感が得られるのである。特に「タカシとの決別」を描いたエピローグは本当にグッと来ますね…。

 

何より、「昨今流行っている異世界転生ものの多くは息子を事故で亡くした人が書いたものであり、フミエはその第一人者だった」という切り口の鮮やかさである。

普段何気なく自分たちが目にしている作品は、自分たちの知らない作者の「想い」があって作られてるのかもしれない。そう考えると『異世界誕生2006』は「創作の奥深さ」だったり、「作品に込められたメッセージ」について改めて考えるきっかけになる作品だったなと。