しげデウスの鑑賞日記

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語ります。 特に、映画・アニメ・特撮などジャンル広めに徒然なるままに…。

『荒乙』最終回における「色」の考察。あるいは「子供ではいられなくなる」事について。

2019年夏アニメも最終回を迎え、いよいよ秋アニメも始まる時期という事で、印象に残った作品の感想でも残しておこうかなと。とりわけ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(以下、『荒乙』)は、あの岡田麿里脚本という事も相まって、界隈での「熱」が大きかった印象です。

 

第一話から「幼馴染のアレを目撃してしまって以来、頭から”性”の一文字が離れなくなった女の子」という中々にぶっ飛んだ展開に目が離せない。文芸部のメンバーたちがある日「性」という強烈な一文字をきっかけに、登場人物の間の矢印がありとあらゆる方向に飛び交うようになって、運悪くそれが交通事故を起こしてしまう作風が『荒乙』のエッセンスなのだ。

そうした「アクセル全快」なスタートを切っていく中でも、最後にはしっかり「”性”というものが持つ意味」、ひいては「大人になる事の意味」という、ブレーキの利いたようなテーマを描いていたのが、何とも見事なバランス感である。『荒乙』の魅力は沢山あると思いつつも、今回は最終回における「色鬼」、ひいては”色”がなぜあんなにも重要なのかについてお話したいと思います。

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そもそも「色」とはどういう存在なのか、という話ですけどもこれは「心理物理的な存在」なんですよね。理科の授業でも習ったように、物体が光の多くを吸収し、その中の「吸収されなかった光」が反射して我々の眼に入ることで「色」を認識する「物理的」な面、目に入った光が「情報」として脳に伝達されるプロセスの中で「色に対するイメージ」や「感情への働きかけ」が発生する心理的」な面が総合された存在なんですよね。つまり、これはミロ先生が触れていたように「物理的に同じ色を見ていても、万人がそれを同じ色だと認識する訳ではない」という事だ。

「色鬼」とは無論「鬼の宣言した色と同じ色に触れている者は、鬼の狙いから逃れられる」ルールであるが、ある人の想像する「色」は果たしてそれ以外の者が認識する「色」と同じなのか、という「色の持つ心理的要素」を「自分だけにしか分からない気持ちを、誰かに探し当てて欲しい乙女ども」に当てはめたのは何とも見事で。これは相当「色」について詳しくないと描けませんね。

 

さらに、色鬼で宣言される色の「抽象性」もまた『荒乙』のテーマを描く上で効いていたなと。というのは、鬼によって宣言される「色」は「百々子の桃色」や「青春の青」だったり、もう本当にめちゃくちゃなんですよね。自分の気持ちなんて自分でも分からない、だからこうやって「色」という形を与えることで認識したいという思いが伝わると同時に、「もう彼女たちは子供ではいられない」事も表していて。

色には、その色を見たときに何を連想するかを表す「観念連合」と呼ばれる概念があって、例えば赤い色を見たときに「イチゴ」をイメージする等だ。このような「色を見て思い浮かぶ言葉」は、子供であればより具体的なモノを連想しやすく、大人になるにつれて抽象的な概念を連想するようになる傾向があるらしい。(「情熱」の赤や、黒を見て「死」を連想する等)

 

つまり彼女らの宣言する「百々子の桃色」「青春の青」は言うまでもなく抽象的な概念であり、彼女達はもう赤い色を見てイチゴを連想するほど子供ではなくなってしまった、という風にも捉える事が出来る訳で。さらに、そうした「色」のテーマが「色鬼」という”遊び”によって描かれるのがまた象徴的で面白い。

あれだけ抽象的な色を宣言すれば、もはや”遊び”として成立しない。しかし、これは裏を返せば「自分たちはもう、昔のように純粋な気持ちで”遊んで”はいられなくなった=大人になってしまった」というメッセージ性を含んでいる気がしなくもない。

 

同じく岡田麿里脚本で「色」をテーマにした作品と言えば『ブラック★ロックシューター』が挙げられる。序盤、出灰カガリがマトを追い出そうと、濁った色のマカロンを食べさせようとするシーンをはじめとし、マトの愛読する絵本「ことりとり いろいろのいろ」では、小鳥が世界を飛び回る中で、色々な”色”を体につけていくうちに、それらが混ざり合って真っ黒な姿になって地に落ちるという、これもかなり本編における「象徴的なアイテム」として効いてくる。

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以前にもブログで書いたが、『ブラック★ロックシューター』は「別の誰かが自分の悩みを勝手に解決してしまう」世界?のシステムそのものへの疑問を描いていると同時に、「傷つく事で、自分たちは大人になる」というメッセージを発している。それこそ思春期真っ只中の女の子たちには少々厳しくも感じられるような、大人の在り方・成り方について我々に投げかける作風に驚いた記憶がある。

 

そしてそこからの『荒乙』最終回である。自分たちにはそもそも「色」なんてものは最初から無かった、まさに『ブラック★ロックシューター』における「ことりとり」なのだ。乙女どもはみんなそれぞれの矢印が飛び交う中で、意図せずそれが連鎖的に「玉突き事故」を起こしていく訳だけども、それが『荒乙』における「大人になるプロセス」だったのかも知れない。

真っ白な紙に絵の具を塗れば、それはもうどうしたって「元の白」には戻らない。純白だった自分たちが「色」を認識すれば最後、もう「白」ではいられなくなるのだ。だからこそ、”それ”を恐れずに今度は「自分たちの色を見つけよう」とするオチは、「大人になることの畏怖」から「大人になることへの希望」への転換を表していて、何ともポジティブな着地だったなと。

 

 最後に、「色」が色欲・色気といった性的な意味を持つのは日本・中国等の漢字圏独特らしい。今回は以上です。