ロリポップ・アンド・バレット

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『ぼっち生活』における「リアリティラインの曖昧さ」について。あるいは「見方を変えてアニメを楽しむ」事について。

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ついに最終回を迎えた『ひとりぼっちの○○生活』(以下、『ぼっち生活』)、改めて振り返ると、「思い切った作品」だったなあと。人見知りの主人公が、ひょんな事から色々な出会いを経験して精神的に成長していく系の話は、なんだか昔の自分を見ているようで少し恥ずかしさがある反面、ある程度の「アニメ的な補正」でなんとかリアルすぎないギリギリのラインで保ってくれているような、絶妙な視聴体験である。『ぼっち生活』もその例に漏れず、第一話の段階では「面白いけど、共感性羞恥が喚起されてヤバい」という感想を抱いた。

 

アニメにおいて「リアルの情景がチラつくシーン」は、往々にして「見ていて辛い視聴体験」になりやすいと思っていて、一里ぼっちが自己紹介で「わ、わたたたた…」と噛んでしまい、ゲロってしまうシーンを私は素直に「楽しんで」見ることができなかったのが第一印象。友達が少ない、いわゆる「コミュ障」な人物が無理して大きな行動に出る情景って、私が学生時代の頃にも目にしてきたんですけど、自分が例え「当事者」じゃなかったとしても「その場から立ち去りたい」ような衝動に駆られるんですよ。

 

これは自分の性格の問題かもしれないけれど、そういう情景に出くわすと「うわぁもう見てられないよ…」と直感で思ってしまい、素直に「応援する」という心の余裕が無くなってしまうんです。どこかでその「無理して行動する人」に自分を重ねてしまったり、今見ている光景が「かつての自分」を想起させているのか、それとも「有り得たはずの自分」のような気がして、メタ認知的にその人のことを客観視できないのか、理由は定かではないけれど、本質的に自分は「コミュ障」だと認知しているからこそ、自分でないはずの「コミュ障」にどこか共感してしまうのかもしれない。

 

閑話休題。そんな『ぼっち生活』における「共感性羞恥」は回が進むにつれてなぜか薄まっていった印象。ぼっちの周りに砂尾なこをはじめとし、多くの友達ができて、不器用でどこか危なっかしいぼっちを「親の目で見守る」ようなキャラが増えてきたことが大きいだろう。振り返ってみれば「共感性羞恥」を感じた大きな理由として「失敗を優しく見守ってくれる者」が、第一話時点では誰も居なかったからこそ、あんなにも「うわぁ…」と、目を覆いたくなってしまっていたのだと思う。

 

今にして思えば、「一里ぼっち」というキャラの言動がこれほどまで「見ていて危なっかしい」と思えてしまうのは、ある種の「狙い」だったのかなと。ぼっちは人見知りではあっても、「感情を表には出さない」という訳ではない。上で「コミュ障」を引き合いには出したものの、少し「コミュ障」とは違った何かである。むしろぼっちは表情豊かだと思っていて、コロコロと表情を変えることで周りのキャラクターたちの注目を集める「赤ちゃん」的な立ち位置だったなと。

 

序盤では「見ていてヒヤヒヤする危なっかしい子」に終始していたのが、回を越すごとにどんどん持ち前の「豊かな表情と、突拍子も無い言動」で周りの人たちを振り回しつつ、仲を深めていく。そうして「ぼっちとその友達」の関係性が「危なっかしいけど可愛らしい子供と、それを見守る家族たち」へ進展していく頃には、自分もいつの間にか、「キャラたちと共に、ぼっちを見守る視聴体験」をしている事に気付かされるのだ。後半では完全に「コロコロ変化するぼっちの表情」を見るのが目的で視聴していましたね、えぇ。

 

 「リアリティライン」を敢えて外す力業

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ところで『ぼっち生活』は、リアルとかなり近い要素である「友達作り」をテーマの中心に沿え、物語はあくまでも「1年1組」という一つのクラス内で完結する、「地に足の着いた学園もの」というジャンルで言い表すことが出来る。そこに極端な大事件や現実では有り得ないエピソードが挟まれる余地はなく、ただ純粋に「クラス内での、それも主人公と友達数人」というごく限られたスケールの話だ。物語における「リアリティラインの精度」は、設定やスケールが小さければ小さい(リアルと近い)ほど誤魔化しが効かなくなり、目立つものだと思う。

 

ここでのリアリティラインとは、例えばピカチュウを見て「電気を発するねずみなんているか!」とか、『シュタゲ』で「大学生がタイムマシンを作るなんて有り得ない」とか、そういう事ではない。あくまでもそうした「世界観」だとか、「設定」を割り切ってみた上で出てくる「非合理的なキャラの言動」のことである。設定が現実的なほうに近ければ近いほど、そうした「少しの”現実とのズレ”について厳しい目で見てしまう」という話である。

 

上で述べた通り、どちらかと言えば『ぼっち生活』は「リアル寄りの作品」ではあるものの、「リアリティライン」についてはむしろかなり曖昧な部類だったと感じている。

 例えば第5話のアル回。本庄アルは「容姿端麗な委員長だが、どこか抜けたところがあって”残念”」な属性のキャラであり、その「残念っぷり」が遺憾なく発揮される回なのだが、ありとあらゆる面で「リアリティライン」が引き下げられている。まずはアルが間違えてランドセルを背負って登校、何とか「妹です!」と誤魔化しを図り、なこに笑いものにされるという展開。そこまではまだ分かる。しかし翌日になれば「全身小学生仕様で登校」と、普通に考えれば「いやそれは無いだろ」とツッコみたくなるほどの、ギリギリのところまで「リアリティライン」が引き下げられている。

 

そして極めつけが砂尾なこにテニス勝負をしかける展開。「仮にもテニス部員であるアル」が「運動が苦手ななこ」と勝負する時点で、普通ならなこが圧倒的に不利な状況なのにアルはサーブを全て外し、負けてしまう。ここでもアルの残念っぷりを描くために、一旦リアリティラインを”無視”してしまっている。いや、冷静に考えればリアリティラインが欠如というよりも、アルが画面に登場した時点で「一切のリアリティラインの影響を受けない」という、ある種のフィールド魔法かもしれない。

 

アル以外で言えば、「クラス替え云々」についてもそうである。「クラス替え」は、現実においても、生徒にとって努力では乗り越えられない、学校生活という”ゲーム”における「仕様」として、我々は認知してきたはずだ。この「クラスに友達ができた矢先のクラス替え」という展開、ぼっちのこれまで培ってきた「処世術」がどう発揮されるのかが楽しみであっただけに、力業で「クラス替えのない学校だった」というオチを持ってこられたのは個人的にかなりモヤついたポイントでもある。リアリティラインについても、「誰かに教えてもらって初めて、クラス替えが無い事に気付く」点でも、やはり「非合理的なキャラの行動」に思えてしまい、見ていた当初は正直納得できずにいました。

 

ロジックを捨てて、絵的な面白さを追求した作品

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 ここまで身も蓋もなくしつこいくらいに「リアリティラインの欠如」への言及をしてきたけれど、一周回ってそれを「」として仕舞えたのが『ぼっち生活』だったなと。アルがランドセル登校の翌日に、反省を活かせずに全身小学生で登校しようが、テニス部なのにサーブ打てなかろうが、クラス替えのないはずの学校でクラス替えの話題で一喜一憂しようが、絵的に面白ければそれで「良し」と割り切って作られた、ある意味で「挑戦的」な作風であり、今にして思えば「そうはならんだろ」と突っ込みたくなる事象であっても、そんなの突っ込むほうが野暮だと気付かされるつくりだった。

 

そして最終回においても「”一里”ぼっち」なのに出席番号5番と、一見すれば無理のある設定が明かされる。これは作者によると、稀にある「誕生日順」を採択したものであり、それによって五十音順ならばできなかったかもしれない「”砂尾”なこが、ぼっちの手前の席」という描写、ひいては「前の席の人です!!」ネタを実現している。

 

思えば登場人物のネーミングが「キャラクターの特徴そのまま」という設定上、「席順の自由度が狭まる可能性」も十分あったと思うし、そんな中でも「誕生日順」を採択する閃きは凄いなぁと。リアリティラインを限界まで下げるけど、決して「無くす」訳ではない、そういったバランス感が見事であった。

極めつけは「クラス替えのない学校で、改めて自己紹介」というくだり。クラスが替われば当然、知らない人ばかりなので「自己紹介の有用性」は高い。しかしクラス替えのない『ぼっち生活』のリアリティラインでは、改めて自己紹介をする有用性は皆無である。

 

しかしこれも見方を変えれば「アリ」な描写になるのだ。思えば第一話の時点では「クラスに知らない人しか居ない」シチュエーションである。ヘマをすればリカバーが利かない上、これからの学校生活が一瞬にして台無しになる可能性だってある。実際、そんな「周りに味方が居ない中での行動」だからこそ、自分は共感性羞恥を喚起されて「見てられない!」と感じたし、ぼっちにとって耐え難い仕打ちであった。

でも今は違う。同じ自己紹介でも、周りには少しばかりの”友達”が自分のことを見守ってくれている。彼女たちならどんなヘマでもいつも通り「相変わらずだな」と笑って拾ってくれる。最終回はそうした”安心感”の中で、ぼっちの自己紹介を見届けることができた。結局ゲロ吐いたけど。

 

1年間共に過ごして「知っている人たち」の前であえて「自己紹介」を行うことで、「このクラスには確かに”友達”がいる」ことを的確に映し出してくれる。何という力業。もうそこに「設定ガー」とか、「リアリティライン云々」とか、そんなツッコミを入れるほうが野暮なのだ。

自分はいつからか、作品を見るときにどうしても「細かい粗」を見つけてしまう癖があったけれども『ぼっち生活』はそんな自分に「細けぇ事はいいんだ!楽しめ!」とエールを送ってくれるような、あったかい作品でした。あざす!