ロリポップ・アンド・バレット

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『スパイダーマン スパイダーバース』の"日本的ヒーローっぽさ"について。あるいは「孤高のヒーロー像」に対する挑戦

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先日、『スパイダーマン スパイダーバース』を観に行きました。前評判では「ペニー・パーカーちゃんが可愛すぎる」と聞いており、「これならアメコミに慣れてない自分でも見やすいぞ!」と思い、視聴に至りました。『スパイダーマン』シリーズについては金曜ロードショーで第一作を見ただけで、他のシリーズは全く知らない状態だった。一応、「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という格言だけは念頭において見ました。これはシリーズを通して描かれる重要な”テーマ”だと聞いたので。

 

※以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

「漫画演出」とスパイダーマンの相乗効果

本作の概要をザっとおさらいする。ある日、マイルスは毒グモに咬まれてスパイダーマン化。敵・キングピンの装置によって時空が歪められ、平行世界に存在するたくさんのスパイダーマンたちが、主人公マイルスの世界に集結する。キングピンの計画を阻止しようと試みたピーター・パーカー(最も代表的なスパイダーマン)はその過程で死亡。装置を止めるようにピーターから頼まれたマイルスは、当初こそ戸惑いつつも自分の「スパイダーマン」としての運命を受け入れ、他の「先輩スパイダーマン」たちの叱咤激励を受けて、ヒーローとしての成長を見せていく。

 

 前編CGでありながら、「漫画らしさ」を全く損なわないどころか、その「らしさ」こそがビジュアル面での派手さと分かりやすさを演出している。例えばマイルスがクモに咬まれてスパイダーマンに”なってしまう”描写にしても、漫画の「吹き出し」のように心の声が表現される。顔からタラタラと滲み出る汗など、「漫画ならでは」のカリカチュアライズ(面白おかしく大袈裟に表現するさま)に貢献しており、実写のスパイダーマンとはまた違った視聴体験ができる。

 

 そうした漫画的な演出こそが、まさに「日常が漫画のような世界=非日常に変わってしまう」ことを意味していて、これから始まるお話はあくまでもマイルスが主役の「漫画」であると宣言するような演出である。マイルス自身は当初、身体の異変を「思春期」と思いこんでいたけれど、これもあながち間違いとは思えない。というのも、力を得た当初は、それをうまくコントロールできずに様々な”ミス”を犯してしまう。成長するにつれて力の本当の意味を知っていく過程はまさに「思春期から大人への成長」と言い換え可能で、そうした「大人になる前の段階」を意味するワードがまさに「サイズの合わないスーツもいつか着られる日がくる」という服屋さんのセリフとガッチリ符合している。「どんな人でもヒーローになれる」という作品のメッセージへと繋がる”布石”のようにも思えるのだ。

 

何より「別次元に存在する、別のスパイダーマンたち」が集結するのがヒーロー物として面白い切り口だったなと。自分にとってスパイダーマンといえば”あの”スパイダーマンしか存在しない、唯一無二のイメージが強かったので、グウェンが女性のスパイダー”マン”だったり、ペニー・パーカーが二次元の世界からやってきたようなアニメアニメした子だったのはなおさら衝撃的だった。スパイダー・ハムに至っては文字通り、もはや豚である。上記の彼女らとは違って、「manは男性以外にも”人”の意味もある」という言い訳すら通用しないやつにまで「スパイダーマン」の呼称があてられている。「呼称は同じだけど、それぞれが唯一無二のヒーローである」設定が、単純な「ヒーロー集結もの」と違って新鮮に映った。

 さらに、一般的な戦隊ヒーローと違うのは彼らが「期間限定のヒーローチーム」であることだ。マイルスの世界においては、マイルス以外のスパイダーマンはその体を維持できない。なので、次元装置を止めるまでの急場しのぎのチームである。事が終わればすぐに元いた世界へ帰らなくてはいけない。男はそういう「緊急」とか、「条件つき」みたいな設定に弱いんですよね。ロマンがあるというか...。

 

異次元のスパイダーマンたちが「自分がオリジナルのスパイダーマンですよ」といわんばかりの登場の仕方で、その辺りについても『ジオウ』で未来の仮面ライダーたちがあたかもレジェンド面して出てくる展開だったり、『レクリエイターズ』で「一世を風靡した感」をめちゃくちゃ醸し出してくる被造物(キャラクター)を連想させる。こういう「視聴者は知りえないけど、作品内では有名なキャラクター」という設定も、妄想が広がりますね。

 

日本の特撮を思わせるストーリー

 

『スパイダーバース』は、「日本の特撮は好きだけどスパイダーマンは見たことない」人にこそ見てほしいと思う理由の一つが、その「日本的なお話」なんですよね。例えば上で述べた「別次元のヒーローが集合する」という要素が、戦隊モノに親しんできた人からすればとっつきやすいだろうし(もちろんこれは「別次元の同一ヒーロー」なので、単純に雑多なヒーローが大集合して敵と戦う「スーパーヒーロー大戦」系とは厳密には異なるが)、何より同じマーベルの『アベンジャーズ』シリーズと違って、スパイダーマンだけを知っていれば楽しめるので、そこも大きいかと思う。

 

何より「先輩ヒーローが、新米ヒーローにその"極意"を伝えていく」というプロットですよね。近年では平成仮面ライダーシリーズが冬映画などで「過去作主人公たちがひょんなことから一挙に集まり、現行主人公と協力しながら戦う」ような話が恒例になってきているし、そこには「先輩と後輩」の関係性が付与されているようにも思える。

 

『スパイダーバース』では特にそうした先輩後輩の「縦のつながり」が見え隠れすると言うか、突然スパイダーマンになってしまった者=マイルスに対し、先輩スパイダーマンが目の前に立ちはだかる苦難を通じて、まさに「スパイダーマンチュートリアル」とも言えるような"教訓"を伝えていく。この辺りがものすごく「日本的」というか。ともすれば「説教臭い」とも言われかねないような、少し体質の古さがチラつく「日本の古典的成長物語」に思いっきり振り切っていたのが、これまた大胆だなと。

 

そんな中でも「先輩が後輩に教える話」だけに終始しなかったのが大きいかなと。別次元のピーターは立場こそ「マイルスの先輩」であれど、実はまだまだ「スパイダーマン」として割り切れなそうな部分があったり。序盤なんかは特にそうですよね。メタボチックな姿で出てきたり、マイルスが「大いなる力には、大いなる責任が〜」と言おうとしたところをハイハイと怠そうに遮って見せたり。そして終盤にも、かつて自分の至らなさで離れてしまった妻?と違う次元でエンカウントしてしまった瞬間ですよね。もちろん、違う次元での出来事なので、向こうはピーターに関する記憶が無い訳だけども、いざ目の前に現れると、途端に狼狽えてしまう。

 

「孤高のヒーロー像」を分解・再構築

 

そうした「少し未熟さの見える先輩」というキャラ付けも良かったなと。だからこそ目まぐるしく成長するマイルスからも逆に色んな事を学ぶことができたり、他にはペニーパーカーちゃんの使ってたオートマタ的なやつが壊れてしまった時も、ほかのスパイダーマンの助けがあって乗り越えることができたり。

 

そのような「複数のスパイダーマンたちが関わり合う中で、大事なことに気づいていく」プロットが本作で一番の見どころだったなと。

本作は言ってしまえば「スパイダーマンは唯一のヒーローである」というかつての"ルール"を一旦は壊して、「複数ヒーロー」にしてしまう、ある種の変化球のように思える。人知れず、誰にも相談できずに戦うスパイダーマンは敵のみならず、言わば「孤独と戦うヒーロー」でもあって。

 

一般的にアメコミでは「複数ヒーロー」をあえて採用してこなかった。大多数の人が「日常」の中で生きていく中、自分一人だけが「非日常」で過ごしているという"対比"がアメコミのエッセンスだと思う訳だけども、まさにそうした「ヒーローにしか分からない苦悩」にも肉迫しているのが本作だったなと。

だからこそ、ペニーパーカーちゃんが周りに支えられて「私は一人じゃないって分かった!」と発するシーンの深みがあるんですよね。彼女だけでなくほかのスパイダーマンたちも、マイルスたちと同様に「身内を間接的に殺してしまった」という苦悩を共有している。

 

そうした「例え独りでも、どこかで自分と同じように頑張っている人が居る」というテーマ性がすごく響きますよね。もちろん、別次元のスパイダーマンたちは元いた次元へ帰らなくてはならないので、結果的にマイルスは(というかそれぞれのスパイダーマンは)「孤独のヒーロー」に戻ってしまうんですけど、それでも「あいつ今どうしてるかな」と思いを馳せながら、どこか背中を押されるような、前向きな気持ちになってこれからも「ヒーロー」をやっていく。

 

「誰だってヒーローになれる」という超絶ポジティブなメッセージ性を放ってた本作だけど、何より一番伝えたかったのは「自分の知らないところで誰かが戦ってる。君はいつでもその一人になれるぞ!」なんですよね。長々と書いてきたけど、個人的には「スパイダーマンの導入」としてものすごく良かったので、これを機に過去作も抑えておこうかなと。