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仮面ライダーという「救い」『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』感想

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平成最後の冬映画『平成ジェネレーションズFOREVER』をようやく観に行けました。

結論を言うと、「エモさ全振りのお祭り」と呼ぶのが相応しい作品だった。自分は『アギト』で平成仮面ライダーに出会い、それ以降はライダー熱が下がっていたところ、『ディケイド』という、1度目のアニバーサリーで仮面ライダーに再び火がつき、その後は毎年平成ライダーを見るのが習慣となった。「歯抜け」の作品は後から追う形で見ていた。

 

実を言うと、自分は「気に入ったライダーシリーズの映画」しか見たことが無く、全てのライダー映画を網羅しているわけではない。しかし、『ジオウ』は平成ライダー20作目のアニバーサリーで、その冬映画なのだから、やはり「平成ライダーの総決算」として位置する今回の映画を見ないわけにはいかなかった。

 

(以下、ネタバレ含みます)

 

 

 

 

 

 

 

「作られた存在」としての仮面ライダー

 

初っ端から「普通に高校生やってるソウゴ」「登場人物の記憶の一部が欠ける」「なぜかライダーの戦闘を、まるで観戦するかのように楽しむモブ」など、『ジオウ』本編を見ていても不可解な現象が描かれた。この感覚は事前予告を全く見ずに挑んだ『君の名は。』を鑑賞した時を思い出す。自分自身、『ジオウ』本編についてはややこしい設定を無視しながら、半ば「お祭り」と割り切って見ている。

 

この映画も「そういう類か」と思いきや、「自称仮面ライダーオタク」のアタルが出てきて状況は一変。本来、「仮面ライダーシリーズ」は、仮面ライダーが「実在する」世界観という大前提がある。この映画ではいきなり「フィクションとして仮面ライダーが存在する」を強調してくる。つまり我々のように「コンテンツとして仮面ライダーが消費される世界」である。

 

 ざっくりした経緯ではフータロスがアタルの「虚構の存在であるライダーに会いたい」という願いを叶えた訳だが、あくまでも「フータロスの力によって再現されたライダー」なので不完全だし、記憶も欠落している。そもそも何でフィクションの存在に成り下がったのかは、タイムジャッカーのティードが2000年に飛び、アナザークウガと化すことで平成1作目のクウガをこの世から消し去ったためだ(同時にその後続く『アギト』~『ジオウ』も消滅)。

 

つまり、ディードによって実在を消された仮面ライダーたちは、ここでは「フータロスのつくりもの」=虚構として描かれている。分かりやすく例を挙げると「スマブラ」である。スマブラのファイターたちは、各作品のキャラクターを模した「人形」であり、決して本物ではないという設定だ。

 

この「限りなくオリジナルに近いつくりもの」が、レジェンドライダーたちを復活させる上での、一つの「言い訳」として上手く機能していたのかなと。アナザークウガが居る時点で、本来「ホンモノ」のクウガとは両立し得ないが、「つくりもの」のライダーであれば両立ができる。本編ではあり得ない「アナザーライダーを正当ライダーが倒す」という構図を可能にしている。正直、この辺のロジックについても理解がガバガバなので合ってるかわからないが、最後はきっちりノリノリのバイクアクションかましてたので、そういうコトなんでしょう。

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そうした、自身が「虚構」であることに動揺するソウゴに対して、同じく『ビルド』本編でも「偽りのヒーロー」だった戦兎が先輩ライダーとして語るシーンは、これ以上ない説得力を生み出していたなと。戦兎自身も『ビルド』において、空っぽのアイデンティティで始まり、万丈を始めとする仲間との交流を通じて、「自分」という存在を「創って」きた。

「出生に囚われないアイデンティティの形成」は『ビルド』のテーマであった。かつて戦兎自身が直面した問題に対し、今度はそれを「先輩としての余裕」を見せながら語る。以前なら同様に悩んでいた場面でも、今回はそうじゃない。また一つ「強くなった」戦兎を見られた気がする。この手の「前作主人公が登場する作品」は、キャラクターそのものの成長を感じられるのがミソですね。

 

とはいえ、アナザーダブルが物語的にそこまで重要じゃなかった上に、普通の怪人と同じく爆発して終わったのがモヤついたポイントでもある。(そもそもアナザーライダーは「元となる人間」がいて、初めて成立する存在なので、元の人間が居なかったのは設定上の欠陥でもある)

 

「実在しないけど、存在する」ものとしての仮面ライダー

 

私はつい先日、大学の哲学の授業で「サンタクロースが存在するかどうか」をテーマにディスカッションをした。あくまでも「証明」ではなく、どういった根拠で結論を出したのかを相手に説明しなさいというもの。

私の立場は以下の通りである。

 

・現実のフィンランドの「サンタクロース村」には、確かにサンタクロースとして認められた人が居るけれど、それは「サンタクロース」という架空の存在を模した人間にすぎず、「モノマネ」をもって「存在する」と結論づけることは出来ない。それは「仮面ライダーショーがあるから、仮面ライダーが存在する」と言っているようなものだ。

 

それに対し、サンタクロース肯定派の立場からこのような反論を受けた。

 

・そもそもサンタクロースが存在しなければ、この世に「サンタクロース」という概念すら無いのでは?同時に「クリスマスプレゼント」の概念も消えるはずだ。

 

この反論からも分かる通り、私は「実在」と「存在」を混同してしまっていた。

改めて「実在」を言葉で説明するのは難しいが、現実に・客観的にモノとして存在している状態を示すのに対して、「存在」とは「概念」のような目に見えないものも含んだ存在(例:時間・日付など)である。その授業の教授によれば「存在」とは「言葉がある以上、存在する」という状態、らしい。

 

つまり『平ジェネ』におけるティードの行動は「仮面ライダー」という言葉、ひいては概念を消すという意味で、仮面ライダーの「存在」を消そうとしたんですよね。だから「存在」が消えれば、皆の記憶からもライダーが消えて、ライダーのいない世界ができる。

 

サンタクロースの例を挙げたが、これは同様に「神」にも当てはめることができる。宗教によって「神」の表象は異なるが、「目に見えない存在」であることはどの宗教にも共通している事であろう。自分は無宗教なので特定の神を信じている訳ではないが、例え信者であったとしても「神が実在する」と思う人は稀なんですよね。それこそ私のような仮面ライダーファンでも「仮面ライダーは実在しない」と頭で理解しているように。

 

もうお気づきかとは思うけれど「神」や「サンタクロース」の部分をそのまま「仮面ライダー」に変えることが可能なのだ。

つまり「仮面ライダー」は神と同様、実在しない。アタルが、歳を重ねるにつれて「仮面ライダーの虚構性」に気づいてしまったように、我々も歳をとると「サンタクロースは居ない」と気づく時が来る。

 

仮面ライダーという「救い」

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そしてそこからの「実在はしなくとも、存在そのものが救いになる」という、『平ジェネ』の作品テーマである。

信者にとって「神を信じる」とは、決して「神が実在すると思っている」ことを意味する訳じゃないんですよね、正確には神という「存在」を信じて、教えに従うことだと思っている。

ライダーファンも同様に、「仮面ライダーは居ない」と分かった上で、日曜の朝にテレビの前で視聴=礼拝する。いわば「フィクション」とは一つの宗教であり、そのフィクションから私たちはメッセージを受け取り、リアルの生活を充実させているのだ。
例えば『龍騎』を見たならば「自分の正義観が時に人を傷つける」こと、『オーズ』ならば「必要な時はもっと欲しがっても良い」を一つの教訓として心に刻むだろう。かなり乱暴な言い方をすれば「宗教とフィクションは似ている」

 

哲学の最初の授業では「言葉は現実を変える力を持つ」という内容を扱った。言葉も目に見えない概念なので「実在」はしない。しかし極端な例を挙げると、私たちは「立て」と言われれば「立とう」とする。これは言うまでもなく「座っていた事実」が「立て」という言葉によって変えられようとしている。

これを上の例に当てはめると、サンタクロースの概念が「ある」からこそ、私たちはクリスマスにプレゼントを貰うことができるし、神の概念が「ある」から、初詣に行っておみくじを引き、一喜一憂できる。例え虚構の存在だったとしても、現実を変える力になるし、「神はいる」という思い込みのおかげで苦難を乗り越えてきた人が多いことは、さまざまな歴史を振り返れば容易に理解できるだろう。

 

「信じる者が救われる」とはどの宗教にも共通している"教え"だが、本作においてもその考えは横たわっている。信じるためにはまず「存在」を知ることから始めなければならない。私が無宗教なのは、仏教の家系だったり、親が何らかの宗教を信じているとか、そうした「知るきっかけ」がゼロだったからなんですよね。(それが良いか悪いかはあえて触れない)

なのでライダーという「存在」を知らなかったシンゴが、ラストで歴代ライダーたちを初めて目にして「仮面ライダーを知る」場面は、「フィクションの肯定」をテーマに掲げた作品として、とても納得のいくオチなのだ。

 

そしてそういった理屈抜きにしても、やはり仮面ライダーを見て育ったものたち、ひいては「フィクション」そのものを楽しんできた者に対して「救い」を見せてくれたので、いろいろと語ってきたけれど、最後は「仮面ライダーが好きで良かった」になるんですよね。作品として「隙」が無いわけではないし、設定として矛盾しているような場面も確かにチラホラ見受けられる(アナザーダブル)けれど、それも全て「あえて触れなかった部分」なので、理屈は最低限にしといて、エモーショナルな体験に全振りできたのが何とも「仮面ライダーらしい」つくりだったなと。