シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術 『プーと大人になった僕』を視聴して。

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先日、話題の映画『プーと大人になった僕』を観に行った。自分は当然、キャラクターとしての「プーさん」は知っていたのだが、原作ストーリーについての知識は無かった。

「豚なのに細いキャラ、尻尾でジャンプというド◯キーコングの敵さながらの動きを見せる虎、よくわからないカバみたいな動物、そしてプーさんがいる」くらいの事前知識で観に行ったのだが、巷で言われているほど「予習が必要」な作品ではなかった。

むしろ事前知識がなかったからこそ、新鮮な目でプーさんの言動を見ることができた。そしてヒイタチとズオウの話も、その存在について知らずとも一応は「あぁ、見えない敵を表現してるんだな」と考えれば話の辻褄が合うようにできている。(もちろん、知識があれば話にとっつきやすいとは思う)

後述するが、この「ズオウとヒイタチ」の本作における役割も見事であった。

 

以下、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変化する現実」と「変わらない100エーカーの森」

 

そんな『プーと大人になった僕(以下『プーさん』)』だが、物語の主人公・クリストファーロビンが大人になった後のストーリーが描かれた。プーさんとの別れの後、徴兵されて戦争を経験、その後はレジャー鞄のメーカーに就職して休日返上で働きまくり、そうした仕事の多忙さ加減が災いし、ついには家族との仲も険悪になるという「リアルさ」加減が見事だった。仕事は往々にして「時間を金に換える」ように形容されるが、まさに本作でも「何も無いところからは何も生まれない」がキーワードとなっていた。

 

そんなある日、ひょんな事から旧友であるプーと再会する。しかし会社の存亡の危機が懸かっているロビンにとって、プーは邪魔者でしかなかった。ここの「お互いに住んでる世界が違う」演出も見事である。100エーカーの森の仲間たちは、まるで絵本から出てきたかのような文学的なセリフ回しをする。度々挟まれるプーやイーヨーの含蓄のある一言が「あぁ、忘れてたけど今自分はプーさんの映画を見てるんだ」と思い出させてくれる。ロビンの住む「現実の目まぐるしい変化」と、100エーカーの森の「いつ来ても変わらない仲間と景色」の対比がまた、我々の幼少期のような「忘れてたあの日」を想起させるのだ。

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我々が幼少期だった頃、友人たちと「秘密基地」を作ったはずだ。秘密基地とは、厳密に言えばただの公園の1区間だったり、例えば『20世紀少年』に登場したそれは、単なる舗装されていない草むらに過ぎないはずだが、我々の心にはたしかにそれが「秘密基地」に見えていただろう。

そしてそこからの「100エーカーの森」だ。本編ではそれが妄想の産物として描かれている訳ではないが、少しでも現実世界でそれに関する事をチラつかせると、「ぬいぐるみが喋る」「頭がおかしくなった」等々、やはり「浮世離れしたもの」として扱われている。つまり、100エーカーの森とその仲間たちは「現実と妄想の境目に位置するもの」として、それこそ我々で言う「秘密基地」と同じ文脈で語られているのだ。そんな「存在するけど、存在しない」矛盾を持ちながら、目まぐるしいロンドンを駆け巡るのだが、そこには「忙しいからこそ、妄想しても良い」という主張がなされているのだ。

 

言ってしまえば、『プーさん』では小さい頃にしていた妄想・そしてそれをさらに発展させたのが「中二病」であり、それらの圧倒的肯定がテーマとして添えられている。時としてその「中二病」が現状打破の決め手となる、という「今の若者はもちろん、大人になっても大事なテーマ」を狙い撃ちしている作品なのだ。

続いて、この作品が持つ新たな形の「錬金術」について触れたい。

 

「何もないからこそ、何かを生み出せる」という錬金術

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本作では言うまでもなく「何もないからこそ、何かを生み出せる」というメッセージを放っている。ここにもやはり、上述した「打開策としての中二病」を内包しているのだ。「何かを得るためには、何かを失わなければならない」とは、かつて『鋼の錬金術士』で克明に描かれてきたテーマだが、『ハガレン』において「錬金術」とは決して万能の魔法として表現されていない。例えば第1話で死んだ母を錬成しようとしたエドワードは片足を、さらにアルフォンスは全身を"持っていかれた"。そしてその弟の「魂だけは持っていかせん!」として、エドワードは自分の片腕を捧げた。ハッキリ言えば費用対効果がめちゃくちゃに悪い。ついでに言えば、人体練成という禁忌を犯してまで行ったものの、母の練成には失敗している。

 

ハガレン』の物語は上記のような「悲劇」から始まり、錬金術師が錬金術師としてではなく、あくまで「ひとりの人間」として成長するまでを描いた名作だ。最終的にエドワードは錬金術のスキルを代償に捧げることで、今まで通りの「普通の人間」として生きるエンディングとなっている。前にも個別記事で書いたように、ハガレン』はあくまで「錬金術は万能ではない」「錬金術師が人間に戻る話」であり、そこに妄想の世界・ひいては中二病要素は入る余地がない、極めて「現実的」なテーマだ。

 対する『プーさん』ではどうだろう。『ハガレン』とは180度も異なるテーマを掲げているのだ。100エーカーの森という、半ば妄想のような世界観から始まり、そして100エーカーの森で話が終わる。

 

つまり、始まりから終わりまでが綺麗に「幼少期の妄想賛歌」で一貫しているのだ。そして「ズオウとヒイタチ」の役割もまた「妄想賛歌」を強調している。原作ではズオウもヒイタチもれっきとしたキャラクターとして存在するらしく、プーさんたちをいじめる『ドラえもん』で言うところのジャイアンのような存在だと思われる。しかし本作でその姿を拝む事はできない。なぜならば、ズオウもヒイタチも「ロビンの頭の中に存在する、妄想の敵」として描かれているためだ。

 

 そしてその「見えない敵」であるズオウとヒイタチが、本作では解決の決め手になるのだ。物語中盤、100エーカーの森に迷い込んだロビンは、ズオウとヒイタチと頭の中で交戦を繰り広げることで、森の仲間達と打ち解けるシーンがある。これは言うまでもなく「何もないところから(存在しない敵を通じて)、何かを生み出す(仲間たちとの絆を強める)」というテーマとピッタリ重なっている。

 

「等価交換の原則」の必須条件について

 

何もないところから何かを生み出す力を「等価交換の逆原則」と呼ぶことにする。本作ではこの原則を適用できる錬金術師はごく限られている。それは「妄想力が優れた者」だ。100エーカーの仲間達は存在そのものが「浮世離れ」しており、妄想の具現化として見ることができる。その証拠に、われわれ視聴者=神の視点ではプーさんたちは「存在する」ように見える一方で、物語の他のキャラから見れば極めて非現実的な存在として描かれている。

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総じて、彼らの「妄想力」は(当然、存在そのものが妄想に近いので)作中屈指である。続いて、クリストファーロビンとその家族だ。仕事ばかりで現実しか見えていなかったかつてのロビンは妄想力はゼロに近かった。しかしプーさんとの再会、見えない敵との交戦を通じて妄想力を高めてきた。そして娘のマデリンも子供ということもあり、生来的な妄想力はかなり強い。彼女はプーたちを見て最初は驚いたものの、すぐに彼らと打ち解けたのは、妄想力の強さを裏付ける演出だ。

 

では作中、最も妄想力を欠いた人物は誰だろう?そう、全ての元凶であるジャイルズ(ロビンと共同で仕事をしていた(大嘘))だ。彼は「何もないところからは何も生まれない」現実主義の人間で、度々ロビンを社畜化させようと仕向けてきたやべーやつだ。そんな彼は、ロビンと共同でプレゼン資料を作る素振りを見せながら、休日返上して働いたロビンと対称に、のんびりとゴルフを楽しんでいたことが示唆される。その上、手柄を自分のものにしようとする、どこまでもゲスいキャラだった。

そんな彼が最後には、仕事をせずに遊んでいたことが皆にバレて大目玉を食らい、ロビンは家族旅行に出かけてリフレッシュという、スカッとジャパンもびっくりな因果応報物語で幕を閉じる。

 

 ところで皆さん、このシーンで「何もしなかったら怒られた」ジャイルズに疑問を感じなかっただろうか。「何もしない」をあれだけ賛美してたのに、何で彼だけは別みたいに扱われてるのか、と。

実は観終わった後、私もそのような「作品テーマとの食い合わせの悪さ」を感じてしまった。しかし、上で述べた「等価交換の逆法則を適用するためには、妄想力が必要」という仮説を当てはめると、これは納得のいくオチになるのだ。つまり、ジャイルズは「何もないところからは何も生み出せない」という、一般的な「等価交換の原則」に生きており、彼はその法則にただ従っているだけなのである。言い換えると、「何もせずに何かを得ようとした彼は、当然後でツケを払わなければいけない」原則が彼には適用され、そのツケというのがあの「遊んでたことがバレて大目玉を食らう」というオチなのだ。

 

総括 『プーと大人になった僕』とは何だったのか

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総じて、映画『プーさん』はどこまでも妄想に重きを置いた作品だったと言える。皆さんの中には、小・中学生時代に「学校にテロリストが現れる」とか、「もしこのゲームの登場人物に俺がいたら」みたいな妄想を繰り広げてきた人もいるのではないだろうか。時間が経てばそんな「妄想」も、なぜか「黒歴史」として、記憶の奥底に封印してしまう、そんな人がほとんどであろう。しかし、本作はそんな「妄想」を打開策の一つとして提示してくれる。つまり、「私たちは妄想してもいいんだ!!」という、ある種タブーのように見えるメッセージを堂々と肯定している。

 大人になるにつれて妄想する機会はうんと減り、現実的な選択を迫られる。ロビンだって、会社の存続の為に経理をリストラしようとした。そんな時こそ、何かを犠牲にするのではなく、「妄想力」という無限のリソースを用いて問題解決できるのだ!しかも「賢者の石」と違って、素材に国一つ滅びるほどの人口を要求されることもないのだ。

 観に行けば、あなたもいつの間にか「あの頃の森」に迷い込むはずだ。