シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

痛みで繋がる少年少女 『キズナイーバー』レビュー

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私自身trigger作品が好きで、今期の『ダーリン・インザ・フランキス』を毎週目をキラキラさせながら観ている。ダリフラ、面白いですよね。シリーズ構成は『シュタゲ』で脚本を務めた林直孝と、『グレンラガン』監督・錦織敦史だ。キャラデザは『君の名は。』の田中将賀メカニックデザインは『ベイマックス』『エヴァ新劇場版』のコヤマシゲト氏。まさに「ぼくがかんがえたさいきょう』のスタッフ(褒めてます)だ。

 

豪華スタッフ陣が手がけるストーリーはやはり面白い。決して伊達ではないと毎週実感させられる。大人から愛を受けずに育った子供が、大人の為に戦う。決して「大人たちに使命を押し付けられている」とは知らずに。

もうこの時点で死にたくなる設定なのですが愛を知らない子供たちが、回を越す毎に「愛とは何なのか」を言葉によってではなく、ジワジワと身を持って実感していく様はもう見事としか言えない。そしてゼロツーとヒロの邂逅(いわゆるボーイミーツガールというやつです)が、世界の命運を分かつという正統派「セカイ系」のプロット。十数年前のアニメ全盛期に戻ったかのような錯覚を覚える人も多いハズだ。

 

すみません、そろそろ『キズナイーバー』の話をしなければいけませんね…。『ダリフラ』において、イチゴは(今のところ)負けヒロインの役割を担っている。たびたびヒロの事を気にかけており、ヒロのパートナーであるゼロツーに対し、きつく当たる事がある。5話あたりだっただろうか。ダリフラキズナイーバーっぽい」と言われていたのは。人間関係のドロドロに既視感を覚える者が多かったようだ。

よくよく考えたらtriggerオリジナルアニメの中で『キズナイーバー』だけ何故か見ていなかったので、この機会にコンプリートしてしまおう、と思ったのだ。

 

「痛み」で"繋がれた"人々

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キズナシステム」は受けた痛みが、自分と繋がった者たち=キズナイーバーに共有・分散されるというもの。「人は痛みを分かち合うことでしか繋がれない」という考えを基にキズナ計画を実行する。誰かが痛みを受けると、他の"繋がった者達"にも痛みが伝達される。キズナイーバーに選ばれた勝平たちは、できるだけ「痛み」を感じないように共同戦線を張ることになる。もう「自分だけの身体」ではなくなってしまうのだ。この「ある日突然、強制的に人間関係を築かされたら?」というのが、1つの問題提起であった。

 共同戦線はあくまでも「極力、自分たちが痛くならないように」する為の繋がりであって、決して彼らは「友達同士」ではないのだ。痛みを受ければ「誰が原因か」をまず探る。三話で日染の自傷行為が起因して痛みが伝わった際、真っ先に行うのは「痛みの犯人探し」であり、そこでの「他者への思いやりの精神」は極めて薄いと言えるだろう。キズナイーバーはそうした上辺の人間関係からスタートする。

 

キズナイーバーに初めて課せられた任務は「自己紹介」。と言っても単にクラス・名前・趣味を言うだけで終わる訳ではない。任務クリアの条件は「自分の一番知られたくない秘密を晒け出す」というもの。かなりえげつない。法子によればそうすることでキズナイーバーの仲が深まるとのこと。信頼関係とは往々にして仲間に自分の弱みを晒け出すことで築かれる。それは過去の多くの作品を見ればだいたい分かることだ。実際、『キズナイーバー』においても単なる共同戦線が"友達"に変わるきっかけは、ひとりのキャラクターが「胸の内を明かす」ことだった。

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「共同戦線から友達」への変化は6,7話の牧ちゃん回で描かれている。キズナシステムが心の傷にも反映されるようになったのはその前の合宿回だったが、本格的にキャラクターの「心の痛み」に触れたのはこの回だった。

牧は過去に、病弱だった同級生のルルと共同で「シャルル・ド・マッキング」名義で、シナリオは牧・イラストはルルがそれぞれ担当し、少女漫画の連載をしていた。牧とルルは女性同士だが、その実態はほとんど恋愛感情と言っても過言ではないほど親密な関係であり(いわゆるレズ)、作中においてもキズナの会のヤーマダによってそのように明言されている程だ。しかし、ルルとのあまりに近すぎる"その関係"に牧は「愛するルルを失ってしまう事」の恐ろしさを感じてしまい、牧から身を引く形で共同執筆は決裂してしまう。その後ルルは病死し、それ以降牧は心の奥でルルから逃げてしまった罪悪感を抱えたまま生きていく事になる。

 

キズナイーバーに課せられた任務は「牧を救う事」だった。牧のトラウマの核心に触れる事で、結果としてキズナイーバー間の人間関係は強固になる。痛みを感じず感情に乏しい勝平は、牧の心の痛みを受けて人間味を取り戻してゆく。法子が牧の心を弄んでキズナ実験の材料にするやり方に対して「軽蔑しました」と怒りの感情を露わにする。そこには間違いなく「友への思いやり」があったはずだ。「痛みを分かち合う事で他者を理解できる」というキズナシステムの根底にある考えが、ここで機能しているのだ。7話ラスト、牧が死んだルルの本音を知ることでようやく呪縛から解放される。と同時にキズナイーバー間でほとんど「友情」と言っても差し支えないほどの絆が出来上がる。かつて仁子に言い放った「ただの行きずりの関係」ではなくなったのだ。

 

否が応でも互いを"理解してしまう"ということ

 

 「人の痛みを知ることで、より親密な関係になれる」という前提は牧の回を見ていると正しく思える。実際、上述の通り他のメンバー(主に由多)が牧のことをより知ろうとする事で、牧自身は痛みを晒け出すことで、心の葛藤から解き放たれると同時にキズナイーバーは共同戦線から「友達」へ変わった。

しかし、そんな「痛みでの繋がり」は9話にして崩れる事になる。ヤーマダの恋愛感情を揺さぶる作戦により、キズナイーバー間で心の痛みがより強固に伝わるようになる。そしてついに「心の声が漏れる」段階にまで来てしまう。

 

勝平に思いを寄せる千鳥の「抱きしめて」の声と、それを受けて千鳥を抱きしめる勝平。それを見た天河は「千鳥はなぜ俺を選ばないんだ!」と本音がダダ漏れで勝平に殴りかかる。さらに天河のことが気になっていた仁子は「要らないなら天河くんを私にちょうだい」と漏らす。とどめの牧ちゃんは「友達になんてなれない。なっちゃいけない」。もうダメだ…。見てるこっちまでキズナで繋がれているかのような精神的ダメージを負ってしまう。お互いを理解しようとした結果、いざ本音が共有された途端に友情が破綻してしまうという皮肉めいたオチだ。

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実はこのエピソードの前に印象的なやりとりが存在する。階段で牧が、痛みに性的興奮を覚える日染に対し「前から気になってたんだけど、あんたがド変態になったのには何か理由があるの?」と問いかけるシーンだ。そこで日染は「誰彼、穂乃果さん=牧みたいなトラウマがなきゃいけないの?」と答える。

 

このシーン、劇中ではまるで日染が悪いかのように描かれているが、よくよく考えたら牧の質問はかなり"危うい"。例えば皆さんが女の子から「あなたが◯◯フェチになったきっかけは?」と聞かれたとしよう(◯◯にはあなたの好きなやつを当てはめて下さい)。この質問に真面目に答えようと思いますか?自分なら絶対出来ないですよね。いくら親密な友達であったとしても、知られたくない思想や性癖はあるし、ましてや「きっかけ」ですよ。恥ずかしくて言える筈はなく、例え日染みたいな恥知らずなキャラが相手であったとしてもその質問が無粋である事に変わりはない。端的に言えば「なぜお前に教えなきゃいけないんだ」って話です。

 

日染は他のキズナイーバーとも一線を画している。無論それは「ヤバい性癖の持ち主」である事もそうだが、何より「裏がない」ところが彼の最大の特徴だ。極端なマゾ性癖は隠す気がなく、むしろ自分から晒け出している。そんな日染ですら、牧の質問に対して嫌味とも取れる返答をしたのは「誰だって暴露されたくない部分がある」という、人間関係において最も基礎的な部分を視聴者共々再認識させる意義があったと思えてならないのだ。

 

総括 『キズナイーバー』とは何だったのか

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「痛みをシェアして互いを理解する」から「否が応でも理解し、理解されてしまい人間関係が破綻する」へと変貌した『キズナイーバー』の物語はついに最終局面に突入する。

キズナ計画の本当の狙いは、過去のキズナ実験で痛みを失い、もぬけの殻になった者たちを元に戻すため、全人類をキズナシステムで繋ごうというもの。痛みを失った者は感情そのものも消失する。勝平が痛みに鈍感で感情が希薄だったのも、過去のキズナ実験の被害者だったからだ。

 

本作において「痛み」とは「自己」を意味している。第1話序盤で勝平が眺めていたセミの抜け殻はまさに「中身のない自分」の投影に他ならない。無論、セミの抜け殻はあくまで抜け殻であり、痛みも何も感じるはずはなく、ただの"モノ"でしかない。

対する法子はキズナ実験の影響で19人もの被験者の痛みを引き受けて、実験中止後もその痛みを手放す事なく生きてきた。自分自身、キズナ実験がきっかけで被験者の子供たちとこころを通わせる事ができたため、痛みを絶対視していた。「痛み」とは身体のダメージ以外にも、上述した「トラウマ」「知られたくない秘密」といった意味を含んでいる。そうした心の闇も、れっきとした「自己」を形成する一パーツなのだ。なのでそれを無理して他人に共有する必要もないし、むしろ「自分でしっかりと向き合う」必要があるのだ。だからこそ、仁子は「ちゃんと痛くなりたい!」と自分でけじめをつけようとする姿や、勝平の「痛みを返して」という主張がダイレクトに伝わってくる。「痛みを取り戻す物語」とは「自分を取り戻す」と同義なのだ。そして法子も、一斉に痛みを引き受けたことで鎮静剤を打たなければ生活できない身体であり、薬によって感情が希薄になっていた。彼女もまた、引き受けた痛みを返すことで自己を取り戻したのだ。

 

 言ってしまえば、この作品は「他者の痛みを知りなさい」と言ったメッセージを発している訳ではないのだ。むしろ「自分自身の痛みと向き合いなさい」もっと分かりやすく言えば「自分を大切にしなさい」という、至ってシンプルな落とし所になっている。とはいえ、現代版七つの大罪が物語的にそこまで重要でなかったり、ラストで天河と千鳥が急に恋愛関係になっちゃったりと、若干そうした部分はモヤつかないでもない。それでも「痛み」という身体の防衛本能からではなく、心から相手と繋がりたいと思える、そういった「単なる共同戦線」から脱却して真の友情を描いた点や、心の痛みに自分自身で向き合うことで、自己を形成できるというメッセージ性はまさに『キズナイーバー』の到達点だったのではないだろうか。