シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『がっこうぐらし!』はただのゾンビ物ではなかった

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こんにちは、シゲです!

がっこうぐらし!』の第一話を見たときの事を未だに覚えている。序盤からずーっとゆるふわな日常が描かれ、正直「変化がなさすぎてつまらない」と思ってしまった。私はそこでラスト数分の「あのシーン」を見ることなく電源を落としてしまったのだ。

翌朝、ツイッターのトレンドに「がっこうぐらし」というワードが浮上し、一瞬理解できなかった。「なぜあの”よくある日常アニメ”が話題になっているのだろうか」という疑問が浮かんだ。そしたらまぁ、みんな「一話のラストで全部持ってかれた!」とか「衝撃の展開」「視聴決定」だの色々言われていたわけですよ。何やら一話ラストに大きな”仕掛け”があったみたいで、途中で電源を落とした私は全く話題についていけず、最後まで見なかった事を激しく後悔した。

それからというものの、私は心の中で「がっこうぐらし舐めてましたごめんなさい」とスライディング土下座をかましながら2話以降を視聴したのだった。いや、だって普通あの「ゆるふわ学園もの」の本当の顔が「ゾンビ物」だなんて思わないはずですよ。私はそんな『がっこうぐらし!』が張った「日常系と見せかけたゾンビ物」という罠に見事にハマっちゃったんですよね。(ハマり過ぎて電源切っちゃったけど...。)

そんな数奇な?出会いをした『がっこうぐらし!』なのだが、改めて考えるとすごいアニメだなと思うわけですよ。今回はアニメ『がっこうぐらし!』が持つ特異性をとことん考えてみようと思います。

 

 

新日常系アニメとしての『がっこうぐらし!

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「新日常系アニメ」を聞いたことがあるだろうか。この言葉自体は『結城友奈は勇者である』のインタビューにて、MBSの前田俊博プロデューサーから初めて語られたものである。

 

日常系作品は「日常っていいよね」と共感しながら見る方も多いかと思いますが、「結城友奈は勇者である」は「日常っていいよね」と痛感しながら見る作品になっているのでは?と思っています。お知り合いにこの作品をオススメする際は「日常系(切実)」、「新日常系」などのタグを付けて紹介していただけると幸いです。

 

つまり、シリアス展開の中にあえて日常やギャグパートを描くことで「日常っていいなぁ(痛感)」といった具合に、「シリアスと日常を対比させることで、日常のありがたみを実感させる作風」のことを指す。『がっこうぐらし』はその典型例で、ゾンビが徘徊する「非日常」の中でなんとか由紀たちが「日常」を送ろうとする。

しかし『がっこうぐらし!』の場合、「非日常と日常の対比」がかなり色濃いというか、むしろ「日常」の部分があまりにも日常しすぎていてある意味”狂気じみて”いると感じられた。 この”狂気”を最初に視聴者へ提示したのがあの第一話ラストのシーンだったと考える。何の変哲もない学校でのやりとりが実は主人公・由紀の妄想であることが明かされたのだが、冷静に考えると「実はゾンビ物でした」よりも「これまでの日常パートはほとんど妄想でした」という事実の方が個人的には衝撃的だった。由紀の現実逃避は、後に大きなテーマとなってくる。

 

 

「信頼できない語り手」としての由紀

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由紀というキャラクターは非常によくできている。基本的に視聴者は「由紀視点」でストーリーを追うことになるのだが、それがまたミスリードを誘うわけだ。まさにアニメ版「叙述トリック」とでも言うべきか。叙述トリックの中でも、「信頼できない語り手」と呼ばれる技法がある。

 

信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、信用できない語り手、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである。

 

例えば 小説での語り手が子供ならば、誇張した表現で読者を惑わすかもしれない。記憶障害の語り手ならば時系列や出来事があやふやになり、ミスリードを誘う。がっこうぐらし!』では由紀が精神疾患の語り手」に近い状態であり、現在映っている景色や登場人物の存在が彼女の幻覚や妄想の可能性が高まり、本当にそこに”ある”のかが曖昧になっている。何が正しくて何が間違いなのか、視聴者には全くわからなくなる仕掛けだ。

ひぐらしのなく頃に』では雛見沢症候群と呼ばれる、被害妄想や幻覚を引き起こす風土病があった。鬼隠し編では病気を発症した前原圭一の視点で物語が進む。彼の行動にはある程度説得力があるので視聴者は「おかしいぞ」と思うことなく事は発展し、最終的に被害妄想に苛まれてレナと魅音を殺してしまい、ここでようやく我々は「圭一が狂っていた」と気付くのだ。

要するに一話でやりたかったことは『ひぐらし』の”それ”と似たことだと思っている。

 

一度、由紀の妄想癖が発覚すると視聴者は「もしかしてこれも妄想なんじゃ」と感じる他は無くなる。極端な例だが、考え方によっては由紀以外の全員が既に死んでいる可能性だってあるし、そもそも「舞台が学校」という前提すらも揺るがしかねないのだ。

色々と話題性のある一話だったが、見る者の視点を揺さぶるというだけでも作者の思惑通りだったのかもしれない。

 

「モラトリアムからの脱却」というテーマ

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妄想の学校生活を送る由紀なのだが、そんな中で大きな心の支えとなっていたのが「めぐねえ」なのだ。幼児退行する由紀にとってまるで母のような存在で、彼女にとって無くてはならない存在の1人だ。しかし中盤でみーくんが加わった頃に「めぐねえは既に死んでいる」事が明らかになる。第6話にて「めぐねえって一体誰ですか?」というみーくんの指摘を引き金とし、ラジオの軽快な音楽が急激に変調して不協和音と化す演出に心臓を掴まれる。

現実逃避をしていた由紀を支えていた存在そのものまで妄想の産物であると判明し、我々の嫌な予感が的中してしまうのだ。「めぐねえの死の判明」「学園生活部と由紀の共依存関係」この2つが6話で提示された大筋となる。

 

みーくんは由紀の妄想について、りーさんに「あのままではいけない、治さないと」という趣旨のセリフを投げかける。原作ではさらにそこへ「これじゃただの"共依存"じゃないですか」と続く。それに対しりーさんは「治るとか治らないとかの問題じゃない。今は由紀の調子に合わせてほしい」と返す。

学園生活部のみんなはこれまで由紀の妄想に付き合ってあげる事で彼女を支えていた。しかし、同時に学園生活部での楽しい日常は由紀の明るいテンションによって支えられていたのだ。由紀がいるおかげで支えられてきた「日常」が、みーくんの指摘によって崩壊してしまいそうになるわけだ。

一見すると「お互いに支え合っている」理想的な関係に見えるのだが、この状態はみーくんの言う通り「共依存」の関係である。そこでこの作品のテーマ「モラトリアムからの脱却」が提示される。幼児退行する由紀と、それを良くないと思いながらも由紀に合わせる以外の選択肢のない学園生活部。この両者が如何にして前に進めるか?がこのアニメの本筋だ。

 

がっこうぐらし!』の舞台が学校なのは決して偶然ではないのだ。「モラトリアム」と言えば社会に出るまでの猶予期間のことを指すが、「学校生活」そのものの事を指す場合も往々にしてある。このアニメの舞台「学校」は由紀と、学園生活部のみんなが学校の外へ出て新たな世界を切り開くという一筋のプロットで成り立っている。「ゾンビ要素」はパニック映画というよりはあくまでも「学校からの脱却」を理由づけるギミックとしての役割が色濃く感じ取られる。つまり『がっこうぐらし!』は単に「ゾンビもの」+「学園もの」という構成ではなく、「学園もの」をメインに添えて、「モラトリアムからの卒業」というテーマを自然に、時には衝撃的に描くために「ゾンビ」という要素をサブで加えたアニメだと私は考える。

 

だからこそ、最終回の放送室で由紀が発した「学校は好きだけど、いつかは終わる時が来る」というセリフは感慨深いのだ。めぐねえの死を受け入れられなかった彼女が、精神的な成長を成し遂げた瞬間なのだ。

なぜならば彼女自身、一番あの学校を愛していた存在だからだ。もちろん、学校を出た後に平和な生活が待っているとは限らないし、むしろより過酷な状況に追いやられる可能性がある。

それでも、由紀と学園生活部にとって心地よかった「学校」を出るという選択を選んだのは、外の世界で生きる事に価値を見出したからだろう。究極的に言えば、『がっこうぐらし!』はどんなアニメよりも「成長もの」であると言える。別に修行で強くなったりする訳ではないが、これほどまでに「精神的な成長」を描いた「成長アニメ」は中々無いだろう。