シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

『フレッシュプリキュア!』が提示した「幸せ論」とは何か

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こんにちは、シゲです!

プリキュアシリーズは今や仮面ライダー、戦隊ものと肩を並べる巨大コンテンツとなっている。仮面ライダーや戦隊ものが40年以上続いているのに対し、プリキュアシリーズの歴史は13年とかなり短い。その「超大御所」とも言える仮面ライダーと戦隊ものの二つに引けを取らず子供達からの支持を得ている「プリキュア」というコンテンツは本当に"もっている"シリーズだなと感じる今日この頃である。

普段私はあまりプリキュアを見ないのだが、シリーズ構成に前川淳が起用されているという所に惹かれ、『フレッシュプリキュア!』の視聴に至ったのである。プリキュアシリーズには疎いので他のプリキュアと比較してどのような位置づけだったのか、という視点での話は他にもっと詳しい人がいるはずなのでそちらに任せたい。

ストーリーの構成としては25話までの主にせつなとラブの確執を描いた前半、26話以降でラビリンスの核心に迫った後半の二つに分かれる。

 また、フレッシュプリキュアを構成する要素として「ダンス」「恋愛」に関するエピソードもふんだんに取り入れられていて、非常に充実した作劇だった。

 

贖罪の物語を描いた怒涛の前半戦

 

フレッシュプリキュアの大きな特徴と言えるのが「敵が改心する」プロセスが非常に綿密に練られているという点である。敵が改心するという展開は同じニチアサ枠で「仮面ライダー」がこれでもか!というくらいやってきた事なので正直、そこまでの目新しさは感じられなかった。せつながキュアパッションとして目覚めたとき、ただ単に仲間になりました!では済ませないのがフレッシュプリキュアである。

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この前半を一言で表すなら「贖罪の物語」だったなと私は感じている。イースとして人々を不幸にしてきた事を後悔する描写が幾度と描かれるのである。イースからキュアパッションへの転換期は非常に不安定な時期だったと感じている。まるで幼虫と成虫の間の「サナギ」のような心理状態である。それもそのはず、人間は急な変化が苦手な生き物だ。せつながイースとして対立していた頃も、ラブに心を動かされたときは明らかに病んでいたし、パッションとして生まれ変わった当初も今までの事を悔やみ、「今まで不幸を集めていた自分が、幸せのために戦う資格があるのか」という葛藤をひしひしと感じさせられた。

そんな「サナギ」の状態から「成虫」へ変化したのが25話だった。25話では過去の自分と決別すべく、ナケワメーケ化した自分の影と戦う。そこでまさかの3話で登場した犬が出てきて共闘するというめちゃくちゃ熱い展開が繰り広げられる。と同時に自分が「キュアパッション」として戦う事を決心した瞬間であった。

「敵が改心する」のはよく見られる展開だと私は言ったが、フレッシュプリキュアの前半は「サナギ」の時期を飛ばさずに"ゆっくりと"成虫へのプロセスを描いた作品だったなと私は感じている。

 

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後半戦の意味深すぎる「ラビリンス編」はどのような着地をしたか

 

晴れてせつながイース改めキュアパッションとして仲間になり、フレッシュプリキュアも後半戦に突入する。正直、後半は前半と比べて失速した感は否めなかった。ラスト2話を除けば。

愛すべきバカと呼ばれ、視聴者から「西さん」と言わせしめたウエスターもウエスターでなんだかんだせつなのことを思っていて「実はいい奴じゃね?」的な微笑ましさを醸し出し、サウラーもサウラーで相変わらず策士っぷりが物語を加速させるギミックとしてうまく機能していた。せつなと各キャラクターの掛け合いや、ラブと大輔の恋愛関連のエピソードなど、バラエティに富んだ話も現れる中「新たな敵ノーザ」「シフォンの正体がインフィニティ」「管理国家ラビリンスの実態」など3つの軸で話が進んでゆく。

 

基本的には「インフィニティ化したシフォンを狙うノーザと、それを食い止めるプリキュア」という構図で展開されるのだが…。ぶっちゃけウエスターとサウラーはノーザ登場以降空気になってしまったのが残念な所である。「策士」という、話を動かす上で非常に使いやすいキャラクターで、「お母さん消滅」「ラブのお爺ちゃんとの記憶を利用して心を揺さぶる」という、視聴者もドン引きの頭脳派だったサウラーも終盤になれば脳筋のウエスターとそう変わらない戦法になってしまったのが惜しい…。

 

そうした中でプリキュアたちは管理国家ラビリンスに凸して総統メビウスに立ち向かう。ラビリンスに支配された市民たちに「自分の意志で選ぶこと」の大切さを説く。これがものすっごく"危ない"作劇だと私は感じている。というのも、まるで全てが統制されている(あるいは統制されていた)どこかの国のなんちゃら主義、なんちゃらイズム思い出してしまったからである。

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メビウス的には「誰も悲しまない為に人々を均一化させる」という考えであったが、それはイコール「幸せ」ではないという結論である。メビウスの言う誰も悲しまない世界は「無」の世界であって決して幸せな世界ではない。反対に、ラブたちが説いた「幸せな世界」とは「不安定な事は沢山あるけど、そんな状態だからこそ自分にとっての幸せを実現できる世界」だった。つまり「自分で選べる事が本当の幸せ」ということを我々に50話かけて伝えたかったのだろう。

 

 

「自分の意志」の裏側に蠢くもの

 

そしてラスト2話では「メビウスの正体が人間によって作られたコンピュータ」という衝撃の事実が発覚する。ラビリンスの市民が「便利な世の中」を求めた究極の形が「国家をも機械で管理すること」だったのだ。人間は技術が進歩すると怠惰になるという社会風刺だったのだろうか。そんな中、メビウスは自我が芽生えて人間を統制し始めるのだった。ある意味、メビウスはこの物語の一番の被害者だったのではないだろうか。「ラスボスが人間のエゴによって作られたもの」というのは割とよく使われる作劇の手法であるが、フレッシュプリキュアでこれをやるのは皮肉めいたものがある。管理国家ラビリンスはもともと管理国家だった訳ではなさそうだ。ラビリンスの市民が「自分たちの意志で」利便性を求めすぎた結果、その利便性がアダとなり管理国家になってしまったというオチは、ある意味ラブたちが説いた「自分の意志」の闇の側面だったのではないだろうか。

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自分の意志、すなわち「自由」とは文字通り「自分の思い通りに行動できる」ことである。自由と聞けばプラスの側面ばかり目立つが、裏を返せば「全て自己責任」である。何があっても全て自分のせいである。ラビリンスの世界だって元々は「自由の下」で発展したはずだ。つまりラビリンスの市民は自分たちが選んだ「自由」で自ら「管理国家」を作り出したのである。

 

フレッシュプリキュア!』が説く「幸せ論」とは「自分で選択する意志の大切さ」だと私は感じているが、その根底にあるメッセージは「自由と自己責任は表裏一体」という、あまりにも子供には重すぎるものだったのではないだろうか…。