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シゲの鑑賞日記(仮)

主に趣味(アニメ、仮面ライダー、ポケモンなど)を自由気ままに語りますヾ(๑╹◡╹)ノ" 特に、アニメの感想などをつらつらと書いていくつもりです^ ^

中二病でも恋がしたい!における「中二病」とはどういった意味合いだったのか

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こんにちは、シゲです!
中二病」患ったことのある人、現在進行形で患っている人いろいろ居るかもしれない
ちなみに私は中二病とまではいかなくても少し妄想癖のある学生時代だったw
今回紹介する作品は「中二病でも恋がしたい!中二病と恋、このタイトルからしてもう既に青春オーラが出まくりである。

 

まずは一般的に知られる「中二病」のイメージでは、「自分には他の人には無い不思議な力がある」というそれこそ六花みたいなタイプが固定観念として定着しているかもしれない。しかし実際にはこういったタイプだけでなく、「無理してブラックコーヒーを飲む」「意味もわからず洋楽を聴く」というものもメジャーである。まとめると、「自分をかっこよく見せるための、ちょっと背伸びした行動」という事になるのだろう。

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しかし私は劇中における「中二病」とは上記の意味合い「だけ」では無いと感じている。
六花の中二病は二つの意味が含まれていたのでは、と私は考える。まず一つ目は「現実逃避の象徴」。父の死が原因で今でも中二病を辞められずにいるというマイナスの側面である。そしてもう一つは「憧れ、理想の象徴」。
そもそも六花が中二病になったのは父の死だけが原因ではなく、幼少期に勇太のダークフレイムマスターを見た事である。最初はダークフレイムマスターへの憧れで中二病になったのが、いつしか現実逃避の手段となってしまったのだ。
しかし周りはあたかも中二病=現実逃避という解釈をしたため、「憧れ」という要素もろとも中二病を辞めさせようという流れになってしまったのだ。その結果、中二病を辞めた直後での六花は「憧れ」の要素もろとも消えてしまい、自分のアイデンティティを失い、まさにもぬけの殻状態であった。

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最終回では再び勇太の働きかけによって中二病に戻るが、同時に「父への決別」もきちんと果たしている。この瞬間、六花の中二病は「現実逃避」の要素が消えたのではないかと考えた。

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そして最終回の「人は一生、中二病なのだ」という大塚芳忠さんのナレーションはこの作品全体のメッセージであった。
劇中のほとんどの人物(勇太、六花、モリサマー、凸守、くみん先輩)が中二病を経験しているということは、人は生きていく上で必ず中二病(とまでは行かずとも空想に耽る時期)が必ず訪れるという事、その理想に向かって走って行く時期があるという事、そしてそれは必ずしも悪いものとは限らず、むしろ大切なことであるという事を表現していた様に思えた。


人は皆、ある程度の理想を描いて生きていく。それを無理に抑え込まなくても良いんだ、自分らしく生きていいんだという深いテーマ性を1クールで「中二病」という馴染み深い?要素を使って表現した、大変密度の濃い作品だと思いましたー!

まだ二期の方は観ていないので機会があれば観てみたいと思います(^ ^)

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