ロリポップ・アンド・バレット

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『劇場版仮面ライダービルド』において「Be The One」は何を表したのか。次の10年に向けた究極のオマージュ

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今年もこの時期がやって来た。仮面ライダーの夏映画は劇場版ポケモンシリーズと肩を並べて映画業界を賑わせる、まさに「キッズコンテンツ夏の陣」である。映画の感想の前に『ビルド』TV本編をざっと振り替えるとこんな感じである。

 

・記憶喪失の天っ才物理学者・桐生戦兎の正体は、実は悪魔の科学者と呼ばれる「葛城巧」だった。

→葛城は「エボルト(地球を襲う火星人)」を倒すための兵器として「仮面ライダー」を作り、戦兎はそれを知らずにただ「人を守るヒーロー」として、ラブアンドピースをスローガンに掲げて(ここ重要)戦ってきた。TV本編ではそうした「自身の存在意義」「兵器としての生まれを持つ者は、果たしてヒーローなのか」という問題提起がなされる

 

・本編での「主な死者」

スマッシュ化した後に消滅した万丈の彼女

 戦争に巻き込まれた(ハザードフォームの暴走が代表的である)三羽ガラス

エボルトの攻撃から幻徳を庇った氷室泰山(幻徳の父)

焼肉を食う前に運悪く死んだ佐藤太郎(ある意味、本編で一番の被害者)

 

それらを踏まえた上で、劇場版『ビルド』の雑感を残そうと思う。

 

※以下、映画本編のネタバレを多く含みます。未視聴の方はブラウザバック推奨

 

 

 

 

 

『ビルド』とはこんな作品だ!を40分間主張し続けた劇場版

 

結論から言えば『ビルド』という作品全体、ひいては「桐生戦兎を構成するものは何か」を端的に、40分程度のコンパクトな仕上がりで描いたのが今回の『Be The One』だった。言ってしまえば「万丈の闇落ち」「エボルトの、意図が読めない”気まぐれさ”」「ネガティブな意味で使われる”仮面ライダー”の単語」は全て上述したように、本編で多く見受けられる要素だった。なのでそこに特別「目新しさ」は感じなかった。

 

参考までに前作『エグゼイド』劇場版の感想を言っておくと「本編で取りこぼした要素の昇華」だったように思える。医療とゲームを通じて「死んだ人間を生き返らせることの是非」というテーマを描いたのがTV版『エグゼイド』だった。しかし、SAO的な要素を期待していた身としては若干の物足りなさを感じた。

 

『トゥルーエンディング』では本編で扱えなかったVR要素、ひいては「仮想世界は現実の代替になり得るのか」といったSAOマザーズロザリオ編のようなテーマを大々的に扱っていた。時系列も本編最終回の後となっており、全ての問題が解決した後の物語だったのが大きいかもしれない。そのため、「本編との差別化」の意味で『トゥルーエンディング』は良い出来だったと思う。

 

対する劇場版『ビルド』では、「かなりの部分を本編に準拠させつつも、桐生戦兎の原点を補完する」物語だった。しかしその「補完」の部分がやや後付け感が否めなかったのが、今回の賛否を分けたポイントだったなと。ブラッド族の「万丈と戦兎を出会うように仕向けたのは俺だ」だったり、その他もろもろ…。さらには劇場版のスペシャルボス枠のはずのブラッド族が、本編で偉大なる存在感を放っているエボルトも相まって、全体的に「小物感」が出てしまった。

 

語られたラブアンドピースの原点

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上で「後付け感が否めない」と言ったものの、一つの例外がある。それは戦兎がスローガンに掲げている「ラブアンドピース」の原点だ。本編では割と唐突にその言葉が使われ、しかもそれがいつの間にか定着してしまったので戸惑った記憶がある。なので、そこをきちんと補完してくれたのは有り難い。

 

序盤、「仮面ライダーは兵器だ」と演説する、何ともきな臭いシーンから始まり、ゾンビ映画さながらの逃走劇が始まる。緊迫感を伴いつつもコミカルに描かれたこのシーンだが、「科学は恵みにも、武器にもなり得る」という当たり前の事実、そして例え自分に悪意がなくとも、守るための力であったとしても「力を持っている」という事実だけで、悪者扱いされてしまう。悲劇のヒーローとしての「仮面ライダー」を前面に出したのが今回の劇場版だった。

だからこそ、特別なことは必要最小限に"抑えて"「例え世界中の全員から敵とみなされても、愛と平和の為に戦うのが仮面ライダーである」という、大事な「ビルドのエッセンス」を詰め込んだ本作は賛否はありつつも、自分的には「良作」としてカウントしたい。

 

また、ビルドでは葛城巧・桐生戦兎の2人が「息子」としての位置付けで描かれており、両者の見る「父」の違いを見比べるのも醍醐味だと思う。記憶のない戦兎が、むしろ記憶が無いからこそ父を父として見ることができる点も、劇場版でも余すことなく見られる。

それと対比するかのように、これまで戦兎を裏切ってきたエボルトまでも、まるで自分が「育ての父」のような面をする。無論、「戦兎を偽りのヒーロー」として育て上げたという点では、「美味そうに育ってくれた家畜」くらいの認識だろう。つまり桐生戦兎は他人の手によって翻弄される中で、本当に信頼できる仲間を見つけて、それが「自身の出生に囚われない自己肯定」という幾度と描かれてきた戦兎のメンタリティへと繋がることを、今回の劇場版で改めて認識させられた。

 

『Be The One』が表す原点回帰のメッセージと、仮面ライダーダブルのオマージュについて

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ところでタイトルの「Be The One」は何を表すのだろうか。無論、中身のないゼロからのスタートだった戦兎が仲間との出会いを受けて「1になる」意味で使われている。しかし私はそれだけでなく「原点に戻る」というメッセージを放っているように思えてならないのだ。

 

そもそも『ビルド』自体、改造人間であったり元々は人を脅かす存在だった設定しかり、平成二期に見受けられるような「何かと何かの組み合わせ」を体現した「ベストマッチの概念」など、ライダーにおける必須事項を綺麗に満たした存在である。そして過去にも原点回帰を思わせるライダーがいた。それがゼロ年代最後の仮面ライダー「ダブル」である。

 

デザインは緑と黒を基調にし、マントをたなびかせる、かつ「敵の力を用いて戦う」プロットは、ライダーファンであれば周知の事実であろう。なので今更そうした要素を語る必要はなさそうだ。しかし私は「ダブル」という作品にはセカイ系の要素が含まれると考える。地球に存在する全ての記憶を持つフィリップは、存在そのものが言うならば「世界」であり、翔太郎との邂逅を通じて(世界と言うにはスケールは小さいが)街を守るプロットは、まさにゼロ年代アニメに見られたものだ。

 

そしてそこからの万丈だ。ビルドでも万丈と戦兎のバディが度々描かれるが、万丈の存在は単なる相棒とは違っている。何故なら存在そのものが「世界を脅かす」ものであり、それを受けて葛城巧は、何としてでも万丈を排除しようと試みた。そして今回の劇場版ではその万丈が「世界を変える」キーとなった。しかもクローズビルドフォームは戦兎との合体フォームだ!

ダブルファンの私としては興奮を抑えきれない。しかも変身後の「ひゅぉぉおお〜」という風の音がまさにダブルを思わせる演出だ!

 

私はそこで思わず泣きそうになった。と同時にガッツポーズをしたくなる衝動に駆られたのだ。何故なら「万丈との出会いがきっかけで世界が救われた」こと、そして「2人で一つの仮面ライダー」を再現したからだ。1人では成し遂げられなかった「ラブアンドピース」を、戦兎と万丈の2人で成し遂げたのだ!まさにこれは「ダブル」で描かれたゼロ年代セカイ系の再現だ。そして「Be The One=原点に戻る」秀逸なタイトル回収でもあるのだ。

 

平成最後の仮面ライダージオウへとバトンを渡す『ビルド』はまさに、仮面ライダーの本質を「原点回帰」の手段を用いて再認識させる作品だったと言える。正直に言えば若干詰めの甘い部分も無いわけではない。それでも『Be The One』は多くのライダーファンをニヤつかせる良作映画だった!

アニメ『ロックマンエグゼ』で印象に残った回をまとめました

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既に3ヶ月もの間、更新が途絶えてしまったためか、はてなブログに広告がチラつくようになった。「この広告は1ヶ月以上更新のない場合に表示されます」という、半ば晒しあげのような不名誉なレッテル貼りだ。リアルの忙しさルナティックだったので仕方ない。

 

アニメ感想ブログなのにアニメのことを一切更新しないのは自分としても気分が悪いため、今回は「記事にしやすそうな作品」を紹介しようと思います。『ロックマンエグゼ』です。おそらく現在大学の3〜4年生あたりがドンピシャ世代ではなかろうか。自分は2の途中までやっていた。途中でアメロッパか何かの行き方が分からずに放り投げた思い出。

 

dtvで全シリーズ上がっていたのと、脚本に『ウルトラマンネクサス』、『仮面ライダードライブ』の詩島剛闇落ち編で大活躍したあの長谷川圭一先生が参加していたので見るっきゃなかった。基本的に平和すぎる世界観なのだが、中には色々な意味でカオスだったり、子供にはまだ早そうなやばい回もあるほか、時には社会風刺にも挑戦するような、良くも悪くも「てんこ盛り」のアニメだ。今回は踏み込んだ考察とかではなく、単に印象に残った回を紹介していこうと思う。

 

18話 暗躍!ワールドスリー!

19話 戦慄!悪魔チップ!

 

いわゆるロールちゃん闇落ち回。序盤のヤマ、「N1グランプリ編」でそれは起こった。犯罪集団のワールドスリーの一味が、日暮先生に変装して怪しげなチップをメイルちゃんに渡し、それが原因でナビのロールちゃんが暴走という流れ。個人的に闇落ちといって安易にボディを真っ黒にするのではなく、妖艶なアイシャドウが加わるところが非常にポイントが高い。しかも驚くべきは1話完結ではない点だ。バンキシャのあのBGMをバックにロールちゃんがさらにパワーアップし、高らかな笑い声で何とそのまま次回まで引っ張るのだ。流石としか言えない。

 

 

チップの取り外しも困難で「おいおいどうすんだ」と思いきや、いつもの「感情に訴えかける」という、よくある展開でロールちゃんに説得を試みる。それでもうまくいかない。いつもならばここで元に戻ってハッピーエンドなのだが、妙な拘りを感じる。製作者はノリノリである

 

しかし、新たにチップを装填することですでに挿入済みのチップが外れるという、とーっても簡単な方法で闇落ちが解けるのだ。いや確かに「目を覚ませ!」で本当に目が覚めるよりは幾分マシなはずだし、ロジック的にも有りなんだろうけど、あまりにも呆気なさすぎてね…。

 

30話 エレキママの電撃作戦!

 

エレキ伯爵の株が上がった回。優秀な兄と比べられて劣等感を抱いて生きてきた弟のエレキ伯爵に共感した人も多いはず。エレキママが伯爵に喝を入れるのだが、兄を引き合いに出して露骨に嫌な反応をする伯爵。ナビがダメージを受けると自分も電撃を食らうデスマッチ戦で熱斗と対戦。普通に火事になりそうだし、実際この後の回には電撃デスマッチが起因して火災になる展開が待っている。

 

 

バトル後、久々に会えたと思った母親の姿はいつのまにか消え、残っているのは母の墓石のみ。兄を引き合いに出したのは他でもなく、自分を奮起させる為だと知った伯爵。何ともしんみりさせられるような回だった。エレキ兄弟の確執については、だいぶ後になってから回収されるので最後まで見届けよう。

 

35話 ダム決壊0秒前!

 

サロマさんの幼馴染のダイスケがクイックマンを使って、氷室家のダムの稼働を妨害する。長谷川脚本。しかしダイスケの狙いはあくまでも脅迫の域を超えず、最初からダムを崩壊させるつもりは無かった。するとクイックマンの背後からゴスペルの一味・カットマンが襲いかかる。かわいい風貌の割にえげつないキャラに仕上がっている。原作でもそんな感じでしたね。

 

一番の見所はサロマさんがラストで環境破壊をする人間たちに何かを訴えかけるように呟くシーン。単純な勧善懲悪ではなく、本当の悪はむしろ我々なのかもしれないという、一昔前までの特撮を思わせる意味深な回だった。

 

36話 デンサンシティ南極化計画!

37話 紅い閃光!

 

ヒートマンの初登場回。この二話は同じストーリーを熱斗目線・ヒノケン目線の2つの視点から展開した構成になっている。ここでもワールドスリー一味の株が上がる。フリーズマンに敗北し、デリート寸前になったヒノケンのナビ・ファイアマンの生まれ変わりとして、ヒートマンを名人からもらう。ファイアマンの敵討ちを目標に再び戦いに身を投じるヒノケンがひたすらカッコいい回。

 

51話 崩壊の刻!

 

ゴスペル暗躍編の最終回。エレキ伯爵とガウスの兄弟決戦の回でもある。フォルテの影響で体にバグが発生し、ロックマンはピンチに。そこで熱斗は諸刃の剣・エキストラコードを送り、バスターでマグネットマンを倒そうとするも、バグの影響で照準が定まらない。そこでエレキ伯爵のナビ・エレキマンがマグネットマンを抑えて、構わず打つように頼む。そのまま両者ともバスターを浴びてデリート。元ワールドスリーかっこよすぎかよ。

 

その後ロックマンはバグスタイルに変貌、ゴスペルを吸収して暴走し、ネットシティが次々と崩壊していく。ここの作画がいつも以上に力が入っていてびびる。収拾がいよいよ怪しくなってきたと思われたが熱斗くんの説得により崩壊は免れる。あるキャラとの邂逅・呼びかけが起因して世界を救うゼロ年代セカイ系を思わせる展開と言えなくもない。

 

振り返ってみると、基本はギャグかつ随所にガバい展開がありながらも抑えるところはしっかり抑えた、良質な子供向けアニメだったと思う。続編の視聴はまた時間があれば…。

野菜が美味しい

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リアルの方でとーっても忙しかったので更新できず仕舞いでしたが、生存報告も兼ねて。とりあえず何でもいいから書いときたいというのが本音で、本当はアニメ感想みたいなカッチリしたものを書きたかったけど、時間も取れないので例のごとく「食べ物系記事」で水増ししようという非常に汚いやり方である。

 

最近、私は家事に凝っている。というのも、元々スーパーの弁当で夕食を済ませていたのだが栄養面において偏ってる感が否めないのと、自炊した方が安くてたくさん食えるという理由から、多少料理や洗い物の手間ができても食欲の充足には敵わないと思ったので、簡単な炒め物やしゃぶしゃぶで野菜と肉をバランスよく摂るようにしている。

 

しかしながら、この冬は前代未聞の野菜恐慌で葉物野菜が軒並み爆上がりしていたのが非常に苦しかった。レタスも500円だし、しかもなんか小さい。それでも何とか食卓に届けようと噴気した農家の方、ご苦労様です。

今になってようやく気温が上がり、野菜も育ちやすい環境になったことでチンゲンサイが98円で買えるようになった。自炊マンにとって野菜が安い事ほど嬉しいものはない。だいたい腹が減った時は「肉!ご飯!」が真っ先に来るんですよね。自分にとって野菜はあくまで「余裕があればプラスアルファ」くらいの位置付けである。腹を満たすには腹持ちの良い炭水化物は必須だし、肉は疲労回復に必要な栄養素でビタミン・ミネラルの王様だ。そんな中でどうしても「食物繊維」の優先度が低くなりがちで、軽視してしまう。値段の変動が激しすぎる事も私の「野菜を敬遠」する姿勢に拍車をかけている。

 

ここにきてようやく野菜が買えるようになったのでチンゲンサイと豚肉の炒め物を使ってみたらめちゃくちゃ美味くて本気で泣きそうになりました。諸事情があって数日間コンビニ弁当で済ませていた反動があまりにもデカすぎた。

噛んだ瞬間にシャクシャクと新鮮な音が出て耳が幸せになる。野菜が美味しいってこんなにも幸せな事なのかと改めて思った瞬間でした。チンゲンサイだけでなくレタスも安い。しかも玉がデカい。まさに「野菜リターンズ」だ。感動の再会だ。人間に必要なのは「栄養」。すごく当たり前だけど、ここ一週間本当に実感しています。

痛みで繋がる少年少女 『キズナイーバー』レビュー

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私自身trigger作品が好きで、今期の『ダーリン・インザ・フランキス』を毎週目をキラキラさせながら観ている。ダリフラ、面白いですよね。シリーズ構成は『シュタゲ』で脚本を務めた林直孝と、『グレンラガン』監督・錦織敦史だ。キャラデザは『君の名は。』の田中将賀メカニックデザインは『ベイマックス』『エヴァ新劇場版』のコヤマシゲト氏。まさに「ぼくがかんがえたさいきょう』のスタッフ(褒めてます)だ。

 

豪華スタッフ陣が手がけるストーリーはやはり面白い。決して伊達ではないと毎週実感させられる。大人から愛を受けずに育った子供が、大人の為に戦う。決して「大人たちに使命を押し付けられている」とは知らずに。

もうこの時点で死にたくなる設定なのですが愛を知らない子供たちが、回を越す毎に「愛とは何なのか」を言葉によってではなく、ジワジワと身を持って実感していく様はもう見事としか言えない。そしてゼロツーとヒロの邂逅(いわゆるボーイミーツガールというやつです)が、世界の命運を分かつという正統派「セカイ系」のプロット。十数年前のアニメ全盛期に戻ったかのような錯覚を覚える人も多いハズだ。

 

すみません、そろそろ『キズナイーバー』の話をしなければいけませんね…。『ダリフラ』において、イチゴは(今のところ)負けヒロインの役割を担っている。たびたびヒロの事を気にかけており、ヒロのパートナーであるゼロツーに対し、きつく当たる事がある。5話あたりだっただろうか。ダリフラキズナイーバーっぽい」と言われていたのは。人間関係のドロドロに既視感を覚える者が多かったようだ。

よくよく考えたらtriggerオリジナルアニメの中で『キズナイーバー』だけ何故か見ていなかったので、この機会にコンプリートしてしまおう、と思ったのだ。

 

「痛み」で"繋がれた"人々

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キズナシステム」は受けた痛みが、自分と繋がった者たち=キズナイーバーに共有・分散されるというもの。「人は痛みを分かち合うことでしか繋がれない」という考えを基にキズナ計画を実行する。誰かが痛みを受けると、他の"繋がった者達"にも痛みが伝達される。キズナイーバーに選ばれた勝平たちは、できるだけ「痛み」を感じないように共同戦線を張ることになる。もう「自分だけの身体」ではなくなってしまうのだ。この「ある日突然、強制的に人間関係を築かされたら?」というのが、1つの問題提起であった。

 共同戦線はあくまでも「極力、自分たちが痛くならないように」する為の繋がりであって、決して彼らは「友達同士」ではないのだ。痛みを受ければ「誰が原因か」をまず探る。三話で日染の自傷行為が起因して痛みが伝わった際、真っ先に行うのは「痛みの犯人探し」であり、そこでの「他者への思いやりの精神」は極めて薄いと言えるだろう。キズナイーバーはそうした上辺の人間関係からスタートする。

 

キズナイーバーに初めて課せられた任務は「自己紹介」。と言っても単にクラス・名前・趣味を言うだけで終わる訳ではない。任務クリアの条件は「自分の一番知られたくない秘密を晒け出す」というもの。かなりえげつない。法子によればそうすることでキズナイーバーの仲が深まるとのこと。信頼関係とは往々にして仲間に自分の弱みを晒け出すことで築かれる。それは過去の多くの作品を見ればだいたい分かることだ。実際、『キズナイーバー』においても単なる共同戦線が"友達"に変わるきっかけは、ひとりのキャラクターが「胸の内を明かす」ことだった。

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「共同戦線から友達」への変化は6,7話の牧ちゃん回で描かれている。キズナシステムが心の傷にも反映されるようになったのはその前の合宿回だったが、本格的にキャラクターの「心の痛み」に触れたのはこの回だった。

牧は過去に、病弱だった同級生のルルと共同で「シャルル・ド・マッキング」名義で、シナリオは牧・イラストはルルがそれぞれ担当し、少女漫画の連載をしていた。牧とルルは女性同士だが、その実態はほとんど恋愛感情と言っても過言ではないほど親密な関係であり(いわゆるレズ)、作中においてもキズナの会のヤーマダによってそのように明言されている程だ。しかし、ルルとのあまりに近すぎる"その関係"に牧は「愛するルルを失ってしまう事」の恐ろしさを感じてしまい、牧から身を引く形で共同執筆は決裂してしまう。その後ルルは病死し、それ以降牧は心の奥でルルから逃げてしまった罪悪感を抱えたまま生きていく事になる。

 

キズナイーバーに課せられた任務は「牧を救う事」だった。牧のトラウマの核心に触れる事で、結果としてキズナイーバー間の人間関係は強固になる。痛みを感じず感情に乏しい勝平は、牧の心の痛みを受けて人間味を取り戻してゆく。法子が牧の心を弄んでキズナ実験の材料にするやり方に対して「軽蔑しました」と怒りの感情を露わにする。そこには間違いなく「友への思いやり」があったはずだ。「痛みを分かち合う事で他者を理解できる」というキズナシステムの根底にある考えが、ここで機能しているのだ。7話ラスト、牧が死んだルルの本音を知ることでようやく呪縛から解放される。と同時にキズナイーバー間でほとんど「友情」と言っても差し支えないほどの絆が出来上がる。かつて仁子に言い放った「ただの行きずりの関係」ではなくなったのだ。

 

否が応でも互いを"理解してしまう"ということ

 

 「人の痛みを知ることで、より親密な関係になれる」という前提は牧の回を見ていると正しく思える。実際、上述の通り他のメンバー(主に由多)が牧のことをより知ろうとする事で、牧自身は痛みを晒け出すことで、心の葛藤から解き放たれると同時にキズナイーバーは共同戦線から「友達」へ変わった。

しかし、そんな「痛みでの繋がり」は9話にして崩れる事になる。ヤーマダの恋愛感情を揺さぶる作戦により、キズナイーバー間で心の痛みがより強固に伝わるようになる。そしてついに「心の声が漏れる」段階にまで来てしまう。

 

勝平に思いを寄せる千鳥の「抱きしめて」の声と、それを受けて千鳥を抱きしめる勝平。それを見た天河は「千鳥はなぜ俺を選ばないんだ!」と本音がダダ漏れで勝平に殴りかかる。さらに天河のことが気になっていた仁子は「要らないなら天河くんを私にちょうだい」と漏らす。とどめの牧ちゃんは「友達になんてなれない。なっちゃいけない」。もうダメだ…。見てるこっちまでキズナで繋がれているかのような精神的ダメージを負ってしまう。お互いを理解しようとした結果、いざ本音が共有された途端に友情が破綻してしまうという皮肉めいたオチだ。

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実はこのエピソードの前に印象的なやりとりが存在する。階段で牧が、痛みに性的興奮を覚える日染に対し「前から気になってたんだけど、あんたがド変態になったのには何か理由があるの?」と問いかけるシーンだ。そこで日染は「誰彼、穂乃果さん=牧みたいなトラウマがなきゃいけないの?」と答える。

 

このシーン、劇中ではまるで日染が悪いかのように描かれているが、よくよく考えたら牧の質問はかなり"危うい"。例えば皆さんが女の子から「あなたが◯◯フェチになったきっかけは?」と聞かれたとしよう(◯◯にはあなたの好きなやつを当てはめて下さい)。この質問に真面目に答えようと思いますか?自分なら絶対出来ないですよね。いくら親密な友達であったとしても、知られたくない思想や性癖はあるし、ましてや「きっかけ」ですよ。恥ずかしくて言える筈はなく、例え日染みたいな恥知らずなキャラが相手であったとしてもその質問が無粋である事に変わりはない。端的に言えば「なぜお前に教えなきゃいけないんだ」って話です。

 

日染は他のキズナイーバーとも一線を画している。無論それは「ヤバい性癖の持ち主」である事もそうだが、何より「裏がない」ところが彼の最大の特徴だ。極端なマゾ性癖は隠す気がなく、むしろ自分から晒け出している。そんな日染ですら、牧の質問に対して嫌味とも取れる返答をしたのは「誰だって暴露されたくない部分がある」という、人間関係において最も基礎的な部分を視聴者共々再認識させる意義があったと思えてならないのだ。

 

総括 『キズナイーバー』とは何だったのか

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「痛みをシェアして互いを理解する」から「否が応でも理解し、理解されてしまい人間関係が破綻する」へと変貌した『キズナイーバー』の物語はついに最終局面に突入する。

キズナ計画の本当の狙いは、過去のキズナ実験で痛みを失い、もぬけの殻になった者たちを元に戻すため、全人類をキズナシステムで繋ごうというもの。痛みを失った者は感情そのものも消失する。勝平が痛みに鈍感で感情が希薄だったのも、過去のキズナ実験の被害者だったからだ。

 

本作において「痛み」とは「自己」を意味している。第1話序盤で勝平が眺めていたセミの抜け殻はまさに「中身のない自分」の投影に他ならない。無論、セミの抜け殻はあくまで抜け殻であり、痛みも何も感じるはずはなく、ただの"モノ"でしかない。

対する法子はキズナ実験の影響で19人もの被験者の痛みを引き受けて、実験中止後もその痛みを手放す事なく生きてきた。自分自身、キズナ実験がきっかけで被験者の子供たちとこころを通わせる事ができたため、痛みを絶対視していた。「痛み」とは身体のダメージ以外にも、上述した「トラウマ」「知られたくない秘密」といった意味を含んでいる。そうした心の闇も、れっきとした「自己」を形成する一パーツなのだ。なのでそれを無理して他人に共有する必要もないし、むしろ「自分でしっかりと向き合う」必要があるのだ。だからこそ、仁子は「ちゃんと痛くなりたい!」と自分でけじめをつけようとする姿や、勝平の「痛みを返して」という主張がダイレクトに伝わってくる。「痛みを取り戻す物語」とは「自分を取り戻す」と同義なのだ。そして法子も、一斉に痛みを引き受けたことで鎮静剤を打たなければ生活できない身体であり、薬によって感情が希薄になっていた。彼女もまた、引き受けた痛みを返すことで自己を取り戻したのだ。

 

 言ってしまえば、この作品は「他者の痛みを知りなさい」と言ったメッセージを発している訳ではないのだ。むしろ「自分自身の痛みと向き合いなさい」もっと分かりやすく言えば「自分を大切にしなさい」という、至ってシンプルな落とし所になっている。とはいえ、現代版七つの大罪が物語的にそこまで重要でなかったり、ラストで天河と千鳥が急に恋愛関係になっちゃったりと、若干そうした部分はモヤつかないでもない。それでも「痛み」という身体の防衛本能からではなく、心から相手と繋がりたいと思える、そういった「単なる共同戦線」から脱却して真の友情を描いた点や、心の痛みに自分自身で向き合うことで、自己を形成できるというメッセージ性はまさに『キズナイーバー』の到達点だったのではないだろうか。

インターネッツに足跡を残すということ 「ストーリー不要の時代」「ポリゴンはわるくない!」を例に

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ちょっと前にはてな匿名ダイアリーにて、以下の記事が話題になっていた。

https://anond.hatelabo.jp/20180116071707

 

シナリオライターをされている方が、今流行りのポプテピピック、鉄血、異世界スマホを例に挙げて「今はストーリーに価値が見出されない時代だ」と愚痴をこぼしたもの。

しかしながら反響は本人が思った以上に大きく、ネット上(主にツイッター)では「ポプテピピックが流行っているからといって、ストーリーが軽視されている訳じゃないだろう」「君の名は。シン・ゴジラがあれだけヒットしたのはストーリーが良かったからだろう」など、ビシビシと叩かれていた印象だ。

 

いやまぁ、確かに異世界スマホやらポプテピなどのごく一部の例を挙げて「ストーリーが要らない時代だ!」と結論づけるのは無理があるとは思う。本人も「酔った勢いで書いたような愚痴」と認めている訳だしそこまでガチになって叩かなくても、と思ったのが正直な感想。インターネットでは迂闊なことは口にできないなと心底思いました。

 本人からすれば本当に「チラシの裏の殴り書き」だったんだろうけど、いくらチラシの裏とはいえネット上なので、まとまりのない頓珍漢な主張でも全国に広がり、識者によってビシビシと叩かれてしまうのはなかなか怖いですよね。自分が今書いている記事だって、ひょんなことからビシビシ叩かれて可能性だって無いわけではないのだから。

 

もう一つの例としてニコニコ大百科の記事「ポリゴンはわるくない!」があります。まずは有無を言わずに読んでほしい…。

 http://dic.nicovideo.jp/t/a/ポリゴンはわるくない!

 

 最初の方はあの有名な「ポリゴン事件」の概要について、どのシーンで誰がどんなアクションを起こした時に"それ"が起こったのかが、若干癖の強い口調ながらも詳細に書かれている。自分も途中までは「なるほどなるほど…。」と読んでいた。

事故が起これば、誰かが責任を取らなければならない。ポケットモンスターの看板キャラであるピカチュウにその役割を負わせるのは色々と不味いだろう。ならばその回のゲストキャラ「ポリゴン」に責任を負わせよう。という経緯が割と正確に書かれていたのだが、途中から「今のポケモンファンは心が汚れている!」などとかなり話がぶっ飛んでおり、ツッコミどころが満載だ。

そのすぐ下にあるカタカナのセリフも見るに耐えない惨状だ。挙げ句の果てにはポケモン「ルビー・サファイア」の赤と青はポリゴン事件で話題になった「パカパカ」の手法が暗喩されているのでは…?など、(それはそれで面白い解釈だが)普通に考えると「いや、それはないだろ」となる考察がなされている。

そしてポリゴンは記事内で「ヤンデレ」としてのキャラを付与され、ちょっと頭のネジが数本飛んだようなセリフを発する。

 

もう完全に「ポリゴン事件」云々の話から遠ざかってますよね。ポリゴン事件の経緯と、ポリゴンに対する誤解を解くのが記事の趣旨だったはずなのに、勝手に仮想敵を作って「今のポケモンファンはおかしい!」としてしまったり、さらには「もしもポリゴンに感情があったら」など、妄想がふんだんに盛り込まれており、事実確認としてはあまりにも突飛な内容の記事と言わざるを得ない。

 

ちなみにこの記事が作成されたのは2009年。

仮に記事主が当時中学1年生だとしても、今はもう22歳あたりか?いずれにせよ黒歴史である事には変わりない。書いた当時としては、自分の中に渦巻く「ポリゴン愛」をどうにかして昇華していまいたい、皆の誤解を解きたいという正義感からこのような結果に至ったのだろう。

この記事のスレッドは1500レスにまで登り、今でも掲示板内で賛否が繰り広げられているほか、中には「こんな記事削除してしまえ!」という声も。記事主もここまで騒ぎになるとは想像してなかっただろう。

 

インターネットという永久凍土層

 

ところで皆さんには学生時代の「黒歴史」ってありますか?もしかすれば右腕が疼いちゃったり片目に眼帯つけていたテンプレ厨二病の方もいるのではなかろうか。ちょっと痛い言動だったり、自分で描いたちょっとヤバめの漫画だったり、色々なタイプの黒歴史ってありますよね。でもそうしたアナログの黒歴史は時間が経つにつれて人の記憶から消えていきます。本人は覚えていても、周りの人が忘れてしまえばその歴史は「なかったこと」になります。めでたしめでたし。 

 

しかし、それがインターネット上であれば話が別だ。よく言われているのは、「ネット上にあげられた画像は半永久的に拡散されて、消えることはない」です。高校の情報の授業で、一番最初に教えられた話がそのことでした。バカッターの全盛期だったから仕方ないね。

 永遠に残るかと言われれば永遠に生きてみなければ分からないのでアレなんですけど、言わんとしてる事は大体分かりますよね。少なくとも私が生きている間は残っているでしょう。

 

つまり、「ネット上での黒歴史は時間が経っても新鮮なまま生き続ける」ということです。恐ろしい。いや、もうすっごく当たり前の話ですけどね。上からものを言っているけどあんたはどうなんだ!と言われそうですが、安心して下さい。私も中学の時にポケモンの動画を挙げていた頃がありましたし、個人ホームページに訪問してポケモン交換やら掲示板で会話やらを知らない人とやっていました。完全に黒歴史ですね。流石にここに動画を貼り付けることはしないが…。

 

そしてこのブログだって何年か経てば黒歴史と化すかもしれない。ネット上に何かを残すという事は「永遠に周知され続ける」こと他ならないのだ。ちょっとイライラした時に書いた頓珍漢な主張も、若かりし時のエネルギーを暴発させたような痛々しい文章も、「当時の気持ちそのまま」で新鮮なまま保存されてしまう。自分は今、できる限り精神状態がフラットな時にブログを書くようにしている。それが「インターネッツに生き続ける黒歴史」にならないように…。

【ブログ開設から1年】ブログ概要を今更ながらまとめてみた

2/15日をもって、当ブログは開設から1年経過しました!これまで見てくださった方ならお分かりの通りアニメ・映画を中心に感想をまとめていますが、よくよく考えたら「ブログの運営記事」って書いてなかったなぁ、というわけでこの機会にまとめてしまおうと思いました。

 

このブログについて

 

基本的にプロフィールの通り、アニメ・特撮などジャンル問わず作品を語っていくスタンスです。たまーにソーシャルな話題についても自分の意見を主張しています。自分の中のモヤモヤを文章として昇華するのは良い発散方法だと思うので、そういった意味でも健康的な趣味ですね。カテゴリについてもアニメ・ソーシャル・雑記・たまに映画だったり、他のブログと比較すると少なめにしています。と言うよりは扱うトピックがそんなに多くないからかもしれない…。

 

ブログを始めたきっかけ 

 

そもそも何故ブログを始めようと思ったのか、という話ですけど結論から言えば「他の人の影響を受けたから」ですね。元々特撮が好きで、感想ブログを読んでいたのですが、その特撮ブロガーの方が非常に優れた作品解釈をされていて、さらに文章も読み応えがあり、いつも楽しく読ませていただいてました。漠然と「自分もそういう文章を書けたらなぁ」と思ったのが1つ目のきっかけ。

 

もう一つは大学の英語の授業です。英語にも多くのクラスで分かれていたのですが、私が登録していた科目は「洋画を通して、アメリカの文化と作品のメッセージを読み解く」スタンスの授業でした。この授業で扱った作品は『メメント』『セッション』『スパイダーマン』『アメリカンスナイパー』『ゼログラビティ(ゼロいらない定期)』など、割と最新の映画が扱われており、なかなかに見応えのある作品が揃っていました。さらに、先生の作品解説が毎回とても説得力がある上に語り口も面白くて、毎週の楽しみになっていました。

これがきっかけで「自分も先生と同じように、作品を読み解いてどこかで発表してみたい」という思いが芽生え、ブログという媒体でそれをやってみようという話になりました。

なので特撮ブロガーと英語の先生の影響で今に至るわけです。

 

アフィリエイトおよびアドセンスについて

 

当ブログでは収益化は一切行っておりません。あくまでも趣味の範囲でやっていこうというスタンスです。というのも、個人的な意見ですがお金が目的になってしまうと「書きたいこと」が書けなくなるのではないか、という不安があるためです。もちろんアフィリエイトが悪いという訳ではありません。むしろ「読ませる記事」を沢山書いてお金が貰えるレベルのブロガーさんは非常に優れた方だと思います。しかし、自分としては「書きたいことを好きな時に書く」のが肌に合っていると感じたので、そもそも自分にはアフィリエイトは向いていませんね、という話。

 

変更点

 

・記事分類について

当ブログでは上で述べた「アニメ・映画・ソーシャル・雑記」のカテゴリ以外に、全ての記事を流さや内容によって「エッセイ」「コラム」の二種に分けています。

 

コラム:2000字程度の比較的短い記事。あまりまとまっていない、とりあえずの殴り書きのようなもの。加筆修正によって「エッセイ」に進化する事もあるかも?

 

エッセイ:2000字を大幅に超えるもの。コラムと比べて力を入れて書いている"つもり"。中には4000字〜5000字のものも。主にアニメ記事に多い

 

例外:ランキング形式の記事についてはエッセイ・コラムと呼ぶにはあまり相応しくないという理由から、どちらにも分類していません。今のところムシキングのショルダーネームランキングのみ

 

分類の理由としては、これから読む記事が長いか短いかが明らかな方が読むモチベーションが上がるのではないかと思ったためです。体感として「2000字」はサラッと読むのに丁度良い長さだと思うので、コラム・エッセイの分類は共に2000字を基準にしている。きっちり2000字という訳ではなく、許容範囲は2000〜2200くらいだろうか。

 

・カテゴリ名の変更

ちょっと前から「社会」カテゴリの名称を「ソーシャル」に変更いたしました。理由はカタカナの方がかっこいいからです。カテゴリがソーシャル・コラムだとなんかスマートな感じで響きが良いから仕方ないね

 

 

アクセス数について

 

ブロガーならば「アクセス数」は成績表みたいなものですよね。ですが私はあまりアクセス数を気にしすぎないようにしています。やはりアクセス数に拘るとどうしても「書きたいこと」から離れてしまう、という謎の不安感があるためです。上で述べた収益化しない理由と同じですね。とは言ってもとりあえず確認程度で毎日アクセス数を見ています。開設当初は1日に10人来れば良い方だったのですが、最近では記事数が多くなってきたこと・できるだけ長文記事を書くように意識したこともあり、1日で100アクセスまで伸びました!

実感としては本当に徐々〜に伸びて行った感じなので、もし収益化を目指してアクセスに拘る方がいれば、「アクセス数は徐々に伸びるもの」だと言うことを知っていた方が得かもしれませんね。たまに一つの記事が爆発的に伸びる(いわゆる「バズり」)こともあるそうですが、今のところバズり記事はございません。

 

最後に

とりあえずこれが当ブログで最初の「運営記事」になりますが、この一年であまり中間報告などはしていなかったのでもしかしたら最初で最後の運営記事になるかもしれませんね。

はてなブログには有料コンテンツの「はてなブログpro」がありますが、今のところproに進化させるつもりはございません。ぼちぼちと無料で好きな事書いていくつもりですー。

優れた文学としてのポプテピピック あるいは『君の名は。』の再来

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もうポプテピピックに関する考察は死ぬほど語られてもう何も語る事など残されていないとは思うし、この記事もn番煎じなのだろうけどとりあえず「何故こんなにも流行っているのか」を自分なりに考えてみました。

 

元々ポプテピピックが流行り出したのはアニメより前なんですよね。私の記憶では2016年の上半期くらいだっただろうか、主にツイッターでの煽り画像として使われていたイメージがある。つまり、元々SNS上で使いやすいネタが多かった訳ですよ。「さてはアンチだな?オメー?」「なるほどそういう事ね(分かってない)」など非常に汎用性が高く、一種のネットスラングとして、SNS上に浸透していった。キャラデザも簡易ながらとても特徴的で、煽り性能がバツグンに高く、そうした「使いやすいセリフ」と「ストレートさ」がウリだった。

なのでぶっちゃけパロディネタ知らなくても雰囲気で「やべぇ!ww」といった具合に楽しめるタイプの漫画だ。原作で扱われてるパロディも細かすぎて、むしろ元ネタを知らない回の方が多い。それでも、何となく面白いと思える空気がある。

 

そしてこの冬ついにアニメが放映され、瞬く間に社会現象となる。元々人気のあった漫画なのでこのようにヒットするのも不思議ではないのだが、ある時「パロディネタはこれまでになかったからここまでヒットした」との噂が流れてきた。私は正直、その意見には賛同できないと感じた。なぜならば皆さんもお察しの通りパロディをウリにした作品は腐るほどこの世に存在しているからだ。私の世代だと『星のカービィ』は子供には伝わりづらい洋画パロや、アニメーション制作の裏側を面白おかしく書いたあのカオス回など、子供向けの皮を被った化け物であった。私は見た事ないのだが『銀魂』『ケロロ軍曹』もパロディの代表例らしい。

 

そして、最近の作品では『ニャル子』がかなりポプテピピックのそれに近い「パロディ全振りアニメ」だ。まずは単行本の表紙が仮面ライダーの変身ポーズを真似たものだし、セリフの随所に仮面ライダーシリーズの挿入歌のワンフレーズを用いており、まさに「わかる人にしか分からないパロネタ」の宝庫となっている。サイクロン掃除機のカラーリングがまんまダブルのサイクロンジョーカーだったのは流石に笑った。

 

もうお分かりだと思うけれど、つまり「パロディ」という属性は何も今に始まったものではないのだ。銀魂ケロロならば皆が子供の頃に触れてきたハズだし(私はそうじゃなかったが)、「パロディなんて見たことがなかった」なんて事は決して無いんですよね。

では何故、ずーっと続いてきたパロディの系譜「ポプテピピック」がこれほどまでに流行ったのか、という本題について考える必要がありますね。結論から先に言えば「パロディが新しく見える」からだ。

「新しいもの」は往々にしてウケる。古き良きものを受け継いでいくのもいいが、それが過ぎるとマンネリズムが生じる。つまり、既存のものをずっとやっていても飽きられるって事ですね。文学者の桑原武夫氏は著書『文学入門』にて、優れた文学の一例として「題材が新しいもの」を挙げておられます。私も文学については本当に触りしか知らないので深い知識は無いのだが、割とこの話は現在のアニメにも当てはめる事が可能だと思う。

 

これは俗に言う「ポストモダン」ってやつだと思います。近代文学では秩序だった、当たり障りのない普遍的な文学が流行っており、対する近代文学が流行った後=ポストモダンにおいては、あえて混沌とした作風・時系列をバラバラにしていたり、そうした真逆の性質が流行になった、らしい。ざっくりこんな感じ。

めっちゃ噛み砕いて言えば「前の時代に流行ったモノとは逆のモノが次の時代では流行りますよ」という事ですね。何度も「触りしかしらない」と保険をかけておきますけれどガチ文学勢さん、間違ってたらごめんなさい。

つまり、「新しいモノ」はその時代によって変わるんですよね。逆にカオスな作風が受けた後は秩序だった無難なモノが流行るだろうし、文学はおそらくそれの繰り返しである。桑原氏の「新しい題材を扱ったものが優れている」とはこの事だ。

 

何故ポプテピピックは「新しいもの」とされるのか

 

ツイッターでの反応を見ている限り、ポプテピピックは「今までにない新しいモノ」として楽しまれている。しかし上述の通りパロディなど今に始まった属性ではなく、むしろ使い古されたものだ。映画に音声がなかった時代ですら、チャップリンナチスをパロっている。

ポプテピピックが新しいモノ扱いされている理由は「非オタの視聴者層」の存在だ。SNS上で前から話題になっていた漫画のアニメ化だ。流行について行こうとする者だって、非オタの中には存在するはずだ。

これまでアニメに触れてこなかった人間が、パロディ成分100%の濃厚なアニメを口にすればどうなるか。答えは簡単。「こんなの初めて!!」である。当然だ。野球を知らない私が、たまたまホームランの場面を見たら「こんな凄いホームランは彼が初めてに違いない!」と、つい頓珍漢なことを言ってしまうのと同じだ。

 

そして近年でも、今回のポプテピピックムーブメントと同じ動きがあったのを皆は覚えているハズだ。『君の名は。』である。元々の新海誠ファンはもちろん、新海誠は知らないけどアニメは好きなオタク、そして恋愛ものにキュンキュンしたい非オタリア充まで、幅広い層を映画館へ運ばせた名作だ。

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ここで私の『君の名は。』に対する感想を書いておく。評判通りとても面白く、コンパクトにまとまった作品で映画館で見に行った価値は間違いなくあったと思う。だけどその面白さは「こんなアニメは初めてだった」からではない。言ってしまえば「過去改変」の要素はひぐらし・シュタゲ・まどマギといった過去の人気作でよく見られる展開だし、子供向け作品ならば『仮面ライダー龍騎』『レジェンズ』でも採用された程だ。

なので「過去改変」そのものに惹かれる事はなかった。「おお、これは俺の"好きなやつ"だ」と、あくまで"過去作を踏まえた上で"面白いという感想を抱いた。

考えてみれば非オタが君の名はを楽しめるのは当然だ。彼らにとって間違いなく「過去改変」は新しいものだったからだ。新しいものにインタレストを感じるのは誰だってそうだし、彼らが君の名はを絶賛したからと言って「にわかめ!!」と切り捨ててしまうのは少し違うと思う。

 

やや話が逸れたが、要するにポプテピピックは君の名はの再来なのだ。オタクはこれまでのパロディ作品と同じように「パロディ作品の1つとしての面白さ」を見出せるし、非オタならば「初めて触れるパロディ作品」として強いインタレストを感じる。

つまり、ポプテピピックはパロディという使い古された系譜にも関わらず、非オタによって「新しいモノ」として認識されてしまう、文学におけるチートなのだ。桑原氏『文学入門』の「優れた文学」の定義からすればポプテピピックは決して新しくはなく、むしろ「マンネリズム」を生みかねない作品だ。にも関わらず、周りの人によって「新しいモノ」にされてしまう。周りの人の力で無理やり「優れた文学」と化してしまったのがポプテピピックに他ならない。