ロリポップ・アンド・バレット

アニメ・映画・特撮・読書の感想や考察を書いたり書かなかったりする

痛みで繋がる少年少女 『キズナイーバー』レビュー

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私自身trigger作品が好きで、今期の『ダーリン・インザ・フランキス』を毎週目をキラキラさせながら観ている。ダリフラ、面白いですよね。シリーズ構成は『シュタゲ』で脚本を務めた林直孝と、『グレンラガン』監督・錦織敦史だ。キャラデザは『君の名は。』の田中将賀メカニックデザインは『ベイマックス』『エヴァ新劇場版』のコヤマシゲト氏。まさに「ぼくがかんがえたさいきょう』のスタッフ(褒めてます)だ。

 

豪華スタッフ陣が手がけるストーリーはやはり面白い。決して伊達ではないと毎週実感させられる。大人から愛を受けずに育った子供が、大人の為に戦う。決して「大人たちに使命を押し付けられている」とは知らずに。

もうこの時点で死にたくなる設定なのですが愛を知らない子供たちが、回を越す毎に「愛とは何なのか」を言葉によってではなく、ジワジワと身を持って実感していく様はもう見事としか言えない。そしてゼロツーとヒロの邂逅(いわゆるボーイミーツガールというやつです)が、世界の命運を分かつという正統派「セカイ系」のプロット。十数年前のアニメ全盛期に戻ったかのような錯覚を覚える人も多いハズだ。

 

すみません、そろそろ『キズナイーバー』の話をしなければいけませんね…。『ダリフラ』において、イチゴは(今のところ)負けヒロインの役割を担っている。たびたびヒロの事を気にかけており、ヒロのパートナーであるゼロツーに対し、きつく当たる事がある。5話あたりだっただろうか。ダリフラキズナイーバーっぽい」と言われていたのは。人間関係のドロドロに既視感を覚える者が多かったようだ。

よくよく考えたらtriggerオリジナルアニメの中で『キズナイーバー』だけ何故か見ていなかったので、この機会にコンプリートしてしまおう、と思ったのだ。

 

「痛み」で"繋がれた"人々

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キズナシステム」は受けた痛みが、自分と繋がった者たち=キズナイーバーに共有・分散されるというもの。「人は痛みを分かち合うことでしか繋がれない」という考えを基にキズナ計画を実行する。誰かが痛みを受けると、他の"繋がった者達"にも痛みが伝達される。キズナイーバーに選ばれた勝平たちは、できるだけ「痛み」を感じないように共同戦線を張ることになる。もう「自分だけの身体」ではなくなってしまうのだ。この「ある日突然、強制的に人間関係を築かされたら?」というのが、1つの問題提起であった。

 共同戦線はあくまでも「極力、自分たちが痛くならないように」する為の繋がりであって、決して彼らは「友達同士」ではないのだ。痛みを受ければ「誰が原因か」をまず探る。三話で日染の自傷行為が起因して痛みが伝わった際、真っ先に行うのは「痛みの犯人探し」であり、そこでの「他者への思いやりの精神」は極めて薄いと言えるだろう。キズナイーバーはそうした上辺の人間関係からスタートする。

 

キズナイーバーに初めて課せられた任務は「自己紹介」。と言っても単にクラス・名前・趣味を言うだけで終わる訳ではない。任務クリアの条件は「自分の一番知られたくない秘密を晒け出す」というもの。かなりえげつない。法子によればそうすることでキズナイーバーの仲が深まるとのこと。信頼関係とは往々にして仲間に自分の弱みを晒け出すことで築かれる。それは過去の多くの作品を見ればだいたい分かることだ。実際、『キズナイーバー』においても単なる共同戦線が"友達"に変わるきっかけは、ひとりのキャラクターが「胸の内を明かす」ことだった。

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「共同戦線から友達」への変化は6,7話の牧ちゃん回で描かれている。キズナシステムが心の傷にも反映されるようになったのはその前の合宿回だったが、本格的にキャラクターの「心の痛み」に触れたのはこの回だった。

牧は過去に、病弱だった同級生のルルと共同で「シャルル・ド・マッキング」名義で、シナリオは牧・イラストはルルがそれぞれ担当し、少女漫画の連載をしていた。牧とルルは女性同士だが、その実態はほとんど恋愛感情と言っても過言ではないほど親密な関係であり(いわゆるレズ)、作中においてもキズナの会のヤーマダによってそのように明言されている程だ。しかし、ルルとのあまりに近すぎる"その関係"に牧は「愛するルルを失ってしまう事」の恐ろしさを感じてしまい、牧から身を引く形で共同執筆は決裂してしまう。その後ルルは病死し、それ以降牧は心の奥でルルから逃げてしまった罪悪感を抱えたまま生きていく事になる。

 

キズナイーバーに課せられた任務は「牧を救う事」だった。牧のトラウマの核心に触れる事で、結果としてキズナイーバー間の人間関係は強固になる。痛みを感じず感情に乏しい勝平は、牧の心の痛みを受けて人間味を取り戻してゆく。法子が牧の心を弄んでキズナ実験の材料にするやり方に対して「軽蔑しました」と怒りの感情を露わにする。そこには間違いなく「友への思いやり」があったはずだ。「痛みを分かち合う事で他者を理解できる」というキズナシステムの根底にある考えが、ここで機能しているのだ。7話ラスト、牧が死んだルルの本音を知ることでようやく呪縛から解放される。と同時にキズナイーバー間でほとんど「友情」と言っても差し支えないほどの絆が出来上がる。かつて仁子に言い放った「ただの行きずりの関係」ではなくなったのだ。

 

否が応でも互いを"理解してしまう"ということ

 

 「人の痛みを知ることで、より親密な関係になれる」という前提は牧の回を見ていると正しく思える。実際、上述の通り他のメンバー(主に由多)が牧のことをより知ろうとする事で、牧自身は痛みを晒け出すことで、心の葛藤から解き放たれると同時にキズナイーバーは共同戦線から「友達」へ変わった。

しかし、そんな「痛みでの繋がり」は9話にして崩れる事になる。ヤーマダの恋愛感情を揺さぶる作戦により、キズナイーバー間で心の痛みがより強固に伝わるようになる。そしてついに「心の声が漏れる」段階にまで来てしまう。

 

勝平に思いを寄せる千鳥の「抱きしめて」の声と、それを受けて千鳥を抱きしめる勝平。それを見た天河は「千鳥はなぜ俺を選ばないんだ!」と本音がダダ漏れで勝平に殴りかかる。さらに天河のことが気になっていた仁子は「要らないなら天河くんを私にちょうだい」と漏らす。とどめの牧ちゃんは「友達になんてなれない。なっちゃいけない」。もうダメだ…。見てるこっちまでキズナで繋がれているかのような精神的ダメージを負ってしまう。お互いを理解しようとした結果、いざ本音が共有された途端に友情が破綻してしまうという皮肉めいたオチだ。

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実はこのエピソードの前に印象的なやりとりが存在する。階段で牧が、痛みに性的興奮を覚える日染に対し「前から気になってたんだけど、あんたがド変態になったのには何か理由があるの?」と問いかけるシーンだ。そこで日染は「誰彼、穂乃果さん=牧みたいなトラウマがなきゃいけないの?」と答える。

 

このシーン、劇中ではまるで日染が悪いかのように描かれているが、よくよく考えたら牧の質問はかなり"危うい"。例えば皆さんが女の子から「あなたが◯◯フェチになったきっかけは?」と聞かれたとしよう(◯◯にはあなたの好きなやつを当てはめて下さい)。この質問に真面目に答えようと思いますか?自分なら絶対出来ないですよね。いくら親密な友達であったとしても、知られたくない思想や性癖はあるし、ましてや「きっかけ」ですよ。恥ずかしくて言える筈はなく、例え日染みたいな恥知らずなキャラが相手であったとしてもその質問が無粋である事に変わりはない。端的に言えば「なぜお前に教えなきゃいけないんだ」って話です。

 

日染は他のキズナイーバーとも一線を画している。無論それは「ヤバい性癖の持ち主」である事もそうだが、何より「裏がない」ところが彼の最大の特徴だ。極端なマゾ性癖は隠す気がなく、むしろ自分から晒け出している。そんな日染ですら、牧の質問に対して嫌味とも取れる返答をしたのは「誰だって暴露されたくない部分がある」という、人間関係において最も基礎的な部分を視聴者共々再認識させる意義があったと思えてならないのだ。

 

総括 『キズナイーバー』とは何だったのか

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「痛みをシェアして互いを理解する」から「否が応でも理解し、理解されてしまい人間関係が破綻する」へと変貌した『キズナイーバー』の物語はついに最終局面に突入する。

キズナ計画の本当の狙いは、過去のキズナ実験で痛みを失い、もぬけの殻になった者たちを元に戻すため、全人類をキズナシステムで繋ごうというもの。痛みを失った者は感情そのものも消失する。勝平が痛みに鈍感で感情が希薄だったのも、過去のキズナ実験の被害者だったからだ。

 

本作において「痛み」とは「自己」を意味している。第1話序盤で勝平が眺めていたセミの抜け殻はまさに「中身のない自分」の投影に他ならない。無論、セミの抜け殻はあくまで抜け殻であり、痛みも何も感じるはずはなく、ただの"モノ"でしかない。

対する法子はキズナ実験の影響で19人もの被験者の痛みを引き受けて、実験中止後もその痛みを手放す事なく生きてきた。自分自身、キズナ実験がきっかけで被験者の子供たちとこころを通わせる事ができたため、痛みを絶対視していた。「痛み」とは身体のダメージ以外にも、上述した「トラウマ」「知られたくない秘密」といった意味を含んでいる。そうした心の闇も、れっきとした「自己」を形成する一パーツなのだ。なのでそれを無理して他人に共有する必要もないし、むしろ「自分でしっかりと向き合う」必要があるのだ。だからこそ、仁子は「ちゃんと痛くなりたい!」と自分でけじめをつけようとする姿や、勝平の「痛みを返して」という主張がダイレクトに伝わってくる。「痛みを取り戻す物語」とは「自分を取り戻す」と同義なのだ。そして法子も、一斉に痛みを引き受けたことで鎮静剤を打たなければ生活できない身体であり、薬によって感情が希薄になっていた。彼女もまた、引き受けた痛みを返すことで自己を取り戻したのだ。

 

 言ってしまえば、この作品は「他者の痛みを知りなさい」と言ったメッセージを発している訳ではないのだ。むしろ「自分自身の痛みと向き合いなさい」もっと分かりやすく言えば「自分を大切にしなさい」という、至ってシンプルな落とし所になっている。とはいえ、現代版七つの大罪が物語的にそこまで重要でなかったり、ラストで天河と千鳥が急に恋愛関係になっちゃったりと、若干そうした部分はモヤつかないでもない。それでも「痛み」という身体の防衛本能からではなく、心から相手と繋がりたいと思える、そういった「単なる共同戦線」から脱却して真の友情を描いた点や、心の痛みに自分自身で向き合うことで、自己を形成できるというメッセージ性はまさに『キズナイーバー』の到達点だったのではないだろうか。

インターネッツに足跡を残すということ 「ストーリー不要の時代」「ポリゴンはわるくない!」を例に

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ちょっと前にはてな匿名ダイアリーにて、以下の記事が話題になっていた。

https://anond.hatelabo.jp/20180116071707

 

シナリオライターをされている方が、今流行りのポプテピピック、鉄血、異世界スマホを例に挙げて「今はストーリーに価値が見出されない時代だ」と愚痴をこぼしたもの。

しかしながら反響は本人が思った以上に大きく、ネット上(主にツイッター)では「ポプテピピックが流行っているからといって、ストーリーが軽視されている訳じゃないだろう」「君の名は。シン・ゴジラがあれだけヒットしたのはストーリーが良かったからだろう」など、ビシビシと叩かれていた印象だ。

 

いやまぁ、確かに異世界スマホやらポプテピなどのごく一部の例を挙げて「ストーリーが要らない時代だ!」と結論づけるのは無理があるとは思う。本人も「酔った勢いで書いたような愚痴」と認めている訳だしそこまでガチになって叩かなくても、と思ったのが正直な感想。インターネットでは迂闊なことは口にできないなと心底思いました。

 本人からすれば本当に「チラシの裏の殴り書き」だったんだろうけど、いくらチラシの裏とはいえネット上なので、まとまりのない頓珍漢な主張でも全国に広がり、識者によってビシビシと叩かれてしまうのはなかなか怖いですよね。自分が今書いている記事だって、ひょんなことからビシビシ叩かれて可能性だって無いわけではないのだから。

 

もう一つの例としてニコニコ大百科の記事「ポリゴンはわるくない!」があります。まずは有無を言わずに読んでほしい…。

 http://dic.nicovideo.jp/t/a/ポリゴンはわるくない!

 

 最初の方はあの有名な「ポリゴン事件」の概要について、どのシーンで誰がどんなアクションを起こした時に"それ"が起こったのかが、若干癖の強い口調ながらも詳細に書かれている。自分も途中までは「なるほどなるほど…。」と読んでいた。

事故が起これば、誰かが責任を取らなければならない。ポケットモンスターの看板キャラであるピカチュウにその役割を負わせるのは色々と不味いだろう。ならばその回のゲストキャラ「ポリゴン」に責任を負わせよう。という経緯が割と正確に書かれていたのだが、途中から「今のポケモンファンは心が汚れている!」などとかなり話がぶっ飛んでおり、ツッコミどころが満載だ。

そのすぐ下にあるカタカナのセリフも見るに耐えない惨状だ。挙げ句の果てにはポケモン「ルビー・サファイア」の赤と青はポリゴン事件で話題になった「パカパカ」の手法が暗喩されているのでは…?など、(それはそれで面白い解釈だが)普通に考えると「いや、それはないだろ」となる考察がなされている。

そしてポリゴンは記事内で「ヤンデレ」としてのキャラを付与され、ちょっと頭のネジが数本飛んだようなセリフを発する。

 

もう完全に「ポリゴン事件」云々の話から遠ざかってますよね。ポリゴン事件の経緯と、ポリゴンに対する誤解を解くのが記事の趣旨だったはずなのに、勝手に仮想敵を作って「今のポケモンファンはおかしい!」としてしまったり、さらには「もしもポリゴンに感情があったら」など、妄想がふんだんに盛り込まれており、事実確認としてはあまりにも突飛な内容の記事と言わざるを得ない。

 

ちなみにこの記事が作成されたのは2009年。

仮に記事主が当時中学1年生だとしても、今はもう22歳あたりか?いずれにせよ黒歴史である事には変わりない。書いた当時としては、自分の中に渦巻く「ポリゴン愛」をどうにかして昇華していまいたい、皆の誤解を解きたいという正義感からこのような結果に至ったのだろう。

この記事のスレッドは1500レスにまで登り、今でも掲示板内で賛否が繰り広げられているほか、中には「こんな記事削除してしまえ!」という声も。記事主もここまで騒ぎになるとは想像してなかっただろう。

 

インターネットという永久凍土層

 

ところで皆さんには学生時代の「黒歴史」ってありますか?もしかすれば右腕が疼いちゃったり片目に眼帯つけていたテンプレ厨二病の方もいるのではなかろうか。ちょっと痛い言動だったり、自分で描いたちょっとヤバめの漫画だったり、色々なタイプの黒歴史ってありますよね。でもそうしたアナログの黒歴史は時間が経つにつれて人の記憶から消えていきます。本人は覚えていても、周りの人が忘れてしまえばその歴史は「なかったこと」になります。めでたしめでたし。 

 

しかし、それがインターネット上であれば話が別だ。よく言われているのは、「ネット上にあげられた画像は半永久的に拡散されて、消えることはない」です。高校の情報の授業で、一番最初に教えられた話がそのことでした。バカッターの全盛期だったから仕方ないね。

 永遠に残るかと言われれば永遠に生きてみなければ分からないのでアレなんですけど、言わんとしてる事は大体分かりますよね。少なくとも私が生きている間は残っているでしょう。

 

つまり、「ネット上での黒歴史は時間が経っても新鮮なまま生き続ける」ということです。恐ろしい。いや、もうすっごく当たり前の話ですけどね。上からものを言っているけどあんたはどうなんだ!と言われそうですが、安心して下さい。私も中学の時にポケモンの動画を挙げていた頃がありましたし、個人ホームページに訪問してポケモン交換やら掲示板で会話やらを知らない人とやっていました。完全に黒歴史ですね。流石にここに動画を貼り付けることはしないが…。

 

そしてこのブログだって何年か経てば黒歴史と化すかもしれない。ネット上に何かを残すという事は「永遠に周知され続ける」こと他ならないのだ。ちょっとイライラした時に書いた頓珍漢な主張も、若かりし時のエネルギーを暴発させたような痛々しい文章も、「当時の気持ちそのまま」で新鮮なまま保存されてしまう。自分は今、できる限り精神状態がフラットな時にブログを書くようにしている。それが「インターネッツに生き続ける黒歴史」にならないように…。

【ブログ開設から1年】ブログ概要を今更ながらまとめてみた

2/15日をもって、当ブログは開設から1年経過しました!これまで見てくださった方ならお分かりの通りアニメ・映画を中心に感想をまとめていますが、よくよく考えたら「ブログの運営記事」って書いてなかったなぁ、というわけでこの機会にまとめてしまおうと思いました。

 

このブログについて

 

基本的にプロフィールの通り、アニメ・特撮などジャンル問わず作品を語っていくスタンスです。たまーにソーシャルな話題についても自分の意見を主張しています。自分の中のモヤモヤを文章として昇華するのは良い発散方法だと思うので、そういった意味でも健康的な趣味ですね。カテゴリについてもアニメ・ソーシャル・雑記・たまに映画だったり、他のブログと比較すると少なめにしています。と言うよりは扱うトピックがそんなに多くないからかもしれない…。

 

ブログを始めたきっかけ 

 

そもそも何故ブログを始めようと思ったのか、という話ですけど結論から言えば「他の人の影響を受けたから」ですね。元々特撮が好きで、感想ブログを読んでいたのですが、その特撮ブロガーの方が非常に優れた作品解釈をされていて、さらに文章も読み応えがあり、いつも楽しく読ませていただいてました。漠然と「自分もそういう文章を書けたらなぁ」と思ったのが1つ目のきっかけ。

 

もう一つは大学の英語の授業です。英語にも多くのクラスで分かれていたのですが、私が登録していた科目は「洋画を通して、アメリカの文化と作品のメッセージを読み解く」スタンスの授業でした。この授業で扱った作品は『メメント』『セッション』『スパイダーマン』『アメリカンスナイパー』『ゼログラビティ(ゼロいらない定期)』など、割と最新の映画が扱われており、なかなかに見応えのある作品が揃っていました。さらに、先生の作品解説が毎回とても説得力がある上に語り口も面白くて、毎週の楽しみになっていました。

これがきっかけで「自分も先生と同じように、作品を読み解いてどこかで発表してみたい」という思いが芽生え、ブログという媒体でそれをやってみようという話になりました。

なので特撮ブロガーと英語の先生の影響で今に至るわけです。

 

アフィリエイトおよびアドセンスについて

 

当ブログでは収益化は一切行っておりません。あくまでも趣味の範囲でやっていこうというスタンスです。というのも、個人的な意見ですがお金が目的になってしまうと「書きたいこと」が書けなくなるのではないか、という不安があるためです。もちろんアフィリエイトが悪いという訳ではありません。むしろ「読ませる記事」を沢山書いてお金が貰えるレベルのブロガーさんは非常に優れた方だと思います。しかし、自分としては「書きたいことを好きな時に書く」のが肌に合っていると感じたので、そもそも自分にはアフィリエイトは向いていませんね、という話。

 

変更点

 

・記事分類について

当ブログでは上で述べた「アニメ・映画・ソーシャル・雑記」のカテゴリ以外に、全ての記事を流さや内容によって「エッセイ」「コラム」の二種に分けています。

 

コラム:2000字程度の比較的短い記事。あまりまとまっていない、とりあえずの殴り書きのようなもの。加筆修正によって「エッセイ」に進化する事もあるかも?

 

エッセイ:2000字を大幅に超えるもの。コラムと比べて力を入れて書いている"つもり"。中には4000字〜5000字のものも。主にアニメ記事に多い

 

例外:ランキング形式の記事についてはエッセイ・コラムと呼ぶにはあまり相応しくないという理由から、どちらにも分類していません。今のところムシキングのショルダーネームランキングのみ

 

分類の理由としては、これから読む記事が長いか短いかが明らかな方が読むモチベーションが上がるのではないかと思ったためです。体感として「2000字」はサラッと読むのに丁度良い長さだと思うので、コラム・エッセイの分類は共に2000字を基準にしている。きっちり2000字という訳ではなく、許容範囲は2000〜2200くらいだろうか。

 

・カテゴリ名の変更

ちょっと前から「社会」カテゴリの名称を「ソーシャル」に変更いたしました。理由はカタカナの方がかっこいいからです。カテゴリがソーシャル・コラムだとなんかスマートな感じで響きが良いから仕方ないね

 

 

アクセス数について

 

ブロガーならば「アクセス数」は成績表みたいなものですよね。ですが私はあまりアクセス数を気にしすぎないようにしています。やはりアクセス数に拘るとどうしても「書きたいこと」から離れてしまう、という謎の不安感があるためです。上で述べた収益化しない理由と同じですね。とは言ってもとりあえず確認程度で毎日アクセス数を見ています。開設当初は1日に10人来れば良い方だったのですが、最近では記事数が多くなってきたこと・できるだけ長文記事を書くように意識したこともあり、1日で100アクセスまで伸びました!

実感としては本当に徐々〜に伸びて行った感じなので、もし収益化を目指してアクセスに拘る方がいれば、「アクセス数は徐々に伸びるもの」だと言うことを知っていた方が得かもしれませんね。たまに一つの記事が爆発的に伸びる(いわゆる「バズり」)こともあるそうですが、今のところバズり記事はございません。

 

最後に

とりあえずこれが当ブログで最初の「運営記事」になりますが、この一年であまり中間報告などはしていなかったのでもしかしたら最初で最後の運営記事になるかもしれませんね。

はてなブログには有料コンテンツの「はてなブログpro」がありますが、今のところproに進化させるつもりはございません。ぼちぼちと無料で好きな事書いていくつもりですー。

優れた文学としてのポプテピピック あるいは『君の名は。』の再来

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もうポプテピピックに関する考察は死ぬほど語られてもう何も語る事など残されていないとは思うし、この記事もn番煎じなのだろうけどとりあえず「何故こんなにも流行っているのか」を自分なりに考えてみました。

 

元々ポプテピピックが流行り出したのはアニメより前なんですよね。私の記憶では2016年の上半期くらいだっただろうか、主にツイッターでの煽り画像として使われていたイメージがある。つまり、元々SNS上で使いやすいネタが多かった訳ですよ。「さてはアンチだな?オメー?」「なるほどそういう事ね(分かってない)」など非常に汎用性が高く、一種のネットスラングとして、SNS上に浸透していった。キャラデザも簡易ながらとても特徴的で、煽り性能がバツグンに高く、そうした「使いやすいセリフ」と「ストレートさ」がウリだった。

なのでぶっちゃけパロディネタ知らなくても雰囲気で「やべぇ!ww」といった具合に楽しめるタイプの漫画だ。原作で扱われてるパロディも細かすぎて、むしろ元ネタを知らない回の方が多い。それでも、何となく面白いと思える空気がある。

 

そしてこの冬ついにアニメが放映され、瞬く間に社会現象となる。元々人気のあった漫画なのでこのようにヒットするのも不思議ではないのだが、ある時「パロディネタはこれまでになかったからここまでヒットした」との噂が流れてきた。私は正直、その意見には賛同できないと感じた。なぜならば皆さんもお察しの通りパロディをウリにした作品は腐るほどこの世に存在しているからだ。私の世代だと『星のカービィ』は子供には伝わりづらい洋画パロや、アニメーション制作の裏側を面白おかしく書いたあのカオス回など、子供向けの皮を被った化け物であった。私は見た事ないのだが『銀魂』『ケロロ軍曹』もパロディの代表例らしい。

 

そして、最近の作品では『ニャル子』がかなりポプテピピックのそれに近い「パロディ全振りアニメ」だ。まずは単行本の表紙が仮面ライダーの変身ポーズを真似たものだし、セリフの随所に仮面ライダーシリーズの挿入歌のワンフレーズを用いており、まさに「わかる人にしか分からないパロネタ」の宝庫となっている。サイクロン掃除機のカラーリングがまんまダブルのサイクロンジョーカーだったのは流石に笑った。

 

もうお分かりだと思うけれど、つまり「パロディ」という属性は何も今に始まったものではないのだ。銀魂ケロロならば皆が子供の頃に触れてきたハズだし(私はそうじゃなかったが)、「パロディなんて見たことがなかった」なんて事は決して無いんですよね。

では何故、ずーっと続いてきたパロディの系譜「ポプテピピック」がこれほどまでに流行ったのか、という本題について考える必要がありますね。結論から先に言えば「パロディが新しく見える」からだ。

「新しいもの」は往々にしてウケる。古き良きものを受け継いでいくのもいいが、それが過ぎるとマンネリズムが生じる。つまり、既存のものをずっとやっていても飽きられるって事ですね。文学者の桑原武夫氏は著書『文学入門』にて、優れた文学の一例として「題材が新しいもの」を挙げておられます。私も文学については本当に触りしか知らないので深い知識は無いのだが、割とこの話は現在のアニメにも当てはめる事が可能だと思う。

 

これは俗に言う「ポストモダン」ってやつだと思います。近代文学では秩序だった、当たり障りのない普遍的な文学が流行っており、対する近代文学が流行った後=ポストモダンにおいては、あえて混沌とした作風・時系列をバラバラにしていたり、そうした真逆の性質が流行になった、らしい。ざっくりこんな感じ。

めっちゃ噛み砕いて言えば「前の時代に流行ったモノとは逆のモノが次の時代では流行りますよ」という事ですね。何度も「触りしかしらない」と保険をかけておきますけれどガチ文学勢さん、間違ってたらごめんなさい。

つまり、「新しいモノ」はその時代によって変わるんですよね。逆にカオスな作風が受けた後は秩序だった無難なモノが流行るだろうし、文学はおそらくそれの繰り返しである。桑原氏の「新しい題材を扱ったものが優れている」とはこの事だ。

 

何故ポプテピピックは「新しいもの」とされるのか

 

ツイッターでの反応を見ている限り、ポプテピピックは「今までにない新しいモノ」として楽しまれている。しかし上述の通りパロディなど今に始まった属性ではなく、むしろ使い古されたものだ。映画に音声がなかった時代ですら、チャップリンナチスをパロっている。

ポプテピピックが新しいモノ扱いされている理由は「非オタの視聴者層」の存在だ。SNS上で前から話題になっていた漫画のアニメ化だ。流行について行こうとする者だって、非オタの中には存在するはずだ。

これまでアニメに触れてこなかった人間が、パロディ成分100%の濃厚なアニメを口にすればどうなるか。答えは簡単。「こんなの初めて!!」である。当然だ。野球を知らない私が、たまたまホームランの場面を見たら「こんな凄いホームランは彼が初めてに違いない!」と、つい頓珍漢なことを言ってしまうのと同じだ。

 

そして近年でも、今回のポプテピピックムーブメントと同じ動きがあったのを皆は覚えているハズだ。『君の名は。』である。元々の新海誠ファンはもちろん、新海誠は知らないけどアニメは好きなオタク、そして恋愛ものにキュンキュンしたい非オタリア充まで、幅広い層を映画館へ運ばせた名作だ。

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ここで私の『君の名は。』に対する感想を書いておく。評判通りとても面白く、コンパクトにまとまった作品で映画館で見に行った価値は間違いなくあったと思う。だけどその面白さは「こんなアニメは初めてだった」からではない。言ってしまえば「過去改変」の要素はひぐらし・シュタゲ・まどマギといった過去の人気作でよく見られる展開だし、子供向け作品ならば『仮面ライダー龍騎』『レジェンズ』でも採用された程だ。

なので「過去改変」そのものに惹かれる事はなかった。「おお、これは俺の"好きなやつ"だ」と、あくまで"過去作を踏まえた上で"面白いという感想を抱いた。

考えてみれば非オタが君の名はを楽しめるのは当然だ。彼らにとって間違いなく「過去改変」は新しいものだったからだ。新しいものにインタレストを感じるのは誰だってそうだし、彼らが君の名はを絶賛したからと言って「にわかめ!!」と切り捨ててしまうのは少し違うと思う。

 

やや話が逸れたが、要するにポプテピピックは君の名はの再来なのだ。オタクはこれまでのパロディ作品と同じように「パロディ作品の1つとしての面白さ」を見出せるし、非オタならば「初めて触れるパロディ作品」として強いインタレストを感じる。

つまり、ポプテピピックはパロディという使い古された系譜にも関わらず、非オタによって「新しいモノ」として認識されてしまう、文学におけるチートなのだ。桑原氏『文学入門』の「優れた文学」の定義からすればポプテピピックは決して新しくはなく、むしろ「マンネリズム」を生みかねない作品だ。にも関わらず、周りの人によって「新しいモノ」にされてしまう。周りの人の力で無理やり「優れた文学」と化してしまったのがポプテピピックに他ならない。

『宇宙よりも遠い場所』前半の雑感と、「淀み」のテーマ

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今期アニメが全て出揃い、多くの作品で方向性が定まってきた頃だろう。ポプテピピックという特異点をはじめとし、京アニの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、triggerとA-1の合作『ダーリンインザフランキス』、タカラトミーの本気『シンカリオン 』など、それぞれ独自のテイストが光る豪華なシーズンとなった2018年冬アニメ。そんな中で『ノーゲーム・ノーライフ』スタッフが制作するオリジナルアニメが始まった。その名も『宇宙よりも遠い場所』(以下『よりもい』)。『中二病』『シュタゲ』『ラブライブ』でおなじみの花田十輝氏がシリーズ構成を務める。

 

「女子高生4人が、南極を目指して奔走する青春ストーリー」もうこの時点で"その手"のアニメが好きな人にはたまらない。言ってしまえば女の子同士の掛け合いは同じく花田氏が脚本に加わった『けいおん!』『ラブライブ!』シリーズでやってきた事だし、特に大きな目新しさというものがあった訳ではない、というのが第一印象だった。キマリは唯ちゃんポジションだし、主人公を影で支えるめぐみはのどかの位置付けとなる。そして報瀬の一見クールに見えて実はちょっとドジな一面も澪のそれを彷彿させる。だからといって「けいおんの二番煎じ」とは決してならないのが実に面白いポイントだ。

「ガール・ミーツ・ガール」で「探索もの」という基本プロットで、青春作品とアドベンチャーのいいとこ取りをしているのが本作だ。

 ゴールとしては「南極に辿り着くこと」なのだが実際に舵を切り始めたのは5話からであり、1クールのうち実に半分が「出発準備編」に割かれている。あの『メイドインアビス』ですら出発まで長くとも3話だったのが、『よりもい』ではなんと5話だ。1クール作品の「探索もの」としては比較的ゆっくりとしたペースで話が進んでいく。

 

だが決して「間延びしている」とは感じない。何か思い出を作りたいと願うキマリと、行方不明の母の手がかりを探すべく南極に行こうとする報瀬。有名人故に高校で友達と遊ぶ機会に恵まれず、常に孤独感に苦しむ結月。学校を辞めた過去を持つも多くを語らない、どこか達観した視点を持つ日向。4人の出会いと、垣間見える「心の闇」。彼女たちが掛け合っているだけで次々と新たな発見があり、見ていて飽きない。 

例えば第3話で南極チャレンジに参加するため、3人が結月に説得を試みようとするシーンでは、報瀬が自分の「行きたい」という気持ちを優先させすぎてつい周りが見えなくなってしまい自己嫌悪に陥る。自分が行きたいと思っており、その目標を達成する為に結月を説得しようという考えだったが、日向から「相手にも行きたくない理由があるんじゃないの?まずはそれを聞いてみないと」と諭される。

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結月は幼少期から子役で友達に恵まれず、友達を作るチャンスとなる高校生活を犠牲にしてまで南極には行きたくないという思いがある。結月は説得に来た報瀬たちに「友達のできなかった自分の気持ちが分かるはずがない」と言う。「自分にとっての当たり前が、他の人にとって当たり前とは限らない」こと、そして異なる「当たり前」を持つ者同士の掛け合いが絶妙に味わい深いのだ。そして3話ラスト、キマリ達が結月を迎えに来るシーンがもう最高に泣けてしまう。キマリ達は当たり前のように結月の家に来るのだが、結月にとって「誰かが自分の家に迎えに来てくれる」なんて事は滅多になかったわけで。友達がいるのが「普通」だったキマリ側と、逆に有名人であることが「普通」で友達がいることが「普通じゃなかった」結月、それぞれの「噛み合わなさ」が話にテンポを生み出し、このような面白い化学反応を起こしてしまう。

 

しかも、どのキャラクターの心情も本当に「現実」のそれと非常に近いのだ。まず第1話、よくある「退屈な毎日なら、反対の電車に乗れば良い」をキマリは実践しようとするも、一瞬で諦めてしまう。冒険もののストーリーで早速挫折を描いてしまえるこの"大胆さ"も勿論良いのだが、「何かを始めようとすると、どうしても直前で怖くなる」ことは誰にでも経験があるのではないだろうか。「皆、こんな気持ちになった事があるだろう?」と視聴者に投げかけて、否が応でも感情移入"させられる"のだ。上述した結月の「友達ができない」悩みも、我々の心にダイレクトに伝わってしまう。つまり登場人物の悩み事そのものがリアルと地続きな上、その描き方がまたリアルなのでより一層我々の心を揺さぶりにかかる。さらに、その「リアルと地続きの悩み」が全て、話を進める為の"ギミック"として非常に上手く使われているので感情移入しつつも全く「嫌な感じ」はなく、むしろ見る者の心を浄化させる気持ち良さを感じる。

 

 

そうした登場人物の持つ「心の闇」へ一気にクローズアップしたのが第5話「Dear my friend」だった。キマリの幼馴染・めぐみは常にキマリの世話を焼いて優越感に浸っており、そうする事で自分のアイデンティティを確立していた、と少し複雑な共依存関係が明かされる。キマリがめぐみに借りていたゲームをひさびさに発見してめぐみの家でプレイするのだが、ここでの2人の掛け合いがただ、"怖い"のだ。

プレイしていたゲームは幼い頃、唯一キマリがめぐみに勝てたゲームで、キマリにとっては特に思い入れの深いもの。その事を嬉々として話しながらプレイするキマリと、ゲームのコンセントを見つめるめぐみ。不穏な空気が流れる。そしてゲームも盛り上がってきたタイミングでわざとらしく足を引っ掛けてコンセントを抜いてしまう。もうこの時点でうわぁぁあ!ですよ。キマリはめぐみにとって優越感に浸る為に必要な「依存先」なんですよね。恐ろしい。要は世話を焼きながら常に心の奥底でマウンティングしていた訳ですよ。「キマリは自分より下であってほしい」「私が居なければ何もできない」そう思いたかったんですよね。だからこそ、「キマリに唯一負けた」ゲームのことに触れられたくなかったのだ。それは「キマリよりも上の自分」を否定してしまう事だからだ。

 

 

このマウンティング精神、ツイッターで感想を見る限りだと「共感できた!」「誰にでもこういう思いはある」という意見が多く、自分は非常に驚いた。確かに「自分の方が上でありたい」という心理や「世話をしていた人が自分から離れる哀しさ」の理屈自体は理解できる。

だが自分自身人にマウントを取る行為を好かないので、正直に言えばめぐみには感情移入できなかったのだ。それでも、マウンティング癖のある人はなるほどこういう心理なのかという勉強になったし、マウント取る側も取る側で色々な感情がこんがらがった結果そうなってしまったのか、と「自分の理解できなかったこと」をキャラクターを通して教えてくれる。上で「自分にとっての普通が他人にとっては普通でない」ことについて触れたが、まさに自分のような「マウンティングする人の精神が理解できない」人にも、「マウンティングで自分を支えているのが"普通"」になっている人の心理を、できる限りリアルさを損なわない範囲で再現してくれる。そうして「理解できない普通」を「理解できるように」してくれる。まさに「人間学」とも言えるアニメなのだ。

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そして第5話ラスト、いよいよキマリが出発する朝にめぐみが迎えに来る。そして開口一番に「絶交しにきた」。もう開いた口が塞がらない。めちゃくちゃ不穏な空気が続いていたが、ここに来てついに爆発してしまう。ただひたすら「うわぁぁあ!」と変な声を上げてしまう。

 キマリが今まさに自分から離れて「自立」しようという時に、ようやく「依存していたのは自分だった」と気づくめぐみ。悩みに悩み抜いてようやく出した彼女の結論が「絶交」だったのだ。

 

この「絶交」以上に深いセリフはあるだろうか。めぐみにとって、キマリから離れる選択肢はとても苦しい。キマリの居ない世界に飛び立つことは、それこそキマリ達の目指している"遠い場所"のそれと同じくらい果てしない道かもしれない。頼るもののない世界に飛び立つのは何も南極メンバーだけではないのだ。残された者もまた、残された者なりの"遠い場所"を目指す時が来る。全てを告白しためぐみ、そして一瞬だけ挟まれる淀みのない川のカット。そう、めぐみは全ての"闇"を吐き出せたのだ。

 

 「淀みの中で蓄えた力が爆発して、全てが動き出す」これはどんな"心の闇"でさえも、自分を変える力になるという『よりもい』の作品テーマを表した言葉である。めぐみの中の「淀み」は見事に決壊し、全てを吐き出し、ようやくめぐみは"前へ進めた"のだ。そしてキマリが「絶交無効」と囁く。キマリがめぐみのどんな悪意も、闇も、嫌な部分も全て受け入れた上で「親友」として認めた。悪意も何もかも全て蓄えて力にできる。だからこそ「絶交しない」という選択ができたのだろう。そしてこの「悪意を受け入れる」は、境内での日向の「悪意に悪意で立ち向かうな」というセリフと綺麗に繋がっているのだ。彼女の過去も後に明らかになるだろう。そうした「悪意を力にする」テーマを大々的に宣言したのが5話だったと思えてならない。今後とも、「淀んだ水が一気に流れていく」展開に目が離せない。

『シンカリオン』第1話の雑感。王道キッズアニメでワクワクするぞ!

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キービジュアルを見た段階で「何だこのロボット!めちゃくちゃカッケェじゃん!」となったので視聴決定。鉄道に精通したオタクという訳ではないのだが単純にロボットの格好良さの虜になってしまったのだ。

冒頭、謎の新幹線が変形して夜の街を騒がせる。対策本部が動き出すのだが、場所を示すテロップからどことなくシン・ゴジラを感じる。

JRの全面協力という事もあり、随所に鉄道ネタが使われている。"その手"のファンにはたまらない。残念ながら鉄道に詳しくないので彼らの感動を私も同じように感じることはできないのだが…。

 

こんな感じで冒頭から完全にシンカリオンの持つ「ノリ」のようなものに乗せられちゃったわけだ。特記すべきは「親子」で「ロボットもの」という部分だ。この要素は『エヴァンゲリオン』で大きく取り上げられていたのだが、エヴァとは対照的に親子仲がすごく良いんですよ。abemaでエヴァ特集を本当にチラっとだけ見ていたので細かいところの比較は出来ないのだが、親子間の確執など負の側面が中心に描かれていたので結構胃に来るような作品だったな〜、というのがエヴァのイメージ。

 

『シンカリオン』はもうめちゃくちゃポジティブだ。新幹線好きの男の子が、「父さんの役に立てるなら何でもする!」って言うわけですよ。さすが子供向けアニメといいますか。

普通はいきなり「あなたは選ばれた人間だ。戦いなさい」なんて言われたらそれこそシンジくんみたいに逃げたくなりますよね。「憧れの新幹線に乗れる上に父さんの仕事を手伝えるんだ!乗るしかねぇ!!」なんてもう明るすぎて安心感すら覚えてしまう。

 

垣間見える"今時のオタク"感と「進化」のテーマ

 

さらに言えば適合検査がまさかの「音ゲーアプリ」なのが面白い。リズム感と新幹線の操縦に一体なんの関係があるのかというツッコミをつい入れてしまいたくなるのだが、そんなガバガバ感も「そういうものか」と許してしまえる、不思議な空気感が『シンカリオン』にはあったのだ。

 

ヒロインはまさかのユーチューバーだ。しかも10万再生である。これって半ば晒し上げられてるんじゃ??とか、数年後に枕に顔を押し当てて足バタバタするやつじゃんとかツッコミどころ満載でこれもまた面白い。

『シンカリオン』は鉄道という、ずっと前からその手のオタクたちに愛されてきたコンテンツだけに留まらず、音ゲーYouTubeという比較的最近のオタク要素にまで手を伸ばしているのだ。

「今時感」はやはり時代が進むにつれて求められるものだと思うのだが、『シンカリオン』における「今時感」というものは、実に大きな意味を持っていそうだ。というのも、『シンカリオン』の作品テーマとして「進化」があると考えるからだ。そもそも「新幹線」というモノ自体が、既存の電車から「速さ」「利便性」の部分を追求した結果だからだ。つまり「新幹線」そのものが「進化」の象徴であると私は考える。  

 

冒頭で登場した怪しげな新幹線も、変形することである種の「進化」を遂げたと言える。対策本部も新幹線をさらに「進化」させることで、相手の進化に対抗する。技術は常に進化していくものであり、時にはその「進化」が人を脅かすかもしれない。それを表したのが今回の敵である。そして正しい形の「進化」をもって、悪を倒すのがシンカリオンの役割だ。

 

作中に出てきた音ゲーYouTubeも、身近な「進化」の一つである。元々はゲームセンターなどのアミューズメント施設でしか遊べなかった音ゲーが、今こうして携帯一つで出来てしまう。さらに、これまではオーディションで自分を売り込む以外に有名人になる方法がなかったのが、YouTubeというコンテンツの普及によって「誰もが有名人になり得る」ようになったこともまた進化の一つだろう。

そんな「身近な進化」に揉まれながら我々は生きているという実感を随所に感じることができる。それを活かすも殺すも、時には"脅かされる"も自分次第である、そんな答えのないテーマを明るい作風に組み込んできたのが『シンカリオン』だと思えてならない。

これからも『シンカリオン』が描くであろう「進化理論」を最後まで見届けたい。

心霊番組はなぜ衰退したのか

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こんにちは、シゲです(^ ^)

9月に入り、少し暑さもおさまって過ごしやすくなってきた。ところで皆さんはこの夏、心霊番組を見ましたか?私が小学生の頃は、毎年恒例・心霊番組の金字塔『本当にあった怖い話』やギャグ路線の垣間見える『怪談新耳袋』を密かな楽しみにしていた思い出がある。現在でも"ガチ"の心霊映像を集めた『呪いのビデオシリーズ』をニコニコ動画やユーチューブで暇つぶしに見ている。

 

しかしここ最近の夏はホラー特集が減少傾向にあり、どこか物足りなさを感じてしまう。それに加えて、作りが荒すぎるガバガバな映像や体験談だったり、過去の映像の使い回しなどが目立つようになってきた。「怖いもの見たさ」という心理学を十二分に活かしたはずの心霊コンテンツはなぜここまで衰退してしまったのだろうか。

 

深刻すぎる「ネタ不足」

 

とにかく「ネタが無い」に尽きるだろう。上でも使い回しが多いと書いたが、近年の心霊特集では10年以上前の映像をそのまま流用していることがある。(というかほとんどそう)

一般人からの応募でそういった映像を集めるのが主流のスタイルだったが、そもそも居るか居ないかわからない「幽霊」を、たまたまハッキリとした映像に残せるのは稀である。そりゃあ純粋な心霊映像を集めるのは困難なはずだ。そういう場合、ピンチヒッターである「作りもの映像」が登場するものの、その映像がまた荒すぎる編集なのである。ただでさえネタが不足しているのに、ピンチヒッターの作りもの映像すら質が悪い。せめて作りものくらいはもうちょっと頑張って作って欲しいものだ。

 

ここまで「心霊映像」について書いてきたが、『ほん怖』のような「体験談」にも同じことが言える。「体験談」の場合、映像とは違い再現ドラマによって作られるため、ある程度自由度が高いと言える。しかし、再現ドラマですら深刻なネタ不足によって大打撃を受けているのだ。どうしても心霊体験はシチュエーションや展開が似通ってくる。「病院」「お墓参り」「会社の残業」「トンネル」「肝試し」大体はこの5つに絞られてくる。さらに幽霊を発見して逃げようとしたらドアが開かない!なぜだ!となり、最後に振り返ると目の前に幽霊(それもよくある白い服を着た貞子型)の顔がどアップで映され「うわぁぁあ!」

そして何故か「この後の記憶はありません」というご都合主義すぎる記憶喪失を引き起こしてドラマは終わる。

 

書いていて思ったけど"テンプレ"が過ぎるのである。最近のアニメは主人公TUEE!や異世界転生ばかりだ!!と叫ばれているのをよく耳にするが、正直アニメよりもホラー番組の方がテンプレである。別に私としては嘘だろうが本当だろうが面白ければそれで良いのだ。なのに「嘘」すらもテンプレ構成でつまらない。まとめると、

 

・そもそも本物とされる体験談や、映像のネタがない

 

・だからと言ってニセモノのクオリティが高いかと言われれば、そうでもない

 

・似たシチュエーション、似た展開で食傷気味

 

この3つのパンチが全て致命傷となっているのだ。本物の蟹は高すぎるから代わりにカニカマを出されたが、そのカニカマが賞味期限ギリギリで不味い。例えが下手すぎるけど、そんなイメージである。

 

そもそも「心霊」自体が番組の足枷でしかない

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「心霊」という要素自体、かなり賛否両論である。下手に怖過ぎる映像を流せばクレームの元になるし、一時期話題になった「呪いの仮面」だって無駄に不安を煽っただけだった。また、巷では「本物の心霊写真はやばいから使えない」とも言われている。つまるところ、視聴者への配慮の必要性から無難なものしか取り扱うことができなくなってきたのだ。「時代の変化」や「配慮」という制約の中では、自由な番組編成は不可能になったのかもしれない。

 

さらには「霊媒師」という、一般人の目から見たら胡散臭すぎる存在も足枷となっていた。どうしても霊媒師や心霊といった要素は「宗教じみた」ものを感じ取ってしまうのだ。もちろん霊媒師だって立派な仕事なので、全否定するつもりはない。ただ、必要以上に不安を煽るのはどうしてもビジネス臭や売名臭さを感じ取ってしまう。

霊媒師による「除霊コーナー」が番組で挟まれることが多いのだが、ハッキリ言って何が面白いのかが全く分からない。他人がキャーキャー狂ったように叫びながら除霊される様(それも嘘か本当か分からないし、ヤラセだとしてもつまらない)を見せられて誰が喜ぶのだろうか。

「怖いもの見たさ」という心霊番組ならではの強みは、「心霊要素」そのものが持つデメリットによって完全に消え去ってしまったのだ。

 

いっそフィクションに振り切ってほしい

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心霊番組自体のつまらなさは、「本物っぽく見せようとして滑っている」ところにあるだろう。どうしても本物っぽくしようとすれば上で述べたテンプレ構成となってしまう。そこで、いっそのこと嘘でもいいから超展開にしてほしいなと。私は『怪談新耳袋』がとてもお気に入りである。それはまぁ、おそらく作りもののお話なんだろうけど、頭だけ牛の女が追い回してきたり、首が勢いよく伸び縮みしたり、全身真っ青の男の子がよく分からない言葉を発しながら追いかけてきたり、時にはガチっぽくて普通に怖い話があったり、いい意味でツッコミ所満載で"面白い"のだ。

あくまで主観でしかないのだけれど、心霊番組を見ている人間はおそらく斜に構えて見ていることが多いのではないだろうか。「こんなシチュエーションありえねえ!」「どんな幽霊だよw」とツッコミを入れながら見るのが楽しい!という人も居るはずだ。(私がそうである)なので、「純粋に心霊番組を楽しめなくなった人たち」をターゲットにウケ狙い路線を目指してみるのも良いかもしれない。今となっては「ノンフィクション」というメッキは完全に剥がれ、「フィクション」として認識されるようになってきた心霊番組。新しい路線で復活してくれることを願ってやまない。